エピソード3 幸せな夜、不安な夜
「ねえ、徹くん。早く入って?」
真白は玄関の扉を開け、徹を部屋へ招き入れた。
デートのときと同じ、アイボリーのオフショルダーニットにグレーのチェック柄ミニスカート、黒いニーハイソックスの姿だった。
「えへへ。今日、もう会えないと思ってたから、びっくりしちゃった」
徹が靴を脱ぐのを待ちきれない様子で、真白はその腕に抱きついた。
「おかえり、徹くん!」
嬉しそうな声が、静かな玄関に響く。
「……あ、違うか。おかえりじゃなくて、いらっしゃい、だよね」
自分で言って、くすくす笑う。
「でも、なんか『おかえり』って言いたくなっちゃった」
今日、徹は真白とのデートを途中で切り上げ、楓に会いに行った。
真白は、その理由を詳しく知らない。
楓が何を話したのか。
二人がどんな約束を交わしたのか。
何ひとつ知らなかった。
「ねえ、楓さんとのお話、もう終わったの?」
リビングへ向かいながら、真白が尋ねる。
徹が短く答えると、真白は徹の顔を見上げた。
「そっか。何かあったのかなって、ちょっと気になってたんだ」
少し間を置いて、心配そうに続ける。
「……大丈夫だった?」
徹の様子を確かめるように見つめてから、真白はほっとしたように笑った。
「よかった」
それから、少しだけ声を弾ませる。
「じゃあ、今日はもう真白と一緒にいられる?」
徹がうなずくと、真白の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
もう一度、確かめるように顔をのぞき込む。
「やった!」
両腕を徹の背中に回し、ぎゅっと抱きしめる。
「途中でお別れになっちゃったのが寂しかったから、また会えてすっごくうれしい!」
*
真白の部屋は、白と淡いベージュを基調にした、明るく居心地のよい空間だった。
ソファには柔らかなクッションが並び、低いテーブルには大学のノートと読みかけの雑誌が置かれている。
「ちょっと待っててね。飲み物持ってくる!」
真白はキッチンへ向かい、ほどなくして二人分の飲み物と菓子皿を持って戻ってきた。
「はい、徹くんの分!」
テーブルにカップを置くと、徹の隣に腰を下ろす。
「……ねえ、もっとこっち」
肩を寄せ、徹の腕に身体を預けた。
「えへへ。やっぱり、こうしてるのが落ち着く」
映画やカフェの話をしているうちに、真白はふと黙った。
「……ねえ、徹くん」
声が少しだけ小さくなる。
「楓さんと会ってる間、真白のこと、ちょっとは思い出してくれた?」
徹の顔をのぞき込む。
「私ね、ずっと徹くんのこと考えてたんだよ」
真白は膝の上で指を組んだ。
「楓さんがいるのは、最初から分かってる。徹くんが楓さんのところに行くことだって、あるって分かってる」
そこで言葉を切る。
「でも……やっぱり、寂しいものは寂しいんだよね」
視線を落とし、少しだけ不安そうに尋ねる。
「私、わがままかな?」
徹の返事を聞くと、真白は小さく微笑んだ。
「……ありがと」
そして、徹の手を取った。
「ねえ、徹くん。私のこと、好き?」
徹の答えに、真白は頬を赤くした。
「……どのくらい?」
さらに答えを聞くと、嬉しそうに目を細める。
「えへへ……うれしい」
それでも、まだ聞きたいことがあるようだった。
「……じゃあ、楓さんと私だったら?」
部屋が静かになる。
真白が一番だよ
徹の答えを聞いた真白の瞳が、大きく開いた。
「……ほんと?」
徹の手を握る。
「本当に、真白が一番?」
もう一度、確かめる。
徹がうなずくと、真白はゆっくりと息を吐いた。
うれしい。
ずっと欲しかった言葉だった。
楓の存在を知りながら徹と付き合い始めたとき、真白は自分が二番目になる可能性も理解しているつもりだった。
けれど、実際には割り切れなかった。
徹と一緒にいる時間が増えるほど、もっと欲しくなる。
いつか、徹が帰ってくる場所を自分だけのものにしたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
「……徹くん、もう一回、言って?」
徹が同じ言葉を繰り返すと、真白は嬉しそうに笑った。
「……えへへ。うれしい……」
徹の胸元に顔を埋める。
「私ね、その言葉、ずっと聞きたかったの」
胸の奥で小さな優越感が芽生える。
楓も、もちろん自分が一番だと思っているだろう。
けれど、徹が今いるのは真白の部屋だ。
自分の隣で、自分を抱きしめている。
その事実が、真白には何よりも嬉しかった。
「……ねえ、徹くん。今日は、ずっとここにいて?」
徹がうなずく。
「……泊まっていってくれる?」
返事を聞いた真白の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと!?」
「やった! じゃあ、今日は一緒に寝られるね!」
嬉しそうに徹の首に腕を回す。
「えへへ。今日は絶対、離さないからね!」
*
真白は淡いピンク色のルームウェアに着替え、徹の隣に座った。
「どう? おうちモードの真白」
少し照れくさそうに笑う。
「こういう格好も好きって言ってもらえたらうれしいな」
徹の反応を見て、真白は満足そうにうなずいた。
「えへへ。よかった」
徹の肩に頭を預ける。
「……なんか、幸せ」
しばらくして、真白は顔を上げた。
「今日、楓さんには何て言ってきたの?」
徹が答えようとした、そのときだった。
テーブルの上のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、真白の表情が変わる。
楓
「……楓さん?」
徹がスマートフォンを手に取る。
「……出るの?」
徹がうなずくと、真白は少しだけ離れた。
「……そっか」
真白は視線を落とし、唇をわずかに尖らせた。
「……出なきゃ、だめ?」
本当は、出てほしくなかった。
せっかく二人きりで過ごせる時間なのに、楓の声がこの部屋に入り込んでくるのが嫌だった。
徹は真白の表情を見て、声を落とした。
連絡するって約束してたから、と徹が言った。
その言葉に、真白は一瞬黙り込んだ。
楓とそんな約束をしていたことが、面白くなかった。
楓のために、徹が自分との時間を中断しようとしている。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
けれど、出なければ楓は不審に思い、何かを疑うだろう。
疑われれば、徹が困る。
徹を困らせれば、嫌われてしまうかもしれない。
真白は不満を飲み込み、無理に笑顔を作った。
「……出ないと怪しまれちゃうよね」
徹の袖をつまみ、少しだけ見上げる。
「じゃあ、出てあげて」
それから、甘えるように付け加えた。
「でも、早く終わらせてね?」
本当は、楓の声なんて聞きたくない。
けれど、徹に嫌われたくない。
徹が自分のところへ帰ってきてくれたことを、台無しにしたくない。
だから、真白は我慢した。
徹が電話に出ると、静かな部屋に通話相手の声がかすかに聞こえてきた。
『……もしもし、徹?』
楓の声だった。
真白は徹の隣で、じっとその声に耳を澄ませていた。
物音ひとつ立てていないため、徹のスマートフォンからは楓の声が思いのほかはっきりと聞こえてきた。
楓は徹の帰宅を信じ、安心したように話している。
けれど、本当は違う。
徹は今、真白の隣にいる。
楓が電話越しの声だけで安心している一方で、真白は徹の体温を感じ、すぐそばで横顔を見つめている。
その優越感が、甘く胸を満たしていく。
真白は徹の袖をそっとつまみ、さらに身を寄せた。
「……ふふ、楓さん、知らないんだ……」
電話の向こうの楓には届かないよう、声を殺して笑った。
*
楓は自宅のソファに座り、スマートフォンを耳に当てていた。
徹とカフェで話したあと、ひとりで帰ってきた部屋。
いつもなら夕食の準備を始める時間だったが、今日は何をする気にもなれなかった。
徹は、家に帰ったら連絡すると言っていた。
その言葉を信じて、楓は帰宅してから何度もスマートフォンを確認していた。
けれど、待っても待っても連絡は来なかった。
自分から電話をかけるべきか迷いながら、何度も画面を見つめる。
約束を忘れてしまったのだろうか。
それとも、まだ帰っていないのだろうか。
もしかしたら、もう自分に連絡する気がなくなったのかもしれない。
そんな不安が、胸の奥で膨らんでいった。
それでも、楓は徹を責めたくなかった。
今日、あれほど自分の気持ちをぶつけたばかりだ。
ここで「どうして連絡してくれなかったの」と責めれば、徹に嫌われてしまうかもしれない。
重いと思われたくない。
面倒な女だと思われたくない。
楓は寂しさを胸の奥へ押し込み、明るい声で電話をかけた。
「……もしもし、徹?」
返ってきた声を聞いて、楓はほっと息をついた。
「よかった。出てくれた」
本当は、連絡を待っていたことを伝えたかった。
約束してくれたのに、連絡がなくて寂しかったと。
けれど、声に出す前に、楓は小さく笑った。
「……もう、お家にいる?」
徹の返事を聞くと、楓は目を閉じた。
帰ってきた。
その言葉だけで、少し安心できた。
「……そっか。よかった」
少し間を置いて、楓は明るさを保ったまま続けた。
「家に帰ったら連絡くれるって言ってたから、ちょっと待ってたんだよ」
責めるように聞こえないよう、できるだけ軽い口調にする。
「でも、疲れてたよね。ごめんね、急かしちゃったみたいで」
本当は、寂しかった。
約束を守ってもらえなかったことが、悲しかった。
けれど、徹に嫌われたくない。
だから、楓は笑っていた。
「声、聞けてよかった。これで安心したから」
徹が何か答える。
楓はその声を聞きながら、胸の奥の寂しさを押し込めた。
「今日のことなんだけど……私、まだちょっとだけ、気持ちの整理がついてなくて」
徹は黙って聞いていた。
「でもね、ちゃんと信じようって思ってるよ。徹が、もうあの人とは会わないって言ってくれたから」
その声が、徹の隣にいる真白にもかすかに届いた。
*
真白の指先が、ぴくりと動く。
――もう、あの人とは会わない?
電話の向こうで、楓は続けた。
『私だけだって、言ってくれたもんね』
真白の胸が、どくんと鳴った。
――私だけ?
それは、さっき徹が自分に言ってくれた言葉とよく似ていた。
(……どっちが本当なの?徹くん?)
不安で身体がすくんでしまいそうになったそのとき、徹の手が真白の頭を撫でた。
その瞬間、答えを見つけた気がした。
楓は、徹が自宅に帰っていると思っている。
けれど、本当は違う。
徹は今、真白の隣にいる。
その事実を思うと、真白の胸は少しずつ軽くなっていった。
楓は、徹が自分の部屋でひとり、疲れた身体を休めていると思っているのだろう。
まさか、徹が真白の部屋で、真白に触れながら電話をしているなんて知らない。
その想像をすると、真白の口元には自然と笑みが浮かびそうになった。
――楓さん、知らないんだ。
自分だけが、楓の知らない本当のことを知っている。
楓が徹の言葉を信じて安心している一方で、徹は真白の隣にいる。
その事実が、真白にはたまらなく嬉しかった。
真白は徹の袖をそっとつまんだ。
楓は電話越しにしか徹の声を聞けない。
けれど、自分は徹の体温を感じている。
徹の横顔を見て、腕に触れて、すぐそばで息遣いまで聞いている。
楓がどれだけ「私だけ」と信じていても、今この瞬間、徹を独占しているのは自分だった。
その優越感を抑えきれず、真白の口元から小さな笑みがこぼれた。
「……ふふっ」
徹の肩に頬を寄せ、楓には聞こえないように小さく笑い続ける。
楓が安心しているほど、真白の胸は甘く満たされていった。
けれど、同時に心の奥底では、不安も消えてはいなかった。
――本当に、私が一番なんだよね?
『……ねえ、徹』
電話の向こうで、楓が言った。
『今日、私、いっぱい泣いちゃったね』
少し間を置いて、続ける。
『……ごめんね。困らせちゃったかな』
徹の返事を聞くと、楓はほっとしたように息を吐いた。
『……ありがとう』
そして、静かに言った。
『私ね、徹と別れなくてよかったって思ってる』
その言葉を聞いた真白は、徹の袖をつまむ指に力を込めた。
――別れなくてよかった?
二人が今日、思っていたより深刻な話をしていたらしいことだけは伝わってきた。
『……これからも、ずっと一緒にいてね』
楓の声が、かすかに聞こえた。
真白は徹の顔を見上げた。
その言葉は、自分も何度も口にしてきたものだった。
楓も、同じことを願っている。
それが分かった瞬間、真白の胸に小さな苛立ちが生まれた。
――楓さんだって、欲張りなんだ。
真白は徹の腕に身体を寄せた。
自分の存在を知らせたいわけではない。
それでも、楓が電話越しに徹を独り占めしているように感じるのが嫌だった。
楓は、徹の声だけで安心しようとしている。
けれど、自分は徹の隣にいる。
楓が「ずっと一緒にいて」と願っているその瞬間、徹は真白の腕の中にいる。
――楓さんがどれだけ願っても、今ここにいるのは真白だもん。
真白は徹の袖をもう一度引いた。
電話の向こうの楓ではなく、自分を見てほしくなった。
徹の声が楓に向けられていることが、急に寂しくなった。
せっかく徹が自分のところへ来てくれたのに、電話の間だけは楓に徹を取られているような気がする。
だから、もう少しだけ構ってほしかった。
ただ、それだけだった。
わざとではない。
ほんの少し甘えたくなって、無意識に袖を引っ張っただけだった。
その瞬間。
徹の手元から、スマートフォンが滑り落ちた。
ガタンッ。
「あっ!」
真白が思わず声を上げた。
徹はすぐにスマートフォンを拾い上げた。
*
電話の向こうで、楓は物音に驚いていた。
「……えっ? 徹?」
徹がスマートフォンを落としたことを伝えると、楓はほっとしたように息を吐いた。
「あ、そうだったんだ。びっくりしたよ」
徹の無事を確かめるように、尋ねた。
「徹、怪我してない?スマホも壊れたりしてない?」
大丈夫、と徹が言った。楓は安心した。
「今日は、電話に出てくれてありがとう。徹の声を聞いたら、ちょっと安心しちゃった」
本当は、約束どおり連絡をくれなかったことが寂しかった。
けれど、今さら責めることはできない。
徹と電話で話すことができた。
声を聞かせてくれた。
それだけで十分だと思わなければならなかった。
「これからも、こうしてお話しできるよね?」
徹の返事を聞いて、楓は小さく笑った。
徹がそろそろ寝ると伝えると、楓は名残惜しそうに言った。
「じゃあ、ゆっくり休んでね。おやすみ、徹」
徹の返事を聞いてから、楓は小さく息を吸った。
「……大好きだよ」
短い返事を聞いてから、通話を終える。
スマートフォンの画面が暗くなった。
徹は家に帰り、自分と電話をしてくれた。
約束どおりではなかったけれど、徹は電話に出て、自分の声を聞いてくれた。
そう思うと、不安が少しだけ和らいだ。
「……よかった」
楓は立ち上がり、キッチンへ向かおうとした。
そのとき、さっきの物音が頭に浮かんだ。
『ガタンッ。』
そして、その直後に聞こえた声。
『あっ!』
楓は足を止めた。
「……あれ?」
あの声は、徹のものだっただろうか。
「……徹、あんな声出したっけ?」
電話越しの音なら、聞き間違えることもある。
それでも、あの短い声はどこか高く、柔らかかった。
まるで、若い女性の声のような。
「……まさか」
楓は首を横に振った。
徹は約束してくれた。
もう、あの女性とは会わない。
これからは、自分だけが恋人だと。
「……気のせい、だよね」
もう一度電話をかけて確かめようかと思った。
けれど、指は止まった。
もし聞き間違いだったら、徹は自分がまだ疑っていると思うだろう。
せっかく、もう一度信じようと決めたのに。
楓はスマートフォンを伏せた。
「……信じるって、決めたんだから」
そう言い聞かせても、不安は消えなかった。
朝、保育園の窓から見えた銀色の髪の女性。
徹に抱きつき、唇を重ねていた姿。
その記憶と、電話越しの小さな声が、胸の奥で重なりかける。
「……考えすぎだよね」
楓はスマートフォンを胸元に抱き寄せた。
次に徹と会ったとき、自然に聞いてみよう。
責めるためではなく、もう一度安心するために。
*
真白の部屋では、通話が終わったあと少しの間、沈黙が続いていた。
「……ごめんね。私が袖、引っ張っちゃったから」
少し間を置いて、尋ねる。
「……楓さん、何か言ってた?」
徹の返事を聞き、ようやく肩の力を抜いた。
「……よかった」
真白は徹の腕に抱きついた。
「楓さん、徹くんが今どこにいるか、知らないんだよね?」
徹がうなずく。
「……そっか。楓さん、徹くんがお家にいるって思ってるんだ」
その言葉には、かすかな優越感がにじんでいた。
「……かわいそう」
すぐに笑顔を作る。
「……なんてね」
けれど、その瞳は笑っていなかった。
「だって、今、徹くんの隣にいるのは真白だもん」
真白は徹の腕をぎゅっと抱きしめた。
「楓さんは、徹くんが自分のために電話をしてくれてると思ってるんだよね」
少しだけ声を弾ませる。
「でも、本当は真白の部屋から電話してるのに」
その事実を口にすると、胸の奥が甘く満たされた。
「楓さんが安心してる間も、徹くんは真白の隣にいるんだね」
真白は徹の肩に頬を寄せた。
「……なんか、不思議」
そして、少しだけいたずらっぽく笑う。
「楓さん、真白がここにいるなんて、夢にも思ってないんだろうな」
徹の腕を抱く力を強める。
「……ねえ、徹くん。本当に、真白が一番なんだよね?」
徹の返事を聞いて、子どものような顔で笑った。
「……えへへ」
徹の胸元に顔を埋める。
「じゃあ、今日は真白のことだけ考えて?」
少しだけ顔を上げる。
「今夜は、楓さんのこと、忘れてほしいな」
その声は甘えているようでいて、どこか切実だった。
*
夜も遅くなり、二人は寝る支度を始めた。
真白は白地に小さなピンクの模様が入ったパジャマに着替え、ベッドの端に腰を下ろした。
白いヘアピンは外し、ベッド脇のトレーに置いている。
「……徹くん、もう寝る?」
徹が隣に来ると、真白はすぐに身体を寄せた。
「……ねえ、ぎゅってして?」
徹の腕が彼女を包み込む。
「……あったかい」
しばらくして、真白は顔を上げた。
「……今日ね、すごく嬉しかったんだ」
映画も、カフェも、お散歩も楽しかった。
けれど、一番嬉しかったのは、徹がまた会いに来てくれたことだった。
「楓さんのところに行っちゃったとき、今日はもう会えないと思ってたから」
真白は徹の胸元に頬を寄せた。
「……だから、帰ってきてくれて嬉しかった」
少し間を置いて、真白は尋ねた。
「……ねえ、徹くん。明日の朝も、一緒にいられるんだよね?」
徹がうなずく。
「……よかった」
ほっとしたように笑う。
「じゃあ、明日は私が朝ごはん作るね」
「徹くんに、おいしいって言ってもらえるように頑張る!」
徹の返事を聞くと、真白は嬉しそうにうなずいた。
「……約束ね」
やがて、部屋の明かりが消えた。
真白は徹の腕の中で、小さく身じろぎする。
「……徹くん」
眠たそうな声。
「……大好き」
返事を聞くと、真白は満足そうに微笑んだ。
「……おやすみ」
やがて、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
その夜、真白は徹の隣で眠った。
楓がひとりきりの部屋で不安を抱えていることなど知らずに。
*
翌朝。
カーテンの隙間から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ベッドに真白の姿はなかった。
代わりに、キッチンから食欲をそそる香りが漂ってくる。
フライパンの上で何かが焼ける音。
食器が触れ合う音。
そして、鼻歌。
「ふんふふーん……♪」
徹が寝室を出ると、キッチンには真白がいた。
淡いピンク色のエプロンをつけ、長い銀髪を後ろでゆるくまとめている。
「あっ、徹くん!」
振り返った真白の顔が、ぱっと明るくなる。
「おはよう!」
「えへへ。起きちゃった?」
徹の腕に抱きつく。
「本当は、朝ごはんできてから起こそうと思ってたんだけど」
キッチンには、トーストと目玉焼き、ソーセージ、小さなサラダが並んでいた。
目玉焼きの端は少し焦げ、ソーセージの焼き色にもばらつきがある。
「……ちょっとだけ、失敗しちゃったけど」
真白は照れくさそうに笑った。
「でも、味は大丈夫……なはず!」
食卓に料理を並べ、徹の向かいに座る。
「はい、どうぞ!」
期待に満ちた瞳で徹を見つめる。
「……おいしい?」
徹の反応を見て、真白の顔がぱっと輝いた。
「ほんと!? やったあ!徹くんに食べてもらうんだもん。ちゃんとおいしく作りたかったの!」
真白は自分の目玉焼きをひと口食べた。
「……あ、ちょっと焼きすぎたかも」
小さく笑う。
「でも、次はもっと上手に作るからね!」
少し間を置いて、真白は尋ねた。
「……ねえ、徹くん。これからも、真白のごはん食べてくれる?」
徹の返事を聞くと、真白は嬉しそうに目を細めた。
「……えへへ。約束だよ?」
そして、少しだけ得意げに続ける。
「徹くんに、真白の料理が一番好きって言ってもらえるように!」
楓は料理が得意だと聞いたことがある。
真白は実際に楓の料理を食べたことはない。
それでも、いつか料理でも楓に負けたくない。
そんな小さな対抗心が、胸の奥に芽生えていた。
*
朝食を終えるころには、時計の針が進んでいた。
「……あっ、もうこんな時間!」
真白は慌てて立ち上がった。
「徹くん、今日お仕事だよね?」
徹がうなずく。
「そっか。私も大学あるんだった!」
少し残念そうに笑う。
「……ねえ、今日の夜は? また会える?」
徹が今日も会いに来ることを伝えると、真白の表情が明るくなった。
「ほんと!?」
ただ、仕事で少し遅くなるかもしれないと聞くと、真白はすぐに笑った。
「全然いいよ! 遅くなっても待ってる!」
それから、少しだけ期待を込めて尋ねる。
「……じゃあ、夜も一緒にごはん食べられるかな?」
徹の返事を聞くと、真白は嬉しそうにうなずいた。
「よーし! 今夜も頑張っちゃおうかな」
「今度は、もっと上手に作るからね!」
真白は大学へ行く支度を始めた。
アイボリーのトップスに淡い色のカーディガン、グレーのチェック柄のプリーツミニスカート。黒いハイソックスとローファーを合わせ、長い銀髪を丁寧に整える。
前髪の横には白いヘアピンを交差させ、小さなうさぎのチャームがついた黒いショルダーバッグを肩に掛けた。
「じゃーん! 今日の大学コーデ、どうかな?」
徹の前で、少し照れくさそうに笑う。
「昨日のデートとは、ちょっと雰囲気変えてみたんだ。……かわいい?」
徹の反応を見て、真白は嬉しそうに笑った。
「えへへ。ありがと!」
徹の腕に抱きつく。
「徹くんにかわいいって言ってもらえると、やっぱりうれしいな」
少しだけ得意げに笑う。
「大学でもかわいいって思われたいけど……徹くんには、一番かわいいって思ってもらいたいもん!」
徹が、大学で男の子と仲良くなりすぎないようにと言うと、真白は一瞬きょとんとした。
それから、ぱっと笑顔になる。
「……えっ! もしかして、徹くん……嫉妬してるの?」
嬉しそうに笑い、徹の腕にさらに身体を寄せる。
「えへへ。なんか、うれしい!」
「大丈夫だよ。大学のお友達とは普通にお話しするけど、男の子と特別仲良くするつもりなんてないもん」
顔を上げる。
「真白の彼氏は、徹くんだけだよ?」
そして、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「……でもね、徹くん?」
握った手に、きゅっと力がこもる。
「徹くんだって、会社の女の人と仲良くなりすぎちゃダメだからね?」
笑顔のまま、じっと見つめる。
「優しくされたからって、ドキドキしたりしちゃダメ。……真白、そういうの、すっごく妬いちゃうから」
「……真白だけを見ててほしいな」
そう言って、真白は徹の頬にそっとキスをした。
「……えへへ。じゃあ、行こっか!」
*
二人はマンションを出て、朝の街を並んで歩いた。
秋の空気は少しひんやりしていたが、日差しは柔らかかった。
「今日の講義ね、ちょっと難しそうなんだよね」
真白は徹の手を握りながら、少し困ったように笑った。
「でも、頑張る! 夜に徹くんに会えるって思ったら、きっと一日頑張れるもん」
やがて、二人の進む道が分かれる場所に着いた。
「……あ、ここだね。じゃあ、私、こっちだから」
徹も仕事へ向かう道を示した。
それから、もう一度だけ徹の手を握り直す。
「……徹くん。今日も、大好きだよ」
少し背伸びをして、頬にキスをする。
「じゃあ、行ってきます!」
真白は明るく手を振った。
数歩進んでから、もう一度振り返る。
「徹くーん! お仕事、頑張ってね!」
長い銀髪が秋の風に揺れた。
真白は満面の笑顔で手を振り、大学へ向かって歩き出した。
その胸には、今夜また徹に会えるという約束があった。




