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採寸狂のお針子は、最高の一着しか縫わない  作者: 歩人


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24/26

第24話: 僕が立つのを

 紺の袖口を指で挟むと、縁はまっすぐに揃っていた。


 聖シルヴァ大聖堂の控えの間には、窓から秋の光が入っていた。宮の門を出た馬車は、店の並ぶ通りを抜けてきた。ここまで人々は道の両側で王の名を呼んだ。戸を閉めた今も、遠くにその声が聞こえる。


 ミラはレウベンの袖口から手を離した。馬車を降りて歩いたあとの裾にも、直すところはない。


 王は椅子の前に立っていた。明るい栗色の髪の下で、目だけが戸のほうへ動く。向こうでは席につく人々の足音が重なっていた。


「座って待っていても、いいかな」


「はい。座れるように縫ってあります」


 レウベンは小さく息をこぼし、椅子へ腰を下ろした。紺が膝の上へ流れる。背の布も椅子に沿い、襟は首の付け根に収まったままだった。


 ミラは正面へ回った。巻尺には手をかけなかった。着る人が落ち着くまで、縫い終えた服を触り続ける用はない。


 膝の上の手が重なり、親指だけが動いている。


「人が、大勢いるね」


「はい。後ろの席まで埋まっているそうです」


「僕の声、そこまで聞こえるかな」


「まだ中へ入っていないので、あたしにはわかりません」


 王の親指が止まり、ミラの顔へ目が戻った。


「君はそう言うね。大丈夫だよって、言わない」


「聞いていないことは言えません。喉が苦しくないかなら、お訊きできます」


「今は苦しくない。ここに座っていると、普通に話せる」


 膝の上で、王の手が重なり直した。


「父上が亡くなってから、三年も王をやっているのに。冠を受けるだけで、こんなに落ち着かなくなるんだね」


「着たままで座れますし、立つのも確かめました。裾を気にして、歩幅を変える必要もありません」


「そこは、君に任せていいんだね」


「はい。着ていただくところまで、あたしの仕事です」


 戸の外から、長い杖が床を打つ音がした。王の目が落ちた。ミラはすぐそばで、紺の肩の丸みを見た。首の前が窮屈になるほどは、まだ顔を下げていない。


「顔を上げてください。——その肩は、もう、下を向くようにはできていません」


 戸の向こうへ届かない声で言った。


 縫った肩のことではなかった。採寸帳に書き足した、今のこの人の肩のことだった。初夏から今日まで、この人が過ごしてきた三ヶ月ぶんの肩だ。


 レウベンが目を上げる。ミラは肩を押さず、襟にも触れなかった。


「苦しくなったら、教えてください」


「……うん」


 王の手がほどけた。片方の掌を膝に置き、椅子から腰を上げる。ミラが後ろへ引くより先に、裾が足の脇へ戻った。


 シリルが戸を開けた。


「皆、待っています。陛下のお姿が見える席で」


 シリルは戸の脇へ退いた。レウベンが椅子の背へ触れ、すぐ手を離す。


「君はどこにいるの、ミラ」


「壇の横の柱のそばです。服を見られるところへ」


「そう。……わかった」


 シリルは王が戸へ向き直るのを待った。


「陛下。お時間です」


 レウベンはシリルへ頷いた。


「行こう、監督」


 レウベンは自分で留め具に触れ、一歩を踏み出した。



 大聖堂の中は、控えの間よりひんやりしていた。


 高い窓からの光が通路へ落ち、石の継ぎ目を白くしている。ミラはシリルに連れられて脇の通路へ入った。仕立ての者が控える場所は、壇の横から少し離れた柱のそばだった。声をかけるには遠い。王の肩を見るには、ちょうどよかった。


 通路を横切る手前で、見覚えのある紺が目に入った。


 ガレスが騎士たちの列にいた。右肩には厚みがあり、左の空袖は胸へ折り留めず、脇に沿って下りている。袖の重みを支える胸の布が、彼の歩幅に合わせて動いた。


 目が合うと、ガレスは右手で襟元を軽く押さえた。


「お針子さん。今日は見てるだけか」


「そうだといいです」


「なら、俺もそう願っとく」


 ガレスは壇へ目を向けた。右手が襟から下りる。


 列の先から騎士が合図をした。ガレスは右手を上げて返す。


「陛下が出てくるまで、ここで待っとく」


 ガレスは列へ戻った。その空袖が石の明るいところを通った。ミラは曲がり角に消えるまで見送り、足を進めた。


 官吏の席にはイレーネがいた。鉄色の上着の肩は、飾りで張り出していない。彼女の肩の幅で止まっている。隣の官吏から受け取った紙を開くとき、背に細い皺が寄り、腕を下ろすと消えた。


 イレーネは紙の端を揃え、ミラへ一度頷いた。ミラも頭を下げる。


「お針子さん。納まりましたか」


「はい。陛下に着ていただいています」


 紙を持つイレーネの指にインクが残っていた。


「では、ここから見ます。帳面の上で受け取った布ですから、どんな一着になったかまで」


「ここからは内側が見えません。表は紺の一反で、袋には白い筋の——」


 口を止めた。イレーネは紙を膝へ下ろしていた。


「そこはあとで伺います。今は陛下が着ているところを」


「……はい」


 あの一反は、もう王の肩にある。ミラも壇のほうを見た。


 柱の近くでシリルが歩みを緩めた。


「組合の席からも見えるようにしてもらったよ。布を持ち寄った人たちにも、招待状を届けてある」


 彼の目の先に、トビアスが立っていた。


 手を前で重ねているせいか、いつもの作業場より体が大きく見えた。きれいに洗った上着の袖口には継ぎがある。ネリが縫った跡だった。指を揃えるたびに、その小さな縫い目も動く。


 ミラに気づいたトビアスは、半分だけ手を上げ、周りを見てすぐ下ろした。ミラは口元が緩むのを抑えられなかった。


 あの手で台に足す板の角を削ってくれた。鋏を入れる間も、布の端をまっすぐ張って持ってくれた。


 シリルがトビアスへ会釈すると、彼は柱を避けて半歩だけ近づいた。


「……出来たんだな。あの台で裁った布が」


「はい。最後まで、引っかかりませんでした」


「なら、よかった。……あそこまで、よう見える」


 太い指が壇を指しかけて下りた。ミラはその指より先に袖口の継ぎを見てしまう。


「その縫い目も、ここから見えます」


「これか。洗って来たんだが、継ぎは残るからな」


「外さなくていいです。ちゃんと留まっています」


 トビアスは袖口を返し、指で小さな縫い目を押さえた。


「……ああ。わしも、これで来たかった」


 今は何も持っていない両手を、もう一度前へ揃えている。トビアスは組合の席の後ろへ戻り、奥の柱のそばに立った。


 ミラも道具の包みを柱の脇に置いた。


 ゴドーは隣の柱の向こうにいた。兵や侍従の一式を納めた親方は、式服の列を見渡していた。誰かが腕を動かすたびに顎をわずかに巡らせる。ミラには何も言わなかった。


 壇へ上がる段の脇で、槍の先が光った。


 エッケルトだった。首は少し前へ出ている。上着の背はその首の下まで届き、襟が喉を押し上げていなかった。彼は槍を握り直した。左の袖が肘と一緒に前へ回り、裾は腰の下に留まった。


 ミラは段の手前へ進んだ。エッケルトと目が合う。彼は石突を動かさず、口元だけで小さく笑った。


「このまま、式の終わりまで立てます」


「長くなります。苦しくなったら、教えてください」


「今はどこも。腕も、あのときと同じところまで出ます」


 槍を握る左の肘が少し曲がった。袖はねじれなかった。


「親方にも見えているといいんですが」


「見ておられます。すぐそこの柱から」


 エッケルトはそちらへ一度だけ頭を向けた。それから壇の前へ目を戻す。


 石突が床につく。胸がゆっくり膨らんだ。


 ミラは自分の胸でも息を吸った。ゴドーの指が縫い直していた襟の裏は、ここからでは見えない。けれど、あの兵は槍を持ったまま息ができる。


 ミラは柱のそばへ戻った。奥から侍従が冠を運んできた。片側の肩が低い人だった。両手を前へ出した姿に合わせた肩の縫い目が、首へずり上がらずに載っている。盆は傾かない。侍従は段の上で足を止め、冠を受け取る神官の前へ進んだ。


 段を上がり、神官へ渡すまで、冠は盆の上で一度も揺れなかった。


 誰も服を引き下ろさなかった。


 ミラは壇の前の、まだ誰も立っていない場所を見た。段の向こうには儀典長が控え、杖を床についたまま扉へ目を向けている。


「君はここで見られるね」


 シリルがミラの隣へ戻った。


「はい。でも、手は届きません」


「道具を置いてもいいよ」


「置きました。……さっき」


 足元の包みへ目を落とす。自分で置いたのに、肘を伸ばすと包みを落としそうで、腕を下ろしきれなかった。


 シリルは包みを柱の陰へ少し寄せ、自分も両手を下ろした。


「私はここにいる。君が席を探して歩く必要もない」


「それなら、陛下を見ていられます」


 ミラは指を伸ばした。扉の前で役人が左右へ分かれた。



 扉が開いた。


 座っていた人々が立ち上がる音が、大聖堂の奥まで続いた。


 レウベンが通路へ入ってくる。金糸の細い縁が、窓の下を通るたびに明るく見えた。その下の紺は深いままだった。胸を大きく見せる飾りも、肩を高くする厚い詰め物もない。


 彼はいつもの歩幅で歩いていた。


 ミラの前を通るとき、左手が少し揺れた。朝に指を差し入れた肩の内側も腕について滑り、襟を引き上げなかった。


 王が段の前で止まった。


 エッケルトの槍がまっすぐ立っている。その脇を、紺の裾が通った。


 段を上がる間、ミラは留め具から下の布を見ていた。腿が前へ出ると裾が開き、足を置くと戻る。高い靴底でもなく、長い引き裾でもない。王の足が一段ずつ、石に載った。


 神官が手を差し出し、跪く場所を示した。


 レウベンは片足を引いて膝を折った。背の中央に残した布の折りが、静かに開く。前の合わせは乱れなかった。


 ミラは腕を下ろしたまま、首元を見続けた。


 王が頭を下げる。金糸の縁は、喉へ食い込まなかった。灯りの下で何度も確かめた高さのまま、首の下に留まっている。


 神官の祈りが高い天井に響いた。


 ここからは指を差し入れられない。毛芯の硬さを確かめることも、布を撫でてやることもできなかった。


 王の髪の上へ冠が下りた。


 明るい栗色の髪が縁の下で押される。神官の手はまだ離れない。レウベンの両手は膝の上に置かれ、指を揃えたまま待っていた。


 重みを受けた首が少し沈む。肩の上の紺には、斜めの深い皺が走らなかった。ミラは掌の中で自分の指を曲げた。隣の柱の向こうでも、ゴドーの手が止まっていた。


 神官が冠から手を離した。


 レウベンは片足の裏を床に置いた。膝に手を添え、体を起こす。後ろへ垂れていた裾が、踵を踏ませずに落ちた。


 王は立った。


 顔は、まだ少し下を向いていた。


 人々は動かなかった。


 後ろの席から衣擦れが届き、すぐ途切れた。ミラの前で、イレーネが紙を揃えかけた手を止める。紙の角が指に当たったままだった。


 レウベンの足は揃っている。片膝をついていた石の上に、今は両足がある。その上で紺の裾が落ち着いた。


 冠を載せた若者の手が、腿の脇で開いていた。指の先が一度、紺に触れる。


 ガレスの右手はまだ下りている。トビアスは重ねた手を握り直しかけ、途中でやめた。誰も壇へ近づかない。


 ミラも足を動かさなかった。自分の爪が掌へ触れている。目の前の肩に直すところはない。けれど、顔はまだ下がったままだ。


 ミラは唇を閉じたままでいた。


 レウベンの胸が膨らんだ。


 肩をすくめる動きではなかった。胸の布が前へ動き、落ち着く。レウベンはゆっくり息を吐いた。


 冠の縁が窓の光へ出た。襟が首に沿ったまま、顎の線だけが上がった。


 下がっていた顎を、彼が自分で上げた。


 脇の通路を探す目ではなかった。


 壇の前を見て、その向こうを見た。


 騎士の席へ向いた目がガレスの前で止まった。ガレスは顎を小さく動かし、頷いた。王の口元がわずかに緩む。


 その目が官吏の列を越えて、後ろの柱のそばまで進んだ。トビアスは足を揃えたまま、首だけを壇へ向けていた。


 ミラのいる場所には、一度も顔を向けなかった。


 紺の肩が、彼の動きに沿って開いた。


 背にはまだ丸みがあった。首の付け根から腰まで、ミラが写し取ったあの人の背だった。その背を無理に反らせず、レウベンは人々と向き合っている。


 ガレスの右手が胸へ上がった。空袖は下りたままだった。


 イレーネは紙を伏せ、王を見ていた。指を引くとき、紙の角が一度だけ揺れた。彼女は押さえ直さなかった。


 トビアスの前で重なっていた手がほどける。継ぎのある袖口が胸へ上がり、太い指に握られた。彼は身を乗り出さず、足を揃えた場所から壇を見上げた。


 ミラが組んだ肩が、通路の両側にあった。親方の台で縫い上がった肩が、段のそばにもあった。その後ろでは、娘の継いだ袖を着た人が見守っていた。


 背の丸みも、腕の数も、立ち方も同じではない人たちが、それぞれの服で王を見ていた。


 王が口を開いた。


「北の村の話から、始めます」


 声の終わりまで聞こえた。


「冬を越すための麦が、まだ足りていません。食べる分だけでは、来年の種が残りません。車を借りる話も、貸す人へ戻す日の話も、まだ途中です」


 レウベンは後ろの席を見たまま言った。


「麦を送ると、僕から言いました。でも、車を借りられるから大丈夫だとは、まだ言えません。貸す人の仕事も、聞き切れていませんから」


 柱のそばで、トビアスの手が袖口から離れた。


「式が済んだら、続きを聞きます。麦を待つ人にも、車を貸す人にも。最後まで聞いて、どこから送るか僕が決めます」


 初夏、仮縫いの部屋で口にした北の村の話を、今は大聖堂のいちばん奥へ向けて話している。


 王が口を閉じると、神官が儀式の応えの言葉を唱えた。人々がそれに続いた。


 初めに応えた人の声が天井へ上がった。まだその響きが残るうちに、隣の席からも声が続く。柱の後ろで立っていた人たちが、壇へ体を向けた。


 ガレスの低い声が混じった。官吏の列からイレーネも応えた。トビアスは口を開き、一度閉じてから、もう一度声を出した。


 ミラの立つ柱のそばまで響きが返る。声を重ねる人の踏み直した靴が床を鳴らし、その震えを薄い靴底で拾った。


 レウベンの肩は縮まらなかった。後ろの席へ目を向けたまま、応え終わるまで立っている。


 外で鐘が鳴った。閉じた扉の向こうからも人々の声が聞こえ、堂内で遅れて応えた声と重なった。ミラの掌には爪が食い込んでいた。緩めようとしても、指が開かなかった。


 シリルが隣で肩の力を抜いた。ミラはそちらを見られなかった。


 初夏、あの人の背へ布を当てた。顔を上げると胸が引かれたから、肩の形を組み直した。


 今は、その人が顔を上げている。


 遠くの客席へ目を向けたまま、レウベンがもう一度、頭を下げた。紺が背に沿って動く。祈りのときより深い礼だった。顔を戻したあとの胸に、つれた皺は残らなかった。


 ミラの手には巻尺も針もなかった。


 握り込んでいた指を伸ばした。掌に爪の跡が残っていた。



 控えの間へ戻ったレウベンは、戸が閉まると、椅子の背に片手を置いた。


 神官に冠を預けたあとの髪に、浅い押し跡がある。ミラは顔より先に肩へ目をやった。跪いて、立って、深く礼をしたあとでも、肩の縫い目は動いていなかった。


「陛下。襟はどうでしたか」


 レウベンは返事をせず、自分の首の下へ指を入れた。金糸の手前で止め、指を抜く。


「当たらなかった。頭を下げても」


「左の腕は」


「大丈夫だよ。……少し、手が震えてたけど」


 彼は掌をミラへ見せた。まだ指が微かに動いている。ミラはその手を取らず、袖の下を見た。袖口が少し揺れていたが、つけ根には皺が寄っていなかった。


「まだ怖かったんだ」


 レウベンが言った。


「冠を載せてもらったあとも。立ったら、みんなの顔が見えると思ったら」


 王は椅子へ腰を下ろさず、その背を軽く握った。


 ミラは王の指を見ていた。椅子の背から離れ、体の脇へ下りる。


「見えたあとも、怖かったですか」


「少し。でも、話を聞いてもらえるかは、話してみないとわからないから」


 ミラは黙って聞いた。


「下を向いていたら、君が呼んでくれるかなって。控えの間で言ってくれたみたいに」


 ミラは自分の手を見た。壇へ行くまで一度も伸ばさなかった手だった。


「でも、君は遠かった。ここからは見えなくて」


 王が紺の胸に触れた。毛織の上で指が開く。


「息を吸ったんだ。顔を下げたままでも、苦しくなかった。それで、もう少し吸えた。……上げてみようと思った」


 指が胸から肩へ滑り、襟の縁で止まる。


「上げても苦しくなかったんだね。君の服は」


 王の指が襟の縁から喉の前へ下りた。頭を少し下げ、そのまま指先を内側へ入れる。金糸の縁と喉の間に指が収まった。


「ここ、空けておいてくれたんだね。下を向いたままでも、息ができるように」


「はい」


 頭を下げた王の喉の前に残した空きだった。最後の金糸を留めてからも、狭まっていなかった。


 レウベンは襟から指を離した。彼の目が、ミラの目の高さへ下りてくる。


「この服は、僕を立たせなかった。僕が立つのを——待っていてくれた」


 ミラは返事をしようとした。


 王の肩がよく見えなくなった。さっきまで襟の縁に沿って追えていた金糸が、窓の光と混ざる。


 瞬きをした。紺がまた見えた。


 針を持たない指で目元を押さえかけて、下ろした。胸の布を確かめたい。腕を上げてもらえば、袖の内側まで確かめられる。けれど、陛下はもう、苦しくないと言った。


「……はい」


 ようやくそれだけ出た。


「あの……」


 レウベンは胸の留め具に手をやり、離した。


「いや。先に言えばよかったんだ。君がここにいるうちに、ちゃんと。着心地の返事だけじゃなくて」


 ミラの手が体の脇へ下りた。


「ありがとう、ミラ。僕の一着を縫ってくれて」


 王は言葉を足さず、待っていた。ミラは息を吸った。縫っている間なら、ここで一度針を止めていた。


「最高の一着です」


 声を確かめるように、もう一度口を開く。


「あたしが縫った中で、陛下のための、最高の一着です」


 レウベンの口元が緩んだ。


「僕も、そう思う。今日これを着て行けて、よかった」


 廊下で祝宴へ案内する声がした。戸の前で靴音が止まり、また遠ざかる。ミラはまだ袖口を見ていた。


「もう、直すところはないんだね」


「ありません」


 答えてから、指が紺へ伸びかけた。レウベンがその手を見て待つ。


「その布、朝より柔らかく見えます」


「ずっと着ていたからかな。君は、まだ触りたい?」


「はい。直すためじゃなくて」


 ミラは布の端へ伸びかけた指を、今度は止めなかった。


「袖口だけ、触ってもいいですか」


「うん。こう出せばいいかな。君の指の届くところへ」


 王が腕を差し出す。指の腹を袖口の紺へ添えた。


 朝にはなかった浅い癖が、袖口のすぐ上で指に触れた。毛織が今日一日の王の腕の形を覚えている。


 こてを当てれば消える。


 ミラはその癖を指の腹で一度だけなぞり、伸ばさずに離した。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


戴冠式を書く前に、これまでのお客さんが出てくる回を読み返しました。礼装の形だけ確かめるつもりだったのに、トビアスの袖口にまた目が止まって、しばらく先へ進めませんでした。大きな式の席でも、娘さんの縫った跡をそのまま連れてきてほしい。あの袖口を書いてから、ようやく大聖堂へ入れた気がします。


ミラの手に何を持たせるかも迷いました。巻尺を握らせると、つい測りたくなる。針を持たせると、どこか直したくなる。道具の包みを置いたあとは、こちらまで手持ち無沙汰で、王の動きを追いながら落ち着かずに書いていました。


最後の袖に触れるところまで書けて、ほっとしています。ここまで一着の仕上がりを見届けてくださった皆さま、ありがとうございます。次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマークや感想も、続きを書く励みになります。

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