第22話: 最高の一着を作るだけ
閉じた採寸帳の角が、ミラの掌に食い込んだ。
「このまま出す。ほかに背はない」
ゴドーが取ったのは、儀仗兵エッケルトの上着だった。昼に槍を立てただけで襟が喉を押し、赤い筋をつけた服だ。明日の正午には、これも儀典長の検分に出される。
襟に柔らかな布が足してある。肌への当たりを弱めても、短い背が襟を引き上げることは変わらない。
「背だけ裁ち直して、こちらで縫っていただけませんか」
「昼は縫い手を貸せと言ったな。今度は仕事を増やすのか」
ミラは採寸帳を開いた。空いた頁へエッケルトの名を書く。
「陛下の服は、あたしが縫います。こちらは測って、直す線を紙に残します。裁つところから先をお願いします」
「お前の型を一着ずつ待ってたら、ほかが止まる」
ゴドーは上着を椅子へ戻しかけた。
「全部引き直しません。胸も腰も合っていました。親方の型の背だけ使わせてください」
ミラは台に揃った型紙を指した。布を裁つ線が引いてある、繰り返し使う紙の型だ。
「エッケルトさんは首が前へ出ています。そのぶん、背の上だけ長くします。合っているところは残せます」
ゴドーの手が止まった。上着を裏返し、背の縫い目から肩へ指を滑らせる。
「紙だけで済むと思うな。誰が着せて確かめる」
「あたしが。朝、陛下の肩と襟を組み終えたら来ます」
縫いたい線がもう見えていた。自分で鋏を入れ、針を通し、合ったところまで見たい。けれどそれを始めれば、部屋に残した王の紺は朝まで動かない。
採寸帳の頁を押さえていた指を離した。
「縫う方にも、着ているところを見ていただきます」
「数十着だぞ。あの兵だけ見て帰るのか」
「ほかの方も測ります。今の布で直せる方には印をつけます。裁ち直す方は分けます。縫う順は……親方に決めていただきたいです」
ゴドーは帳面に手を置いた。大広間の奥には、帰り支度をする職人がまだいた。彼はその一人を呼び止めた。
「明朝は背の裁ちから入れ。ほどきは先に済ませておく。袖の台はいつもの順を変えるな」
職人が上着を受け取った。ミラはその肩を持ちかけ、手を下ろした。
ゴドーは棚から薄い反物を引き出した。
「胴の裏は、まだないんだな」
「はい。見返しの紺と、襟裏の絹はあります」
前を開いたときに見える部分は紺で折り返す。足りないのは、背や袖の内側を覆う布だった。
広げられた灰の絹に指がすべった。薄いのに織り目は詰まっている。
「これならシャツに引っかからない。背の折りも厚くならないし、袖にも……あ。こちらのぶんでは?」
「兵や侍従の服に要るぶんは裁った。残りだ」
巻尺を当てると、王の胴と袖の内側が取れた。欲しくて、掌が反物を押さえた。
ゴドーがそのままミラの側へ押す。
「御一着を取り合ってる時なら渡さん。今はお前も俺も、同じ式に納めるんだ。使え」
ミラは絹を抱えた。礼を言う前にもう一度、指の腹で織り目を確かめてしまった。
戸口について来たシリルが、反物の札を取った。
「移した分は私が控えて、主計官のイレーネに渡す。朝の着合わせに人も集めよう。親方、いつなら台を空けられるかな」
「朝の鐘のあとだ。ここに戻す服から着せる」
ミラが採寸帳を取ると、ゴドーは小部屋の方へ顎を向けた。
「お前の客を忘れるな。襟も組んでこい」
部屋では王の紺が、胸の丸みを支える仕立て枕に載っていた。おがくずを固く詰めたその枕へ肩を添え、ミラはようやく針を入れた。
指貫を当てる中指の腹が鈍く痛む。角度を変えて針を押した。胸の芯を留めた目には触れず、肩の端だけ今の丸みに添えて縫い戻す。
襟は麻で試した高さに組んだ。頭を下げても喉を押さないよう、裏の絹を返して縁を確かめる。
従者がパンを置いていった丸椅子は、台の向こうにあった。灯りに油を足したあとも、ミラは椅子へ回らず針を取った。
朝の鐘が鳴るころ、紺の肩と襟はつながっていた。両袖を粗い糸で仮に留めてから、裏地の紙を起こす。背の中央には小さな折りを残した。腕を動かすときに折りが開けば、裏が表を引き止めずに済む。
そこまで済ませて、大広間へ向かった。
エッケルトはシャツで待っていた。台には外した袖と、短かった背が置かれている。ミラが紺を縫う間に、別の手がほどいてくれたものだった。
「槍を持って、昨日と同じように立っていただけますか」
首の付け根へ巻尺を置いた。槍へ腕を伸ばすと背が丸くなり、巻尺は肩の骨のふくらみに沿って長く回る。
背の上が足りないから、前の襟まで持ち上がる。この丸みに届く布を足せば、首を反らさずに息ができる。
ミラは元の型紙へ薄い紙を重ねた。写した背の上を切り開き、足りない長さだけ紙を挟む。
「首の下に三目盛り足します。裾は伸ばしません。ここへ足したぶん、下で戻します」
裁ち係が線を指で追った。ミラは背の上を指し、次に元と重なる裾を示す。袖のつく穴も仮の袖を当てて確かめた。脇の底は動かさず、肩側の線を合わせる。
裁ち係が紙を布へ置くと、ミラの手が鋏へ伸びた。
「こいつが裁つ。お前は次を測れ」
ゴドーに止められ、手を引いた。
鋏が布へ入る音を背で聞いた。切った端を確かめたかったが、壁際では冠を運ぶ侍従が待っている。
盆を持つ高さへ両手を出してもらうと、低いほうの肩で襟が傾いた。許しを得て肩の縫い目をほどき、体の高さに合わせて留める。
「詰め物で左右を揃えるほうが早くないか」
「腕を出すと首へ寄ってしまいます。この方は盆を持つので」
ミラは名前の札に左右の印を添えた。肩を縫う職人は、留めた布を裏返して線を確かめる。
「この印まで、こちらを下げるんだな」
「はい。腕を上げたところも見てください」
侍従がもう一度両手を出した。職人は傾かなくなった襟を見てから服を受け取り、自分の台へ戻った。
裾を直す上着は仕上げの台へ渡した。袖は合っているので外さない。縫い手がミラの印まで折り上げる間に、ゴドーは待っていた別の服を袖の台へ回した。
ミラが次の人を測り終える前に、直した裾が膝から離れた。紙を待つだけの手はなかった。
朝の着合わせが終わると、シリルが戻ってきた。
「検分は予定どおり正午。ただし御一着は君の部屋で見る。陛下が儀典長に、運び出すと仕上げが遅れるという君の紙を出してくださった」
「肩と襟を見せればいいんですね。夕方は、両袖と裾の動きを陛下に確かめていただけますか」
「時間をいただいてある。ところで、朝から食べたかな」
「肩を縫いました」
「それは知っている。食べたものを訊いているんだけど」
パンの皿は椅子へ置かれたままだった。
シリルは笑いかけ、ミラの顔を見て笑うのをやめた。
「部屋へ運ばせるよ。手を洗ったら食べてほしい。君が倒れたら、私の段取りも止まる」
「パンのために肩はほどきません」
「そこは心配していないよ」
部屋へ戻ってパンを食べ、正午には肩の縫い目を裏まで見せた。儀典長はまだ仮留めの袖と、縫いつけていない裏地を確かめた。残る工程を伝えると、同行の役人が書き取る。運び出せとは言われなかった。
兵や侍従の服は、そのあと大広間で検分された。戻ってきたシリルは、エッケルトの上着も直しの札をつけたまま見せたと伝えた。裁ち直した背を示し、明日の夜までに仕上げて納めるとゴドーが請け合ったという。
夕方、レウベンが両袖のついた紺を着た。
「昨日より重いね」
「裾まであるので。いつもの歩幅で歩いてください」
裾は膝から離れ、仮に当てた灰の裏地も表を引かなかった。両腕を前へ出すと、左袖にだけ細い皺が寄る。つけ根の糸をほどき、腕の向きへ少し回して留め直した。
「もう一度、お願いします」
「……今度は引かれない」
肩を移した背の上もつれなかった。頭を下げてもらい、喉の下へ指を添える。襟は近づいたが、肌を押さなかった。
「これで本縫いできます」
「兵の人の上着は?」
「背を裁ち直して、親方のところで縫っていただいています」
「その人も槍を持って確かめてほしい。式では、ずっと立つから」
ミラは頷き、紺を脱いでもらった。糸の印を確かめて枕へ戻す。今度は針を進めてよかった。
日が落ちるまで袖を縫い、灰の裏を留めた。次は襟の縁に金糸を置く。硬い金を何度も布へ通すと折れるから、細い絹糸で上から留めていく。
指の下で金が曲がった。王が頭を下げるところだけは、まだ留めない。実際の首に添わせた丸さを崩さないよう、端を持ち直した。
灯りの油を足したところへ、扉を叩く音が届いた。
「嬢ちゃん。手を借りる。縫わんでいい」
ゴドーが持ってきたのはエッケルトの上着だった。ミラの新しい紙から裁った背が、前の身頃とつながっている。袖はまだしつけで留まっていた。
「着せてみたら左の袖が回った。紙では合ってる。お前が見た槍の腕を、もう一度見ろ」
ミラは金糸を台へ置いた。針を針山に戻してから立ち上がる。袖の向きなら、布を着た人がいなければ決められない。
大広間は昼ほど暖かくなかった。帰った職人の台には布が掛けられている。仕上げの手が残り、壁際にはエッケルトが槍を持って立っていた。
ミラは背へ手を添えた。
首の下に渡した丈は、丸い背へ収まっている。槍を立てても襟は上がらない。左の袖だけが肘でねじれ、手の動きを引き戻していた。
「袖の向きです。こちらの腕は前へ出ています。少し回して、槍を握るほうへつけます」
しつけを外すと袖が自分から回った。その位置で留める。エッケルトが石突を床へ下ろした。
裾は下りたままだった。
「首はどうですか」
彼は口を閉じて息を吸った。襟の上の喉が、ゆっくりと上下する。
「今度は、息が入ります」
柄を持ち直しても肩の布は引かれない。エッケルトは顎を反らしかけて、やめた。
「先王のころは、顎を上げて立てたんですが」
掌を置くところだけ、槍の木が濃くなっている。
「顎はそのままでお願いします。襟をつける場所が変わってしまいます」
「では、この立ち方で。式の前の点検も、これで受けます」
エッケルトは留め具を外した。脱いだ上着を渡す手が、襟をつぶさないように開いていた。
ミラは受け取り、札をつけたままゴドーの台へ置いた。
袖を縫う職人はもう帰っていた。ゴドーが丸椅子を引いた。
「襟が下がった分、後ろの留めが少し余る。そこを押さえてろ」
ミラは台の隣へ入った。裏を返した襟へ指を差し、背の丸みをつぶさない高さで持つ。
ゴドーは指貫をはめ、仮留めの袖を縫いつけた。それから襟の裏へ針を移す。
最初の針は浅かった。抜いた糸が長く残り、太い指が巻き取る。次の針は同じ位置へ戻らず、ひとつ先の布をすくった。引き締めた目を親指で撫でると、余った襟裏が落ち着いた。
ミラは布を持ち替えた。
帳面を握っているときには見えなかった指の腹が、灯りの下へ出ている。針を押すところは硬い。縫い終わる手前で親方の袖がつっかえ、左肩が少し上がった。彼は椅子を寄せて角度を変えた。
「その袖も、前へ向けたら動きます」
「こいつを納めてからだ」
ゴドーは針を抜いた。
エッケルトは台の向こうで待っていた。ミラは相手の背と、手の中の紺を見比べる。ここが合えば終わる。あとで襟を浮かせて逃がす必要もない。
「もう少しだけ。ここの裏が表を引きます」
「見えてる」
ゴドーは留めたばかりの目をほどいた。
糸切りへ伸びる手に迷いはなかった。それでもほどいた糸を捨てるまで、少し間があった。指が布を撫で直す。新しく通した針は、さっきよりわずかに遠いところへ入った。
「……俺にも、あんな時があった」
針は動いていた。
ミラは襟の裏を持ったまま親方を見た。ゴドーの目は彼女へ上がらず、布の端を追っている。
「もう合ってると言われても、あと一目ほどいてた。客が立ってるうちは帰せん。肩が下りたところを見れば、また直したくなる」
奥で鋏が閉じた。ミラは顔を上げず、親方の針先を避けて布を持ち替えた。抜けた糸が指へ触れる。太い指に巻かれていたところだけ、まだ温かかった。
以前、彼が若いころの話をしたときには、途中で帳面を握り直した。今日は帳面が台の端に置かれたままだ。ゴドーは縫ったところを広げ、向こうで待つ客に目をやった。
「戻ると、台に次の注文がある。そっちへ行けば、その一目を忘れられる。忘れたほうが早いんだ」
指先が襟の縁で止まった。
ミラは持っている布を少し上げた。親方の針が入りやすいように。何を忘れて、何を覚えていたかは、この手から読めない。今ほどいた縫い目だけは見ていた。
「親方。今はその一目、縫えます」
ゴドーの指が動いた。
ひと針入れて糸を引く。確かめてから、もうひと針。ミラは布を張らせなかった。針の行く先へ指をずらし、親方が襟を返す場所を空ける。
奥で留め具を縫う糸が引かれた。ゴドーの針は襟を離れなかった。
その台から留め具のついた上着が運ばれてきた。ゴドーは針を指に挟んだまま、その袖口を確かめた。ミラが朝に置いた折りの印と、縫い終えた裾が重なる。
「こいつは納めていい。札を外すな」
職人が上着を運んでいく。
ゴドーはエッケルトの襟へ戻った。余りを送った場所へ最後の目を入れた。ミラが手を離すと、紺は押さえられていた丸みを保ったまま台に落ちた。
「着てみろ。槍もだ」
エッケルトが袖を通す間、親方は糸を切らなかった。まだ直すかもしれない長さを、指に巻いて残していた。
槍の石突が床を打った。
エッケルトは顎を反らさなかった。ゴドーは横へ回り、首の後ろの布を確かめた。それから台へ戻って、残していた糸を切った。
ミラは指の腹を擦った。布を持っていただけの指にも、針の出入りした細かな振動が残っている。
「お前の道楽は、明日も続くんだろうな」
「はい。陛下の襟の縁がまだなので」
ゴドーは針を針山へ刺した。
「なら、御一着へ戻れ。こっちは俺が納める」
ミラは採寸帳を取った。エッケルトの背の紙はその下にあったが、ゴドーが先に押さえた。
「こいつは置いていけ。次にあの人が来ても、同じ背で裁れる」
ミラは帳面だけを抱えた。
規格の紙と少し違う背の紙が、親方の手元に残った。
小部屋へ戻ると、ミラは冷えた指を湯で温めた。
襟の金糸は、置いた形のまま待っていた。親方の袖はつっかえたままだったし、王が明日どんな顔で着るかもわからない。湯から手を上げ、よく拭く。
あたしは人生を仕立て直したりしない。最高の一着を作るだけ。
王の襟を持った指には、親方の針の出入りがまだ残っていた。
廊下で足音が止まった。シリルが一式の納めの控えを持っている。
「親方のぶんは、約束より早く仕上がった。着合わせを済ませた服から預けている。君の部屋だけ、まだ灯りがついていたね」
「朝には縫い終わります。昼に少し休んで、夕方に最後の着合わせをしたいです」
シリルは台の紺を見た。裾の下に灰の裏の端は覗かず、肩から袖へ布がつながっていた。
「陛下には私から伝える。今はここを持てばいいかな」
「お願いします。襟を引かずに、端だけ」
椅子が台へ寄った。向こう端を預けると、金糸の曲がりが指の間へ収まった。
眠気で針先が二つに見えるたびに台へ置いた。水を飲んで、金の線を触り直す。灯りでは合って見えても、爪がかすかに引っかかるところがあった。糸をほどき、そこだけ留め直した。
シリルは布を引かなかった。抜いた糸を台の隅へ寄せ、端を持ち直す。ミラが次の針を入れるまで、襟は同じ高さにあった。
金の端を内側へ納めたころ、窓の外が白くなった。
ミラは留め具を通して確かめ、胸の内側の袋へ指を入れた。染めむらの白い筋を残した布にも、引かれるところはない。最後のしつけ糸を抜くと、シリルが端を離した。
上着を持ち上げた。
襟の重さが指へ返る。頭を下げた王の喉の前に残した空きは、縫い終わっても狭まっていなかった。肩を揃えて台へ置く。裏も表も、もう待ち針は残っていない。
「できたね」
「はい。できました」
シリルはしばらく紺を見ていた。ミラは丸椅子へ腰を下ろし、台に置いた採寸帳の角へ触れた。親方の台で掌を刺した角を、今は力を入れずに押さえられた。
まだ朝だった。日が暮れたら式の前夜になる。
シリルが従者へ運び方を伝えた。肩を折らず、夕方の着合わせまではここへ置いておくようにと。
「預けたあとは、シリルさんも一緒にいられますか」
「式服を置く部屋は儀典長の管理だ。私は受け渡しに立ち会える。けれど、夜通し中にいる許しはない」
ミラは膝の上で指を擦った。自分で触って確かめた襟を見て、ようやく手を下ろす。
今夜、この紺を預けたら、明朝までミラもシリルも触れられなくなる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、ゴドーが椅子に座るところをいちばん長く考えました。エッケルトを待たせている台で、ミラが長く昔話を聞くのは、この二人らしくない気がします。何を言わせるかより、針を持った手をどこで止めるか。その手元を追いながら書いた回でした。
ミラの作業台だけでなく、隣の広間の台の並びも考えながら書いています。誰が布を持って、誰が次の袖を待つのか。ミラが部屋を行き来するたびに、残った服を誰が縫うのかも確かめました。布には詳しくても食事の問いには答えられないミラのところで、少し息抜きしています。
一着が縫い上がっても、最後に着る人へ合わせる仕事が残っています。次回は式の前夜へ。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマークや感想も、続きを書く励みになります。




