エピソード5 動き始めた恋、届かない願い
徹の返事を聞いて、綾乃はカップに伸ばしかけた手を止めた。
今夜、もう一度、徹と二人で食事ができる。
「……ありがとうございます。とても嬉しいです」
そう告げる声は、思いのほか落ち着いていた。
けれど、カップを持ち上げる指先には、わずかに力が入っていた。
ひと口飲んだコーヒーは、先ほどよりも少し冷めていた。
(……よかった。断られなくて)
たったそれだけのことなのに、胸の奥が温かくなる。
これまでは、仕事の話をするだけでも十分だと思っていた。こうして二人で昼食をとり、夜の約束までできるなんて、少し前の自分なら想像もしなかっただろう。
けれど。
ふと、徹が何かを考えるような表情を見せた。
ほんの一瞬のことだった。
綾乃は、そのわずかな変化に目を留めた。
(……何か、気になることでもあるのでしょうか)
仕事のことかもしれない。
それなのに、今朝、徹から感じた甘い香りが思い出された。
映画を誰と観るのか尋ねたときの、少し曖昧な返答も。
(……もしかして、今夜はどなたかとお約束が……?)
胸の奥が、かすかに痛んだ。
けれど、確かなことは何もない。
自分の不安だけで、彼の事情を決めつけたくはなかった。
「では、今夜はお仕事が終わったら、こちらで待ち合わせをしましょうか。時間は、18時30分でいかがでしょう?」
少し考えてから、綾乃は付け加えた。
「せっかくですから、今夜は少しゆっくり過ごしませんか?」
そう言って、柔らかく微笑んだ。
「お仕事のお話もいいですけれど……たまには、ほかのお話もしてみたいですね」
一度だけ徹の目を見つめ、静かに付け加える。
「徹さんのこと、もう少し知りたいと思っていますので」
口にしてから、自分でも少し大胆だったと思う。
けれど、もう取り消すつもりはなかった。
彼に恋人がいるのなら、その事実を無視してはいけない。それでも、自分の気持ちまでなかったことにする必要はないはずだ。
綾乃は、テーブルの上の食器をそっと整えた。
「……もし急なお仕事が入ったり、ご都合が悪くなったりしたら、遠慮なくおっしゃってくださいね。無理に予定を空けていただくつもりはありませんから」
そう言いながらも、彼女の胸の内には、ひとつの願いがあった。
(……どうか、今夜は何事もなく、二人で過ごせますように)
綾乃はその願いを表には出さず、いつもの頼れる先輩らしい微笑みを浮かべた。
「では、午後のお仕事も頑張りましょう。今夜を楽しみにしていますね、徹さん」
徹との待ち合わせ時刻も決まり、綾乃は昼食を終えて席を立つ前に、店員に声をかけた。
「すみません。今夜の予約をお願いしたいのですが、18時30分から二名で、お席は空いていますでしょうか?」
店員が予約状況を確認する間、綾乃は少しだけ落ち着かない気持ちになった。
もし満席だったら、せっかく決めた待ち合わせ場所を変更しなければならない。
できれば、今夜もこのお店で徹と過ごしたかった。
けれど、幸いにも席は空いていた。
「ありがとうございます。では、予約をお願いいたします」
予約を済ませ、綾乃はほっと息をついた。
昼間の食事が終わっても、今夜またここで徹と会える。
そう思うだけで、午後の仕事まで少し楽しみになってしまうのだった。
*
午後の講義が終わると、真白は真っ先にスマートフォンを取り出した。
新しいメッセージは、なかった。
けれど、真白は気にすることもなく、スマートフォンをバッグに戻した。
「……何作ろっかなぁ」
大学の校門を出ると、秋の風が銀色の髪をふわりと揺らした。
白いヘアピンで留めた前髪を指先で整えながら、真白は楽しそうに歩き始める。
今夜は、徹が会いに来てくれる。
朝、ちゃんと約束したのだ。
仕事で少し遅くなるかもしれないと言っていたけれど、それくらいは構わなかった。
会えるのなら、何時になっても待っていられる。
「えへへ……」
思わず笑みがこぼれる。
今朝、一緒に食べた朝ごはんのことを思い出した。
徹はおいしいと言ってくれた。
その言葉が嬉しくて、何度も思い返してしまう。
けれど、自分では少しだけ納得していないところもあった。
卵の焼き加減も、味つけも、もっと上手にできたはずだ。
(今日は、もっとおいしいの作りたいな)
真白はスマートフォンを取り出し、料理のレシピを調べ始めた。
画面を指で滑らせながら、いくつもの写真を眺める。
ハンバーグ。クリームシチュー。オムライス。
どれもおいしそうで、なかなか決められない。
ふと、楓のことが頭をよぎった。
あの人は、料理が得意だと聞いた。
徹が普段どんなご飯を食べているのか、真白は知らない。
けれど、きっと楓は、徹の好きな味も、苦手なものも、自分よりずっとよく知っているのだろう。
そう考えると、少しだけ面白くなかった。
(……私だって、徹くんのこと、もっと知りたいもん)
今朝、一緒に朝ごはんを食べたときのことを思い出す。
あんなふうに、毎朝隣にいられたら。
夜になったら帰ってきてくれて、一緒にご飯を食べて、同じベッドで眠れたら。
そんな毎日が、当たり前になったらいいのに。
(……いつか、徹くんが帰ってくる場所、私のところだけになったらいいな)
真白はスマートフォンの画面を見つめ、小さく微笑んだ。
「……よしっ。今日は頑張っちゃお!」
徹においしいと言ってもらいたい。
そして、また自分の料理を食べたいと思ってもらいたかった。
帰り道のスーパーで材料を買って、早めに準備を始めれば、きっと大丈夫。
徹が来るころには、温かい料理を並べて迎えてあげたい。
そんな光景を思い浮かべるだけで、胸が弾んだ。
真白はもう一度スマートフォンを開いた。
徹とのトーク画面を見つめ、指先でそっとなぞる。
「……早く夜にならないかな」
*
「楓先生、さようなら!」
「うん、また明日ね。気をつけて帰るんだよ」
元気よく手を振る園児を見送り、楓は保育園の門を閉めた。
最後の子どもが帰ると、それまで賑やかだった園内が急に静かになる。
「……ふぅ」
小さく息をついて、楓は職員室へ戻った。
柔らかな茶色の髪を後ろでまとめ直し、少し散らかっていた書類を片づける。
今日も一日、慌ただしかった。
子どもたちと過ごしている間は、余計なことを考えずにいられる。
けれど、仕事が一段落すると、どうしても思い浮かぶ人がいた。
(……徹、今頃何してるかな)
楓はバッグからスマートフォンを取り出した。
徹とのトーク画面を開く。
最後のやり取りを見つめているうちに、自然と指が文字入力欄へ伸びた。
『今日もお仕事お疲れさま。今夜、少しだけ会えたりする?』
そこまで打って、手が止まる。
(……また、私から誘っちゃってる)
会いたい。
顔を見て、声を聞いて、他愛もない話をしたい。
ただ、それだけなのに。
連絡をする前に少し考えるようになってしまった。
忙しいかもしれない。
疲れているかもしれない。
それに、昨日も何かと予定があったようだった。
(……あんまり困らせたくないな)
楓は入力した文章を消した。
代わりに、もう少し短い言葉を打つ。
『お疲れさま。今日は何時ごろ終わりそう?』
けれど、それも送れなかった。
何時に終わるのか聞いたら、会いたいと言っているのと同じかもしれない。
そう思うと、送信ボタンに触れることができなかった。
「……何やってるんだろ、私」
自分でもおかしくなって、小さく笑う。
恋人なのだから、会いたいと伝えるくらい、何もおかしくないはずなのに。
ふと、あの日の光景が頭をよぎった。
保育園の前で、徹が知らない女の子とキスをしていた。
思い出すだけで、今でも胸の奥が苦しくなる。
けれど、徹は約束してくれた。
もう二度と会わないと。
楓だけが彼女だと。
(……うん。信じるって決めたんだもんね)
そう自分に言い聞かせた、そのときだった。
不意に、もう一つの記憶がよみがえった。
——あっ。
電話の向こうで聞こえた、短い声。
徹がスマートフォンを落としたような音の、すぐあとだった。
あの声は、いったい何だったのだろう。
若い女の人の声に聞こえた気がした。
けれど、ほんの一瞬のことだったし、聞き間違いだったのかもしれない。
(……気のせい、だよね)
楓はスマートフォンの画面を見つめた。
あのとき、徹は一人で家にいると言っていた。
テレビの音だったのかもしれない。
そう考えようとしても、耳に残る声は、なぜか消えてくれなかった。
次に会ったとき、自然に聞いてみよう。
あの夜、そう決めた気持ちは変わっていなかった。
責めたいわけじゃない。ただ、あの声が何だったのか、確かめて安心したかった。
(……会えたら、ちゃんと聞こう)
そう心の中で繰り返し、小さく息をついた。
もう一度、徹とのトーク画面を見つめる。
今は、ただ徹に会いたい。
声を聞いて、顔を見て、いつもどおりに笑い合いたい。
それなのに、会いたいという一言さえ、なかなか送れずにいた。
(……たまには、徹のほうから会いたいって言ってほしいな)
そんな願いが、ふと浮かぶ。
今日は、もう少し待ってみよう。
もし徹から連絡が来たら、いつもどおり明るく返事をしよう。
そして、会えることになったら。
今度は自分から、ぎゅっと抱きしめてしまおう。
「……よし。あとちょっと、頑張ろ」
楓はスマートフォンをバッグにしまい、残りの仕事に取りかかった。
けれど、その日の帰り道。
バッグの中でスマートフォンが鳴らないか、何度も気にしてしまうのだった。
*
18時。
終業時刻を迎え、オフィスには帰り支度を始める社員の姿が増えていた。
綾乃は最後の書類に目を通し、確認を終えると、きれいに揃えてデスクの端へ置いた。
午後の仕事も、いつもどおり正確で手際がよかった。急ぎの案件をいくつか片づけ、後輩からの相談にも的確に答え、上司への報告も済ませている。
ただ、ひとつだけ、いつもと違うことがあった。
「綾乃さん、今日なんだか機嫌よくないですか?」
同じ部署の女性社員が、帰り支度をしながら声をかけてきた。
「いつも素敵な笑顔ですけど、今日は特に笑顔が多いというか……何かいいことでもあったんですか?」
綾乃は手元の書類をファイルにしまいながら、落ち着いた表情で顔を上げた。
「そうでしょうか? 特別なことはありませんよ。今日は仕事が比較的順調に進みましたから、そのせいかもしれませんね」
「えー、本当ですか? なんだかいつもより楽しそうでしたよ」
「仕事がうまく進むのは、ありがたいことですから」
さらりと答え、微笑む。
相手は納得したような、していないような顔で「そういうことにしておきます」と笑いながら去っていった。
その背中を見送り、綾乃は小さく息をついた。
(……そんなに顔に出ていたのでしょうか)
自分では、いつもどおりに振る舞っていたつもりだった。
けれど、書類を確認しているときも、後輩の相談に乗っているときも、ふとした瞬間に今夜のことを考えていた。
徹と、もう一度あのお店で食事をする。
仕事の話だけではなく、もっと個人的な話もできるかもしれない。
そう思うと、どうしても気持ちが弾んでしまうのだった。
綾乃はデスクの引き出しからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。
18時02分。
徹の仕事は、急ぎのものが少ないと言っていた。もしかしたら、一緒に上がれるかもしれない。
(……いけませんね。まだ仕事場なのですから)
そう自分に言い聞かせながら、綾乃は帰り支度を始めた。
ネイビーのジャケットの襟元を整える。
中には、落ち着いた色合いのブラウス。耳元には、小ぶりのアクセサリーを合わせている。
お店ではジャケットを脱いで、少しだけ柔らかな雰囲気にしてみようか。
そんなことまで考えている自分に気づき、綾乃は眼鏡の位置をそっと直した。
(……本当に、どうしてしまったのでしょうね)
恋をすると、人はこんなにも些細なことに心を動かされるのだろうか。
そのとき、少し離れたデスクにいる徹の姿が視界に入った。
声をかけようとして、ほんの一瞬だけ迷う。
昼間の約束は、ちゃんと覚えている。けれど、あまり積極的に近づけば、周囲に余計な勘繰りをさせてしまうかもしれない。
だから綾乃は、同僚としてごく自然な様子で彼のそばを通りかかり、控えめに声をかけた。
「徹さん、お疲れさまです。私はそろそろ上がろうと思っています」
一拍置いて、少しだけ声を柔らかくする。
「……今夜のお約束、楽しみにしていますね」
言葉は短く、それ以上は何も付け加えなかった。
けれど、彼女の眼差しには、昼食のとき以上の期待が浮かんでいた。
そのときだった。
慌てた様子の同僚が、資料を抱えて徹のもとに駆け寄ってきた。
話を聞くと、担当案件で予想外のトラブルが発生したらしい。取引先への対応にも関わる問題で、翌朝まで放置するわけにはいかないという。
徹がサポートを担当している案件だった。
綾乃は時計を見た。
18時12分。
約束の時間まで、あと十八分しかない。
(……今夜は、難しいかもしれませんね)
残念ではあったが、取引先への対応が必要なら仕方がない。
綾乃が予定の変更を申し出ようとした、そのときだった。
徹が、彼女にだけ聞こえる声で告げた。
先に行っていてください。必ず行きますから、と。
綾乃は声を出さずに徹の目を見た。まっすぐな目だった。
綾乃の鼓動が速くなる。
(わかりました。待っています)
その思いを眼差しに込め、オフィスを出た。
綾乃はひとりでレストランへ向かった。
昼間に予約した名前を告げると、店員は窓際の二人席へ案内してくれた。
徹が仕事の都合で遅れることを伝えると、店員は事情を理解し、しばらく待つことを了承してくれた。
綾乃は礼を言い、向かいの空席に目を向けた。
18時35分。
約束の時間から、五分が過ぎた。
綾乃は入口へ目を向けた。
徹がすぐに来られないことは分かっている。仕事が長引く可能性も、十分に考えていた。
それでも、扉が開くたび、つい顔を上げてしまう。
19時15分。
店内は、夕食を楽しむ客たちで賑わい始めていた。
向かいの席は、まだ空いている。
(……お仕事、大丈夫でしょうか)
心配なのは、徹のことだった。
けれど、時間が過ぎるにつれて、別の思いも胸をよぎり始める。
もしかしたら、今夜は来られないのかもしれない。
そう考えた途端、今朝、徹から感じたあの甘い香りが、ふいによみがえった。
綾乃は小さく首を振った。
何の根拠もない想像で、彼を疑いたくはなかった。
そのとき、店員が遠慮がちに声をかけてきた。
「お連れ様は、まだいらっしゃらないようですが……お飲み物など、先にご注文なさいますか?」
「……そうですね。では、コーヒーをお願いします」
食事は、徹が来てから一緒に選びたかった。
けれど、いつまでも何も注文せずに待つのは、店にも申し訳ない。
綾乃は店員に礼を言い、静かに微笑んだ。
しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。
綾乃の好きな深煎りだった。
ひと口飲んでみたものの、気持ちは落ち着かなかった。
20時。
綾乃はコーヒーカップを置き、スマートフォンを取り出した。
徹に連絡をしてみようか。
そう思って、綾乃は指を止めた。
徹の個人的な連絡先を、まだ知らなかった。
仕事の用件なら、連絡する方法はある。けれど、今夜の約束は仕事ではない。
それに、忙しいと分かっている相手を、自分の都合で急かしたくはなかった。
(……そうでしたね。私たち、まだそういう関係ではありませんものね)
毎日のように顔を合わせているのに、こうして離れてしまうと、思っていた以上に遠い。
綾乃は少し寂しくなり、スマートフォンを伏せた。
(……こんなに長く待つことになるとは、思っていませんでした)
昼間、あんなに嬉しかった約束。
自分から勇気を出して誘い、徹が受け入れてくれた。
今も、その嬉しさが消えたわけではない。
ただ、向かいの席が空いたままでいることが、少しずつ寂しくなっていた。
気づけば、20時30分を過ぎていた。
コーヒーは、すっかり冷めていた。
もう帰ったほうがよいのかもしれない。
そう思いながらも、綾乃は席を立てずにいた。
(……もう少しだけ)
徹は、必ず来ると言ってくれた。
その言葉を、まだ信じていたかった。
そのとき、入口の扉が開いた。
息を切らした徹の姿が見えた瞬間、綾乃は思わず立ち上がりかけた。
「……徹さん」
ようやく、来てくれた。
安堵と、それまで押し込めていた寂しさが、胸の奥で入り交じった。
「来てくださったんですね」
その言葉の奥には、待ち続けた時間の長さが滲んでいた。
「……お仕事、大変だったのですね」
徹は息を切らしながら頭を下げ、何度も謝罪の言葉を口にした。
綾乃は、そんな徹をしばらく黙って見つめていた。
ずっと待っていた人が、ようやく目の前にいる。
その安堵は確かにあった。けれど、徹の謝罪を聞くうちに、胸の奥に溜まっていた不安や寂しさが、ゆっくりと顔を出してくる。
「……徹さん。もう、そんなに謝らないでください」
綾乃は穏やかに微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「正直に申し上げると……とても心配していました」
視線を落とすと、冷めたコーヒーが目に入った。
「何かあったのではないかと思って。……私は……」
そこで言葉を止める。
来てくれないのではないか。
そんな不安まで口にしてしまえば、彼を責めることになる気がした。
綾乃はそっと息を吐いた。
「でも……来てくださって、よかったです」
今度は、自然に笑えた。
「さあ、どうぞお座りになってください。お疲れでしょう?」
そして、少しだけ声を和らげる。
「……今夜は、もう謝らないでくださいね。その代わり、ゆっくりお話ししましょう」
そう言いながら、綾乃は徹が席に着くのを待った。
そして、彼が落ち着いた頃を見計らうように、静かに尋ねた。
「……徹さん。お仕事のトラブルは、もう解決したのですか?」
気遣いからの質問だった。
けれど、その眼差しには、もうひとつの思いも込められていた。
今夜、あなたと過ごす時間は、まだ残っていますか。
綾乃はそれを言葉にはせず、徹の答えを待っていた。
トラブルは多少翌日に持ち越すことになったものの、概ねは解決したとのことだった。
「以前に比べて、ずいぶん頼もしくなられましたね」
綾乃は穏やかに微笑んだ。
「難しいお仕事も任されるようになって……徹さんが頑張っていらっしゃること、私もちゃんと見ていますよ」
少しだけ照れくさくなり、視線をテーブルへ落とした。
「……先輩として、嬉しく思っています」
やがて徹からお酒を勧められ、綾乃はメニューに視線を落とした。
「そうですね……せっかく夜に来たのですから、私もいただこうと思います」
メニューを少し眺めたあと、顔を上げる。
「私は白ワインにします。お魚にもお肉にも合わせやすいですし、今日はゆっくり楽しみたい気分ですから」
そして、徹の前にあるメニューをちらりと見て、微笑んだ。
「徹さんはビールなのですね。お仕事のあとの一杯は、おいしいでしょうね」
店員を呼び、ビールと白ワインを注文する。
注文を終えると、綾乃は少し肩の力を抜き、向かいに座る徹を見つめた。
ふと、昼間の会話を思い出す。
徹の好きな食べ物。休日の過ごし方。映画の話。
そして、彼が少しだけ答えを濁した、誰と映画を観るのかという質問。
(……あのとき、どうして言い淀んだのでしょう)
気にはなっていた。
けれど、せっかくの夜を、疑問をぶつけることから始めたくはなかった。
今は、彼と二人で過ごせるこの時間を大切にしたい。
やがて、ビールと白ワインがテーブルに置かれた。
綾乃はグラスを手に取り、徹へ穏やかに差し出した。
「それでは……今日も一日、お疲れさまでした」
少しだけ微笑みを深める。
「そして、今夜こうしてお会いできたことに。乾杯しませんか?」
その瞳には、先ほどまでの不安に代わって、確かな喜びが戻り始めていた。
*
その少し前。
真白はキッチンで、何度目かになる時計の確認をしていた。
ハンバーグの下準備は、とっくに終わっている。
少し不揃いになってしまったけれど、徹においしく食べてもらえるよう、一生懸命作った。
あとは徹から仕事が終わったという連絡が来たら、焼き始めるだけ。
そう考えると、自然とスマートフォンへ目が向いてしまう。
(……まだかなぁ)
仕事で遅くなるかもしれないとは聞いていた。
それでも、もう20時を過ぎている。
そろそろ連絡が来てもいいころだ。
そのとき、待ちわびていた通知音が鳴った。
「……徹くん!」
真白は急いでスマートフォンを手に取った。
けれど、画面に表示されていたのは、思いもしなかった言葉だった。
『ごめん、今日は会社の同僚と飲むことになった』
「……え?」
真白は画面を見つめたまま、動きを止めた。
「……だって、今夜は会えるって言ったじゃん」
今朝よりもおいしいものを作りたくて、レシピも調べた。
スーパーでは、いつもより少し奮発して、ハンバーグ用のひき肉を買った。
すべては、徹にもっと真白のことを好きになってほしくて。
それなのに。
「……会社の付き合いなら、しょうがないけどさ」
真白は唇を尖らせた。
仕事の付き合いがあることくらい、分かっている。
でも、約束していたのは自分のほうが先だった。
(……誰と飲むんだろ)
男の人だけなら、まだいい。
でも、もし女の人もいたら。
今朝、徹に言った言葉がよみがえった。
会社の女の人と、仲良くなりすぎちゃダメだからね。
「……ちゃんと覚えてるよね、徹くん」
真白はスマートフォンを見つめた。
(……本当に、会社の人たちだけなのかな)
ふと、楓の顔が浮かんだ。
会社の同僚と飲むというのだから、楓が一緒にいるとは考えにくい。
それでも、徹が今どこで、誰と過ごしているのか、自分には分からない。
そのことが、たまらなく嫌だった。
(……私と約束してたのに)
今朝は、あんなに優しくしてくれた。
一緒にご飯を食べて、今夜も会えると約束してくれた。
あの時間だけは、徹が自分だけのものになったような気がしていた。
けれど、徹には自分の知らない時間がある。
会社で過ごす時間も、楓と過ごす時間も。
(……もっと、私だけを見てほしいな)
真白は唇をきゅっと結んだ。
今すぐ誰と一緒なのか聞きたい。
『誰と飲むの?』
そこまで打って、指が止まる。
問い詰めたせいで嫌われるのは、もっと嫌だった。
少し迷ってから、文章を消した。
代わりに、短い返事を送る。
『そっかぁ。お仕事お疲れさま。飲みすぎないでね』
送信したあと、真白はスマートフォンを胸元に引き寄せた。
「……徹くんのばか」
小さく呟いてから、キッチンへ目を向ける。
徹のために用意したハンバーグが、まだ焼かれないまま並んでいた。
「……食べてほしかったな」
ぽつりと呟く。
今夜は、二人で食べられない。
その事実が、ようやく胸に落ちてきた。
*
その夜、楓が自宅に帰り着いたのは、19時を少し過ぎたころだった。
ひとりで夕食を済ませ、食器を洗い終えると、部屋の中が急に静かになった。
時計を見ると、20時を少し過ぎていた。
何となくテレビをつけてみる。
けれど、画面の中で誰かが笑っていても、何がおかしいのか、あまり頭に入ってこなかった。
楓はソファに腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。
徹からの連絡は、まだない。
(……お仕事、忙しいのかな)
そう思って、画面を閉じる。
しばらくテレビを眺めてから、またスマートフォンを開いた。
やっぱり、何も届いていない。
(……もう、終わったかな)
夕方、保育園で書きかけたメッセージを思い出した。
あのときは、徹からの連絡を待とうと決めた。
自分から何度も誘うのは、少し気が引けたから。
けれど。
(……声だけでも、聞きたいな)
今日あったことを話したい。
徹の声を聞いて、少し笑って、それからおやすみと言いたい。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに恋しいのだろう。
楓はスマートフォンを膝の上に置いた。
もう少し待とう。
そう思って、テレビへ目を向ける。
けれど、気づけばまた、徹とのトーク画面を開いていた。
「……もう、だめ」
小さく呟いて、楓は困ったように笑った。
「……ちょっとくらい、いいよね」
指先が、ゆっくりと動き始める。
『徹、今日もお疲れさま。もう仕事終わった?』
送信ボタンを押したあと、楓はスマートフォンを胸元に抱き寄せた。
(……返事、来るかな)
返事はすぐに来た。
『終わったよ。楓もお疲れさま』
返事を読んだ瞬間、楓の顔がほころんだ。
「……よかった」
ほんの短い言葉なのに、それだけで嬉しかった。
今なら、電話に誘ってもいいだろうか。
少し迷ったあと、楓はもう一度、文字を打ち始めた。
『よかったら、今日も電話しない? 話したいことたくさんあるんだ』
しかし、徹からの返事を見た瞬間、彼女の表情が変わった。
『ごめん、会社の同僚と飲むことになったから、今日はできない』
「……そっか。飲み会なんだ」
楓は画面を見つめた。
仕事の付き合いなら、仕方がない。
そもそも、電話をする約束をしていたわけでもないのだから。
それなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
(……今日は、声も聞けないんだね)
返事がすぐに来たから、つい期待してしまった。
今日あったことを話して、徹の声を聞いて、それから眠りたかった。
けれど、そんな小さな願いも、今夜はかなわないらしい。
楓は返信を打った。
『そっか、お疲れさま。遅くなるなら気をつけて帰ってね』
送信してから、スマートフォンを膝の上に置いた。
ふと、電話の向こうで聞こえた声がよみがえる。
——あっ。
あのとき、徹は一人だと言っていた。
(……今日は、本当に会社の人たちと一緒なのかな)
そこまで考えて、楓は目を閉じた。
疑いたいわけじゃない。
でも、何も聞かずにいることが、少しずつ苦しくなっていた。
「……徹」
名前を呼んでも、静かな部屋に返事はない。
楓はスマートフォンを胸元に引き寄せた。
「……私、ちゃんと信じたいんだよ」
次に会ったら、あの声のことを聞いてみる。
そのつもりだった。
けれど、徹を目の前にして、いつもどおりに笑いかけられたら。
その笑顔を見ながら、本当に聞けるだろうか。
もし、徹の答えが、自分の信じたいものと違っていたら。
「……怖いな」
ぽつりと呟く。
聞かなければ、今までどおり信じていられるかもしれない。
でも、聞かないままでいることも、もう苦しかった。
楓はスマートフォンを握りしめた。
徹に会いたい。
そして次に会えたときには、あの夜から胸に残っている小さな疑問を、確かめたかった。
よかったら、感想やレビューをいただけると嬉しいです!
皆さんは3人のうち、誰を推していますか?
ぜひコメントで教えてください!




