第25話: 糸の始末
抜いた糸が指に絡み、ミラは鋏を置いた。
切れ端まで捨てたくないのは困る。灰の絹糸を親指からほどくと、今度は袖口の待ち針に引っかかった。
「君の服から先に片づけたらどうかな」
戸口のシリルが言った。手には返却の控えがある。
「これはまだ使います」
「その糸を?」
「針です。糸も、長いところなら」
シリルは台の隅に積まれた短い糸を見た。ミラも見た。さすがにここから先は針に通すほうが難しい。
戴冠から三日が過ぎていた。
式の翌日は寝て、起きたら夕方だった。昨日は道具を拭き、今日はようやく台の端まで手が届いた。王の紺を抱えていた仕立て枕は棚へ戻り、おがくずの乾いた匂いだけが近くに残っている。
窓から入る風は冷たかった。下の庭で荷車の輪が石を踏み、隣の広間ではこてを台へ戻す音がする。糸を載せた紙がめくれるので、ミラは巻尺の端で押さえた。
「使わなかった布は、持ち主へ返していいですか」
「イレーネが控えを持ってくるよ。親方のところへ戻す絹も一緒に確かめよう」
シリルは紙の束から一枚を抜いた。
「それと、式服の部屋の件。儀典長から処置の知らせが来た」
ミラの指が止まった。糸の箱を取り上げられた男の袖口を思い出した。
「繕い係の方は」
「点検からは外す。親方の下で補修をして、針を入れる前と後に見てもらう。独りで服を預かることは認めないそうだ。道具の箱も親方の預かりになった」
知らせには、御一着へ許しなく針を入れた件と記されていた。ミラはその下に書かれた処置まで読んだ。
「着て動くところも、見ていただきたいです」
「親方に伝えておこう」
ミラは絡んだ糸を短い山へ入れた。針を袖口から抜いて針山へ戻す。窓際の包みには返し先の札を重ねた。
まだ使う物と、もう使わない物が分かれていく。
部屋が空いたところへ、戸を叩く音が届いた。
エッケルトが上着を抱えていた。紺の肩を内へ潰さないよう、両腕に載せている。今日は槍がない。白く短い髪の下で、首はいつものように少し前へ出ていた。
「親方のところで、こちらも見てもらうようにと言われまして」
上着の前に紙の札が下がっていた。エッケルトの名が書いてある。返却の品を区別するためにつけ直した札らしかった。
「どこか引かれましたか」
「いえ。終わったあとも、脱ぐのを急がずに済みました」
ミラは台を空け、受け取った上着を広げた。喉の下へ当たる襟の縁にも、腕を出す側の袖にも、深いつれはない。
背に掌を差し入れた。平らに押さえなくても、首の下の丸みが手の上へ収まる。
「直すところはなさそうです。着ていただいて、もう一度確かめてもいいですか」
「その前にお願いがあるんです。この背を、元へ戻していただけませんか」
ミラは手の中の背を見た。
「元というと」
「ほかの兵と同じ長さへ。私に足してもらったところです」
エッケルトは紙の札を持ち上げた。紐が襟の留め具へ引っかかる。彼は引かず、指でよけてから下ろした。
「式が済めば宮へお返しする服です。詰所では次も私が立つと言われていましたが、決まるまでは、ほかの者も使えるようにしておくものかと」
札を離した手が襟の下へ行き、何も引き下ろさずに戻った。
「合わないところは、着る者が我慢すれば済むと思っていました。私もずっとそうしてきましたから」
ミラは返事をせず、紺を裏返した。
ゴドーの手で縫い納めた襟裏がある。糸の端は布の内に収まっていた。左袖は槍を握る腕の向きでつながり、脱いだ今も少し前を向いている。
これは、ようやく合った背だった。
「親方にも見ていただきます。まず、今のお体で確かめさせてください」
エッケルトは頷き、上着へ腕を通した。
前を留めてもらうと、襟は首の下に収まった。槍を持つ高さへ手を上げる。左の袖は肘について回る。背の布はその動きを受けても、襟を持ち上げなかった。
ミラは肩へ触れる許しを得て、縫い目に指を添えた。
「息を吸っていただけますか」
シャツの上に残る温かさが、紺を通って指へ返った。
「今も苦しくないですね」
「はい。よく合っています」
そう言う人が、この背をほどいてほしいと頼んでいる。
ミラは針山へ向かいかけた手を下ろした。
ゴドーは返し先の札を持って小部屋へ来た。台へ札を置こうとした腕が途中で止まり、左肩が少し上がった。親方は近くへ寄って手を伸ばし直した。
「話は聞いた。着せたか」
「はい。背も袖も合っています」
親方はエッケルトの後ろへ回った。首の下から背を撫で、裾の落ちる位置まで見る。
「腕を下ろせ。もう一度出してみろ」
袖が動いた。ゴドーは裏まで確かめてから手を離した。
「元の背を残してあると思ったか。これは別の布で裁ち直したんだ」
「少し切り詰めれば済むのかと」
「肩も袖も外す。襟の位置も変わる。次の者を測らんで切れば、そいつにも合わん」
エッケルトの指が前の留め具へ下りた。外しかけて、まだ留めたままにする。
ミラは台に残った返却札を見た。宮へ戻すことと、形を戻すことは違う。けれど紙に名があるだけでは、返したあとも同じ人が着るのか、本人にはわからない。
イレーネが布の控えを持って入ってきたのは、そのときだった。
「先に式服の返却を記します。着用者はこちらで間違いありませんか」
ゴドーが頷くと、彼女は札の名を書き写した。鉄色の上着の袖が紙の端を越えた。インクのついた指で角を押さえる。
「納めたときの控えにも、この方への補正があります。同じ大きさの在庫へ混ぜるのですか」
「混ぜん。背の紙と合わせて残す」
ゴドーは台へ札を置いた。
「紙は次に渡すとき外す。内側にも名を残す布をつけておけ。棚で札が取れても、服と名が離れんようにな」
ミラは灰の絹の端を引き寄せた。爪にほとんど抵抗を返さず、薄い布が滑ってくる。
「これなら肌側に当たっても硬くなりません。名は墨で書いて、乾いてから——」
そこまで言って、エッケルトへ目を戻した。
彼は上着を脱いでいなかった。
「次も私に、ということですか」
「次の儀仗は、どなたが務めるんですか」
ミラが訊くと、エッケルトは戸のほうへ目を向けた。
「まだ詰所では決まっていません。戴冠の前には私が、と言われていましたが」
シリルが持っていた紙を揃えた。
「次の役は詰所で確かめていただこう。服は儀典長の部屋へ戻す。エッケルト殿に合わせた一着として、この控えを添えるよ」
イレーネは筆を持ったまま待っていた。ゴドーも針を取らない。
廊下で歩く人の靴音が遠ざかった。エッケルトの手が、外しかけた留め具に触れた。
「役が替わったら、私の名を外して渡すものだと思っていました。背まで替えたと聞いたので、返す前に頼んでおかないと」
彼の指は留め具から離れた。背の上が丸くなっても襟は上がらない。ミラには、その位置で楽に動く首が見えた。
「次の方が着るなら、その方の背を測ります」
ミラは灰の絹を台へ置いた。
「今はエッケルトさんに合っています。短くしたら、また喉に当たります。どなたが着るか決まる前に、ここをほどくことはできません」
エッケルトの口が少し開いた。
返却札へ伸ばした指が、台の手前で止まっている。ミラは札を渡さず、その人が脱ぐまで待った。
しばらくして留め具が外れた。片袖ずつ腕を抜くと、エッケルトは胸の布を両手に載せた。
「詰所へ戻ったら、次の役を確かめてきます」
上着を台へ下ろしてから、彼は言葉を足した。
「その前にここへ来るように、若い者にも言っておきます。服を着てから、槍を持って」
ミラは背を受け取った。腕から渡された紺に、まだ体温がある。
「それなら、袖の向きまで見られます」
イレーネの筆が紙をこすった。ゴドーは台の端に退き、返し先を待っている布へ手を戻した。
ミラは灰の端を小さく裁った。縁を折り込んで、ほつれた糸が肌に触れないようにする。イレーネに借りた筆で名を書こうとすると、エッケルトが手を上げた。
「自分で書いても、よろしいですか」
筆を渡した。
太い指が細い柄を握った。初めの字が少し滲む。彼はそこで急がず、布の端に触れないよう掌を浮かせた。
エッケルト。
書いた本人が、傾いた最後の字をしばらく見ていた。筆の先から墨が落ちそうになり、イレーネが硯を近くへ寄せた。
「もう少し、小さく書いたほうがよかったでしょうか」
「縁を縫うところは空いています。このまま縫えます」
ミラは指で周りの幅を示した。エッケルトは筆を置いたが、布を台の奥へ押しやらなかった。袖が触れないところまで、自分の腕を引いた。
墨が乾く間、ミラはイレーネへ袋の布を示した。王の胸の内側で物入れになった分は、染め屋の札の下へ書き留められている。台には白い筋の残った端があった。
「ここまで染めが乗り切っていません。でも、織り目は傷んでいないので、袋にも使えました。口は折り返して、手を入れても端の糸に引っかからないように」
端を折って指を差し入れると、イレーネは帳面から顔を上げた。ミラの指が布の中を通るところまで見てから頷く。
「そこは書き足しておきます。あとで伺うと言ったお話ですから」
イレーネの鉄色の右袖が台へ触れた。彼女が書いている間に、廊下ではガレスの右腕へ返却の包みが載り、トビアスが次の包みを抱えた。戸口の向こうで荷の紐が擦れた。
台の上の名は、まだ黒く光っていた。
ミラは針山から細い針を抜き、朝に分けておいた糸をつまんだ。名の縁を一周するには足りない。長いところを選びかけて、箱から新しい絹糸を取った。
「そんなに長く切るんですか」
エッケルトの目が糸を追っていた。
「途中で継ぐと、結び目が増えます。脱ぐときに指が引っかからないように」
針へ通すと、糸はつまずかずに抜けた。ミラはその端を指に巻き、墨の光が消えるのを待った。
ゴドーが戸口へ繕い係を呼んだ。箱は親方が持っていた。男が台へ近づいても、蓋はまだ開かれない。
「縫う場所を先に見ていただけますか」
男はミラへ訊いた。ミラは灰の布を上着の内側へ当て、エッケルトの胸に重ねて位置を確かめた。肩や袖を動かしても引かれないところだった。
ゴドーが頷いて箱を開ける。ミラは糸を通した針を男へ渡し、自分は布を持った。補修を親方に見てもらうのなら、着る人がいるうちに、縫う前と後を確かめられる。
「この縁だけです。下の布を引かないようにお願いします」
浅い針が入った。ミラは絹の端を持ち、糸が引かれるたびに爪の下を確かめた。男は角で手を止め、ゴドーに見せてから先へ進んだ。
縫い終えた布は平らだった。ゴドーが裏まで確かめ、男が返した針をミラの針山へ戻した。箱の蓋も閉じる。
エッケルトが上着へ腕を通す。腕を出しても名の布は寄らず、角にも指がかからない。ミラは針山を台の端へ寄せた。
上着を脱いだエッケルトが、前を開いて内側を見た。自分で書いた名へ指を添える。縁をひと撫でして、胸の布を台へ下ろした。
「私の名が見えるように、畳んでいただけますか」
ミラは上着の前を内側へ折った。灰の小布が隠れかけたので、折る位置を変えた。片方の袖を収め、もう片方は前へついた向きのまま重ねる。
背の丸みを潰さないように手を抜くと、名が上へ残った。
「これで、お預けします」
エッケルトは覆いの麻を自分で取った。すぐにはかけず、傾いた最後の字を見てから紺を包んだ。
ゴドーが受け取り、繕い係を連れて部屋を出た。エッケルトも戸口へ向かった。
「詰所で確かめてきます。次も私なら、この上着を出してもらいます」
「着る前に寄ってください。槍を持つところまで見ます」
エッケルトは頷いた。その足音は、上着を運ぶ親方とは別の廊下へ曲がっていった。
台の上に落ちていた糸をミラは拾った。名の布の縁から出た短い端だった。さっき針へ通そうとした糸と一緒に紙へ包む。今度は長いところを探さなかった。
イレーネの帳面も閉じられ、返し先の札をつけた布が運ばれていく。台の端まで、拭く手が届いた。
ゴドーが戻ってきて、戸の外から声をかけた。
「嬢ちゃん。その道具を片づけきるな。明日は俺の袖だ」
ミラは親方の左肩を見た。戸口へ手をかけるときも、袖がつっかえている。
「朝に着てきてください。腕を前へ出すところから見ます」
「縫う仕事もある。朝のうちに返せ」
「合うまでです」
親方は戸の縁から手を離した。今度は腕を大きく伸ばさず、体ごと向き直って廊下へ出た。
シリルが返却の控えを取った。丸椅子を台へ寄せ、まだ広いままの板を見た。
「ずいぶん片づいたね」
「はい。これで布を広げられます」
「明日の親方のために?」
ミラは手を洗い、よく拭いてから巻尺を広げた。布を押さえていた端にも墨はついていない。丸めて針山の隣へ置く。
「この台なら、袖を落とさずに見られます」
糸切り鋏の刃を拭き、閉じた。利き手側へ置いてみると、座ったまま指が届いた。ミラは椅子を少しだけ近づけた。
上着を返した台に、明日ほどく袖の場所が空いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
戴冠が済んだ工房を考えていたら、服を返す場所が気になりました。預けるときの札はあっても、その後はどうしまうのか。棚を想像しているうちに、エッケルトが上着を抱えて戸口へ来るところから書きたくなりました。今回は服を一着増やすより、手元にある一着をどこへ戻すかを考える時間が長かったです。
名前を書くのも、最初はミラに任せるつもりでした。筆を用意したところで、エッケルト本人に持ってもらう場面が浮かびました。布に墨で書くのは紙より難しそうで、字をきれいに揃えるか少し迷いましたが、傾いたまま残しました。
片づけの途中でも、ミラは短い糸を惜しみます。書きながら自分もなかなか工房を離れられず、最後に明日の袖の場所を空けて、ようやく手を止めました。次回は一巻の最後の話です。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマークや感想も、続きを書く励みになります。




