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エピソード7 伝えられない気持ち、手放せない幸せ


目覚まし時計が鳴るより少し早く、綾乃は目を覚ました。


昨夜のキスが、まだ頭から離れない。


いつもどおりに身支度を整える。それだけのことが、今日はひどく難しかった。


クローゼットの前で、綾乃は二着のブラウスを見比べていた。


白と、淡いブルー。


どちらも仕事で何度も着ている服だ。普段なら迷うことなどない。


それなのに、今朝はなかなか決められなかった。


(……何を着ても、同じでしょうに)


綾乃は小さく息を吐き、白いブラウスを手に取った。


昨夜の自分を、徹はどう思っただろう。


答えを知りたい。


けれど、もし彼が困っていたら。


もし、あのキスをなかったことにしたいと言われたら。


想像しただけで、ブラウスのボタンを留める指が止まった。


けれど、徹はあのキスを拒まなかった。


ただ、それだけのことに、すがりたくなってしまう。


恋愛の経験がないわけではない。


誰かと親しくなり、触れ合ったこともある。


それでも、たった一度のキスで、翌朝の服さえ決められなくなるなんて。


(……こんなに怖いものだったのですね)


綾乃は鏡の前に立った。


短いダークブラウンの髪を整え、細いフレームの眼鏡をかける。


鏡の中には、いつもと変わらない自分がいた。


会社では、徹の先輩だ。


仕事で困っている人がいれば助ける。判断を求められれば、冷静に答える。


それは昨夜、何があったとしても変わらない。


変えてはいけない。


けれど、徹が自分を避けるようになったら。


仕事の相談をしてくれなくなったら。


一緒にコーヒーを飲んだり、他愛のない話をしたりすることさえ、できなくなってしまったら。


恋人になれないことよりも、今ある関係を失うことのほうが、ずっと恐ろしかった。


綾乃はバッグを持ち、玄関へ向かった。


靴を履く前に、一度だけ振り返る。


昨夜、徹を見送った場所。


そこに目を向けたまま、しばらく動けなかった。


「……行きましょう」


誰に聞かせるでもなく呟いて、綾乃はドアを開けた。


*


会社のフロアには、すでに何人かの社員が出勤していた。


綾乃は挨拶を交わしながら自分の席へ向かう。


その途中で、徹の姿が目に入った。


彼は同僚と資料を確認していた。


昨夜、対応に追われていた案件のことだろう。二人とも真剣な表情で、書類に目を落としている。


(……もう、お仕事を)


綾乃は足を止めかけた。


徹に会えば、いつも胸が高鳴った。


その気持ちは昨日から始まったものではない。


けれど今日は、嬉しさより先に怖さが込み上げてくる。


彼がこちらを向いたら、どんな顔をすればいいのだろう。


昨夜のことに触れられたら。


逆に、何もなかったように振る舞われたら。


どちらも、怖かった。


「綾乃さん、おはようございます」


通りかかった後輩に声をかけられ、綾乃は顔を上げた。


「おはようございます。昨日お願いした資料は、あとで確認しておきますね」


自然に言葉が出た。


後輩は安心したように頷き、自分の席へ戻っていく。


綾乃はその背中を見送り、静かに息を整えた。


大丈夫。


仕事なら、いつもどおりにできる。


そう思ったところで、徹が顔を上げた。


目が合ったような気がして、綾乃は思わず背筋を伸ばす。


けれど、声をかけるより先に、フロアの奥から上司が徹を呼んだ。


「徹くん、昨日の案件のことで確認したい。ちょっと来てもらえるか」


上司の手には、取引先への対応に関する資料があった。


徹は上司のもとへ向かい、二人の姿は会議室の扉の向こうに消えた。


綾乃は、その扉をしばらく見つめていた。


話しかけられなかった。


昨夜のことは、何一つ確かめられなかった。


それなのに。


(……よかった)


そんな思いが、一瞬だけ胸をよぎった。


拒まれることも、謝られることもなかった。


その事実に安堵してしまった自分が、情けなかった。


(……何も、よくありませんね)


綾乃は自分の席に着いた。


パソコンを立ち上げ、今日の予定を確認する。


画面には、処理しなければならない仕事が並んでいた。


いつもなら、一つずつ片づけていけばいい。


今日も、そうするしかなかった。


*


午前中、綾乃は普段どおりに仕事を進めた。


取引先からの問い合わせに対応し、後輩が作成した資料に目を通す。


綾乃が確認すべき箇所を指摘すると、後輩は何度も頷いた。


「ありがとうございます、綾乃さん。やっぱり頼りになります」


「そんなことありませんよ。ここを直せば、もっと分かりやすくなると思います」


そう答えながら、綾乃は資料を返した。


仕事に集中している間は、余計なことを考えずに済んだ。


けれど、少し手が空くと、視線が徹の席へ向いてしまう。


彼は何度か席に戻ってきたものの、そのたびに別の社員から声をかけられていた。


昨日の案件は、まだ対応が続いているらしい。


綾乃も資料の確認を手伝いながら、仕事の流れで徹と言葉を交わす機会が訪れないかと、ひそかに期待していた。


仕事の話なら、いつもどおりにできるはずだった。


けれど、午前中は結局、徹とは一言も話せなかった。


昼過ぎ、綾乃がコピー機の前で書類を揃えていると、廊下の向こうに徹の姿が見えた。


(……徹さん)


声をかけようとしたものの、徹は資料に目を落としたまま、足早に通り過ぎていった。


綾乃は結局、何も言えずに手元の書類へ視線を戻した。


もちろん、仕事を優先するのは当然のことだ。


それでも、たった一言が、こんなに遠い。


その後も、二人きりで話す機会は訪れなかった。


席に戻った綾乃は、手元の書類を揃え、ふと窓の外を見た。


昨夜までは、徹と過ごした時間を思い出すだけで、胸が温かくなった。


今は、その思い出の先にあるものが怖い。


自分から踏み出した一歩が、彼を遠ざけることになるかもしれない。


そう考えるたび、呼吸が浅くなる。


(……明日は、お話しできるでしょうか)


そう願いながらも、明日が来るのを少しだけ怖いと思った。


綾乃は次の書類に手を伸ばした。


今日も、仕事は続いていく。


*


保育園では、子どもたちが午後のおやつを食べ終えたところだった。


コップを片づけようとしている子どものそばにしゃがみ、楓は優しく声をかけた。


「上手にできたね。ありがとう」


子どもが嬉しそうに笑う。


つられるように、楓の表情も柔らかくなった。


仕事をしている間は、余計なことを考えずにいられる。


けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。


あの電話のこと。


スマートフォンが落ちたような音のあとに聞こえた、小さな声。


若い女の人の声に聞こえた。


けれど、本当にそうだったのかは分からない。


徹は以前、スマートフォンを落としたのだと説明してくれた。


だからこそ、余計に気になっていた。


あの声は、いったい何だったのだろう。


楓は小さく首を振った。


徹は、自分を大切にすると言ってくれた。


ほかに付き合っている人がいることも、話してくれた。


そして、その人とは別れて、もう会わないと約束してくれた。


あの言葉を、楓は信じたい。


だから、確かめるなら、ちゃんと話を聞こう。


疑っていると思われないように、いつもどおりに。


そう決めていた。


仕事を終えて保育園を出ると、楓はスマートフォンを取り出した。


今日は、少しだけ会えないだろうか。


何度か文章を読み返してから、徹にメッセージを送る。


返事を待つ間、帰り道がいつもより長く感じられた。


やがて、スマートフォンが震えた。


徹からの返信だった。


楓の頬が、ふっと緩む。


「……よかった」


今夜、徹が来てくれる。


それだけで、さっきまで胸を占めていた不安が少し軽くなった。


*


真白はベッドに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。


昨日は、徹が来られなくなってしまった。


一緒に夕飯を食べるつもりで、ハンバーグの準備までしていたのに。


せめて今日は、声だけでも聞きたい。


そう思って、さっき徹にメッセージを送った。


『ねえ、徹くん。今日、ちょっとだけでも電話できない? 声、聞きたいな』


徹は、時間ができたら電話すると返してくれた。


真白はその言葉が嬉しくて、何度も画面を確かめていた。


徹のために用意したハンバーグは、結局、自分で焼いて食べた。


思っていたよりも、おいしくできていた。


だからこそ、徹にも食べてもらいたかった。


(……今度は、もっとおいしく作ろ)


真白はそう決めていた。


前に朝ご飯を褒めてもらったときの嬉しさを、まだ覚えている。


料理は得意というほどではないけれど、徹が喜んでくれるなら頑張れる。


次は、ちゃんと一緒に食べたい。


そのとき、スマートフォンが鳴った。


画面に表示された名前を見て、真白の顔がぱっと明るくなる。


「もしもし、徹くん!」


「えへへ、電話してくれてありがとう! ずっとお話ししたかったんだ!」


徹の返事に、真白は何度も頷き、ベッドの上で膝を抱えた。


「そっかぁ。今日も忙しかったんだね。お疲れさま」


ふと、電話の向こうから車の走る音が聞こえた。


「……あれ? 徹くん、まだお外にいるんだ?」


徹の返事に、真白は「そっかぁ」と小さく頷いた。


しばらく話しているうちに、徹が昨日のことを謝ってくれた。


真白は少し唇を尖らせた。


「……もう、いいよ。ちゃんと謝ってくれたから」


そう言いながらも、声には拗ねた響きが残っていた。


「でもね、昨日のハンバーグ、結構おいしくできたんだよ?」


真白は枕を抱き寄せた。


「徹くんにも食べてほしかったなぁ」


徹の返事を聞いて、真白の顔がほころんだ。


「……うん。じゃあ、今度また作るね」


そう言うと、声が弾んだ。


「次はもっとおいしくするから、楽しみにしてて! あ、でも期待しすぎちゃだめだよ? 真白、まだ練習中なんだから」


自分で言って、くすくす笑う。


昨日の寂しさが消えたわけではない。


それでも、徹の声を聞いているうちに、次に会える日が楽しみになっていた。


「ねえ、今度は何食べたい? ハンバーグでもいいし、ほかのものでも……」


電話の向こうから聞こえた言葉に、真白は口をつぐんだ。


徹には、このあと用事があるらしい。


「……えっ、もう電話切っちゃうの?」


思わず声が小さくなった。


まだ話し始めたばかりのような気がしていた。


真白は枕の端を指でつまんだ。


「ねえ、あとちょっとだけ……だめ?」


寂しい。


けれど、引き止めて困らせたいわけではなかった。


「そっかぁ……。うん、わかった」


徹は、また電話すると伝えてくれた。


「……ほんと? じゃあ、待ってるね」


少しだけ声が明るくなった。


「用事、気をつけてね」


通話が終わると、真白はスマートフォンを胸に抱きしめた。


「……もっと話したかったな」


次に電話が来るのは、いつだろう。


真白はしばらく画面を見つめてから、ベッドを下りた。


*


夜、楓は自宅のリビングで時計を見上げた。


テーブルには、二人分のお茶を用意してある。


徹が来ると決まってから、何度も部屋を見回してしまった。


片づけ忘れたものはないだろうか。


疲れて帰ってくる徹が、ゆっくりできるだろうか。


そんなことを考えているうちに、約束の時間が近づいていた。


インターホンが鳴る。


「……あ、来た」


楓は立ち上がり、玄関へ向かった。


扉を開けると、徹がいた。


「おかえり、徹」


口にしてから、楓は照れくさそうに笑った。


「……あ、違うね。いらっしゃい、かな」


徹の顔を見た途端、胸がいっぱいになった。


今日一日、何度も考えていたことがあったはずなのに、今はただ、会えたことが嬉しい。


「疲れてない? お茶、用意してあるよ」


徹を部屋に招き入れ、ソファへ案内する。


楓は向かいに座ろうとして、少し迷ったあと、隣に腰を下ろした。


「……今日は来てくれてありがとう」


徹がこちらを見る。


楓は笑った。


「急に呼んじゃって、ごめんね。忙しかったよね?」


返事を聞いて、ほっとしたように肩の力を抜く。


しばらくは、いつものように他愛のない話をした。


仕事のこと。


保育園であった小さな出来事。


徹の忙しさを気遣いながら、楓はできるだけ穏やかな時間を過ごそうとした。


けれど、話が途切れたとき。


用意していた言葉が、喉の奥につかえた。


(……聞かなきゃ)


今日、会いたかった理由。


曖昧なままにしておきたくなかったこと。


楓は膝の上で両手を重ねた。


「……ねえ、徹」


徹が顔を向ける。


楓は、できるだけ何でもないことのように笑った。


「この前、電話してたときのことなんだけど……ちょっとだけ、聞いてもいい?」


徹は楓の話に耳を傾けた。


「スマホ、落としちゃったって言ってたよね?」


楓は一度、言葉を区切った。


「そのときね、何か声みたいなのが聞こえた気がして……」


言ってしまった。


胸が、どくんと鳴る。


けれど、ここで黙ってしまったら、かえって不自然だ。


楓は小さく笑い、続けた。


「テレビの音だったのかな。それとも、徹がびっくりした声だったのかなって」


そうであってほしかった。


ほかに誰かがいたなんて、考えたくなかった。


「変なこと聞いてごめんね。ちょっと気になっただけなの」


徹は、電話のときは家に一人だったと答えた。


あの声についても、テレビの音だったのかもしれないし、スマートフォンを落としたときの自分の声だったのかもしれないと説明してくれた。


楓はその言葉を聞きながら、少しずつ肩の力が抜けていくのを感じた。


自分が思い浮かべた可能性を、徹も否定しなかった。


「……そっか」


あの声は、ほんの一瞬だった。


若い女の人の声だと、はっきり聞き取れたわけではない。


聞き間違えたとしても、おかしくない。


それに、徹はこうして説明してくれている。


(……うん。大丈夫)


楓は自分に言い聞かせるように、小さく頷いた。


「うん。わかった。ありがとう」


楓は微笑み、お茶を一口飲んだ。


「そういえば、この前の飲み会、楽しかった?」


徹は一瞬、言葉を探すような間を置いてから答えた。


(……あれ?)


いつもの何気ない話のつもりだった。


それなのに、そのわずかな間が妙に気になった。


「……そっか。よかったね」


楓は笑顔を向け、それ以上は尋ねなかった。


徹を信じると決めたのだから、もう余計なことは考えたくなかった。


「ねえ、徹」


楓は少しだけ甘えるように、彼の顔を見上げた。


「少しだけ、こうしててもいい?」


徹の返事を聞いて、楓はその肩にそっと寄りかかった。


近くにいると、徹の温もりが伝わってくる。


何度も触れてきたはずの温もり。


それなのに、今日は離れがたかった。


楓は徹の背中に腕を回した。


「……会いたかった」


小さく呟いて、目を閉じる。


徹の腕が、楓の背中に回った。


こうしていると、安心できる。


徹が自分のそばにいる。


今は、自分を抱きしめてくれている。


そのことが、嬉しかった。


けれど、ふいに。


保育園の前で見た光景が、頭をよぎった。


徹が、知らない女の人とキスをしていた朝。


あの人も、徹にこうして触れたのだろうか。


徹の腕の中で、同じ温もりを感じたのだろうか。


楓の指が、徹の服をつかんだ。


(……いやだ)


抱きしめる腕に、自然と力がこもっていた。


(……誰にも、渡したくない)


楓は徹を抱きしめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


徹が楓の顔を覗き込む。


楓はすぐに笑った。


「……ううん。なんでもないよ」


そう言いながら、少しだけ身体を離す。


「ごめんね。ちょっと、くっつきすぎちゃった」


照れたように笑うと、徹の顔を見上げた。


優しい彼女でいたい。


徹が疲れたとき、安心して帰ってこられる場所でいたい。


その気持ちは、今も変わらない。


けれど。


優しくしているだけで、徹がずっと自分のそばにいてくれるとは限らない。


その考えが、楓の胸から離れなかった。


「……ねえ、徹」


楓はそっと彼の手に触れた。


「また、会いに来てね」


いつもと同じ、穏やかな声だった。


けれど、その手を離すまでには、少し時間がかかった。


帰る時間が近づくと、楓は玄関まで徹を見送った。


「今日は本当にありがとう。来てくれて嬉しかった」


徹の顔を見上げ、微笑む。


「お仕事、無理しないでね。ちゃんと休んでよ?」


靴を履き終えた徹に、楓はもう一度近づいた。


「……最後に、もう一回だけ」


そう言って、そっと抱きつく。


さっきよりも短い抱擁だった。


楓は少しだけ顔を上げた。


「……キスも、していい?」


徹が応じると、楓はそっと唇を重ねた。


短いキスのあとも、すぐには離れられなかった。


「……またね、徹」


扉が閉まる。


足音が遠ざかっていく。


楓はしばらく玄関に立っていた。


やがてリビングへ戻ると、二人で使った湯飲みがテーブルに残っていた。


徹が座っていた場所。


さっきまで、すぐ隣にいた。


楓はソファに腰を下ろし、その場所に手を伸ばした。


(……もう、会いたいな)


自分でも少しおかしくなって、口元が緩む。


けれど、ふと胸に浮かんだのは、自分の知らない時間に徹が誰と過ごしているのか、ということだった。


楓は膝の上で指を組んだ。


徹の言葉を、信じたい。


それでも、さっき抱きしめたときの気持ちは消えなかった。


(……徹は、私の大切な人だもん)


誰よりも大切にしたい。


そして、自分のことも、誰よりも大切にしてほしい。


楓はもう、その願いを打ち消そうとはしなかった。


楓はスマートフォンを手に取った。


徹から連絡が来ていないか、画面を確かめる。


まだ何も届いていない。


それでも、今夜はもう少しだけ起きていようと思った。


徹が無事に帰ったことを、確かめたかった。


やがて、スマートフォンが震えた。


徹から、帰宅を知らせるメッセージだった。


「……よかった」


楓はすぐに返信を打った。


無事に帰ったことへの安心と、今日来てくれたことへのお礼。


それから、また会いたいという気持ち。


打ち終えた文章を読み返してから、送信した。


画面を閉じたあとも、楓はしばらくスマートフォンを握っていた。


次に会ったら、また抱きしめたい。


今度は、もう少し長く。


そう思うだけで、胸の奥が熱くなった。


*


真白はベッドの上で、枕を抱えていた。


時計は、もう夜遅い時間を示している。


夕方の電話が終わってからも、徹の声が耳に残っている。


また電話すると言ってくれたけれど、それがいつになるかは分からない。


真白はスマートフォンを枕元に置き、ころんと横になった。


そのとき、着信音が鳴った。


真白は勢いよく身体を起こした。


「……徹くん!?」


慌てて通話をつなぐ。


「もしもし! えっ、もう一回電話してくれたの!?」


驚いた声が、すぐに弾んだ。


「えへへ、嬉しい! もっとお話ししたかったんだ!」


徹の声を聞きながら、真白は枕を抱き寄せた。


「うん、まだ起きてた。だって、徹くんとお話ししたかったんだもん」


少しだけ得意げに言ってから、照れくさそうに笑う。


「……徹くんは? もうおうちでゆっくりしてる?」


返事を聞いて、ほっとする。


「そっかぁ。よかった。今日もお疲れさま」


真白はベッドの上で足を伸ばした。


「ねえ、今日は何話そっか。あ、そうだ。次に会うときのこと、考えてたんだよ」


徹が耳を傾けてくれる。


「ねえ、徹くん。真白、考えたんだけど……次はロールキャベツなんてどうかな?」


「徹くん、好きだって言ってたよね?」


徹の返事に、真白の声が弾んだ。


「えへへ。じゃあ、今度作ってあげるね!」


少し考えてから、真白は付け加えた。


「……でも、上手にできるかはわかんないよ? 真白、まだ練習中なんだから」


「それとね、今度は一緒にお出かけもしたいな。ご飯を食べて、そのあと、どこかでゆっくりお話しして……」


真白は少し考えて、楽しそうに続けた。


「でも、おうちでのんびりするのもいいよね。徹くんと一緒なら、どっちでも嬉しいな」


徹の返事に笑ったり、次に会う日のことを話したりしているうちに、時間が過ぎていった。


ふと時計を見ると、思っていたよりも遅くなっていた。


「……あれ、もうこんな時間?」


真白は少しだけ声を落とした。


「徹くん、明日もお仕事だよね。そろそろ寝なきゃだめかなぁ」


いつまでも話していたら、徹が疲れてしまう。


それは分かっている。


でも、まだ声を聞いていたかった。


「……もうちょっとだけ、だめ?」


そう尋ねたあと、真白は自分で小さく笑った。


「えへへ。わがままだよね」


徹が、思いがけないことを提案した。


「……え?」


真白はきょとんとして、思わず聞き返した。


電話をつないだまま、部屋の電気を消して、それぞれベッドで横になる。


そうすれば、離れていても、一緒に眠っているみたいに感じられるのではないか。


真白の頬が、みるみる赤くなった。


「……それ、いいの?」


思わず枕を抱きしめる。


「ほんとに? 電話、切らなくていいの?」


返事を聞くと、真白は嬉しそうに笑った。


「……やったぁ」


声が、いつもより少しだけ甘くなる。


「じゃあ、真白もお布団入るね。待ってて」


真白は掛け布団を整え、部屋の電気を消した。


それから通話をスピーカーに切り替え、スマートフォンを枕元に置いて横になる。


薄暗くなった部屋に、スマートフォンの画面だけが淡く光っていた。


「……徹くん、聞こえる?」


返事がある。


真白はほっとして、布団を胸元まで引き上げた。


「えへへ。なんか、不思議だね」


枕元から聞こえる徹の声。


目を閉じれば、本当にすぐ隣にいるような気がする。


「……一緒に寝てるみたい」


真白は小さく笑った。


「ねえ、徹くん。おやすみのキス、しよ?」


真白は枕元のスマートフォンを手に取った。


電話の向こうにいる徹の唇を思い浮かべ、そっとスマートフォンに口づける。


「……ちゅっ。えへへ、今の、ちゃんと届いた?」


照れくさくなって、スマートフォンを枕元に戻した。


「ねえ、徹くん」


少しだけ間を置く。


「今度会ったときは、いっぱいぎゅーってしてね」


言い終えてから、恥ずかしくなって枕に頬を埋めた。


「今日の分も、昨日の分も。いっぱいだよ?」


徹の声が聞こえる。


真白は嬉しそうに目を細めた。


「……うん。約束」


しばらく、二人は電話をつないだまま過ごした。


真白は今日あった小さな出来事を話し、時折、徹の声に笑った。


けれど、少しずつ言葉の間隔が長くなっていく。


温かい布団。


静かな部屋。


耳元に届く、大好きな人の声。


真白は、いつの間にか布団を握る手の力を緩めていた。


「……徹くん」


眠たげな声で名前を呼ぶ。


徹の返事に、真白の口元が緩んだ。


「……まだ、起きてるよ」


そう言いながらも、まぶたはもう半分閉じていた。


「……今度はね……ちゃんと、一緒に……」


言葉は最後まで続かなかった。


今度会えたら、何を話そう。


どこへ行こう。


どんな料理を作ろう。


そんな楽しみが、眠気の中でゆっくりと遠のいていく。


枕元からは、まだ徹の声が聞こえていた。


真白は、大好きな人の声に包まれるように、幸せな眠りへ落ちていった。

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