エピソード1 秘密のキス、ふたつ
この作品が、私にとって初めて書く小説になります。
未熟なところも多いと思いますが、登場人物たちの恋心や嫉妬、不安、そして大切な人を想う気持ちを、丁寧に描いていけたらと思っています。
それぞれ違う想いを抱えながら恋をする三人の女性。
彼女たちが信じる愛は、どこへ向かっていくのか。
甘さだけではない、少し切なくて、ときに(かなり)胸が苦しくなるような恋愛物語を楽しんでいただけたら幸いです。
恋人の朝は、甘い。
目が覚めたとき、隣に好きな人がいて、一緒に朝食を食べて、出かける直前まで惜しむように触れ合う。そんな時間が、いつまでも続けばいいと思うほどに。
けれど、幸せな朝が終わるころ、たったひとつのキスが、すべてを変えてしまうこともある。
その朝、徹は楓の家で目を覚ました。
「……おはよう、徹」
耳元に落ちてきた声は、柔らかく、少しだけ甘えていた。
目の前にいたのは、楓だった。
長いダークブラウンの髪が肩に流れ、寝起きの穏やかな顔には、いつもの優しい笑みが浮かんでいる。保育士として働く彼女は、普段から面倒見がよく、誰に対しても自然に気を配る女性だった。
けれど、恋人と二人きりでいるときの楓は、職場で見せる姿よりもずっと甘えん坊になる。
「よく眠れた?」
楓は返事を待つより先に、徹の頬へそっとキスをした。
「えへへ。おはようのキス。……もう一回してもいい?」
いたずらっぽく笑う楓に、徹が応じる。
唇が重なり、離れると、楓は嬉しそうに目を細めた。
「朝から幸せ。今日はお仕事なのが残念だなあ」
そう言いながらも、彼女はいつまでもベッドにとどまるわけではなかった。
「でも、朝ごはん作らなきゃ。徹は今日お休みなんだから、ゆっくり食べてね」
楓は名残惜しそうに徹の手を握ってから、ベッドを抜け出した。
その背中を追うように、朝の時間が動き始めた。
キッチンから、食欲をそそる香りが漂ってくる。
楓は料理が得意だった。冷蔵庫にある食材を上手に組み合わせ、栄養のバランスも考えながら、食べる人が喜ぶような料理を作る。
今朝の食卓に並んだのは、ふんわりと焼き上げたオムレツに、こんがり焼いたソーセージ、彩りのいいサラダ。それに、野菜がたっぷり入ったスープと、焼きたてのトーストだった。
「できたよ、徹。冷めないうちに食べよ?」
エプロン姿の楓は、テーブルに料理を並べながら得意げに胸を張る。
「今日はちょっと頑張っちゃった。徹と一緒に食べる朝ごはんだもん」
向かい合って食事をする間も、楓は何かと世話を焼いた。
「スープ、おかわりあるよ。あと、これも食べてみて?」
自分の分を食べるのも忘れそうなほど、徹が美味しそうに食べているか気にしている。
「……おいしい?」
徹がうなずくと、楓の顔がぱっと明るくなった。
「よかった。徹においしいって言ってもらえるの、好きなんだよね」
彼女は照れくさそうに笑い、テーブル越しに手を伸ばす。徹の指先に触れ、そっと握った。
「ねえ。今日、私が仕事に行ったあと、何するの?」
徹が休みだと分かっていても、楓は聞かずにはいられないらしい。
「そっか。ゆっくりできるんだね」
少しうらやましそうに言ったあと、彼女はふと思いついたように顔を上げた。
「じゃあ、帰ってきたらまた一緒にごはん食べよ。夜も私が作るから」
それは何気ない約束だった。
けれど楓は、恋人と過ごす時間をひとつずつ確かめるように、嬉しそうに微笑んでいた。
朝食を終えると、楓は仕事へ行く支度を始めた。
保育園で働く彼女にとって、朝は忙しい。身支度を整え、必要な荷物を確認し、忘れ物がないか確かめる。
それでも、徹がそばにいると、つい手が止まってしまう。
「……徹、ちょっとこっち来て?」
玄関で靴を履こうとしていた楓が、振り返って手招きした。
「ん?」
徹が近づくと、楓は彼の胸元に軽く手を添え、顔を上げた。
「……ぎゅってして」
徹が抱きしめると、楓は安心したように目を閉じた。
「んー……充電中。これで今日も頑張れる」
しばらくそのままでいたあと、彼女は名残惜しそうに顔を上げる。
「本当は、もう少し一緒にいたいんだけどな」
そう言いながら、楓は自分から徹の頬にキスをした。
「……今のは、私からのサービス」
少し照れたように笑い、すぐに付け加える。
「なーんて。大好きだからしたくなっただけ」
普段は穏やかで、相手を気遣うことが自然にできる楓。けれど恋人の前では、こんなふうに自分から甘えたり、少し大胆になったりする。
徹と一緒にいるときの彼女は、いつもより素直だった。
「玄関まで見送ってくれて、ありがとう。これで今日も一日頑張れる!」
と言っている間にも、徹は靴を履き始めた。
「もしかして、外まで送ってくれるの?」
徹がうなずく。そして、楓の職場までと言った。
「うそ、ほんと?やった。朝からデートみたい」
楓は嬉しそうに笑い、玄関のドアを開けた。
二人並んで歩き始める。
楓は仕事の話をしたり、道端に咲いている花を見つけて立ち止まったり、とりとめのない会話を楽しんだ。
徹の腕に自分の腕を絡め、時折、顔を見上げて笑う。
「ねえ、徹。今日も帰ったら、いっぱいくっついていい?」
返事を聞くと、楓は満足そうに微笑んだ。
「約束ね」
その笑顔に、疑いも不安もなかった。
少なくとも、このときまでは。
やがて、二人は楓の勤務先である保育園の近くまでやって来た。
園舎の周囲には、子どもたちが描いた色鮮やかな絵や、季節の飾りが並んでいる。朝の園内からは、先生たちの声や、登園してくる子どもたちの元気な声が聞こえていた。
楓は保育園の入口へ目を向け、それから徹を見上げた。
「ここまで送ってくれてありがとう」
そう言って微笑む彼女は、先ほどまでの甘えた恋人の顔とは少し違っていた。これから子どもたちを迎える保育士としての、明るくしっかりした表情だ。
けれど、徹と別れるのはやっぱり寂しいらしい。
「……でも、まだ行きたくないな」
楓は小さくつぶやくと、徹の手を握った。
「ねえ、ちょっとだけ。こっち来て?」
彼女が向かったのは、保育園の入口から少し離れた場所だった。
園舎や道路からは死角になっている、小さな建物の陰。通りを歩く人からも目につきにくい場所だった。
そこで楓は立ち止まり、徹の胸元にそっと身を寄せた。
「……ここなら、誰にも見られないよね」
少し恥ずかしそうに笑いながら、彼女は顔を上げる。
「最後に、キスして?」
徹が応じると、楓は嬉しそうに目を閉じた。
二人の唇が重なる。
ほんの短いキスだった。
けれど、楓にとっては、それだけで十分だった。
唇が離れると、彼女は頬を赤くしながら、徹の胸元に顔をうずめた。
「……えへへ。やっぱり、徹が大好き」
もう一度だけ顔を上げ、今度は自分から頬にキスをする。
「よし。これでお仕事頑張れる!」
楓は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔には、徹への信頼と、恋人としての幸せがあふれていた。
「じゃあ、行ってくるね。徹もお休み、楽しんでね?」
数歩進んだところで、楓は振り返った。
「帰るとき連絡するから。待っててね!」
手を振る彼女に、徹も応じる。
楓はもう一度笑ってから、保育園の入口へと歩いていった。
その背中が園舎の中へ消える。
これで、朝の別れは終わったはずだった。
楓の姿が見えなくなってから、ほどなくして。
徹のもとへ、一人の女性がやって来た。
「徹くん!」
弾むような声とともに現れたのは、真白だった。
長い銀髪が朝の光を受けて柔らかく輝いている。アッシュブロンドにも見えるその髪には、白いヘアピンが交差するように留められていた。
アイボリーのオフショルダーニットに、グレーのチェック柄ミニスカート。黒いニーハイソックスとロングブーツを合わせ、肩には小さなチャームのついた黒いバッグを掛けている。
21歳の大学生らしい若々しさと、どこか人懐っこい愛らしさを持った女性だった。
真白は徹を見つけると、迷わず駆け寄ってきた。
「会いたかった!」
そのまま徹の腕に抱きつき、嬉しそうに顔を見上げる。
「えへへ。やっと二人きりだね」
真白は徹と楓が恋人同士であることを知っている。知った上で、徹と付き合っている。
彼女は徹の手を取ると、指を絡めるようにつないだ。
「ねえ、徹。さっきから、ずっとしたかったことがあるんだけど……」
少し上目遣いになり、いたずらっぽく微笑む。
「……キスして?」
徹が顔を近づけると、真白は嬉しそうに目を閉じた。
二人の唇が重なる。
それは、楓と別れたばかりの場所で交わされた、もうひとつのキスだった。
真白は唇が離れても、すぐには距離を取らなかった。
「……えへへ。大好き」
頬を赤くしながら、徹の胸元に寄り添う。
「もう一回、してもいい?」
彼女は返事を待つように顔を上げる。徹が応じると、真白は嬉しそうに微笑み、再び唇を重ねた。
銀色の髪が、朝の風に揺れる。
真白の表情には、恋人と一緒にいられる喜びが素直に表れていた。
「今日はいっぱい一緒にいようね。徹とデートできるの、楽しみにしてたんだから」
そう言って、彼女は徹の手を握り直した。
二人はそのまま、並んで歩き始める。
つないだ手を揺らしながら、真白は楽しそうに話し続けた。
映画のこと。カフェで食べたいケーキのこと。ほかにも一緒にいきたいところがたくさんあるということ。
徹の隣で笑う真白には、何の迷いもなかった。
自分たちの姿を、誰かが見ていたなどとは思いもしなかった。
そのころ。
園舎に入った楓は、教室で今日の活動の準備を進めていた。
「あっ、新しいクレヨン出さなきゃ」
楓はクレヨンを探しに教材置き場になっている部屋に入った。
ふと、徹がまだいるか気になった。
実はキスをしたあの場所は、園舎から死角になって見えないが、この部屋からだけ見えることを楓は知っていた。
そして。
その場所に、まだ徹がいた。
その隣には、見知らぬ女性がいる。
長い銀色の髪。白いヘアピン。アイボリーのニットに、チェック柄のスカート。
女性は徹に親しげに抱きついていた。
そして、顔を上げる。
徹も彼女へ顔を近づける。
二人の唇が重なった。
楓は、瞬きをすることさえ忘れた。
「…………え?」
声にならない声が、唇からこぼれた。
見間違いだろうか。
そう思って、もう一度目を凝らす。
けれど、そこにいるのは間違いなく徹だった。
ほんの数分前まで、自分とキスをしていた人。
「大好き」と伝えた相手。
帰ったらまた一緒に過ごそうと約束した、恋人だった。
その徹が、知らない女性とキスをしている。
しかも、楓とキスをしたのと、同じ場所で。
「……うそ」
ようやく出た声は、ひどく小さかった。
楓の指先から、すっと力が抜ける。
落としそうになったクレヨンの箱を握りしめ、目の前の光景を見つめ続けた。
女性は徹に寄り添い、幸せそうに笑っている。
徹も、その女性を拒んではいなかった。
むしろ、二人はごく自然に恋人同士のように振る舞っていた。
楓の知らない女性。
楓の知らない時間。
楓の知らない、徹の顔。
胸の奥が、じわじわと冷たくなっていく。
「……誰、あの人……?」
答えは、どこにもなかった。
徹と女性の声は、ここまではっきり聞こえない。
二人が何を話しているのか分からない。
ただ、女性が徹に甘えるように寄り添い、もう一度キスをしたことだけは、はっきりと見えてしまった。
楓は思わず、身を隠した。
本当は今すぐ駆けていって、問いただしたかった。
けれど、足が動かない。
「……どうして?」
胸の中で、何度も同じ言葉が繰り返される。
どうして、徹が。
どうして、今。
どうして、私とキスをした場所で。
ついさっきまでの幸せな時間が、頭の中で次々とよみがえる。
朝食を作ったこと。
徹がおいしいと言ってくれたこと。
玄関で抱きしめてもらったこと。
保育園の前で、誰にも見られないようにキスをしたこと。
そして、笑顔で手を振って別れたこと。
どれも、ついさっきまでの出来事だった。
楓は唇をかみしめた。
「……私、何も知らなかったの……?」
目の奥が熱くなる。
けれど、泣くことさえできなかった。
徹と一緒に過ごしていた朝には、こんなことが起きるなど想像もしていなかった。
彼はいつもどおりだった。
優しくて、自然で、恋人としての愛情を見せてくれた。
だからこそ、目の前の光景が信じられなかった。
もしかしたら、何か事情があるのかもしれない。
仕事の知り合いなのかもしれない。
自分が知らないだけで、説明できる理由があるのかもしれない。
楓は、必死にそう考えようとした。
けれど、あのキスを見てしまった以上、何もなかったことにはできなかった。
再び見ると、女性は徹の手を握り、楽しそうに歩き出した。
徹も、その隣を歩いていく。
二人の姿が少しずつ遠ざかる。
楓は、最後までその場から動けなかった。
やがて二人が見えなくなっても、彼女はしばらく、空っぽになった道を見つめていた。
「……徹」
名前を呼んでみる。
返事はない。
当たり前だった。
徹はもう、ここにはいないのだから。
楓はゆっくりと目を閉じた。
涙が一筋、頬を伝った。
「……私、何を信じたらいいの……?」
朝、あんなに幸せだった。
今日も帰ったら一緒に過ごせると、楽しみにしていた。
なのに、たった数分で、何もかも分からなくなってしまった。
楓は頬の涙を拭い、深く息を吸った。
子どもたちが待っている。
ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
いつもどおり、笑顔で仕事をしなければならない。
そう自分に言い聞かせ、楓は部屋から出ようとした。
けれど、ドアに手をかける直前、もう一度だけ振り返った。
徹と、あの女性がキスをしていた場所。
楓は小さくつぶやいた。
「……ちゃんと、聞かなきゃ」
その声には、まだ怒りよりも、悲しみと戸惑いが強くにじんでいた。
「徹に……何があったのか」
楓は唇をきゅっと結んだ。
知らない女性の名前も、徹との関係も、何ひとつ分からない。
それでも、確かめなければならなかった。
自分が見たものは、本当はいったい何だったのか。
そして、徹は自分に、何を隠しているのか。
その答えを聞くために。
楓は、いつもの保育士の笑顔を作り、教室のドアを開けた。
けれど、その笑顔の奥には、もう朝と同じ幸せはなかった。
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