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採寸狂のお針子は、最高の一着しか縫わない  作者: 歩人


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23/26

第23話: 戴冠式前夜

 手を離したのに、ミラの人差し指は王の肩を支える形に曲がっていた。


「まだ、どこか直す?」


 レウベンに訊かれ、空いた手を下ろした。昼に眠って湯で温めた指には、紺の滑る感触が残っている。


「最後に左の腕を前へお願いします」


 袖が腕について動いた。つけ根を回して縫い直したところにも皺は寄らない。ミラは肩へ指を添え、内側の布が遅れず動くのを確かめた。


 頭を下げる動作も昨夕の着合わせと同じように確かめた。金糸の縁は喉に触れずに止まった。


「苦しいところは?」


「ない。……明日の朝も、同じだといいんだけど」


 王の指が胸の留め具にかかった。


「緊張したら、また肩をすぼめてしまうかもしれない」


「朝もお体で確かめます。今と同じシャツをお願いします」


「このシャツを取っておく。厚さが違うと変わるんだったね」


 脱いだ紺はまだ温かかった。ミラが肩を受けると、肌側を覆う灰の絹が手の中で滑った。


 台に載せた左肩では、絹の縁が少し浮いている。脱ぐ手を引っかけないよう浅く縫った。その奥にある硬い布には針を届かせない。


「そこは、全部つなげないの?」


「はい。ここを持っていただけますか」


 レウベンに絹の縁を渡し、ミラは袖をそっと前へ送った。絹が王の指から少し引き出される。


「腕を動かすと、内側にもこれだけ布が要ります」


 表の紺と肌側の絹の間には、馬の尾の毛を織り込んだ毛芯が入っている。胸から肩の形を支える硬い布だ。そこへ絹まで縛れば、今滑った分が動けなくなる。


 レウベンはつまんだ絹を離した。丸く寝た芯の上へ柔らかな灰が戻る。


「朝は、またここを見るんだね」


「はい。針と糸も持ってきます」


 明朝の着付けを侍従へ伝えていたシリルが振り向いた。


「君自身も忘れずに連れてきてほしいかな」


 ミラは道具を見た。巻尺も糸切りも持っていくつもりだ。


 レウベンが口元を押さえた。


「寝坊の話だと思う」


「……あ。起きます」


 ミラは採寸帳へ今日の着合わせを書きつけた。左肩の絹の縁だけを縫ったことも添える。昨夜は眠気で針先が二つに見えた。朝の自分には、触った場所を紙でも残しておく。


 書き終えてから上着を持ち上げた。もう針を戻すところはない。窓の下まで伸びた夕日を越え、この一着を部屋の外へ運んだ。




 式服の部屋には、名札を下げた服が並んでいた。


「エッケルトの直しは済んだ。直しの札だけ外せ。名前は本人に渡すまで残すんだ」


 ゴドーの声に役人が頷いた。ミラは王の紺を空いた台へ置き、灰の裏を開いた。


 親方の太い指が肩の端を持ち上げる。絹は芯から離れたまま動いた。


「兵の服と同じところを留めたら、こいつは引かれるな」


「はい。肩の裏はこのままにします」


「その旨を控えへ」


 シリルが役人へ告げた。儀典長ヴァルターは台の上を見てから、戸口の繕い係へ目を向けた。


「点検だけだ。直しを見つけたら仕立てた者へ戻せ」


 男は糸の箱を脇へ置き、覆いの麻を広げた。その袖口に濃い灰の繕いがある。小さく寄せた布が、固い糸で縫い止められていた。


 覆いが手首を冷やした。ミラは金糸の襟が隠れるまで見ていたが、布がかかればもう触れない。


「朝の受け渡しにも私がいるよ」


 シリルが戸の外で足を止めた。


「今と同じ状態か、一緒に確かめよう」


「お願いします」


 首の巻尺を握ると軽すぎた。ゴドーが先の曲がり角から振り向く。


「嬢ちゃん。今夜は針を片づけろ。明日の手まで使うな」


 小部屋の作業台には仕立て枕だけが残っていた。おがくずを固く詰め、王の胸の代わりに使っていた布の塊だ。


 掌を置いても針の振動は返らない。紺を抱えていた腕を下ろすと、指がまた肩を持つ形に曲がった。


 窓から冷えた風が袖へ入った。夏には開け放していた窓を閉める。朝に持つ針を布へ包み、横になってからも、人差し指を伸ばして布団に置き直した。




 翌朝、同じ指の腹に硬い角が当たった。


 ミラは王の左肩から手を離さなかった。紺の表には皺がない。だが指を前へ滑らせると、下の芯の端が爪のように突き上げてくる。


「陛下。左腕を少し前へお願いします」


 腕が途中で止まった。襟の左端が喉へ寄る。


「昨日は、ここまで上がったと思う」


「下ろしていただいてかまいません」


 昨夕は絹が腕についてきた。今朝は布の内側で、芯まで一緒に引き戻されている。


 廊下に支度の鐘が響いた。戸口の従者がシリルへ告げる。


「先触れが門へ向かいました。次の鐘で出立です」


 ミラの指が巻尺へ伸びた。


「上着を脱いでいただけますか。肩を測り直したいです」


 レウベンが留め具を外す間に、役人が昨夜の控えを開いた。


「納めの後は繕い係が点検し、私が施錠しました。補修の申し出はありません。肩の裏を留めない指示も、ここに」


 ミラは帳面より先に王の肩へ触れた。


 同じ薄いシャツ越しに、首の付け根から肩先へ巻尺を沿わせる。採寸帳に描いた新しい肩の図と比べた。幅も、前へ巻く位置も昨日と変わらない。


「もう一度、腕を前へお願いします」


 シャツの袖は難なく上がった。


「僕がまた縮んだんじゃ、ないの?」


「今測った幅は昨日と同じです。腕も動きます。服を確かめます」


 老いた侯爵に化けた若者を測ったときは、骨格が台帳に合わなかった。言い当てたあとで向けられた目を、ミラはまだ覚えている。今朝も体を見る前から、誰かが変わったと決めなくてよかった。


 巻尺を外して台へ向かう。灰の絹をつまんだ指が止まった。


 左肩だけ、芯から離れない。


 昨夕の細い糸は縁に残っている。その奥を濃い灰の糸が渡り、絹と芯の端を縛っていた。袖を動かすと絹が糸を引き、巻き込まれた芯が襟を持ち上げる。


 右肩では絹だけが滑った。左にも同じ長さの布はある。足りないのではなく、動けなくされていた。


「縫ったのは、縁が離れていたところだけ……」


 ミラは濃い糸の下へ爪を当てた。短い目が並び、終わりの結び目は布の内へ押し込まれている。表へ傷を出さず、内側を離れなくする縫い方だった。


「兵の上着の裏を留める手です。ここは擦れても開かないように、強い糸で寄せてる」


 戸口に来たヴァルターが眉を寄せた。


「誰の手だ」


 ミラは糸の箱を持つ男を見た。箱の蓋は閉じている。けれど覆いを取ったときと同じ袖口が、朝の光へ出ていた。


「袖を見せていただけますか」


 男は腕を背へ引きかけた。箱の角が脇へ当たり、止まる。


 ミラは近づかずに待った。侯爵の甥が後ずさったときも、あたしは構わず口を動かした。糸のことは言える。でも今、手を取って裏返してはいけない。


「その繕いの結びを確かめたいんです」


 男は箱を置いた。自分で袖口を返す。


 濃い糸が寄せた布に食い込んでいた。短い目の終わりを内へ返し、結び目を押し込んである。ミラは王の肩の糸を窓へ向けた。太さも、指で撫でたときのざらつきも合う。


「同じ留め方です。昨夜、左の裏が浮いているのを、縫い残しだと思って留めましたね」


 男の口が開いた。ミラは先を言わずに待った。


「……はい。裏がまた外れたのかと。兵の上着はこう留めるので」


 役人が控えを男へ向けた。


「戻すように伝えたはずだ。なぜ申し出なかった」


「肩をほどく直しではないと思いました。内側を少し留めるだけなら……」


 男は紺の表へ目を向けた。


「表は傷めていません。外から糸が見えないように、裏だけを……」


「そこは傷んでいません。着て腕を出したところは、ご覧になりましたか」


「いえ。台の上で見ただけです」


 ミラは糸に触れた。表に針傷を出さない手加減はできている。だから着せるまで気づかなかった。


「右も同じように留めたんですか」


「左だけです。そちらは閉じていましたから」


 右肩の絹は滑る。左にも昨日はあった動きを、男は服を載せた台では見ていない。


「左は縁を少し縫い直したので、開いて見えたんですね。でも、その奥は外れたんじゃありません」


 ミラは右肩の絹を前へ送り、芯を引かずに動くところを示した。


「昨日、陛下の腕を動かして、離しておく場所を決めたんです。左も同じように動きます」


 男が肩の裏を見る。ミラは絹を引きかけてやめた。説明のために引けば、そのたび芯を折り込んでしまう。


 なぜ一度呼んでくれなかったのか。訊きたい言葉が喉まで来た。今あたしがその返事を待っていたら、服を着る人のほうを待たせる。


 紺を胸の丸みがつぶれない向きに置き直した。


「この糸を外します」


 ヴァルターが男の箱を役人へ渡させた。


「許しなく針を入れた件は、式の後に処する。今は台を空けよ」


 男は下がった。シリルが戸口へ戻り、従者と言葉を交わす。その間にミラは糸切り鋏を開いた。


 芯の端を爪で起こす。襟まで動いた。


 刃を引いた。濃い糸は絹と芯の間に埋まっている。見えるところだけを急いで切れば、胸の形を支えている縫い目も巻き込む。


「肩をほどくのか。次の鐘までに着せられるか」


 ヴァルターが戸口を見た。


「ほどきません。指を入れて、この糸だけ浮かせます」


 レウベンが台のそばへ寄った。シャツの左肩を内側へ動かす。


「こうしたら、入るかな。腕を出すときだけ我慢すれば……」


 ミラの左手が採寸帳を押さえた。


 初夏の図の隣に今の肩がある。測り直して芯を外し、紺を曲げ直した肩だ。あのときも、王はすぼめると苦しいと言った。その位置へ体を戻せば、この糸を残したまま式に出せるかもしれない。


 鋏を台へ置いた。両手が空く。


「陛下。その姿勢を続けると、息も浅くなります。肩は昨日のままでお待ちください」


 レウベンは肩から力を抜いた。ミラは戻った肩の傾きを見て、人差し指だけを紺の裏へ差し入れた。


「ここまで入る。切れます」


 絹の冷たさの奥で、芯の毛が指の腹を刺した。濃い糸が上側に食い込む。指を立てれば紺まで持ち上がるので、王の肩をなぞった角度に寝かせた。


 浮かせる糸の下へ指を送り、芯を腹で受ける。薄い絹は指の上からよけた。鋏の先が入る隙間は、まだ狭い。


「シリルさん。袖を台と同じ高さで持ってください」


 彼は戸口から戻り、垂れていた袖を受けた。


「次の鐘が鳴り終わるまでに着付けが済めば、列は出せる。ここでいい?」


「もう少しあたしのほうへ。はい、そのまま。持つ手は替えないでください」


 紺を引く重さが抜けた。ミラは鋏を取り直す。シリルの手首が台の端で止まった。


 指の中ほどまで潜らせると、芯の端が元の丸さへわずかに開いた。縛った糸だけが浮く。表を縫った細い糸は、指の下に残せた。


 そのまま肩の丸みを受けて、刃を横から入れる。


 人差し指が布の下に隠れている。ミラは頭を低くし、指と刃の間を見た。少しでも芯を引けば、襟の金糸が動く。シリルの握る袖口は動かなかった。


 廊下で従者の靴が止まった。出立の鐘が鳴り始める。


 レウベンの手が留め具のないシャツの前を探った。ミラは自分の指を奥へわずかに送った。昨日の肩を作った縫い目と、昨夜加えられた糸が、その指を挟んで分かれる。


 鋏を閉じた。


 ぷつ、と鳴った。


 指の上から食い込みが消えた。芯が丸く開き、絹が滑り落ちる。金糸の襟も台へ下りた。


 ミラは息を吐いた。糸の両端を左手で抜いたが、人差し指はまだ動かさない。


「陛下、こちらへ」


 従者が呼びかけ、王へ手を差し出しかけた。


「まだです。あたしの指が抜けていません」


 ミラは肩の下で指を寝かせたまま言った。


 従者の手が下りた。王は台のそばに留まり、シリルも袖を離さなかった。鐘が続く間、紺の肩はミラの人差し指に載っていた。


 引かれていた芯の端には浅い癖が残る。窓辺の湯で当て布を湿らせ、よく絞ってその端だけを包んだ。指の腹へ丸さを戻し、濡らしたところを乾いた布で押さえる。


 固い折れ筋にはなっていなかった。支える指を少しずつ下ろしても、芯は跳ね上がらない。形を保つところまで待ち、ようやく人差し指を抜いた。


 その跡へ灰の絹が落ちた。つまんで前へ送ると、今度は芯を引かずに動く。


「陛下。着ていただけますか」


 レウベンが袖を通した。ミラは左肩へ同じ指を当て、留め具が閉じるのを待った。


「左の腕を前へお願いします」


 腕が出る。さっき止まった場所を越えても、襟は喉へ寄らなかった。指の腹へ絹の滑る動きが返ってきた。


「苦しいところは?」


「ない。……ここも動く」


 王が左手を開いた。ミラは胸の芯を支える縫い目まで指で追い、壊れていないことを確かめた。


「直りました」


 ヴァルターが戸口へ頷く。従者の靴音が再び続き、鐘の鳴り終わる前に王は自分で残りの留め具を閉じた。


 繕い係が台の脇で頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 ミラは抜いた糸を役人の紙へ置いた。


「次は縫う前に呼んでください。着て動かしてから、針を入れる場所を見ます」


 男は箱へ伸ばしかけた手を下ろし、頷いた。ミラは返事を見届けてから道具を包んだ。


 針山には朝の包みがかかったままだった。鋏をしまおうとすると、シリルが袖を持っていた手を開く。布の縁に押されて指が赤い。


「うちの採寸狂は、針を出す暇もなかったね」


「縫ってしまったら、また腕が止まります」


「なるほど。では、この手は今日はもう用済みかな」


 彼は長い指を曲げて見せた。ミラは赤い跡へ目を落とした。


「少し休ませてください。次も同じ高さで持っていただくので」


「次もあるんだね」


 シリルの口元が緩んだ。ミラは首へ巻尺を戻した。


 王の左肩にはもう紺だけが載っている。ミラの指が離れても丸みは崩れなかった。戸の外へ動く裾に合わせ、道具の包みを抱えてあとへ続く。


 廊下の先で外気が頬に触れた。宮の門が開いている。待っていた人々の声がそこから押し寄せ、レウベンの名を呼んだ。


 ミラは王の肩へ伸びかけた手を下ろした。


 直すところはない。戸口の光の中で金糸が見えた。小部屋の灯りに載せていたときよりも、明るく返った。


 門の向こうから呼ばれる王の肩を、今度は紺だけが包んで出ていく。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


前夜、ミラは縫い終えた服を預け、朝にはその肩に違う手の糸を見つけます。きれいに留められた裏地でも、着る人が動けるとは限らない。袖口の繕いと王の一着を見比べる場面では、糸を入れた人の手と、服を着る人の体を別々に確かめるところを書きました。


糸が切れても、ミラの指はすぐには抜けません。肩の丸みが戻るまで袖を持つシリルと、台のそばで待つレウベン。出立の鐘の間に残った、その短い仕事で朝の場面を閉じています。


いよいよ大聖堂へ向かいます。次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマークや感想も、続きを書く励みになります。

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