エピソード4 隠した恋心、抑えきれない嫉妬
徹が出勤すると、綾乃はすでに自分のデスクで仕事を始めていた。
紺色のブラウスに、きちんと整えられたダークブラウンのボブ。細い眼鏡の奥には、いつもと変わらない穏やかな瞳があった。
「おはようございます、徹さん。今日は少し早いですね」
綾乃は柔らかく微笑んだ。
いつもどおりの挨拶。いつもどおりの朝。
けれど、徹の顔を見るたびに、先月の飲み会で耳にした噂がよみがえる。
——徹が休日に、若い女性とデートをしていたらしい。
その話を聞いたときから、綾乃は自分でも驚くほど、彼の私生活が気になっていた。
どんな女性なのだろう。
どんなふうに笑い合い、どんな時間を過ごしているのだろう。
(……いけませんね。朝からこんなことを考えてしまうなんて)
綾乃はそっと視線を落とし、手元の書類を整えた。
「昨日お願いしていた資料、確認しておきました。あとで少しお時間をいただけますか? 一緒に確認したい箇所があるんです」
仕事の話にかこつけて、自然に徹と話す機会を作る。
以前なら、こんなことを意識する必要もなかった。けれど今は、少しでも彼のそばにいたいと思ってしまう。
綾乃は再び徹を見つめ、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……徹さん?」
いつもより、わずかに優しい声。
「何かありましたか? 少し眠そうに見えますけれど」
彼の顔を見ながら、綾乃は静かに返事を待つ。
本当は聞きたいことが、ほかにもある。
けれど、それを尋ねる資格が自分にあるのか、まだ分からなかった。
徹は、寝不足なのだと答えた。
「そうだったんですね。あまり無理はなさらないでくださいね」
綾乃は気遣うように目を細めた。
「徹さんが責任感のある方なのは、よく存じていますから。こういう日くらい、少し肩の力を抜いてもいいと思いますよ」
すると今度は、徹から綾乃の様子を気遣う言葉が返ってきた。
最近、少しぼんやりしているように見えることがあるという。
書類を揃えていた綾乃の指が、ぴたりと止まった。
「……私が、ですか?」
綾乃は思わず眼鏡の位置を直した。
「よく見ていらっしゃいますね。先輩としては、少し恥ずかしいです」
綾乃は冗談めかして答えた。
まさか、徹に気づかれていたとは思わなかった。
「少し考え事をしていただけですよ。仕事には支障ありませんから、ご安心ください」
そう答えてから、綾乃は徹の顔を見た。
「それより、徹さんこそ。何か気がかりなことでもあるんですか?」
徹は、何でもないと答えた。
「……そうですか」
綾乃はそれ以上追及しなかった。
「もし何かありましたら、いつでも相談してくださいね」
できることなら、頼ってほしい。
けれど、その願いを言葉にすることはできなかった。
では後ほど、と徹が綾乃のすぐそばを通り過ぎた、そのときだった。
ふわりと、甘い香りがした。
花のような、柔らかく上品な香り。
普段の徹からは感じたことのないものだった。
(……香水?)
綾乃は思わず顔を上げた。
もちろん、香りだけで何かが分かるわけではない。
それでも、真っ先に思い浮かんだのは、徹の隣にいるはずの女性だった。
昨夜、彼はその人と一緒にいたのだろうか。
どれほど近くにいれば、こんなふうに香りが移るのだろう。
そこまで考えて、綾乃は小さく息を呑んだ。
(……私は、何を想像しているのでしょう)
噂に聞いた女性が、昨夜も徹のそばにいたのかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥がひどく痛んだ。
綾乃は一度だけ目を伏せた。
けれど、次に顔を上げたときには、いつもの冷静な表情を取り戻していた。
「……徹さん」
呼びかける声は穏やかだった。
「今日のお昼、予定はありますか?」
何気ない質問。けれど、いつもの仕事上の確認とは、ほんの少し違っていた。
「もし空いているようでしたら、一緒にお食事でもいかがでしょうか。最近、ゆっくりお話しする機会もありませんでしたから」
いつものように、相手の都合を気遣う言葉。
けれど、今日の誘いには、ほんの少しだけ違う気持ちが込められていた。
ただの先輩としてではなく、一人の女性として、徹と向き合ってみたい。
(……少しくらい、欲張ってもいいですよね)
綾乃は胸の高鳴りを隠しながら、返事を待った。
徹は、ぜひ一緒に食事をしたいと答えた。
「……本当によろしいのですか?」
思わず聞き返してしまい、綾乃は小さく咳払いをした。
「失礼しました。急なお誘いでしたから、ご都合が合わないかもしれないと思っていたんです」
冗談めかして微笑んだものの、頬がわずかに熱くなるのを感じた。
そして同時に、先ほど感じた香りが、胸の奥をちくりと刺す。
(……いけませんね。こんなことで一喜一憂してしまうなんて)
綾乃は気持ちを整え、普段どおりの落ち着いた声で答えた。
「では、お昼はご一緒しましょう。少し会社を離れて、ゆっくりお話しできるところがいいですね」
そこで、ほんの少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「普段は仕事のお話ばかりですから、今日は少し違うお話もできたら嬉しいです」
綾乃は、わずかに表情を和らげた。
「休日のことですとか、お好きなもののことですとか。……たまには、そういう時間もいいですよね」
綾乃は顔を上げ、穏やかに徹を見つめる。
「それでは、お昼を楽しみにしていますね、徹さん」
その言葉は、正直な気持ちだった。
*
その日の午前中、綾乃はいつも以上の速さで仕事を片づけていた。
後輩からの質問には的確に答え、急ぎの書類も次々と処理していく。
「綾乃さん、今日は特に仕事が速いですね。何かいいことでもあったんですか?」
同僚の何気ない言葉に、綾乃は顔を上げた。
「そうでしょうか。午後に仕事を持ち越したくなかっただけですよ」
いつもどおりの、落ち着いた返事。
けれど、ふと時計に目を向けてしまう。
——徹との昼食まで、あと一時間。
(……まるで、デートを楽しみにしているみたいですね)
そう思った途端、自然と綾乃の顔に笑みが浮かんでいた。
そして、正午。
午前中の仕事をすべて片づけた綾乃は、パソコンを閉じ、手帳とスマートフォンをバッグにしまった。
ちょうどそのとき、徹の姿が目に入る。
綾乃は席を立ち、彼のデスクへと歩み寄った。
「徹さん、お疲れさまです。そろそろお昼ですね」
少しだけ嬉しそうな表情を浮かべながら、彼の様子をうかがう。
「お約束どおり、ご一緒していただけますか?」
それから、ふと思い出したように付け加えた。
「あ、それと……お店は私に選ばせていただいてもいいですか? 以前から、一度行きたいと思っていたお店があるんです」
以前から気になっていた、小さなレストラン。
誰かと一緒に訪れてみたいと思いながら、なかなか機会がなかった店だった。
(……徹さんにも、気に入っていただけるといいのですけれど)
今日、ようやく二人で訪れることができる。
それだけで、綾乃の胸には小さな期待が膨らんでいた。
「では、参りましょうか。お店までは歩いて十分ほどです」
二人でエレベーターへ向かいながら、彼女はふと思いついたように尋ねた。
「そういえば、徹さん。好き嫌いや、何か食べられないものはありませんか? せっかくですから、おいしく召し上がっていただきたいですし」
徹は、甘いものが少し苦手なのだと答えた。
「そうなんですね。覚えておきます。デザートを選ぶときには、気をつけないといけませんね」
徹の好みを一つ知ることができて、綾乃は嬉しかった。
次に食事へ誘うときにも、役立つかもしれない。
(……まだ今日のお昼も始まっていないのに)
自分の気の早さに、思わず頬が緩んだ。
お店に向かって歩きながらする他愛もない会話。
「私は好き嫌いはほとんどありません。お魚もお肉も好きですし、季節のお野菜を使ったお料理も好きです。どちらかといえば、素材の味を楽しめる、あまり凝りすぎていないお料理が好みでしょうか」
少し考えてから、付け加える。
「それから、コーヒーが好きなんです。仕事の合間にもよく飲みますし、休日にお気に入りのお店でゆっくり過ごすのも好きですね」
そこで、ふと徹の顔を見た。
「……あら。なんだか、私ばかりお話ししてしまいましたね」
口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「でも、こういう何気ないお話って、職場では意外とする機会がありませんから。今日はご一緒できてよかったです」
口にしてから、綾乃は思った。
食べ物の好みだけではない。休日にはどんな場所へ出かけ、誰と時間を過ごしているのだろう。
そこまで考えたとき、噂に聞いた女性のことが頭をよぎった。
綾乃はその疑問を胸にしまい、今は目の前の時間を楽しむことにした。
やがて、二人は落ち着いた佇まいのレストランに到着した。
綾乃は入口の扉を開け、徹に先に入るよう促す。
案内されたのは、窓際の二人席。柔らかな日差しが差し込む、静かな場所だった。
席に着き、メニューを開いた綾乃は、ふと顔を上げる。
「徹さんは、こういう落ち着いたお店と、賑やかで活気のあるお店でしたら、どちらがお好きですか?」
何気ない質問のようでいて、綾乃は彼の答えを楽しみにしていた。
「私は、こうしてゆっくりお話しできるお店が好きなんです。……今日は特に、ですね」
最後の言葉だけ、ほんの少し照れたように柔らかくなった。
徹の返事を聞いて、綾乃も店内をゆっくりと見渡した。
「気に入っていただけて、よかったです」
彼女はほっとしたように微笑んだ。
「たくさん、と言えるほどではありませんけれど……こういうお店を見つけるのは好きなんです。休日に知らない道を歩いてみたり、気になった路地をのぞいてみたり。そうして偶然見つけたお店が、お気に入りになることもあるんですよ」
窓から差し込む光に目を向けながら、少し懐かしそうに続ける。
「このお店も、以前仕事帰りに少し遠回りをしたときに見つけたんです」
綾乃は窓の外に目を向けた。
「そのときから、いつか誰かと一緒に来てみたいと思っていたんですよ」
綾乃はそこまで話して、ふと口を閉じた。
まるで、徹とここに来られたことが特別だと伝えてしまったような気がした。
「……ですから、今日ご一緒できて嬉しいです」
今さら取り繕うよりも、素直に伝えたほうがいい。
そう思って微笑んだものの、徹の反応が少しだけ気になった。
*
注文を終えたあと、二人の話題は自然とコーヒーのことになった。
徹も普段からよくコーヒーを飲むという。
「まあ、徹さんもコーヒーがお好きなんですね」
綾乃の声が、少しだけ弾んだ。
「私は深煎りが好きなんです。苦味と香ばしさがあって、後味がすっきりしているものが特に」
共通の趣味が見つかったことが、思いのほか嬉しかった。
「……そうですね。もしよろしければ、今度、お互いのお気に入りのお店を紹介し合いませんか?」
口にしてから、少しだけ胸が高鳴る。
「もちろん、ご都合が合えば、ですけれど」
言葉は控えめだった。
けれど、それは綾乃からの、今までより少しだけ大胆な誘いだった。
徹は、その誘いを快く受け入れてくれた。
「……本当ですか? ありがとうございます」
綾乃は思わず目元を緩めた。
平静を装ったつもりだったが、頬が熱くなるのを抑えられなかった。
「では、お互いの予定が合う日に、ということでよろしいでしょうか? 午前中は私のおすすめのお店へ、午後は徹さんのお気に入りのお店へ……なんていうのも楽しそうです」
(……休日に、徹さんと二人で)
仕事の話をする必要もなく、好きなコーヒーを飲みながら過ごす時間。
まだ日取りさえ決まっていないのに、綾乃はその日が待ち遠しくなっていた。
そんな話をしているうちに、注文した料理が運ばれてきた。
香ばしく焼き上げられた肉料理には、色鮮やかな季節の野菜が添えられている。
「……おいしそうですね」
綾乃は思わず声を弾ませた。
ひと口食べると、肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「これは、当たりですね。以前から気になっていたお店でしたけれど、来てよかったです」
徹の様子から、料理を気に入ってもらえたことが伝わってきた。
「徹さんのお口にも合ったようで、安心しました」
綾乃は思わず頬を緩めた。
いつもなら、料理のおいしさを静かに味わって終わるだけだった。
けれど今日は、目の前の徹とその喜びを分かち合えることが、何より嬉しかった。
料理を味わいながら、二人は仕事のことや最近の出来事など、他愛もない話を続けた。
やがて皿が空き、綾乃はふと思い出したように口を開いた。
「……あ、そうそう。徹さんにひとつ聞いてみたいことがあったんです」
一瞬だけ、言葉を選ぶように視線を落とす。
「徹さんは、休日はどんなふうに過ごされることが多いんですか?」
さりげなく尋ねたつもりだった。
けれど、綾乃は彼の答えをいつも以上に真剣に待っていた。
彼のことを、もっと知りたい。
そして、いつか彼の休日の中にも、自分と過ごす時間が自然に加わるようになったら——。
ちょうどそのとき、食後のコーヒーが運ばれてきた。
従業員がカップを置いて席を離れると、徹が休日の過ごし方について答えた。
「お友達と映画やカフェに……そうなんですね」
綾乃は微笑みながら、コーヒーカップを持ち上げた。
けれど、ふと今朝の甘い香りを思い出す。
(……そのお友達は、女性なのでしょうか)
そんなことを考えてしまう自分に、少し驚いた。
以前なら、何気なく聞き流していたはずなのに。
「……ちなみに、映画はどなたと観に行かれることが多いんですか?」
尋ねてから、綾乃はそっとカップを置いた。
少し、踏み込みすぎただろうか。
けれど、聞かずにはいられなかった。
(……教えてください、徹さん)
自分でも驚くほど、彼の答えが気になっていた。
綾乃は表情を変えないまま、テーブルの下でそっと指を握りしめた。
「……そうですか。仲のいいお友達と」
綾乃は静かに頷いた。
けれど、徹はそれ以上詳しく話さず、ちょうど運ばれてきたデザートへと話題を移した。
(……あまり、お話ししたくないのでしょうか)
たまたま話題が変わっただけかもしれない。
それでも、綾乃には、どこか意識的に避けられたように感じられた。
もし、本当にただの友達なら。
そう考えかけて、綾乃はそっと視線を落とした。
(……いけませんね。こんなふうに疑ってしまうなんて)
胸の奥に、小さな棘が残った。
「……おいしいですね。甘さも控えめで、食後にはちょうどいいです」
綾乃はアイスをひと口食べ、徹に視線を向けた。
「徹さんは甘いものが苦手でしたよね。こちらのアイスは、いかがですか?」
綾乃は徹の反応をうかがった。
甘いものが苦手だと聞いていたので、少し気になっていたのだ。
友人のことを、これ以上尋ねるつもりはなかった。
せっかくの食事を、気まずいものにはしたくない。
それでも、口の中に広がる甘さとは裏腹に、胸の奥に残った苦さは消えなかった。
*
デザートを食べ終えたころ、徹がふと店内の壁に目を向けた。
そこには、ディナー営業の案内が掲げられていた。
「どうかしましたか?」
徹は、夜も営業しているなら今度は夕食にも来てみたいと言った。
綾乃は窓際に目を向けた。
夜になれば、昼間とは違う落ち着いた雰囲気になるのだろう。
「そうですね。夜はまた違った雰囲気でしょうし……」
綾乃は微笑んだ。
「もしまた機会がありましたら、ぜひ……」
そこまで言いかけて、ふと口を閉じる。
——また機会があれば。
これまで何度、そんな言葉で自分の気持ちを隠してきただろう。
綾乃はそっと背筋を伸ばした。
「……徹さん」
いつもより、少しだけ真剣な声。
「もし今夜、ご予定がなければ……私と一緒に、もう一度こちらへ来ませんか?」
言い終えた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
自分から、今夜の約束を取りつけようとしている。
「昼間のお料理もおいしかったですし、夜はお酒をいただきながら、ゆっくりお話しするのも素敵だと思いまして」
綾乃は穏やかな微笑みを浮かべた。
けれど、テーブルの下では、膝の上に置いた指先がそっと握りしめられていた。
「もちろん、ご予定がありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」
徹には、恋人がいるのかもしれない。
その可能性を、忘れたわけではなかった。
それでも。
(……もう少しだけ、あなたと一緒にいたいんです)
「……いかがでしょうか、徹さん?」
綾乃はまっすぐに徹を見つめた。
その表情は、いつもの落ち着いた先輩のままだった。
けれど、返事を待つ胸の内は、少しも穏やかではなかった。




