第19話: 型紙を見た男
毛芯は、指の腹を小さく刺し返してくる。
馬の尾の毛を横糸に織り込んだ芯地だ。撫でると、硬い毛の切り口が皮膚をちくちくと押す。その押し返す力のぶんだけ、この布は張りを持つ。胸や肩の裏に仕込めば、服は人の形を覚えたまま立っていられる。
師匠の棚に残っていた巻きを、先日縫い通りへ戻ったときに持ってきてあった。ミラはそれを台に広げ、前身頃の型に沿って裁った。
台の端には、昨日の背が置いてある。
一晩たっても、肩甲骨のふくらみは崩れていなかった。手のひらをそっとかぶせると、丸みがそのまま手の内に収まる。陛下の背中だ。布はちゃんと覚えている。
今日は、この覚えた形の上に芯を沿わせる。
戸が二度鳴った。
「空けておいたよ」
シリルが入ってきた。長上着のボタンを外しながら、椅子のほうへ歩いていく。
ミラは何も言わずに見ていた。
シリルは上着の肩を両手で持ち、背もたれの角に肩から掛けた。袖が後からついてきて、すとんと落ち着く。上着は、ずり落ちなかった。
「肩から掛けましたね」
「昨日、教わったからね」
シリルは袖口を折り返しながら、少しだけ得意げな顔をした。総監督が上着を一枚掛けただけで、そんな顔をする。ミラは頬がゆるみそうになって、慌てて毛芯に目を戻した。
「それが、毛芯かい」
シリルが台をのぞき込んだ。
「はい。触ってみますか。ちくちくしますけど」
シリルは指先を伸ばし、毛芯の端に触れた。すぐに引っ込める。
「……猫の舌みたいだ」
「馬の尾の毛です」
「知ってるよ。たとえだ」
「今日は、何を持てばいい」
「陛下の胸です」
シリルの手が、袖口の途中で止まった。
「……順を追って言ってくれるかな」
ミラは台の真ん中に、丸い布の塊を据えた。卵を縦に半分に割ったような形で、中にはおがくずが固く詰めてある。
「仕立て枕っていいます。人の胸の丸みの代わりです」
「枕にしては、ずいぶん硬そうだ」
「柔らかいと、針を入れたときに胸がへこむんです。陛下の胸は、針でへこんだりしませんから」
枕の上に、くせ取りを済ませた左の前身頃をかぶせる。肩の付け根の線が、丸みに沿ってふわりと落ち着いた。
「昨日、布に陛下の形を教えましたよね。でも毛芯は、まっすぐなまま裁った布です。これを平らな台の上で縫いつけたら、芯のほうが布をまっすぐに押し戻します。昨日の仕事が、全部なかったことになる」
「だから、丸いものの上でやる」
「はい。布が覚えた丸みのまま、芯を沿わせるんです」
ミラは前身頃の肩の端をつまみ上げた。枕からはみ出して、だらりと垂れる。
「枕は胸のぶんしかありません。肩から先は、ここで垂れちゃう。だから、こっちを持っていてほしいんです。昨日は台と同じ高さでした。今日は、枕と同じ丸さで」
「台と同じ高さの次は、枕と同じ丸さか」
シリルは垂れた布の端を見下ろし、長い息をついた。
「注文が、だんだん難しくなっていくね」
「陛下の体が難しいんです」
シリルは台の向こうへ回った。両手で肩の端をすくい上げる。ミラは指を添え、布の丸みが枕から途切れずに続く角度まで、彼の手首をほんの少しだけ起こした。
「そこです。そのまま」
シリルは返事をしなかった。代わりに、肘の位置を一度だけ確かめた。
毛芯を、前身頃の裏に重ねる。
針に通したしつけ糸は、白い。ミラは胸の真ん中から縫いはじめた。陛下の心臓のあたりだ。そこから外へ向かって、肩へ脇へと粗い目で止めていく。
「真ん中から外へ、なんだね」
「端から止めると、芯と布のあいだに余った分が逃げ場をなくすんです。最後にどこかで、ぷくっとふくれる。真ん中から外へ縫えば、余りは端へ逃げていきます」
「余りの逃げ道を作ってやるのか」
「作ってあげないと、布が勝手に作ります。たいてい、いちばん目立つところに」
針が毛芯を抜けるたび、ざらりとした手応えが指に返ってくる。表地の紺は柔らかく、芯は硬い。その二枚を、一枚の胸に馴染ませていく。
布の向こう端から、細かな揺れが渡ってきた。
昨日よりも、ずっと小さかった。張られた紺の毛足が、ときどき思い出したように震えを運んでくる。それも、ミラが肩へ縫い進むころには、ほとんど届かなくなっていた。
ミラは顔を上げなかった。
読んだことは、口にしなかった。言わなくても、布がちゃんと伝えてくれている。それで足りた。
しつけが肩まで届くと、ミラは糸を替えた。今度は紺に近い色だ。
「ここからが、ハ刺しです」
「はざし」
「片仮名の、ハ。縫い目がハの字に並ぶから、そう呼ぶんです」
ミラは針を、芯の側から斜めに入れた。表地の糸を一本だけすくう。すぐに抜き、少しずらして、また一本。
「一本だけかい」
「一本だけです。二本すくったら、表に点が出ます。出たら失敗」
「裏からじゃ、表の糸は見えないだろう? どうやって一本だとわかるんだい」
「指でわかります。針の先で糸を一本だけ拾うと、指に小さく返事が来るんです。二本だと、返事が重い」
「布の返事か。私には一生聞こえそうにないな」
「聞こえなくていいんです。持っててくれれば」
縫い目が、芯の上に小さく並んでいく。ハの字の列が、一段、また一段と増える。表の紺には、何も出てこない。
「これを、胸いっぱいにかい」
「胸いっぱいにです。片側で、日暮れまでかかります」
「片側で」
「両側だと、明日の朝までです」
「……君、寝る気はあるのかな」
「布が寝てくれたら、寝ます」
シリルが、喉の奥で小さく笑った。布の向こう端は、笑っても揺れなかった。
「芯の張りは、前じゃなくて後ろへ流します。陛下の最初の一着と同じです。前に張ったら、胸を張れって服が言う。後ろへ流せば、肩が前へ丸いまま胸だけがすっと立つ」
ミラは一段縫い終えるごとに、布を枕の丸みに沿わせ直した。芯は、布が覚えた形についてくる。押し戻さない。
「表から見えない縫い目が、胸を立たせるのか」
シリルが、ぽつりと言った。
「はい。表に見えるのは、紺だけです。中に何があるかなんて、着た人以外は誰も知りません」
「誰も知らない、か」
シリルの声は、それきり続かなかった。
ミラは次の段に針を入れた。指の下で、張られた布は一度も垂れなかった。
昼の鐘が鳴る少し前に、戸が勢いよく開いた。
「爺さんから! 見返しの紺!」
縫い通りの小僧だった。腕に、紐をかけた包みを抱えている。
ミラは針を毛芯に留めて立ち上がった。包みを受け取り、作業台の端で紐をほどく。
深い紺が出てきた。
「表地より、ちょっとだけ青いね」
台の向こうから、シリルが首を伸ばした。
「青いです。でも見返しは、前の合わせの裏に折り返す布ですから。陛下が前を開けたときにしか見えません。これなら、ちゃんと馴染みます」
ミラは布の端をつまんだ。指の腹に、毛足が逆らわずに寝る。
「……あれ」
もう一度撫でる。
「これ、撚りが逆だ。表地は右に撚った糸で織ってあるのに、こっちは左撚り。だから光の返し方が違うんだ。うわ、並べると面白い。表と裏で、光が反対に逃げてく。ねえ、これ織り屋さんがわざと? それとも機の癖?——」
「ミラ」
「あ、縦糸も逆だ。じゃあこれ、もともと裏地用に織った布なんだ。だから倉に余って——」
「ミラ」
二度目で、声のほうを向いた。
台の向こうで、シリルが陛下の胸の端を両手で支えたまま立っていた。枕の丸みと同じ角度で。ミラが手を離したときと、寸分違わぬ高さで。
「私はいつまで、陛下の胸を抱えていればいいのかな」
「……あ」
耳が、じわりと熱くなった。
「すみません。布が」
「知ってるよ」
シリルは困った顔のまま、目だけで笑っていた。この顔は前にも見た。初めてこの人を測った日、絹に夢中になって放り出したときだ。
小僧は笑いをこらえきれない顔で、駆け戻っていった。
ミラは見返しの紺を作業台の端に置き、台の前へ戻った。シリルの腕は、まだ同じ高さにあった。
「……腕、しびれてませんか」
「しびれてるよ。陛下の胸は、思ったより重いね」
ミラは慌てて肩の端を受け取り、枕の上へそっと戻した。
見返しを裁つには、先に襟を決めなければならない。
見返しの形は、襟の線に沿って決まる。襟がどこまで立ち、どこで折れるか。それが決まらないうちは、鋏を入れられない。
折れる位置は、図面の上でとうに決めてある。返りの流れも、毛芯の向きも、頭の中ではできあがっていた。決まらないのは、首からどこまで起こすか、立ち上がりの高さだけだった。
陛下の最初の一着は、冠を戴くための服ではなかった。冠の重みを受ける首に、襟をどこまで沿わせればいいのか。それだけは、図面の上で線を引いてもわからない。
「高すぎたら、顎を上げろって服が言う。低すぎたら、首が埋もれる」
口に出してみても、答えは出なかった。その間の、どこで止めるか。
ミラは、作業台の引き出しを見た。
戴冠の格を持つ襟の線を、ミラは一本だけ知っている。
イレーネの受領の控えをどけると、布にくるんだ包みが出てきた。指をかけたところで、ニルス爺さんの声がよぎった。
その型紙は、人に見せるな。
ミラは、台の向こうを見た。
シリルはしびれた腕を軽く振り、袖口を下ろしはじめていた。午後の謁見に立ち会う支度だ。昨日、布越しに震えていた指が、カフスのボタンを一つずつ留めていく。
人に見せるな、と爺さんは言った。けれど台の向こうのあの手は、昨日も今日も、王の布を一度も落とさなかった。
だから、訊く代わりに広げた。
布をほどき、型紙を台の空いたところへ伸ばす。陛下の前身頃の、すぐ隣に。古い紙が、かさりと乾いた音を立てた。
「それは?」
台の向こうから、シリルの声がした。
「師匠の型紙です。襟の立ち上がりを見たくて」
ミラは襟の線に指を置いた。
「型紙っていうのは、その人の体の写しなんです。本人がいなくても、肩の幅も首の太さも背の傾きも全部残ってる。だから師匠の線を追えば、戴冠の襟がどこまで立つものか——」
指が、襟の立ち上がりをなぞった。厳しい線だった。首に沿って高く起き、途中でふっと途切れている。肩の線も、同じところで止まっていた。
「——どこで止めるのか、わかるかと思って」
返事がなかった。
ミラは顔を上げた。型紙に置いた指が、紙から離れなかった。
シリルは、袖口に手をやったまま立っていた。
カフスのボタンが、半分だけ穴に通ったまま止まっていた。それを留めていた指も、止まっていた。
昨日の震えとは違った。指は少しも揺れていない。布を持つ前の、あの白さで固まっている。
薄氷の色の目が、型紙の上にあった。襟の線が途切れる、その一点に。
こてを温める炭が、こつりと崩れた。
シリルの右手が、カフスから離れた。ゆっくりと、台の上へ伸びてくる。長い指が、途切れた襟の線の上まで来た。
そこで、止まった。
紙までは、指一本ぶん離れていた。触れれば届く。けれど指は降りなかった。紺に触れかけて引いた、あの晩の指と同じ止まり方だった。
やがて、手が引かれた。
シリルは両手を、背中へ回した。
今朝から一度も隠さなかった手を、ミラの目の届かないところへしまい込んだ。
「……シリルさん」
ミラの声は、思ったより小さく出た。
「この型紙、見たこと、ありますか」
答えは、すぐには来なかった。
やがて、シリルの顔にいつもの薄い笑みが戻ってきた。戻るまでに、いつもより長くかかった。
「いや」
短い返事だった。
「いい線だね。君の師匠らしい」
それから、少しだけ早口になった。
「襟の高さを決めるなら、冠の目方を知っておくといい。戴冠のたびに儀典の記録に残しているはずだ。夕方までに届けさせよう。重い冠を戴く首と軽い冠の首とでは、襟の受け止め方も違うだろう?」
総監督の声だった。よく通る、仕事の話をするときの声。
シリルは椅子の背から上着を取り、袖を通した。ボタンを上から留めていく。その指が、いつもより速かった。
ミラの目は、勝手に前立てへ吸い寄せられた。
「ボタン、一つずれてます」
シリルは自分の胸を見下ろした。
上から二つ目のボタンが、三つ目の穴に収まっていた。前の合わせが斜めに引かれ、襟が片側だけ浮いている。
「……やれやれ。今日は上着に嫌われる日だ」
笑う声だった。けれど、ボタンを外し直す指が、一度だけ穴を外した。
留め直して、シリルは戸口へ向かった。
「記録は、夕方に」
戸が閉まった。
昨日は、戸口で一度振り返った。今日は振り返らなかった。
ミラは、しばらく型紙の前に立っていた。
言ってもいいですか、とは訊かなかった。
訊けば、昨日のように答えてくれたかもしれない。けれど、手を背中に隠した人だった。読まれたくない手を、自分でしまった人だった。その手のことを言っていいはずがなかった。
閉まった戸へ目をやり、ミラは訊きかけた言葉を飲み込んだ。巻尺は首に掛けたまま、手に取らなかった。
ミラは型紙の襟の線を、もう一度だけ目で追った。
師匠の線を、写すつもりはもうなかった。この線は、師匠が測った誰かの首から起こした線だ。陛下の首ではない。
「この高さじゃ、陛下が顎を引いたら当たっちゃう」
紙の端を押さえていた指を離した。どれほど格の高い襟でも、他人の首の線を陛下に巻けば、それは誰のものでもない襟になる。
型紙を巻き取り、布にくるみ直して引き出しの奥へ戻す。イレーネの控えを、その上に重ねた。
かわりに、陛下の採寸帳を開いた。初夏に初めて巻尺を回した日の数字が並んでいる。首の付け根の太さも、下を向く癖のぶんだけ前へ出た首の角度も、ここにある。
ミラは新しい紙を広げ、陛下の首から襟を起こしはじめた。
名のない型紙をしまったのに、シリルの肩を測ったときのことが頭から離れない。誰にも測られた跡のない体を、なぜ今思い出すのか。ミラは陛下の名がある採寸帳を紙の隣へ寄せ、首の付け根の位置を確かめた。
日が窓枠を二つ越えるころ、侍従見習いの少年が書きつけを届けに来た。
「総監督さまからです。お返事は要らないそうです」
「ありがとう。……総監督さま、何か言ってた?」
「いいえ。お書きになって、すぐ謁見の間へ戻られました」
少年の目が、枕の上の紺へ向いた。
「……まだ縫われるんですか」
ミラは毛芯に留めた針を指で押さえた。
「胸の芯が途中なんです。今夜は片側だけ。表に縫い目が出ないように、少しずつ進めます」
「それで、そんなに時間がかかるんですね」
「はい。書きつけ、助かりました。ありがとうございます」
少年は頭を下げて出ていった。
儀典の記録の写しだった。これまでの戴冠で用いた冠の目方が、几帳面な字で書き抜いてある。その下に、別の筆跡で一行だけ添えてあった。
——襟は、陛下の首で決めるといい。
衣装宮の書類で何度も見た、少し右に流れる字だった。
「わかってます」
誰もいない部屋で、ミラは小さく言った。
冠の目方を見て、襟の高さを少し下げた。重い冠を戴いて顎を引けば、高い襟は喉を押す。陛下は、きっと冠を受けるときに深く頭を下げる人だ。下げた頭を上げたとき、襟が首を責めないように。
見返しの紺を、その襟に沿って裁った。左撚りの布は、鋏の下で素直に割れた。
それから枕を引き寄せ、陛下の胸に戻った。
ハ刺しの続きだった。台の向こうに、もう手はない。前身頃の肩の端には、鉄の重しを細い紐で吊るし、枕の丸みに沿うよう垂らしてある。
重しは、文句も言わずに布を支えた。震えもしなかった。
表地の糸を一本すくう。抜く。ずらして、また一本。
ハの字の列が、芯の上に少しずつ増えていく。窓の外が暗くなり、ミラは灯りを一つともした。こて用の炭を足し、指貫を中指にはめ直した。
針を進めるたび、昼の指が思い出された。紙まで指一本ぶんのところで、降りなかった指。背中へしまわれた両手。
朝は布越しに伝わってきた震えを、昼は紙の上で止まった指を見てしまった。両手を背へ回したのは、ミラの目を避けるためだったのかもしれない。針先を毛芯に留め、縫い終えたところを撫でてから続きをすくった。
最後の一段を縫い終えたとき、灯りの油は半分に減っていた。
ミラは枕から前身頃を持ち上げ、灯りにかざした。
芯の側には、数えきれないハの字が並んでいた。陛下の胸を立たせるための、細かな目の列。
裏返すと、紺には何も出ていなかった。
「……出てない。よかった。胸もつぶれてない」
布の下に手を添え、丸みを崩さないように灯りへ近づけた。
針一本ぶんの点もない。指の腹で撫でても、縫い目の気配さえ拾えない。ただ胸のところだけが、ゆるく、確かに立っていた。
表から見れば、紺は何も縫われていないような顔をしていた。
シリルは、灯りを一つだけ残して、机の上に両手を置いた。
今朝も、この手は紺を最後まで離さなかった。震えは昨日より小さかった。彼女は気づいていて、何も言わなかった。それがわかるくらいには、もう彼女の黙り方を知っている。
昼の手は、違った。
途中で途切れた襟の線を、目を閉じても思い出せる。最後の一針の手前で、誰かが手を止めた線だった。
ヴェラの弟子が、師の遺した紙を持っているかもしれないとは思っていた。だが、あんなふうに台の上へ広げられることまでは、考えていなかった。
あの立ち上がりの高さを、いつか下から見上げたことがある気がした。
気がした、で止めておく。それより先を思い出せば、明日も彼女の台の向こうに立てる顔ではいられない。
見せるな、と言うべきだった。
言えば、彼女は訊くだろう。なぜ、と。あの目で。
——型紙っていうのは、その人の体の写しなんです。本人がいなくても、全部残ってる。
シリルは右手を持ち上げ、自分の肩に置いた。あの日、彼女の巻尺が回った場所だった。
しばらく、そうしていた。
灯りの芯が、じじ、と鳴った。
彼は手を下ろし、灯りを吹き消した。暗がりの中でも、指先はまだ、触れなかった線の高さを覚えていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ハ刺しを調べていて驚いたのは、表地の糸を「一本だけ」すくうという話でした。二本すくえば表に点が出る。だから職人は、芯の側からほとんど手探りで針を進めるそうです。上着の胸がきれいに立っているとき、その裏には、着ている本人さえ見たことのない縫い目が並んでいる。この回は、そこから組み立てました。
見返しの紺が「撚りが逆」だったのは、書いている途中で思いつきました。ミラを布に夢中にさせる理由を探していたら、織り屋の倉の余り布にも、余っていた理由があるはずだと気づいたんです。シリルが陛下の胸を抱えたまま待たされる場面は、書いていて少し楽しかったです。
そして、ボタンを一つ掛け違えるシリル。昨日、上着の掛け方を覚えたばかりの人です。
次回、ミラはもう一度、陛下の体に巻尺を回すことになります。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




