第23話: 戴冠式前夜
手を離したのに、ミラの人差し指は王の肩を支える形に曲がっていた。
「まだ、どこか直す?」
レウベンに訊かれ、空いた手を下ろした。昼に眠って湯で温めた指には、紺の滑る感触が残っている。
「最後に左の腕を前へお願いします」
袖が腕について動いた。つけ根を回して縫い直したところにも皺は寄らない。ミラは肩へ指を添え、内側の布が遅れず動くのを確かめた。
頭を下げる動作も昨夕の着合わせと同じように確かめた。金糸の縁は喉に触れずに止まった。
「苦しいところは?」
「ない。……明日の朝も、同じだといいんだけど」
王の指が胸の留め具にかかった。
「緊張したら、また肩をすぼめてしまうかもしれない」
「朝もお体で確かめます。今と同じシャツをお願いします」
「このシャツを取っておく。厚さが違うと変わるんだったね」
脱いだ紺はまだ温かかった。ミラが肩を受けると、肌側を覆う灰の絹が手の中で滑った。
台に載せた左肩では、絹の縁が少し浮いている。脱ぐ手を引っかけないよう浅く縫った。その奥にある硬い布には針を届かせない。
「そこは、全部つなげないの?」
「はい。ここを持っていただけますか」
レウベンに絹の縁を渡し、ミラは袖をそっと前へ送った。絹が王の指から少し引き出される。
「腕を動かすと、内側にもこれだけ布が要ります」
表の紺と肌側の絹の間には、馬の尾の毛を織り込んだ毛芯が入っている。胸から肩の形を支える硬い布だ。そこへ絹まで縛れば、今滑った分が動けなくなる。
レウベンはつまんだ絹を離した。丸く寝た芯の上へ柔らかな灰が戻る。
「朝は、またここを見るんだね」
「はい。針と糸も持ってきます」
明朝の着付けを侍従へ伝えていたシリルが振り向いた。
「君自身も忘れずに連れてきてほしいかな」
ミラは道具を見た。巻尺も糸切りも持っていくつもりだ。
レウベンが口元を押さえた。
「寝坊の話だと思う」
「……あ。起きます」
ミラは採寸帳へ今日の着合わせを書きつけた。左肩の絹の縁だけを縫ったことも添える。昨夜は眠気で針先が二つに見えた。朝の自分には、触った場所を紙でも残しておく。
書き終えてから上着を持ち上げた。もう針を戻すところはない。窓の下まで伸びた夕日を越え、この一着を部屋の外へ運んだ。
式服の部屋には、名札を下げた服が並んでいた。
「エッケルトの直しは済んだ。直しの札だけ外せ。名前は本人に渡すまで残すんだ」
ゴドーの声に役人が頷いた。ミラは王の紺を空いた台へ置き、灰の裏を開いた。
親方の太い指が肩の端を持ち上げる。絹は芯から離れたまま動いた。
「兵の服と同じところを留めたら、こいつは引かれるな」
「はい。肩の裏はこのままにします」
「その旨を控えへ」
シリルが役人へ告げた。儀典長ヴァルターは台の上を見てから、戸口の繕い係へ目を向けた。
「点検だけだ。直しを見つけたら仕立てた者へ戻せ」
男は糸の箱を脇へ置き、覆いの麻を広げた。その袖口に濃い灰の繕いがある。小さく寄せた布が、固い糸で縫い止められていた。
覆いが手首を冷やした。ミラは金糸の襟が隠れるまで見ていたが、布がかかればもう触れない。
「朝の受け渡しにも私がいるよ」
シリルが戸の外で足を止めた。
「今と同じ状態か、一緒に確かめよう」
「お願いします」
首の巻尺を握ると軽すぎた。ゴドーが先の曲がり角から振り向く。
「嬢ちゃん。今夜は針を片づけろ。明日の手まで使うな」
小部屋の作業台には仕立て枕だけが残っていた。おがくずを固く詰め、王の胸の代わりに使っていた布の塊だ。
掌を置いても針の振動は返らない。紺を抱えていた腕を下ろすと、指がまた肩を持つ形に曲がった。
窓から冷えた風が袖へ入った。夏には開け放していた窓を閉める。朝に持つ針を布へ包み、横になってからも、人差し指を伸ばして布団に置き直した。
翌朝、同じ指の腹に硬い角が当たった。
ミラは王の左肩から手を離さなかった。紺の表には皺がない。だが指を前へ滑らせると、下の芯の端が爪のように突き上げてくる。
「陛下。左腕を少し前へお願いします」
腕が途中で止まった。襟の左端が喉へ寄る。
「昨日は、ここまで上がったと思う」
「下ろしていただいてかまいません」
昨夕は絹が腕についてきた。今朝は布の内側で、芯まで一緒に引き戻されている。
廊下に支度の鐘が響いた。戸口の従者がシリルへ告げる。
「先触れが門へ向かいました。次の鐘で出立です」
ミラの指が巻尺へ伸びた。
「上着を脱いでいただけますか。肩を測り直したいです」
レウベンが留め具を外す間に、役人が昨夜の控えを開いた。
「納めの後は繕い係が点検し、私が施錠しました。補修の申し出はありません。肩の裏を留めない指示も、ここに」
ミラは帳面より先に王の肩へ触れた。
同じ薄いシャツ越しに、首の付け根から肩先へ巻尺を沿わせる。採寸帳に描いた新しい肩の図と比べた。幅も、前へ巻く位置も昨日と変わらない。
「もう一度、腕を前へお願いします」
シャツの袖は難なく上がった。
「僕がまた縮んだんじゃ、ないの?」
「今測った幅は昨日と同じです。腕も動きます。服を確かめます」
老いた侯爵に化けた若者を測ったときは、骨格が台帳に合わなかった。言い当てたあとで向けられた目を、ミラはまだ覚えている。今朝も体を見る前から、誰かが変わったと決めなくてよかった。
巻尺を外して台へ向かう。灰の絹をつまんだ指が止まった。
左肩だけ、芯から離れない。
昨夕の細い糸は縁に残っている。その奥を濃い灰の糸が渡り、絹と芯の端を縛っていた。袖を動かすと絹が糸を引き、巻き込まれた芯が襟を持ち上げる。
右肩では絹だけが滑った。左にも同じ長さの布はある。足りないのではなく、動けなくされていた。
「縫ったのは、縁が離れていたところだけ……」
ミラは濃い糸の下へ爪を当てた。短い目が並び、終わりの結び目は布の内へ押し込まれている。表へ傷を出さず、内側を離れなくする縫い方だった。
「兵の上着の裏を留める手です。ここは擦れても開かないように、強い糸で寄せてる」
戸口に来たヴァルターが眉を寄せた。
「誰の手だ」
ミラは糸の箱を持つ男を見た。箱の蓋は閉じている。けれど覆いを取ったときと同じ袖口が、朝の光へ出ていた。
「袖を見せていただけますか」
男は腕を背へ引きかけた。箱の角が脇へ当たり、止まる。
ミラは近づかずに待った。侯爵の甥が後ずさったときも、あたしは構わず口を動かした。糸のことは言える。でも今、手を取って裏返してはいけない。
「その繕いの結びを確かめたいんです」
男は箱を置いた。自分で袖口を返す。
濃い糸が寄せた布に食い込んでいた。短い目の終わりを内へ返し、結び目を押し込んである。ミラは王の肩の糸を窓へ向けた。太さも、指で撫でたときのざらつきも合う。
「同じ留め方です。昨夜、左の裏が浮いているのを、縫い残しだと思って留めましたね」
男の口が開いた。ミラは先を言わずに待った。
「……はい。裏がまた外れたのかと。兵の上着はこう留めるので」
役人が控えを男へ向けた。
「戻すように伝えたはずだ。なぜ申し出なかった」
「肩をほどく直しではないと思いました。内側を少し留めるだけなら……」
男は紺の表へ目を向けた。
「表は傷めていません。外から糸が見えないように、裏だけを……」
「そこは傷んでいません。着て腕を出したところは、ご覧になりましたか」
「いえ。台の上で見ただけです」
ミラは糸に触れた。表に針傷を出さない手加減はできている。だから着せるまで気づかなかった。
「右も同じように留めたんですか」
「左だけです。そちらは閉じていましたから」
右肩の絹は滑る。左にも昨日はあった動きを、男は服を載せた台では見ていない。
「左は縁を少し縫い直したので、開いて見えたんですね。でも、その奥は外れたんじゃありません」
ミラは右肩の絹を前へ送り、芯を引かずに動くところを示した。
「昨日、陛下の腕を動かして、離しておく場所を決めたんです。左も同じように動きます」
男が肩の裏を見る。ミラは絹を引きかけてやめた。説明のために引けば、そのたび芯を折り込んでしまう。
なぜ一度呼んでくれなかったのか。訊きたい言葉が喉まで来た。今あたしがその返事を待っていたら、服を着る人のほうを待たせる。
紺を胸の丸みがつぶれない向きに置き直した。
「この糸を外します」
ヴァルターが男の箱を役人へ渡させた。
「許しなく針を入れた件は、式の後に処する。今は台を空けよ」
男は下がった。シリルが戸口へ戻り、従者と言葉を交わす。その間にミラは糸切り鋏を開いた。
芯の端を爪で起こす。襟まで動いた。
刃を引いた。濃い糸は絹と芯の間に埋まっている。見えるところだけを急いで切れば、胸の形を支えている縫い目も巻き込む。
「肩をほどくのか。次の鐘までに着せられるか」
ヴァルターが戸口を見た。
「ほどきません。指を入れて、この糸だけ浮かせます」
レウベンが台のそばへ寄った。シャツの左肩を内側へ動かす。
「こうしたら、入るかな。腕を出すときだけ我慢すれば……」
ミラの左手が採寸帳を押さえた。
初夏の図の隣に今の肩がある。測り直して芯を外し、紺を曲げ直した肩だ。あのときも、王はすぼめると苦しいと言った。その位置へ体を戻せば、この糸を残したまま式に出せるかもしれない。
鋏を台へ置いた。両手が空く。
「陛下。その姿勢を続けると、息も浅くなります。肩は昨日のままでお待ちください」
レウベンは肩から力を抜いた。ミラは戻った肩の傾きを見て、人差し指だけを紺の裏へ差し入れた。
「ここまで入る。切れます」
絹の冷たさの奥で、芯の毛が指の腹を刺した。濃い糸が上側に食い込む。指を立てれば紺まで持ち上がるので、王の肩をなぞった角度に寝かせた。
浮かせる糸の下へ指を送り、芯を腹で受ける。薄い絹は指の上からよけた。鋏の先が入る隙間は、まだ狭い。
「シリルさん。袖を台と同じ高さで持ってください」
彼は戸口から戻り、垂れていた袖を受けた。
「次の鐘が鳴り終わるまでに着付けが済めば、列は出せる。ここでいい?」
「もう少しあたしのほうへ。はい、そのまま。持つ手は替えないでください」
紺を引く重さが抜けた。ミラは鋏を取り直す。シリルの手首が台の端で止まった。
指の中ほどまで潜らせると、芯の端が元の丸さへわずかに開いた。縛った糸だけが浮く。表を縫った細い糸は、指の下に残せた。
そのまま肩の丸みを受けて、刃を横から入れる。
人差し指が布の下に隠れている。ミラは頭を低くし、指と刃の間を見た。少しでも芯を引けば、襟の金糸が動く。シリルの握る袖口は動かなかった。
廊下で従者の靴が止まった。出立の鐘が鳴り始める。
レウベンの手が留め具のないシャツの前を探った。ミラは自分の指を奥へわずかに送った。昨日の肩を作った縫い目と、昨夜加えられた糸が、その指を挟んで分かれる。
鋏を閉じた。
ぷつ、と鳴った。
指の上から食い込みが消えた。芯が丸く開き、絹が滑り落ちる。金糸の襟も台へ下りた。
ミラは息を吐いた。糸の両端を左手で抜いたが、人差し指はまだ動かさない。
「陛下、こちらへ」
従者が呼びかけ、王へ手を差し出しかけた。
「まだです。あたしの指が抜けていません」
ミラは肩の下で指を寝かせたまま言った。
従者の手が下りた。王は台のそばに留まり、シリルも袖を離さなかった。鐘が続く間、紺の肩はミラの人差し指に載っていた。
引かれていた芯の端には浅い癖が残る。窓辺の湯で当て布を湿らせ、よく絞ってその端だけを包んだ。指の腹へ丸さを戻し、濡らしたところを乾いた布で押さえる。
固い折れ筋にはなっていなかった。支える指を少しずつ下ろしても、芯は跳ね上がらない。形を保つところまで待ち、ようやく人差し指を抜いた。
その跡へ灰の絹が落ちた。つまんで前へ送ると、今度は芯を引かずに動く。
「陛下。着ていただけますか」
レウベンが袖を通した。ミラは左肩へ同じ指を当て、留め具が閉じるのを待った。
「左の腕を前へお願いします」
腕が出る。さっき止まった場所を越えても、襟は喉へ寄らなかった。指の腹へ絹の滑る動きが返ってきた。
「苦しいところは?」
「ない。……ここも動く」
王が左手を開いた。ミラは胸の芯を支える縫い目まで指で追い、壊れていないことを確かめた。
「直りました」
ヴァルターが戸口へ頷く。従者の靴音が再び続き、鐘の鳴り終わる前に王は自分で残りの留め具を閉じた。
繕い係が台の脇で頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
ミラは抜いた糸を役人の紙へ置いた。
「次は縫う前に呼んでください。着て動かしてから、針を入れる場所を見ます」
男は箱へ伸ばしかけた手を下ろし、頷いた。ミラは返事を見届けてから道具を包んだ。
針山には朝の包みがかかったままだった。鋏をしまおうとすると、シリルが袖を持っていた手を開く。布の縁に押されて指が赤い。
「うちの採寸狂は、針を出す暇もなかったね」
「縫ってしまったら、また腕が止まります」
「なるほど。では、この手は今日はもう用済みかな」
彼は長い指を曲げて見せた。ミラは赤い跡へ目を落とした。
「少し休ませてください。次も同じ高さで持っていただくので」
「次もあるんだね」
シリルの口元が緩んだ。ミラは首へ巻尺を戻した。
王の左肩にはもう紺だけが載っている。ミラの指が離れても丸みは崩れなかった。戸の外へ動く裾に合わせ、道具の包みを抱えてあとへ続く。
廊下の先で外気が頬に触れた。宮の門が開いている。待っていた人々の声がそこから押し寄せ、レウベンの名を呼んだ。
ミラは王の肩へ伸びかけた手を下ろした。
直すところはない。戸口の光の中で金糸が見えた。小部屋の灯りに載せていたときよりも、明るく返った。
門の向こうから呼ばれる王の肩を、今度は紺だけが包んで出ていく。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
前夜、ミラは縫い終えた服を預け、朝にはその肩に違う手の糸を見つけます。きれいに留められた裏地でも、着る人が動けるとは限らない。袖口の繕いと王の一着を見比べる場面では、糸を入れた人の手と、服を着る人の体を別々に確かめるところを書きました。
糸が切れても、ミラの指はすぐには抜けません。肩の丸みが戻るまで袖を持つシリルと、台のそばで待つレウベン。出立の鐘の間に残った、その短い仕事で朝の場面を閉じています。
いよいよ大聖堂へ向かいます。次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマークや感想も、続きを書く励みになります。




