第20話: 逃げる王
巻尺の端が、ミラの指の中で冷たくなった。
「僕は、王をやめたい」
戸口のレウベンは外套を抱えていた。夜露を防ぐ薄手の布から、顔を隠せる深い頭巾が垂れている。
ミラは針を仕立て枕に刺した。昨日終えた左の胸が台の端に置いてある。今朝から縫っていた右の胸は、まだ芯を留める途中だった。
王のための紺の布が両側にあるのに、着る人は戸口から入ってこない。
「……入っても、いいかな」
「どうぞ。そこは針が落ちているかもしれません。台の向こうを通ってください」
レウベンは言われたほうへ歩いた。床を見ながら、ゆっくりと。外套は抱えたままで、隅の丸椅子に座った。
着ているのは、ミラが最初に仕立てた藍の上着だった。
前の合わせに細かな皺がある。襟の後ろも少し浮いていた。ミラの指が首の巻尺へ伸びたが、途中で止まった。
「こちらへ来ることは、どなたかに——」
「誰にも言ってない。自分の部屋から来たんだ」
レウベンは外套を膝に置いた。
「縫うのをやめてもらおうと思って。君にだけは、先に」
北向きの窓から風が入り、台に置いた襟の紙をめくった。ミラは鉄の重しを載せた。昨日、陛下の採寸帳から引いた線だ。
「戴冠しない、とおっしゃるんですか」
「……そうしたい。退位できないかと、今朝から考えてる。まだ冠を戴いてないのに退位と言うのも、変なのかな」
口元は笑う形になった。けれど、その先の息は続かなかった。
「式に出たくない。あそこから逃げたいんだ」
膝の外套を握る指が白かった。
ミラは針へ戻ろうとした手を下ろした。
「今朝、何かあったんですか」
「北へ送る麦の話をしてた。種にする分と、食べる分。僕が送ってほしいと言ったんだ」
レウベンは台の紺を見ていた。
「運ぶ車が足りない。道を直す金も要る。その金をどこから出すか決めろと言われた。どこから減らしても、そこに暮らしてる人がいる」
両手が外套の上で開いた。握り直そうとして、握れなかった。
「僕が決めなきゃ麦は動かない。でも間違えたら、僕が決めたせいで誰かが冬を越せない。足りないとわかってるのに、送れば大丈夫だなんて言えない」
窓の風で、外套の頭巾が揺れた。
「父上みたいにできないのは、もう知ってる。そうじゃなくて……僕のやりたいことでも、できないんだ」
ミラは丸椅子の前に立っていた。レウベンの靴の先が、椅子の下へ引かれている。
「冠を受けたら、みんなが僕を見るだろう。これで安心だと思う人もいるかもしれない。何も決められない僕が、その顔をして立つのが怖い」
外套の留め具を、レウベンは指でいじった。
「暗くなったら、これを着ようと思った。顔が見えなければ、通用口から出られるかもしれない。……そんなことを考えてた」
ミラの首で巻尺が擦れた。
初夏にこの人が工房へ来たときも、隅の丸椅子に座った。あのときは、作りかけの肩を見ていた。今日はもう作らなくていいと言いに来ている。
あのとき掛けた言葉を、今また掛けても、この外套を置かせることはできない気がした。
「君にも謝らなきゃいけないね。せっかくここまで——」
レウベンの目が、枕の上の紺へ移った。
胸の丸みを支える芯には、小さな縫い目が並んでいた。朝から進めた針の跡だった。
「……ごめん。続きを縫わせるために来たんじゃないのに、また言えなくなる」
ミラは紺に手を置いた。指の腹へ硬い毛の先が返ってくる。
これを縫い終えたら王が立つのか。立たないのか。それは、芯に針を通してもわからない。
ただ、戸口で見た藍の襟が気になった。
首の後ろに空いた隙間。肩に残っていた皺。最初に組んだとき、あんな余り方はしていなかった。
「陛下」
ミラは首から巻尺を外した。
「測らせてください」
レウベンは巻尺を見た。外套の留め具から、指が離れた。
「今、測っても……」
「今のお体を測りたいんです」
巻尺の端を手の中に収めた。まだ一歩も近づかない。
「お嫌でしたら、触りません」
答えを待っている間に、指先が冷えていった。
老いた侯爵に化けていた若者を測った日、ミラは相手の返事を待たなかった。肩を読んだら口が動いた。台帳と骨格が違うことを、従者たちの前で全部言ってしまった。
これ以上、見ないでくれ。
あの若者の声を思い出して、巻尺を握り直した。布の下を読む指は今も同じ指だった。
この王の体から、見たくないものが返ってくるかもしれない。ミラの作った上着の中で、前より深く身を縮めているかもしれない。
それでも、見ずに同じ肩を縫うことはできなかった。
ミラは端を握ったまま待った。
「……何がわかるの」
「肩の位置です。首の傾き。それで、この襟が余っている理由がわかります」
「僕が王でいいか、は」
肩の位置なら確かめられる。王に向いているかどうかは、巻尺を当ててもわからない。ミラは手の中の端を見て、首を横に振った。
レウベンは長い間、何も言わなかった。
やがて外套を床へ下ろしかけた。ミラは空いている椅子を近くへ寄せた。レウベンはその座面に外套を置き、自分の上着のボタンを外した。
「測って」
最後のボタンだけ、うまく穴を抜けなかった。
「今の僕を」
ミラは戸を閉めてから巻尺を伸ばした。
「立っていただけますか。いつもの姿勢で」
レウベンが立つ。膝の前にあった手が、体の脇へ下りた。
ミラは藍の上着を受け取り、肩を揃えて椅子の背に掛けた。薄いシャツ越しに肩へ触れると、体がわずかに硬くなる。その硬さが抜けるまで、指を動かさなかった。
今度は、待てた。
首の付け根から肩先へ巻尺を沿わせる。右へ回し、左へ戻す。シャツの布を張らせないよう、巻尺を軽く沿わせた。
ミラは台の採寸帳を開いた。
最初の採寸のあと、頭の中の数字を書き起こした頁だ。上着越しに測った長さから布の厚みを引いてある。脇に添えた肩の図には、前へ巻いた位置と左右の高さも残っていた。指で覚えた形を、型紙を引くときに確かめるための印だった。
図と目の前の肩を比べる。
ミラはもう一度巻尺を当てた。引っぱらないように、端を指の腹で押さえる。
「肩幅。前より二目盛りぶん、広いです」
首から提げている巻尺には、小さな目盛りを等間隔に刻んである。ミラは端を持ち直し、もう一度読んだ。
初めは服越しに測ったから、数字の差だけなら誤差かもしれない。だが、ぴたりと沿わせたはずの藍の上着が、今日は襟の後ろで余っていた。肩の図と照らしても、前へ巻く角度が違う。
レウベンが、自分の左肩を見た。
「広いの? 痩せたと思ってた」
「首回りは少し細くなっています。肩の骨が大きくなったわけじゃありません」
ミラは指を肩先に添えた。
「前へ巻いていた肩が、開いています。左右とも」
肩先が、指を置いた場所に収まっていた。うつむいていても、胸の前まで逃げてこない。
怖がっている。それは声を聞けばわかる。触れていいと言われても、肩は初めに硬くなった。今はシャツ越しの指に、さっきより温かい肌が返ってくる。
だが、指の下の肩は採寸帳の図と同じにならなかった。
ミラは細い紐をレウベンの腰へ回した。前と後ろの丈を測り終える場所がずれないようにする印だ。採寸帳に残した腰の位置に揃えて結ぶ。
「首の付け根から、この紐まで測ります。背中に沿わせた長さと、胸に沿わせた長さを別々に比べますね」
背後へ回り、首の付け根から紐へ巻尺を垂らした。
「後ろの丈は、三目盛りぶん短くなっています」
「……短く」
「背中の丸みが減ったぶんです」
丸い背中に沿わせると、巻尺も大きく曲がる。そのぶん首から腰までの長さが増える。今は背のふくらみが浅くなって、巻尺の曲がり方も小さかった。
骨に染みた丸さは消えていなかった。ただ、首から背へ降りる傾きが、あの日より浅い。
ミラは前へ回った。
「前の丈は、三目盛りぶん長いです」
シャツの襟の脇に端を置き、胸に沿わせて腰の紐まで測る。前へ落ちていた首が起きれば、胸側では首から腰までが離れる。息を止めないように待ってから、もう一度取った。
「同じです。三目盛り」
レウベンは動かなかった。
ミラは巻尺を緩め、胸から離した。端が落ちる手前で、レウベンの手が伸びてきた。
「どこまでだったの」
「前の丈ですか」
「うん。……前の僕は」
ミラは採寸帳の数字を確かめた。それから巻尺を差し出した。
「首のところを、持っていてください」
レウベンが端を持つ。つまんだところに爪の跡がついた。
ミラは巻尺を胸へ沿わせ直した。腰の紐に今の目盛りを合わせ、その上の古い寸法に指を置く。
「ここまででした」
古い目盛りは腰の紐まで届かない。ミラの指と紐のあいだに、細い巻尺が露出していた。
レウベンは空いている手を持ち上げた。古い目盛りに爪を置き、そのまま腰の紐まで滑らせた。
指が止まった。
「胸を張ってないのに」
「張っていません。そのままです」
「朝、鏡を見た。まだ駄目だって思ったんだ。前と同じで……こんなところまで来て、僕はまだ」
首元の指が巻尺をつまみ直した。端はずれていない。
ミラは古い目盛りから手を離した。
「前の丈、三目盛り増えています。あの日の陛下は、ここまででした」
レウベンの指だけが、残った幅を押さえていた。
ミラは顔を上げた。
前髪の下で唇が開いていた。何か言おうとして、閉じる。巻尺の端を持つ手は震えていたが、腰へ置いた指は離れなかった。
レウベンは古い目盛りに爪を戻した。今度はそこを押さえたまま、指の腹を腰の紐へ伸ばした。指に隠れなかった幅が、爪の先から覗いていた。
「父上と比べると、まだ小さいって思う。朝もそう思った。でも……前の僕は、ここだったんだね」
ミラは採寸帳を彼のほうへ向けた。頁の端にレウベンの名がある。彼はそれを見てから、もう一度胸元の指に目を落とした。
「いつ、変わったんだろう」
ミラは採寸帳を見た。
「間に測っていませんから。今日の数字しか、わかりません」
初夏の採寸のあと、ミラはこの背を覚えて布を曲げた。今度の紺も初夏の背に合わせて組んでいた。体が少しずつ変わっていることには気づいていたのに、最初の日の図を頼りにしていた。
今日巻尺を回すまで、どれほど違うかを測っていなかった。
「……そっか」
レウベンの肩がゆっくり上下した。巻尺が胸から浮いて戻る。ミラは布を張らせず、息を吐き終えるのを待った。古い目盛りはやはり紐に届かなかった。
「戻るの?」
「何がですか」
「肩。また、前の場所へ」
「一度落としただけなら戻ります。ずっとその姿勢で暮らせば、布に要る形も変わります」
レウベンは自分の肩をすぼめてみた。
巻尺の下で胸が縮む。息が短くなった。けれど肩の力を抜くと、肩先はさっきの場所へ戻っていった。
「……これ、苦しいね」
ミラは幅を確かめた。
「肩幅、また二目盛り広いところに戻っています」
レウベンは胸元を見下ろした。そこには巻尺しかない。藍の上着も、王のための紺も着ていなかった。
ミラは腰の紐をほどいた。首で端を持っていた手から、巻尺を受け取る。
採寸は終わった。
そのまま台へ戻り、今日の寸法を書きつけた。前の数字は消さず、隣に日付を添えた。肩の図にも今の位置を引く。
背の丸みに合わせて縮めた紺を、少し戻す必要がある。前の首元には丈が要った。幸い、まだ肩を本縫いしていない。縫い合わせるために端へ残した布で、今の体へ合わせ直せる。
ミラは肩の端をつまんだ。胸の芯を留めた縫い目には触らず、肩へ伸びた芯の端だけを外せばいい。そこを浮かせてから毛織を曲げ直せば、胸の張りは崩れない。
急がなければならないのに、直す場所がわかって指が熱くなった。ここのふくらみを少し減らす。前を起こす。襟の線も、引き直す。
今朝まで頭の中にあった一着より、いい肩になる。
椅子の脚が床を擦った。
振り向くと、レウベンが丸椅子に座っていた。シャツの首元を押さえ、胸の布を指で下へなぞっている。
「少し、ここにいてもいいかな」
「かまいません。針のある台だけ、触らないでください」
ミラは当て布を濡らした。毛織を曲げ直すため、炭へこてを差し入れる。
鉄が温まる間に、肩のしつけをほどきはじめた。芯の端を表地から離し、仕立て枕の丸みに預ける。右の胸を留める続きは、今夜の仕事になる。
「縫ったところを、ほどくんだね」
「体が変わったので」
「……ごめん」
「陛下のせいじゃありません。あたしが測り直していなかったんです」
指に絡んだ糸を外す。針先の通った紺には小さな穴が残ったが、指の腹で撫でれば毛足の下へ隠れた。
「せっかく縫ったのに」
「合わないまま縫い進めたら、もっとほどくことになります」
ミラは湿らせた布を広げた。
椅子のほうで、袖口が擦れた。レウベンが自分の肩を触っていた。巻尺のあったところを、シャツ越しに。
「もう一度、あれを見てもいい?」
ミラは採寸帳を開いたまま丸椅子へ寄せた。レウベンの手が頁の脇に置かれる。
肩を触っていた指が、今日の数字を探す。
「前の丈は、三目盛り長くなっています。こちらが初夏の数字です」
ミラが指した古い数字を、レウベンは親指で覆った。すぐに指を引き、両方が見えるように手を脇へずらした。
「……消さないでおいて」
「消しません。前の型紙も、残してあります」
レウベンの手がシャツの胸元へ戻った。さっき腰の紐を結んだところまで、指が下りていく。
「僕は今朝のことだけで、あの日から何も変わってないって決めたんだ」
指がシャツに小さな窪みを作った。さっき寸法の差を押さえていた指だった。巻尺がなくなっても、首元から腰までの長さをなぞっている。
ミラは帳面の角を支えた。どの日に何をして、この丈になったのかは測れない。彼が頁を見ている間、帳面を傾けずに持っていた。
「まだ怖い。戻っても、すぐには決められないかもしれない」
レウベンは帳面から手を離した。
「でも、麦の話をもう一度聞いてくる。車を貸してもらえる場所も、まだ全部は聞いてない。最後まで聞いてから考える」
ミラが台へ帳面を戻す間に、レウベンは立って藍の上着を手に取った。
「明日の仮縫いは、何時に来ればいい?」
ミラは手を下ろした。
「夕方に。形だけ糸で組んで、お体で確かめます」
「夕方……わかった。シリルにも、僕から言う」
衣装宮を取り仕切る総監督には、彼から伝える。その声を聞いてから、ミラはこてへ手を戻した。
レウベンは袖を通してボタンを留め、浮いている襟へ自分の指を入れた。
そこに余りがあることを、確かめるように。
「怖いのは、なくなってないんだ」
ミラは当て布の端を揃えた。
「明日も、そのままのお体で来てください」
レウベンは顔を伏せたまま頷いた。外套を取り上げると、頭巾の縁で手が止まった。顔を隠せる深さを指で広げかけて、内側へ畳み込んだ。
「これ、自分の部屋へ置いてくる」
王が出ていったあと、ミラは戸口まで歩いた。
廊下の先に藍の背中が見えた。少し丸い。外套を片腕に抱え、空いている手で前の合わせを押さえていた。
誰かを呼ぶ声がした。
「北への麦の件で、主計官を。午後にもう一度、話を聞きたい」
国の金を預かる官吏を呼ぶ声だった。答えは廊下の先へ続き、ミラには聞き取れなかった。
ミラは工房へ戻った。
こてを取って、まだ芯を入れていない背の布へ湯気を当てる。丸みを少しずつ緩め、肩の端を送った。熱が抜けるまで動かさず、それから前の肩も曲げ直す。
明日は糸で組んで体に当てる。今日の数字で引き直した襟が、首を下げても喉を押さないか。そこは本人に着てもらうまで決められない。
ミラは今日の数字の隣へ巻尺を置いた。陛下が首元で握っていたところに触れる。
巻尺の端は、指の中でまだ温かかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回、書き始める前にいちばん迷ったのは、レウベンに持たせるものでした。退位の書状も考えたのですが、結局、旅用の外套にしました。ミラの部屋へ来るまでに、自分の部屋でそれを選んだ時間がある。頭巾を畳むところまで書いて、ようやくその外套を手から離せた気がします。
採寸帳の古い数字を消すかどうかも、少し迷いました。ミラなら新しい数字だけ残しそうですが、肩の図は残しておきたくて、隣に書き足す形にしました。本文を書きながら、自分でも古い頁へ何度も戻っています。
明日は仮縫いです。まだ袖も襟も、仕上がってはいません。ミラの作業台に引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマークや感想も、続きを書く励みになります。




