第26話: まだ渡せない一着
ほどいた袖の内側で、親方の手首が初めて台の奥まで届いた。
ミラは布をつまんだまま、腕を戻してもらった。肩から肘へ走っていた皺が浅くなる。待ち針で留め直した袖はねじれなかった。
「針も持ってみる」
ゴドーは針山から針を取り、布の端へひと目通した。左肩を持ち上げずに糸を抜ける。もうひと目縫いかけたので、ミラは袖のつけ根を押さえた。
「その針を戻してくだされば、縫えます」
「……そうだったな」
戴冠から四日目の朝だった。昨日空けた台に、今日は親方の左袖が載っている。隣の大広間からは裁ち鋏の音が続いていた。
上着を脱いだ親方は丸椅子へ座った。戸のほうを見ながらも、縫い終わるまで席を離れなかった。
裏の布まで戻して着てもらうと、彼は鋏を台の遠い端へ置いた。そこへもう一度手を伸ばす。
「こっちへ置いておけるな」
袖を引かずに戸を開け、大広間へ戻っていった。
ミラは肩の図へ袖の向きを書き添えた。廊下では冬の上着を預けたいという声がする。帳面の次の頁を空け、椅子を台の前へ戻した。
昼過ぎ、シリルが持ってきた包みは小さかった。
ミラは外の麻を指で撫でた。中の布が滑り、紐の下でかすかに鳴る。
「絹ですか」
「君には挨拶より先に、それがわかるんだね」
「失礼しました。こんにちは。絹ですか」
「こんにちは。絹だよ」
紐をほどくと、薄い海の色が出てきた。指を入れると冷たい布が掌へ吸いつく。
「カルディアの見本だ。使節の取次をする部屋から、今朝届いた」
ミラは端を光へ向けた。前に採寸を中断して抱えた絹より薄い。指で押したところだけ艶が白く立った。
「これ、重ねても暗くならない。裏へ薄い麻を入れたら、汗を吸わせられる。絹を直に肌へ当てなくても、この艶が残るんだ。あ、でも袖は——」
腕へ巻こうとして、足りなかった。
見本は掌を覆うほどしかない。宙へ出した肘を戻すと、シリルが笑いをこらえて肩を揺らした。
「続きを言っていいよ。布を大きくするのは難しいけど」
「……失礼しました。もっと触れるかと思って」
「一反あったら、私は今日も待たされるところだったね」
彼は絹の脇へ書きつけを置いた。ミラの指に布の端が絡んだままなので、読めるところへ紙を寄せてくれる。
「来春、カルディアへ使節を送る相談が始まっている。礼装を贈りたいそうだ。これは、その布を選ぶために借りた見本だよ。返事と一緒に私から返す」
「着る方は、来られますか」
「海の向こうへ贈るんだよ」
ミラは書きつけを読んだ。国の名と色の話はあるが、着る人の名が見つからない。
「この色を、どなたの肩へ載せるんでしょう」
「それを決めるところからだね。贈り物を受ける方と、着る方が同じかも確かめる」
「先に裁つと、足りなくなります。肩の高さが違えば、片側は余っても、もう片側には布が要るので」
見本を包みへ戻す。折った跡を撫でると、絹はすぐ平らになった。知らない肩へ合わせて鋏を入れれば、この薄さでは継いだところが透ける。
「きれいです。これを、合わない肩にしたくありません」
シリルは紙へ目を戻した。
「使節に職人が同行できるか、訊いてみよう。先方で測り、仮縫いまでできれば違うね」
「では、あたしが行くんですか」
「引き受けるなら。まだ、君を船に乗せると決まったわけではないよ」
この絹を織った人にも会えるだろうか。掌ほどの見本を前に、ミラは反物の端まで触ってみたくなった。けれど船の上へ裁ち台は持ち込めるのか。麻で組んだ服を、揺れるところで着せられるのか。
「着合わせは、着いてからですね。布を濡らさずに運べますか」
「まず君の心配かと思ったんだけどね」
シリルが額に指を当てた。もう片方の手で、絹を包む麻の端をよけている。
船には乗ったことがない。岸が見えなくなる海を想像すると、台の縁へ寄りかかりたくなった。それでも見本は、傷まずにここまで届いている。どんな包みで運んだのか、まず聞いておこうと思った。
「シリルさんも、行かれますか」
「私が?」
「先方がどこで着る服なのか、あたしが聞き違えたら困ります。今だって、色の話だけかと思っていました」
「取次の人にも相談できるよ」
ミラは紐を持ったまま彼を見た。布のことを話しているつもりでも、着る人に届かないことがある。彼なら途中で気づいてくれる。それだけなら、ほかの人を頼めばいいのかもしれない。
「シリルさんには、あたしの言葉が通じます」
言ってから紐へ目を下げた。彼が一緒に行くかどうかは、まだ聞けていない。結ばずに待っていると、シリルは額から手を下ろした。
「私も行けるように考えておくよ」
引いた紐が指へ食い込んだ。強く締めすぎたので、ミラは結び直した。
見本を棚へ戻しても、シリルは台の前に残っていた。
ミラが採寸帳を開くと、初夏に測った彼の肩の図が出てきた。今の上着では、その肩が引っかからずに動く。台の端へ肘をつく腕と一緒に、布が前へ滑った。
「今の上着で、困るところはありませんか」
「ないよ。君に直してもらってから、随分楽になった」
ミラは図の端へ指を置いた。組み直したのは既製の上着だった。初めからこの肩のために裁てば、背も前の合わせも、もっと自由に決められる。
「次は、一から作らせていただけませんか」
「私の上着を?」
「はい。シリルさんの寸法で、布を裁つところから」
彼は肘を台から離した。
「総監督の礼装なら、この上着で十分だよ。次の式までに増やす必要もない」
「式に着るものをお望みですか」
「……何を着たいか、という話かい」
「どこで着るかで、布が変わります」
シリルは自分の袖口を見た。ミラが棚へ目を向けても、答えはすぐには来なかった。冷えはじめた朝なら毛織がいい。けれど着る日がわからなければ、厚さも決められない。
「人に会わない日に着る上着なら、ある。出来合いだけどね。窓のそばで紙を読むくらいだ。冷えたら膝にも何か掛ける」
「お部屋で着るものですね」
「誰に見せるわけでもないよ」
彼は長上着の前を閉じた。ミラには、窓辺で紙を読むたび袖へ手を引っ込めるところが浮かんだ。肩の返りを直した上着は脱いでいて、その日にはまだ手を出せていない。
丸椅子へ座り、膝へ手を下ろしてみた。背が丸くなり、作業着の肩が少し前へ動く。
「立って測っただけでは、座ると背が引かれます。紙へ手を伸ばしたら、袖も上がる。そのたびに掛けた布を戻すんでしょうか」
「寒ければね。皆、そうしているんじゃないかな」
ミラは椅子から立った。柔らかい毛織を棚から取り、自分の肩へ当てる。前を押さえていた掌を離すと、布は腕に沿って下りた。
「誰にも会わない日のシリルさんにも、最高の一着が要ります」
毛織を彼の手の届くところへ置いた。
「首の後ろまで包めます。襟を高く立てなくても暖かいです。重さが気になれば、別の布を探します」
長い指が端に触れた。摘ままずに掌を載せ、ゆっくり撫でる。
「私が休んでいる日の服まで、君は測るんだね」
「着ていただく日なので」
シリルの口元がゆるんだ。何か言いかけた唇を閉じて、今度は毛織を少し持ち上げる。
「これで頼みたい。代金は私のものから払う。宮の帳簿には入れないでほしい」
「先にお値段を出します。長さを決めてからでよろしいですか」
「ああ。それから、飾りは要らない。留め具は自分で扱いやすいものを」
ミラは余白へ書き留めた。いつものように誰かの注文を取り次ぐ声ではなかった。留め具の形を確かめるように、彼の指が自分の胸の前で動いた。
「今から、測ってくれるかな」
ミラが巻尺を取ると、シリルは上着のボタンを外した。
シャツの肩へ触れる許しを得て、ミラは巻尺を沿わせた。
初めて測った日は、胸を回す間に息を止めていた。今日は、巻尺を当てる前に彼が息を吐く。指の下の肩は温かかった。
立った姿の寸法を採寸帳へ写し、丸椅子へ座ってもらった。シリルは背をまっすぐ保っている。膝の上の指も揃っていた。
「お部屋では、何をなさっていますか」
「書類を読むことが多いね」
「では、この紙を。さっきの相談ですけど」
台に残してあった書きつけを渡した。文字を追ううちに彼の顔が下がり、肘が体の脇へ寄る。
首の後ろへ巻尺を添えると、立っていたときより背が丸くなっていた。
「……あ。こっちだ。読むときには、ここまで布が要る」
目盛りを押さえたまま、もう一度肩へ指を置こうとした。シリルが顔を上げたので、ミラは巻尺を少し浮かせた。
「すみません。この姿勢でもう一度、触れていいですか」
「このままで?」
「はい。そのままで」
彼は書きつけへ顔を戻した。巻尺を背の丸みに沿わせ、紙を持つ腕も測る。肘を曲げているぶん、袖の後ろには長さが要った。
「紙を読むときも、袖口が手首を覆うようにします」
「それなら、片手を袖にしまわずに読めるね」
採寸帳へ座った背の図を添えた。椅子の脇へ帳面を置くと、シリルが覗き込んだ。
「これは私かい」
「さっき、お読みになっていたときです」
彼は紙を膝へ伏せた。顎が上がり、シャツの背がまたまっすぐになる。
「崩れていたんだね。もう一度測るなら——」
「そちらも測りました。立っているときの図です」
初夏の隣に今日の肩がある。ミラは頁を彼のほうへ向けた。座った図もそのまま見えるようにして、新しい紙を広げる。
シリルは図から目を離さなかった。
ミラの筆は座った背の長さから進んだ。肩の下に布を残す線を引くと、彼が椅子を鳴らした。立ち上がって台の向こうへ回ろうとしている。
「布を押さえようか」
「今日は、そちらでお待ちください」
椅子を示すと、彼は台へ差し出していた手を自分のほうへ戻した。
「何もしないで?」
「着る方のお体が要ります。まだ、裾を決めていません」
シリルは座り直した。膝に紙を載せても、背はさっきよりまっすぐだった。ミラは筆を置き、試しの麻を取った。
「お膝へ載せてもいいですか」
「どうぞ」
麻を膝に広げ、椅子の端へ挟まらないところで折る。指が隠れない位置まで縁を戻し、待ち針で留めた。
そのときシリルが台の紙へ腕を伸ばした。麻が持ち上がり、膝が出る。
「すまない。取ってからにするよ」
「そのままで。紙を取るときにも着る服ですから」
待ち針を抜き、布を送る。手を膝へ戻してもらって折り直した。腕を出すと、今度は麻が膝を覆ったまま動く。
ミラはもう少し背の布も増やしたくなった。座った図へ目を戻し、巻尺を手に取る。彼の膝に置かれた指が麻を軽く握っていた。
「シリルさん。紙を読んでいたときの背を、もう一度測れますか」
「……ミラ」
呼ばれて顔を上げた。
彼は巻尺を見ていた。それから引き出しへ目をやった。ヴェラの型紙がしまってあるところだった。
「いつか、君に——」
続きはなかった。
ミラも引き出しを見た。中の紙には着る人の名がなく、襟と肩の線が途中で途切れている。ニルス爺さんに見せたときは、顔色を変えて、人に見せるなと止められた。シリルもあの線には触れなかった。
型紙のことだろうか。訊きたかった。ここで聞けば、何か教えてもらえるのかもしれない。
けれどシリルは、麻を握っていた指を開いた。膝へ平らに置き、書きつけをもう一度持つ。
「今日は、この服を頼むよ」
「はい」
ミラは椅子の後ろへ回った。書きつけへ下がる顔を見てから、巻尺を添える。背の丸みを押し戻さず、腰まで下ろした。
さっきと同じ長さだった。採寸帳の座った図へ印を添え、新しい紙の背を広げる。毛織を裁つときにも、この分を残す。
「お部屋で眠くなったら、もう少し丸くなるかもしれません。仮縫いでそこも見ます」
「眠っているところまで測るのかい」
「起きていただきます。針がついていますから」
シリルが短く笑った。紙を膝へ戻すと、背は丸いままだった。
ミラは裾の折り目を写し、麻から待ち針を抜いた。彼が立ったところへ上着を差し出す。腕を通して前を留めるまで、巻尺は台へ置いておいた。
「明後日の朝、仮縫いをします。麻を糸で組んで、着ていただくところまで。来られますか」
「午後には会議がある。朝なら」
「では、朝に。お値段もそのときにお伝えします」
彼は棚から見本の包みを取った。
「返事を書く間、預かるよ。この紙も」
「端を引っかけないでくださいね」
「君が気にするのは、そちらか」
書きつけを脇へ挟もうとして、包みが少し潰れた。ミラが麻の角を起こすと、彼は紙を手へ持ち替えた。絹を押さえつけない抱え方になる。
戸口で、シリルは椅子へ目を戻した。
「明後日も、そこかな」
「はい。そこに座って着ていただきます」
彼が出ていくと、ミラは椅子を片づけずに台へ戻った。
座った背の長さを新しい紙で確かめる。裾まで引き終えたあと、毛織を巻き戻した。試しの麻で合うまで、本番の布には鋏を入れない。
シリルは自室で長上着を脱ぎ、肩から椅子の背へ掛けた。
机で見本の紐をほどく。薄い青を麻の上へ広げ、カルディアへの返事を書いた。まず、礼装を着る人を知らせてほしい。会って測れるかどうかは、その返事を待って相談する。
相手の名を空けておくと、今日のミラが見本を包み直した手つきを思い出した。美しい絹だけでは、あの手は鋏へ行かない。
ペンを置いて膝へ手を下ろした。布はない。昼に麻を載せられたときの折り目が、まだ腿の上に浮かぶようだった。
椅子の向こうで、彼女は待ち針を抜いていた。腕を戻そうとした自分には戻させず、布のほうを動かした。背を伸ばしても、丸い背の図は消さなかった。
初めて測られた日に息を止めたのは、巻尺が冷たかったからではない。自分のために測られることに慣れていなかった。今日も椅子を離れかけた。何か持つ役を貰えば、あの台の前へいられる気がした。
彼女に要るのは、座って紙を読むときの背だった。
シリルは机の紙へ手を伸ばした。肘が体の脇へ寄り、顔が下がる。あの図に描かれた姿勢になる。背を戻さず、書き終えた返事を読んだ。
明後日には、ここへ袖がつく。紙を読むたび片手を引っ込めなくていい。今まで使っていた膝掛けを、椅子の脇へ畳んでおけるかもしれない。
その上着を頼んだとき、もう一つ頼みたくなった。
ミラの引き出しにある、名のない型紙だった。
高く立ち上がって途中で途切れる襟の線は、今も目を閉じれば見える。紙へ触れずに引いた指を、机の上で開いた。昼には言いかけただけで、先へ進めなかった。宮から消えた一着の話をすれば、彼女はあの紙を広げるだろう。
誰が着るのか。どこで着るのか。
窓辺の上着に答えたようには、まだ答えられない。絹の見本の縁へ触れると、指に軽く絡んだ。布を破らないよう、麻の上へそっと戻す。
「まだ渡せない一着がある」
机の前へ座り直した。返事の下書きを脇へ寄せ、明後日の朝にほかの約束がないことを予定の紙で確かめた。
ミラに言えなかったことを、仮縫いの日までに言えるとは思わない。それでも、あの背に合わせた服は欲しかった。見せる相手はいない。着たいと思ったのは自分だった。
朝の予定へ、仮縫いと書き入れる。持っていく書類を添える欄は空けたままにした。
明後日は、何も持たずにあの椅子へ座りに行く。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これで一巻の最後の話です。戴冠式が済んだら、ミラの工房から少し離れた場所で締めようかとも考えました。でも、最後に書きたくなったのは、また誰かの膝へ布を置くところでした。大きな仕事を終えても、次の服の長さが気になってしまう。あの手を止める場所は、なかなか見つかりません。
今回は、シリルの椅子をどこへ置くかで迷いました。台の向こうへ行く姿はすぐ浮かぶのに、座って待ってもらおうとすると、こちらまで落ち着かなくなります。晴れの場に出る予定のない自分には、どんな一着を頼むだろう。そんなことを考えながら書いた回でした。
初夏から秋まで、ミラの仕事にお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。海の向こうの布も、引き出しの古い紙も、まだ気になっています。ブックマークや評価、ご感想をいただけたら、次の一着を書く励みになります。




