第21話: 仮縫いの夜
麻の肩をつまむと、抜いた糸の跡が指に引っかかった。
ミラは朝の光へ布をかざした。夕方、この麻で陛下の肩を試す。合った線を本番の紺へ移す。それまでは紺の肩を縫い閉じられない。
「今日も、ほどくところからかい」
戸口のシリルに、ミラは糸切りを置いた。
「さっき狭く縫ってしまったんです。もう直しました」
「では、直しにくい話を一つ」
差し出された紙は硬かった。台へ置くと、角が麻を押した。
「明日の正午に一式を検分する。儀典長からだよ。君のほうは、肩と襟を本番の紺で見せるように、と」
「仕上がりは式の前の晩です」
「完成までは求めないそうだ。間に合うと品物で示してほしいらしい」
ミラは紙の下から麻を引いた。糸で形を組んで体に当てる仮縫いを、夕方に約束してある。そのあと紺へ移して縫えば、明日の正午には上着の形を見せられる。だが検分のために運び出し、戻してから仕上げる時間までは取っていなかった。
「裏地も、まだ来てません」
シリルの指が紙の端で止まった。
「御用達の店は、君の名を出すと売らない。今朝も同じ返事だった」
「前を開いたときに見える裏の紺はあります。襟裏の絹も。足りないのは胴に回す布です」
枕の上では、紺の胸が丸みを保っていた。昨夜、右の胸にも芯を留め終えた。胸の張りを支える芯の端だけ、肩のところで外してある。
もう縫った胸を崩さず、肩を直すためだった。
「今夜、紺の肩と襟を組みます。でも検分から戻ってほどくことになったら、そのぶん遅れます」
「その説明を紙にしてくれるかな。私は条件を変えられないか、もう一度話してくる」
「検分そのものは、なくならないんですか」
「私が止めれば、御一着を見せられない理由があると言われる。そこを君の針で埋めさせるわけにもいかない」
シリルは紙を麻の上からどけた。
「昼に大広間へ持ってきてほしい。ゴドー親方の着合わせも、私が見ている」
ミラは頷き、針へ手を戻した。
朝から締め直した糸が、麻の中で白く見えた。先を急ぎたいのに、体に当てる前には切れない糸だった。
昼の大広間は、入口まで羊毛の湯気で暖かかった。
紙を渡したミラの袖へ、運ばれてきた上着が擦れた。縫い手の膝を離れたばかりの布だった。袖をつける台から留め具をつける台へ渡され、向こうではもう別の上着が広がっている。
ミラの部屋にある紺は、まだ枕の上だ。ここでは、人が通るたびに服も動いていた。
「少し、着合わせを見てくれるかな」
シリルが壁際を示した。
白髪を短く刈った兵が、紺の上着に腕を通していた。槍を持って王の通る道を固める儀仗兵だという。顎の下に浅い皺が寄っている。留め具を閉じた若い縫い手が、胸へ巻尺を回した。
「胸回りは合っています」
兵が脇に置いた槍を取った。
節の太い指が柄を握り、石突が床を打つ。その音と一緒に前の裾が上がった。襟が喉へ寄り、兵の顎を押し上げた。
ミラは一歩近づいた。
「お客様。その持ち方は、式でもなさるんですか」
「はい。壇へ上がる段の脇で、こうして立ちます」
兵は足を揃えた。柄は動かなかったが、喉が襟の上で一度上下した。
「苦しくありませんか」
「少し。立っているだけなら平気です」
「お名前を伺ってもいいですか」
「エッケルトと申します」
「エッケルトさん。肩の縫い目に触れても?」
頷きを待って、ミラは指を置いた。
背の布が硬く張っていた。槍を握る腕をわずかに下げてもらうと、張りが緩む。上げると背から肩へ布が引かれ、胸も襟も一緒に上がった。
この人は首が前へ出ている。その首を通って胸まで届く布が、足りなかった。上着はもっと首のまっすぐな人に合わせて裁ってある。
「ここだ。背の上が短い。肩を越える前に引っ張られてる」
指が肩の線をたどった。後ろへ回りかけて、ミラは相手の顔を見た。
「……すみません。もう少し見せてください」
「直せそうですか」
「背のほうを長く取れば、襟は下がります」
口にした途端、直した肩の形が見えた。少し前へ出た首の後ろに布を添え、腕が槍へ伸びるぶんを残す。上着の襟は、この人の喉の下へ収まる。
ミラは裏の縫い目へ指を入れた。
そこに、伸ばせるだけの布はなかった。
「出せる分は出した」
ゴドーが横から縫い目を返した。縫い合わせた線の外に残る布は、爪の先でやっとつまめる幅だった。
「幅じゃなくて、背から肩へ回る長さが——」
「わかってる。背を裁ち直すんだな」
ミラは裏返した肩を持っていた。
背を新しくすれば、ついている袖を外す。裏もほどく。今度はエッケルトの体から紙の型を起こし、布を曲げ、また着てもらって確かめる。その間、王の肩には針を入れられない。
「陛下の服を縫う人を、一人お借りできませんか」
ゴドーは近くの台から型紙を取った。
使い込まれた縁が毛羽立っている。背の高い人に使う紙の上へ、中背の紙を揃える。形の違う袖の紙を指で選び、待っていた裁ち係へ渡した。裁ち係はそれを受け取ると、すぐ布に置いた。
「三つの型で数十着を回してる。縫ったら終わりじゃねえ。ここで着せて直す手も要る。今一人抜けば、次の台で服を待ってる奴が止まる」
ゴドーの目が、ミラの首へ下がった。
「お前はどれを止めて、どれを先にする」
壁際で侍従が名札を胸に当てていた。冠を運ぶと聞いて、ミラはその腕の角度を見てしまった。片側の肩が低い。次に手を伸ばしたくなったが、今はエッケルトの肩さえ持ったままだ。
ゴドーは急かさなかった。
隣で縫い手が糸を結ぶ音が聞こえた。ミラが返事をしない間にも、縫い終わった袖が次の手へ渡った。
「……残りの時間で済む直しは、まだ言えません」
ゴドーは上着の襟を折り返した。
「喉に当たる縁へ、柔らかい布を入れろ。エッケルト殿はいったん脱いで、あちらで待ってもらえ」
若い縫い手が布を取りに行った。
エッケルトは槍を壁へ預け、胸の留め具に手をかけた。指が外しかけて止まる。
「無理でしたら、このままで。式の間くらいは我慢できます」
ミラは襟の下を見た。喉に赤い筋ができていた。
「外しますね」
許しを得て、いちばん上の留め具を外した。前が開くと襟が離れ、エッケルトは口を閉じて息を吸った。次の息は、さっきより長かった。
ミラの指のすぐ下で、喉の赤い筋が動く。
台には紺の布がある。あの人の背を裁つだけなら足りる。朝まで探していた裏地とは違う。布がなくて直せないのではなかった。
ミラは首の巻尺を外した。
「背の長さを、測らせていただけますか」
エッケルトは上着を脱ぎ、シャツで立った。首の付け根へ端を置くと、温まった肌が布越しに返ってきた。
前へ出た首から背へ、巻尺を沿わせる。肩は左右とも槍を取ったときの位置へ戻っていた。これなら、この人だけの背が引ける。
採寸帳を開こうとして、ミラは手を止めた。
夕方の仮縫いが終わったら、王の紺へ線を移す。そのあとは夜を縫って、式の前の晩に仕上げる。もう一着を初めから組む夜は、どこにも残っていなかった。
背に置いた指が、巻尺を押しつけていた。緩めなければ寸法が狂う。ミラは指を浮かせた。
測れる。直す場所もわかる。
その先を引き受けられないまま、名前だけを帳面に増やそうとしていた。
「お針子さん?」
エッケルトが振り向こうとした。ミラは巻尺を離した。首元から端が滑り、シャツの背が元に戻る。
「……すみません。あたしには、式までに縫い直す時間がありません」
巻尺を握る親指が折れたままだった。いつものように、次に測る場所へ動かない。
「では、もう立ち直っても?」
「はい。お待たせしました」
ミラは上着を取り上げた。肩を揃えると、指の下で縫い目がきれいに重なった。丈の足りない背も、丁寧に縫われていた。
縫い手が戻ってきた。その手へ、ミラは上着を渡した。
襟の縁を柔らかくしても、背は長くならない。そうとわかっていて、手を離した。
「エッケルトさん。あとで、また着て確かめてください。苦しかったら、そう言ってください」
「承知しました」
彼はシャツのまま槍を取った。両手で立て、脇の椅子まで運ぶ。顎は上がらなかった。喉に布がなければ、何も変えずにその持ち方ができた。
ミラは巻尺を首へ戻した。布の端が、冷えた指に触れた。
シリルが戸口まで来た。進み具合の紙は彼の手にあった。
「私はここに残る。検分に出す服を、親方と確かめておくよ」
ミラは頷いた。
部屋へ戻るまで、採寸帳は閉じたままだった。
夕方、レウベンの藍の上着を受け取ると、肩にぬるい汗が残っていた。
「車は借りられる。返す日だけが、まだ決まっていない」
王は後から入ってきたシリルへ顔を向けた。
「明朝、貸す側の仕事も聞きます。空にして戻す日を、それから決めましょう」
「頼む。麦を下ろせば終わり、と思ってた」
レウベンは台の麻を見た。
「これを着ればいいのかな」
「はい。縫い通りからいただいた麻です。今日は肩だけなので、下がありません」
「なるほど。……裾を探してた」
ミラは麻を持ち上げた。首と肩を覆い、胸の上まで届く布だった。仮の襟は、高さを試す帯にしてある。
レウベンにかぶせて前を紐で留める。脇にも紐を渡し、肩が逃げないようにした。
「昨日と同じ姿勢でお願いします」
「少し伸びてた?」
「はい。肩の力を抜いてください」
麻が背から肩へ落ち着いた。ミラは首の付け根に指を置いた。昨日測り直した形へ後ろの余りを減らし、前へ丈を渡してある。胸の布は引き上げられなかった。
「腕を前へ。何か受け取るくらいの高さで」
両腕が出た。左の肩で麻が細くつれた。
「ここ、引かれますか」
「少し。右は平気だけど……」
腕を下ろしてもらい、ミラはつれたところの糸を切った。朝、幅を直した側だった。昨日の肩幅に揃えるだけでは、腕を前に出したときの動きを残せていなかった。
肩へ指を入れる。もう一度腕を上げてもらうと、肩甲骨の内側から布が指を引いた。腕だけが上がるのではない。背の上も前へ回っていた。
ミラは腕を戻してもらい、縫い目の外の余り布を送った。待ち針で新しい位置を留める。
「もう一度、お願いします」
麻が動いた。指の下を滑って、肩の付け根へついていく。首元の帯は上がらなかった。
「あ、ここだ。外じゃなくて、こっちに要るんだ。ねえ、今の動き、もう一度——」
ミラは背へ回ったまま喋っていた。
「ミラ。陛下の手は、まだ上がっているよ」
顔を上げると、レウベンが両手を差し出していた。
「これ以上は、何か載せてもらわないと……」
「すみません。下ろしてください。針は載せられません」
「それは私も止める」
シリルが言い、レウベンの腕が下りた。
ミラは新しい線を糸で留めた。麻には、ずらせるだけの余りがある。紺もそのために肩の端を残してある。自分で足りなくした布を、自分の手で戻せた。
指が次の待ち針へ伸びた。
昼、短い背の上着を手放した感触が残っていた。ミラは糸を結び終えたところを撫で、一度手を下ろした。
「もう、いいの?」
「襟を確かめます」
台の冠の記録へ目をやった。写しが届いた日に高さを下げた襟だ。今は昨日引き直した首の線に添えてある。まずは頭を下げたときに、帯が喉へ当たらないかを見る。
顎を引いてもらう。帯の前端が近づき、触れる手前で止まった。
「当たりませんか」
「うん。もう一度、いいかな」
レウベンは自分で頭を下げた。ミラは指を離して見た。深く下げても、喉は押されなかった。
「これで紺へ移せます。ただ、袖と裾をつけたときの動きは、まだ確かめていません」
麻の紐をほどく。今度は指が結び目にうまく入らず、中指の腹に鈍い痛みが出た。針を押し続けたところだった。
持ち替えてほどくと、王は何も言わずに腕を下ろしたまま待っていた。
「昼、ほかの人の服を見たと、シリルに聞いた」
ミラは麻を外す手を止めなかった。
「槍を持つ兵の方の背が、足りませんでした。裁ち直せば合います。でも、あたしが今からその一着を縫ったら、陛下の服が間に合いません」
肩から外した麻は軽かった。手の中に収まる白い布を、ミラは台へ置いた。
「……今日は測るのをやめて、戻ってきました」
レウベンは自分の藍の上着を取った。袖を通す間、ミラは余った麻の端を折っていた。
「明日の検分の話は、僕も聞いてくる」
ミラは顔を上げた。
「変えられるかは、わからないけど。僕が着る服のことだから」
シリルが戸を開け、控えていた従者へ面会の取り次ぎを頼んだ。レウベンはボタンを留め終えてから、ミラに向き直った。
「今夜は、まだ縫うんだね」
「はい。肩を紺へ移します」
王は頷いて出ていった。
小部屋に戻ったシリルは、返事は朝になると告げた。布も検分の条件も、まだ変わっていなかった。
灯りの下で、ミラは麻を広げた。
つれを直した肩へ細い糸で印をつける。紺を隣へ寄せ、胸の芯を留めたところには触れず、肩へ線を移した。
ここに沿って縫えば、陛下の肩になる。
ミラは針に糸を通した。縫うところを指で挟む。針先を入れる前に、手が止まった。
エッケルトの背を測りかけたときと同じ指だった。さっきはこの手で肩のつれを直し、口が勝手に喋っていた。直せたことは嬉しかった。今も、紺へ移した線の続きを早く縫いたかった。
この一着を仕上げても、あの人の喉には襟が当たる。
ミラは紺の肩へ針を留めた。布を枕に戻し、閉じた採寸帳を持った。
「どこへ行くのかな」
戸口のシリルに、ミラは答えた。
「親方のところです。まだいますか」
「大広間に。職人を帰す順を決めている」
ミラは首の巻尺へ手をやった。昼と同じように測っても、縫える時間は増えない。何を頼めば仕事を止めずに済むのかも、まだわからない。
それでも小部屋の戸を出た。
大広間からは、まだ鋏の音がしていた。昼の列はなくなり、椅子の背に紺の上着が掛かっている。襟裏へ柔らかな布が当てられ、胸にはエッケルトの名札が残っていた。
ゴドーは裁ち台に紙を揃えていた。ミラに気づくと、重しを置いた手だけ止めた。
「御一着へ戻ったんじゃなかったのか」
ミラは椅子に掛かった上着を見た。自分が縫い手へ渡したときの肩のままだった。
採寸帳を台の端へ置く。開けるために指をかけたが、紙をめくれなかった。
「親方。エッケルトさんの上着は、明日あのまま検分に出すんですか」
閉じた採寸帳を挟んで、ミラはゴドーの返事を待った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
王の仮縫いでは、ミラは自分で狭く縫った肩を直しています。一方、エッケルトの背は、直す場所がわかっても引き受けられません。同じ巻尺を持ったまま測るのをやめるところは、書いていて手が止まりました。
今夜の紺には、まだ針を進められる場所があります。ミラがそこへ戻るまで、次回はゴドーの裁ち台にお付き合いください。




