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エピソード2 信じた約束、知らない裏切り

登場する女性3人のイメージ画像を作成してみました。

この女性たちを想像しながら読んでいただければ幸いです。

(綾乃の登場は次の次の話になりそうです。)


挿絵(By みてみん)


映画館を出た瞬間、真白は徹の手を握った。


「ねえ、徹くん! すっごくよかったね!」


弾む声が、休日の街に響く。


長い銀髪が秋の風に揺れ、前髪の横で交差する白いヘアピンが陽光を受けてきらりと光った。アイボリーのオフショルダーニットに、グレーのチェック柄ミニスカート。黒いニーハイソックスとロングブーツを合わせ、肩には小さなうさぎのチャームが揺れる黒いバッグを掛けている。


二十一歳の大学生らしい若々しさと、思ったことがそのまま表情に出る人懐っこさ。


真白は映画の余韻を引きずったまま、徹の隣を歩いていた。


「私、あのシーンが一番好きだったなあ。まさかあんな展開になるなんて思わなかったもん!」


身振りを交えて感想を話し、ふと徹の顔をのぞき込む。


「徹くんは? どこがよかった?」


徹の返事を聞くと、真白は頷いた。


「そっかあ! やっぱり、そこ気になるよね!」


つないだ手を揺らす。


「ねえ、もう一回観ちゃう? ……なんてね。今日はまだまだ一緒にしたいことあるもん!」


最後の言葉だけ、甘えるような響きになった。


映画を観て、同じ場面で笑って、終わったあとに感想を話す。


そんな何気ない時間が、真白にとっては特別だった。


徹と一緒にいると、自然と笑顔になる。


好きだという気持ちを隠すことも、甘えたい気持ちを我慢することも、真白はあまり得意ではなかった。


「……あ、そうだ!」


何かを思い出したように、ぱっと顔を上げる。


「映画のあとは甘いもの、って決めてたんだよね。カフェ行こ!」


徹の返事を聞き、真白は笑った。


「今日は私、ケーキ食べたい気分!」


その横顔は、次の楽しみを見つけた子どものように輝いていた。




映画館から少し離れた通りに、落ち着いた雰囲気のカフェがあった。


大通りの喧騒から離れた小さな店で、入口には季節の花が飾られている。大きな窓から柔らかな光が差し込み、店内にはコーヒーの香りと控えめな音楽が満ちていた。


「わあ、ここ、雰囲気いいね!」


真白は店内を見回した。


案内された席に腰を下ろすと、メニューを開き、真剣な顔でページをめくり始める。


「うわあ、どれもおいしそう……。どうしよう、迷う!」


チーズケーキも気になるし、季節限定のモンブランも捨てがたい。


何度もページを行き来した末、真白が選んだのはチーズケーキとカフェラテだった。


注文を済ませると、彼女はテーブルに頬杖をつき、向かいに座る徹を見つめた。


「ねえ、徹くん」


身を乗り出す。


「今日の私、どう?」


突然の質問だった。


真白はニットの肩口を指先で整え、チェック柄のスカートに視線を落とす。


「この服、今日のために選んだんだよ。徹くんとデートするんだもん。かわいいって思ってもらえたらいいなって」


言い終えるころには、頬がほんのり赤くなっていた。


「……あんまりじっと見られると、恥ずかしいけど」


そう言いながらも、視線をそらすことはしない。


やがて、注文したケーキとカフェラテが運ばれてきた。


白い皿の上には、美しく飾られたケーキ。ラテの表面には、きれいな模様が描かれている。


「わあ、かわいい!」


フォークを手に取り、ひと口。


「んーっ、おいしい!」


目を細める。


もうひと口食べてから、真白はフォークにケーキをすくった。


「徹くんも食べてみる?」


差し出されたフォークの先には、美味しそうなチーズケーキが乗っている。


「あーん、して?」


いたずらっぽい笑顔に、徹が応じる。


真白は頬を緩めた。


「えへへ。おいしい?」


自分もひと口食べ、今度はカフェラテを両手で包み込む。


「こういう時間、好きだなあ。映画を観て、おいしいもの食べて、徹くんといっぱいお話しして……」


そこで言葉を切り、テーブル越しに手を伸ばした。


徹の指先に触れ、そのまま握る。


「今日、ずっと一緒にいられるんだよね?」


返事を聞くと、真白は安堵の息をついた。


「よかった」


声を落とす。


「……私ね、徹くんと一緒にいると、もっと一緒にいたくなっちゃうんだ。帰る時間が近づくと、すぐ寂しくなっちゃう」


自分で言って照れたのか、真白はラテに口をつけた。


「今の、内緒ね?」


照れくさそうに笑う。


窓から差し込む午後の光が、テーブルの上でゆっくりと傾いていく。


真白にとって、この時間は何よりも大切だった。


特別な場所に行かなくてもいい。


高価なプレゼントがなくてもいい。


ただ隣にいて、手をつないで、一緒に笑っていられればいい。


そんな願いを、真白はいつも素直に口にする。


「ねえ、次はどこ行こうか?」


ケーキを食べ終えるころには、もう次の予定を考え始めていた。




カフェを出たあとも、二人はすぐには帰らなかった。


映画の感想を話し、気になった場面を振り返り、次に観たい作品についても話す。


ただ、話題は何度も脱線した。


真白が徹の手を握り直したり、顔をのぞき込んだり、肩を寄せたりするからだ。


「……ねえ、徹くん」


真白は自分で気づいたらしく、くすくす笑った。


「さっきから、映画の話より、別の話ばっかりしてない?」


徹の顔を見上げる。


「せっかく観たのにね。でも……楽しいから、いいよね?」


返事を聞くと、真白は頷いた。


周囲を気にしてから、身を寄せる。


「……ね、キスしてもいい?」


返事を待って顔を上げる。


徹が応じると、真白は目を閉じた。


二人の唇が重なる。


短いキスだった。


けれど、唇が離れたあとも、真白はすぐには距離を取らなかった。


近い場所から徹を見つめ、頬を赤く染める。


「……えへへ。やっぱり、徹くんが好き」


その声は、いつもの明るさより低かった。


「もう一回したいけど……ここ、人が通るもんね」


唇を尖らせてから、笑顔に戻る。


「じゃあ、もうちょっと人の少ないところに行こ?」


真白は徹の手を握った。


大通りを離れ、二人は緑の多い遊歩道へ向かった。


街の喧騒が遠ざかるにつれて、風の音や木々の葉がこすれる音が聞こえてくる。道沿いには背の高い木が並び、その向こうには川面がきらきらと光っていた。


「わあ、ここ気持ちいいね!」


真白は景色を見回して笑った。


銀髪が風に揺れ、白いヘアピンが木漏れ日の中で輝く。


「ねえ、写真撮ろうよ!」


スマートフォンを取り出し、二人が入るように画面を調整しようとする。


けれど、なかなかうまくいかない。


「うーん、難しい……。徹くん、もうちょっとこっち!」


肩を寄せ、顔を近づける。


「はい、チーズ!」


撮影された画面を確認すると、真白は頬を緩めた。


「かわいく撮れた! 今日の思い出、増えちゃったね」


スマートフォンをバッグにしまい、再び手をつなぐ。


しばらく歩いたところで、真白は足を止めた。


川を眺めながら、静かな声で話し始める。


「ねえ、徹くん。私、こういう普通のデートが好き」


川面を渡る風が、彼女の髪を揺らした。


「特別な場所に行かなくても、徹くんと手をつないで歩いて、くだらないことで笑って……そういうのが、すごく幸せなの」


言い終えると、照れたように笑う。


「……なんか、真面目なこと言っちゃった」


徹の反応を見て、真白は首を横に振った。


「ううん。聞いてくれてありがとう」


彼の腕に寄り添う。


「ね、もう少し歩こう? まだ帰りたくないもん」


その言葉は正直な気持ちだった。


今日という一日が終わってしまうのが惜しい。


別れたあとも、また会えることは分かっている。それでも、隣にいる時間が終わると思うだけで、胸の奥が寂しくなる。


真白はそんな気持ちを隠さず、徹の手を握り直した。


「……あとちょっとだけ、一緒にいようね」


二人は再び歩き始めた。


穏やかな午後の光が、遊歩道を包んでいた。




遊歩道をしばらく歩いたころだった。


徹のスマートフォンが、短く震えた。


真白はつないだ手を揺らしながら、ちらりとスマートフォンを確認する徹に目を向けた。


「ん? 誰から?」


表示されたメッセージは短かった。


『今日は仕事を早上がりにしたよ。これから会って話せないかな?』


徹の表情を見て、真白の笑顔が一瞬止まった。


「……もしかして、楓さん?」


つないでいた手に、ほんの少しだけ力がこもる。


真白はその名前を知っている。


徹の恋人であり、保育士として働いている女性。


「……そっか。今、連絡が来たんだね」


今日という一日を、もう少しだけ二人で過ごせると思っていた。


けれど、楓も徹の恋人なのだ。


そのことは、最初から分かっている。


「……徹くんは、会いに行くの?」


声には、隠しきれない寂しさがあった。


「私、まだ一緒にいたかったな……」


ぽつりとこぼしてから、真白は小さく笑った。


「……なんてね。楓さんが急に会いたいって言うなら、何かあったのかもしれないもんね」


徹が楓に会いに行くことを決めると、真白は一瞬だけ視線を落とした。


「……そっか」


それから、顔を上げる。


「うん。行ってきていいよ」


笑顔を作ろうとして、少しだけ失敗した。


「でも……ちょっとだけ、寂しいって言ってもいい?」


徹の手を握り直す。


「だって、今日はすごく楽しかったんだもん。もう少し一緒にいられると思ってたから」


それは、徹を責める言葉ではなかった。


ただ、楽しかった時間が思いがけず終わってしまうことへの、素直な寂しさだった。


「……ねえ、徹くん」


真白は少しだけ身を寄せた。


「今朝、私が会いに来る前に、楓さんと何かあった?」


思い当たらない、と徹が答える。


「そっか……」


真白はしばらく考え込むように唇を結んだ。


楓が何を話したいのかは分からない。


だから、今ここであれこれ考えても仕方がなかった。


「……ちゃんと、お話聞いてあげてね」


そう言ってから、真白は少しだけいたずらっぽく笑った。


「でも、私のことも忘れちゃ嫌だよ?」


いつもの甘えた声に戻そうとしても、最後の言葉だけは少し真剣だった。





遊歩道から出たところで、二人は足を止めた。


帰り道へ向かう分かれ道が近づいていた。


真白は徹の手を離さず、絡めた指をじっと見つめていた。


「……ねえ、徹くん」


顔を上げる。


「徹くんは、楓さんのことも好きなんだよね?」


徹の返事を聞くと、真白は小さく頷いた。


「……うん。分かってる」


それから、少しだけ困ったように笑う。


「私ね、徹くんと付き合い始めたとき、ちゃんと分かってるつもりだったんだ」


つないだ手を見つめる。


「楓さんがいることも、徹くんが私と一緒にいられない時間があることも。それでもいいって思ったの」


そこで言葉を切った。


「……でもね」


真白は徹の腕にそっと寄り添った。


「今日みたいに楽しい時間を過ごしちゃうと、欲張りになっちゃうんだ」


いつもの明るい笑顔が、少しだけ寂しそうに揺れる。


「もっと一緒にいたいな、とか。明日も会いたいな、とか……」


そして、徹をまっすぐに見つめた。


「……本当は、私だけを見てほしいな、とか」


口にしてしまってから、真白は照れたように目を伏せた。


「……えへへ。言っちゃった」


けれど、すぐに笑顔には戻れなかった。


「私、徹くんのことが大好き。だから……失いたくないよ」


その声は、いつもよりずっと静かだった。


「楓さんのところに行かないで、なんて言わない。でも、楓さんと会ったあとも、私のことを好きでいてほしい」


真白は、徹の手をぎゅっと握った。


「……私、徹くんの隣にいたいの」


それは、今まで何度も伝えてきた「好き」とは少し違う言葉だった。


誰かと同じ人を好きになること。


その人が、自分以外の誰かのもとへ帰っていくこと。


分かっているつもりでも、胸が痛むことはある。


真白はその気持ちを、もう笑ってごまかしたくなかった。


「……ねえ、徹くん」


背伸びをして、顔をのぞき込む。


「行く前に、ぎゅってして?」


徹に抱きしめられると、真白は目を閉じた。


「……ん。あったかい」


しばらくそのままでいてから、小さく笑う。


「えへへ。充電中……」


やがて顔を上げると、いつもの人懐っこい笑顔が少し戻っていた。


「……よし。これで、ちょっと元気になった!」


それでも、離れ際にはもう一度、徹の手を握った。


「……最後に、もうひとつだけ聞いてもいい?」


真剣な瞳で見つめる。


「徹くん。私のこと、ちゃんと大切に思ってくれる?」


返事を聞くと、真白はほっとしたように微笑んだ。


「……ありがとう」


そして、いつもの明るい声で続けた。


「じゃあ、またね! お話が終わったら、連絡してね」


数歩離れてから、振り返る。


「徹くん、大好き!」


笑顔で手を振った。


けれど、徹の姿が見えなくなるまで、真白はその場を動かなかった





徹と別れ、真白はひとりで街の中を歩いていた。


「……今日も本当に楽しかったなぁ」


映画も、カフェも、遊歩道の散歩も。


どれも大切な思い出になった。


「楓さんとのお話が終わったら、ちゃんと私のことを思い出してくれるかな……」


真白はスマートフォンを取り出した。


画面には、今日撮った写真が残っている。


映画館を出たときの笑顔。


カフェで食べたチーズケーキ。


遊歩道で二人並んで撮った写真。


真白は最後の一枚を開き、指先で画面をなぞった。


そこには、肩を寄せ合って笑う二人が写っていた。


「……また、こうやって写真撮ろうね」


つぶやく。


そして、スマートフォンを胸元に抱き寄せた。


楓が徹とどんな話をするのか、真白には分からない。


ただ、徹が帰ってきたら、もう一度声を聞きたい。


今日の続きのように、何気ない話をして、笑って、また手をつなぎたい。


徹が楓と付き合っていることを知りながら、真白は自分の気持ちを選んだ。


だからこそ、徹を困らせないようにしたい。


寂しくても、会いたくても、無理に引き止めず、徹が戻ってくる場所でありたい。


真白はそう願いながら、徹からの連絡を待つことにした。


その願いが、どれほど不確かなものなのかも知らずに。


*



約束の時間が近づいたころ、徹は待ち合わせ場所のカフェに到着した。


駅から少し離れた、つい数時間前に真白といたカフェと似た雰囲気の店だった。


大きな窓から午後の光が差し込み、店内にはコーヒーの香りが漂っている。客は少なく、穏やかな話し声が時折聞こえるくらいだった。


窓際の席に、楓の姿があった。


ベージュの柔らかなブラウスに、落ち着いた色合いのスカート。肩にかかるダークブラウンの髪は、いつもどおり丁寧に整えられている。


清潔感のある装いも、優しく穏やかな顔立ちも、普段の楓と変わらなかった。


けれど、その表情には、いつもの温かさだけではない何かがあった。


テーブルの上に置かれた両手は、ぎゅっと握られている。


徹の姿を見つけると、楓は顔を上げた。


「……来てくれてありがとう」


いつものように微笑もうとする。


けれど、口元に浮かんだ笑顔は、どこかぎこちなかった。


徹が席に着く。


楓は視線を落とし、言葉を探すように唇を結んだ。


「……聞きたいことがあるの」


店内には穏やかな音楽が流れている。


ほかの客たちは、いつもと変わらない日常を楽しんでいた。


そんな中で、楓だけが、いつもとは違う時間の中にいるようだった。


「今日の朝、保育園まで送ってくれたでしょ?……そのあと徹、誰かと会ってなかった?」


徹は返事をしなかった。


「女の人と、一緒にいたよね?」


短い沈黙が流れる。


「……知らない女の人だった。私、見たことない人」


楓は笑おうとした。


けれど、その口元はかすかに震えていた。


「最初は、お仕事関係の人なのかなって思ったの。徹、いろんな人と関わることもあるだろうし……だから、別に気にすることじゃないかなって」


そこで言葉を切る。


握りしめた指先に、さらに力がこもった。


「でもね……」


楓は徹を見つめた。


「キスしてたの」


静かな声だった。


「……女の人と、キスしてた」


口にした途端、その光景が鮮明によみがえった。


保育園の窓越しに見えた、見知らぬ女性の銀色の髪。


徹に抱きつき、顔を上げる女性。


そして、重なった二人の唇。


「私、見間違いだったらいいなって思った。似てる人だったのかもしれないって。何度もそう思おうとしたの」


一度息を吸う。


「でも、あれは徹だった。私、ちゃんと見たんだよ」


楓の瞳が揺れた。


「ねえ……あの人は誰なの?」


本当は、もっと落ち着いて聞くつもりだった。


相手を責めるのではなく、まずは事情を聞こうと思っていた。


けれど、実際に徹を前にすると、胸の奥に押し込めていた悲しみがあふれてくる。


「ごめんね。こんなふうに聞きたくなかった」


声がかすれた。


「私、徹のこと信じてたから」


それは責めるための言葉というより、傷ついた自分の気持ちをどうにか伝えようとしているようだった。


「私ね、朝から、すごく幸せだったんだよ」


楓は視線を落とした。


「一緒に朝ごはんを食べて、玄関でぎゅってしてもらって……保育園まで送ってくれて」


笑みがかすめる。


「帰ったら、また一緒にごはんを食べようって約束したよね」


あの日の朝は、何ひとつ特別なことなどなかった。


いつもどおりの恋人との時間。


いつもどおりの、幸せな一日になるはずだった。


「私、今日も帰ったら徹と一緒にいられるんだって、楽しみにしてたの」


楓は顔を上げた。


「だから、あの光景を見たとき……何が本当なのか、分からなくなっちゃった」


目元が赤くなっていく。


「徹は、私のこと好きだって言ってくれたよね。会いたいって言ってくれたし、一緒にいると幸せだって……」


言葉が途切れる。


「……私も、すごく幸せだったんだよ」


涙が一筋、頬を伝った。


楓は指先でぬぐう。


「……ごめん。泣くつもりじゃなかったのに」


それでも、涙は止まらなかった。


しばらくして、彼女はもう一度徹を見つめた。


「……あの人とは、どういう関係なの?」


今度は、答えをそらさせない意志が感じられた。


恋人、と徹は短く答えた。


「…………え?」


楓の表情が、ぴたりと止まった。


聞き間違いだと思いたかった。冗談だと言ってほしかった。


けれど、徹の口から出た言葉は、楓がいちばん恐れていた答えだった。


「……そっか。そう、なんだ……」


無理に笑おうとした唇が、かすかに震える。


「私以外に……付き合ってる人が、いるんだね……」


楓は視線を落とした。膝の上で握りしめた手に、ぎゅっと力がこもる。


「……いつから?」


しばらくして、ようやく出てきたのは、その短い問いだった。


「ごめんね。でも、知りたいの。いつからなのか、どんな人なのか……」


声が少しずつ小さくなっていく。


「だって私……徹のこと、本当に大好きだったんだよ」


とうとう耐えきれなくなったのか、楓は顔を伏せた。


ぽたり、とテーブルに涙が落ちる。


「毎日、徹に会えるのが嬉しくて……一緒にいられることが幸せで……。これからもずっと、そばにいられるんだって思ってた……」


涙を拭いながら、楓はもう一度徹を見る。


怒りたいはずなのに、声を荒らげることもできない。ただ、悲しくて、徹の言葉を待っている。


「……ねえ、徹、その人のこと……私より好きなの?」


かすれた声でそう尋ねてから、楓は唇を噛んだ。


「……私、どうしたらいいの……?」


楓(・)が(・)一(・)番(・)だ(・)よ(・)


徹が楓をしっかりと見つめて言った。


「……私が、一番……?」


楓は涙で濡れた目を上げて、徹の顔を見つめた。


その言葉が嬉しくないわけじゃない。大好きな人に一番だと言ってもらえたら、本当なら飛び上がるくらい嬉しいはずだった。


でも、今は……胸が痛かった。


「……じゃあ、どうして……?」


小さくこぼれた声が震える。


「私が一番なのに、ほかの人とも付き合ってるの……? 私じゃ、足りなかった……?」


楓は首を横に振り、涙を拭った。


「私……どうしても考えちゃうんだよ。私と一緒にいたときも、その人のことを考えてたのかなって……」


しばらく黙ったあと、楓はテーブル越しに徹の手を握った。


「……ねえ、徹。私、徹のことが大好き。今だって、できることなら抱きしめてほしいし、いつもみたいに優しくしてほしい……」


一度、ぎゅっと目を閉じる。


「でもね、好きだからって、何もなかったことにはできないよ……」


楓は涙をこらえながら、まっすぐ徹を見つめた。


「徹はその人と付き合い続けたいの? それとも……私とちゃんと向き合って、その人との関係を終わらせるつもりがあるの?」


握っていた手が、少しだけ震える。


「……私、大好きな徹を失いたくないよ。でも、二番目の恋人として、何も知らないふりをして笑うのは……きっと、できない」


楓は悲しそうに微笑んだ。


「だから、お願い。私が一番だって言ってくれるだけじゃなくて……これからどうしたいのか、ちゃんと聞かせて?」


「……私、まだ徹のことを信じたいんだよ」


そ(・)の(・)人(・)と(・)は(・)別(・)れ(・)る(・)。も(・)う(・)二(・)度(・)と(・)会(・)わ(・)な(・)い(・)。


楓は驚いたように目を見開いた。


「その人とは別れるって……もう二度と会わないって、本当に……?」


言葉を確かめるように、何度も頭の中で繰り返す。


徹が自分を選んでくれる、楓が一番望んでいた言葉だった。


なのに、いざ聞かされると、涙がまた溢れてきた。


「……ばかぁ……」


楓はとうとう顔を覆った。


「そんなこと言われたら……私、やっぱり徹と別れるなんてできないよ……」


泣きながら、困ったように言う。


「ずっとね、怖かったの。徹がその人を選んで、私のところからいなくなっちゃうんじゃないかって……。私よりその人のほうが好きなんじゃないかって……」


ゆっくり顔を上げると、楓は徹の手を両手で包んだ。


「……私ね、徹がほかの人とキスしてるところを見たとき、頭が真っ白になったの。悲しくて、苦しくて……でも、それ以上に、徹を失うのが怖かった」


少しの沈黙。


「だから……別れてくれるって言ってくれたことは、嬉しい。私を選んでくれるなら……もう一度、ちゃんと二人でやり直したい」


けれど、楓はそこで少し表情を引き締めた。


「……でもね、徹。私が許せないから別れる、っていうだけじゃなくて、徹自身がどうしたいのかも考えてほしいの」


「私、徹を無理やり縛りつけたいわけじゃないんだよ。好きだからこそ、徹の気持ちで私を選んでほしい」


俺(・)も(・)楓(・)の(・)こ(・)と(・)を(・)失(・)い(・)た(・)く(・)な(・)い(・)


楓はとうとう我慢できなくなったように立ち上がり、徹のそばへ回った。


そして、ぎゅっと抱きしめる。


「……っ、徹……」


胸元に顔を埋め、震える声で囁いた。


「お願い……今だけ、こうさせて……」


「私、まだ悲しいし、すぐに全部忘れられるわけじゃない。でも……徹のことが大好きなの。悔しいくらい、大好き……」


背中に回した腕に、少しだけ力がこもる。


「……あとで、またいっぱい抱きしめてね」


それから楓は、徹から身体を離して顔を上げた。


涙の残る目で、じっと見つめる。


「……ねえ、徹。ひとつだけ、約束して?」


「これからは、私に隠し事をしないで。苦しいことも、言いにくいことも……ちゃんと話してほしいの」


小指をそっと差し出して、少し照れたように微笑む。


「私が不安になったときは……ちゃんと抱きしめて、好きだって言ってね」


涙の残る瞳で、徹を見つめる。


「私、きっとまた怖くなっちゃうと思うから」


徹は、その願いを受け入れた。


その返事を聞いて、楓の表情がまた少し和らいだ。


「……ありがとう。私、徹のこともう一度信じたい。信じさせて……」


すぐに彼女は周囲を見回した。


「こんなところで、ずっと泣いてちゃだめだよね……」


涙をぬぐい、無理に笑顔を作る。


「ねえ、徹。今だけ……甘えてもいい?」


徹が頷く。


「……やっぱりもう一度抱きしめてほしい」


楓は恥ずかしそうに身を寄せた。


徹の腕が、彼女を包み込む。


その瞬間、楓はこらえていた涙を再びこぼした。


「……ごめんね。ちょっとだけ、このままでいさせて」


震える声が、胸元に落ちる。


「徹のこと、簡単に嫌いになれないよ……私だって徹とずっと一緒にいたいんだから」


しばらくして、楓は顔を上げた。


「……キスも、してほしい」


徹は彼女の頬に手を添え、唇を重ねた。


離れたあと、楓は恥ずかしそうに目を伏せた。


それから、もう一度だけとせがむように顔を上げる。


二度目のキス。


三度目は、楓のほうから唇を近づけた。


「……えへへ」


ようやく、いつもの柔らかな笑顔が戻った。


「いまがチャンスだと思って……甘えちゃった」


それでも、彼女の手は徹の服をつかんだままだった。


まるで、力を緩めれば、またどこかへ行ってしまうとでもいうように。


「……もう少し、一緒にいたいな」


窓から差し込む光が、テーブルの上に伸びている。


楓は温かい飲み物をひと口飲んだ。


「今日ね、本当は、徹とゆっくり過ごしたかったんだ」


落ち着きを取り戻した声で続ける。


「いっぱいお話しして、手をつないで……いつもみたいに笑っていたかった」


そして、徹の顔を見た。


「……今日は、もう少し一緒にいられる?」


徹は、寂しげな表情で、これから急な仕事があることを告げた。


楓の顔にも寂しさが浮かんだ。


「……そっか。お仕事なら、仕方ないね」


残念そうにしながらも、彼女は頷いた。


「頑張ってね。無理しすぎちゃだめだよ」


徹が席を立つと、楓も立ち上がった。


店の入口まで一緒に歩き、そこで足を止める。


「……ねえ、徹」


顔を上げる。


「仕事が終わって、お家に帰ったら……連絡してくれる?」


遠慮がちな声だった。


「私、ちゃんと待ってるから」


徹は、必ず連絡すると約束した。


楓は、その言葉を確かめるように頷いた。


「……うん。約束ね」


最後に、もう一度抱きしめてもらう。


「大好きだよ、徹」


耳元でそう告げてから、楓は名残惜しそうに腕をほどいた。


「……気をつけてね」


徹の姿が店の外へ消えていく。


楓はしばらくその場に立っていた。


胸の奥には、まだ消えない痛みがある。


それでも、彼が約束してくれたことを信じたいと思った。


もう一人の女性とは別れること。


二度と会わないこと。


そして、これからも自分だけが恋人であること。


「……大丈夫」


楓はつぶやいた。


「きっと、もう大丈夫……」


自分に言い聞かせるようにして、彼女はカフェをあとにした。


その背中には、朝のような軽やかさはなかった。


それでも、帰ったら徹から連絡が来る。


そう信じて、楓は家路についた。


*



住宅街の一角に、比較的新しいマンションが建っていた。


エントランスにあるオートロックの前で足を止める。


取り付けられたインターホンに手を伸ばし、ボタンを押した。


短い電子音が、エントランスに響く。


『……はーい!』


明るい女性の声が聞こえた。


『……あっ!』


女性はモニターに映った訪問者の顔を確認したのだろう。驚きと喜びを隠せない様子で、声をあげた。


『徹くん!』


真白だった。


オートロックが解除され、徹はエレベーターで真白の部屋へ向かった。


ほどなくして開いた玄関の扉から、真白が嬉しそうに顔をのぞかせた。


「どうしたの? 楓さんとのお話は?」


首を傾げたあと、すぐに何かを思いついたように目を輝かせる。


「……もしかして、真白に会いに来てくれたの?」


期待に満ちた表情で、徹を見上げる。


真白は、当然知る由もない。


楓が真白の存在に気づいてしまったことを。


楓が涙を流しながら、徹を信じようと決めたことを。


そして、徹が楓に、もう真白とは会わないと約束したことを。


真白はただ、徹が自分のもとへ来てくれたことを喜んでいた。


「……えへへ。嬉しい」


頬を赤くして、徹の手を取る。


「ねえ、入って? 真白、ちょうどおやつ食べようとしてたんだ」


背伸びをして、顔をのぞき込む。


「今日のデート、途中でお別れになっちゃったでしょ? だから……もう少し一緒にいられたらよかったなってずーっと思ってたの」


照れくさそうに笑い、徹の手をぎゅっと握る。


「来てくれて、ありがとう」


心の底から幸せそうな声だった。


*


楓は、自宅に戻ると、バッグを置いてソファに腰を下ろした。


静かな部屋。


いつもなら、仕事を終えて帰ってくると、今日あったことを徹に話したくなる。


保育園で子どもたちが見せてくれた、かわいらしい出来事。


同僚と交わした何気ない会話。


明日の準備をしているときに思いついた、ちょっとした工夫。


そんな話を聞いてもらうのが好きだった。


今日も、本当ならそうするはずだった。


けれど、今はスマートフォンを手に取ることさえ怖かった。


徹から連絡が来るだろうか。


本当に、もう一人の女性とは別れてくれるのだろうか。


これからは、自分だけを見てくれるのだろうか。


考え始めると、次々に不安が浮かんでくる。


楓はスマートフォンをテーブルに置いた。


「……信じるって、決めたんだから」


つぶやく。


「大丈夫。徹は、約束してくれたもんね」


自分を安心させるように、もう一度頷く。


それから、わずかに笑った。


帰ったら連絡すると言ってくれた。


もう裏切らないと約束してくれた。


だから、今は信じよう。


そう思いながら、楓はスマートフォンを手の届くところに置いた。


いつ連絡が来ても気づけるように。


その夜、徹からどんな言葉が届くのか。


楓は、まだ知らない。

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