第18話: 余裕の、裏
こての腹に手のひらをかざすと、熱が皮を一枚ぶん押し返してきた。
まだ早い。ミラは手を引いて、炭をもう一度つついた。火の粉が一つだけ跳ねて、灰の上で消えた。
台の上には、昨日裁った紺が並んでいる。前身頃が二枚と、背が一枚。四方を人に持たれたまま、鋏を入れた布だ。今朝はそれを、陛下の体の形へ曲げていく。
北向きの窓から、湿った朝の風が入ってきた。布はその湿りを吸って、ほんの少しだけ柔らかくなっている。指の腹で撫でると、毛足が昨日より素直に寝た。くせ取りには、悪くない朝だった。
ただ、台の向こう端は空いていた。
明日の朝まで、少し考えさせてくれるかな。
昨夜のシリルの声が、まだ耳に引っかかっている。軽く言おうとして、途中で軽さの抜け落ちた声だった。
来なくても、一人でやれる。向こう端に重しを置いて、少しずつ進めればいい。手間は倍になるけれど、できないことではない。
ミラは文鎮代わりの鉄の塊を、台の端へ引き寄せた。
戸が、軽く二度鳴った。
「おはよう。返事をしに来たよ」
シリルが戸口に立っていた。
いつもの総監督の長上着だった。黒髪はきっちり整えられ、薄い笑みも元どおりの位置に戻っている。昨夜の、途中で途切れた声の人とは別人に見えた。
答えを訊く前に、シリルは長上着のボタンに指をかけた。上から一つずつ外していく。
ミラの目は、その肩に吸いついた。
先日ようやく納めた上着だった。着て腕を動かすところは、まだ一度も見ていない。
「待って。そのまま、腕を上げてください」
「……うん?」
「肩の返り。あたしが組み直したところです。上げて、横に。肩の高さまで」
シリルは脱ぎかけの上着のまま、言われたとおりに腕を上げた。
布が、肩の付け根ですうっと逃げた。つっかえない。引っかからない。腕の動きに、布のほうが先回りしてついていく。
「抜けてる。よかった、ちゃんと抜けてる。芯を柔らかくしたぶん、型崩れしないか気になってたんです。ほら、ここ。肩を下ろしても線が戻る。毛織がいい子にしてる」
「ミラ」
「下ろして、また上げてもらえますか。今度は前へ」
「ミラ」
二度目で、ようやく顔を上げた。
シリルは腕を前へ伸ばしたまま、額にもう片方の手を当てていた。
「私は今、わりと思い切った返事をしたつもりなんだけどね」
「返事?」
「上着を脱いだ。布を持つために」
ミラは瞬きをした。脱ぎかけの長上着と、伸ばされた腕を見る。それから、空いていた台の向こう端を見た。
「……あ」
耳が熱くなった。
「すみません。ありがとうございます。来てくださって。……それで、あの、前にもう一回だけ」
「……やれやれ」
長い息をついて、シリルは腕をもう一度前へ出した。困った顔のまま、口の端だけが笑っていた。
肩の返りは、前でもきれいに抜けた。ミラは頷いて、ようやく巻尺から手を離した。
シリルは上着を脱ぎ終えると、椅子の背に掛けようとした。上着は背もたれの角で半分ずり落ち、袖が床すれすれに垂れた。彼はそれを掛け直そうとして、今度は襟を裏返した。
ミラは黙って立ち、上着を受け取った。肩の線を合わせて畳み、椅子の座面に置く。
「……器用だね」
「布ですから。それに、袖から先に掛けるから落ちるんです。肩から掛ければ落ちません」
「上着ひとつで、この有様だ」
シリルはシャツの袖口を折り返した。白い布の下から、長い指の手首が出てくる。
「午前の謁見を二つ、午後へ回してきた。昼まではここにいられる」
「昼まであれば、前と背中は終わります」
「なら、急ごうか。私は何をすればいい」
ミラは、こての一本を炭から引き上げた。
頬の近くにかざす。今度は、熱がまっすぐ肌を打った。ちょうどいい。
「くせ取りっていうのは、まっすぐな布を人の体の丸みに曲げる仕事です」
湿らせた当て布を、背の型の上に広げる。
「毛織は、湯気を当てると少しだけ言うことを聞くんです。熱いうちに手で寄せれば、縮んだり伸びたりする。そのあいだに、陛下の体の形を布に教えます」
「教える。布に、物を教えるのかい」
「教えます。布は覚えのいい生徒ですよ。熱いうちだけですけど」
「熱いうちだけ、か」
「陛下の肩は、前へ少し丸いでしょう」
ミラは自分の肩を、ほんの少し前へ落としてみせた。
「背中の、ここ。肩甲骨——肩の後ろの羽みたいな骨のあたりに、布のふくらみが要るんです。まっすぐな布のままだと、背中で布が足りなくなる。足りない布は、肩を後ろへ引っぱります」
「引っぱると、どうなる」
「胸を張れって、服のほうが命令するんです」
シリルの眉が、わずかに動いた。
「命令する服か」
「陛下には、いちばん要らない服です」
ミラは当て布の上から、背の肩のあたりを指で押さえた。
「だから先に、布のほうに陛下の背中を覚えさせておく。前のほうは逆です。前へ出る肩を布が引き戻さないように、肩の付け根を少しだけ伸ばします」
それから、台の向こう端を指した。
「前身頃は長いでしょう。こてを当ててる端の反対側が、自分の重みで垂れるんです。熱いうちに引かれると、せっかく曲げたところがまた伸びる。だから、向こう端を持っていてほしいんです。台と同じ高さで」
「引かずに、か」
「引かないで。押さないで。あたしが寄せたら、布が来たぶんだけついてきてください」
「ついていく。……難しい注文だな」
「それと、もう一つ」
ミラは、こてを置き台へ戻した。
「冷めるまで、動かさないこと。布はね、熱いうちに曲げて冷めるときに形を覚えるんです。冷める前に動かしたら、全部忘れます」
シリルは紺を見下ろした。それから、自分の手を見た。
「わかった」
短い返事だった。いつもの語尾の問いが、そこにはなかった。
最初は、左の前身頃からだった。
シリルが台の向こうへ回った。紺の端を両手で持ち上げ、台の高さに揃える。持ち方は、思っていたより悪くなかった。指をそろえ、布を下から支えている。
ミラは当て布を濡らし、こてを当てた。
白い湯気が、ふわりと立った。濡れた羊毛の匂いが、鼻の奥まで入ってくる。こての重みの下で、布が一度だけ小さく息をした。
肩の付け根を、こてで撫でる。布目が、ほんのわずかに開く。そこへ指を添えて、前へ送った。
布が、ぴんと鳴った。
「止まって」
シリルの手が、そのまま固まった。
ミラは当て布をめくった。肩の布目が、斜めに引かれている。向こう端が、ほんの少しだけ後ろへ逃げたのだ。
熱いうちなら、まだ戻せる。ミラは湯気をもう一度当てて、布目を指でまっすぐに撫で直した。
「……すまない」
シリルの声だった。冗談は、続かなかった。
「大丈夫です。熱いうちなら、布は何度でもやり直せます。もう一回いきます」
二度目は、引かれなかった。
ミラが寄せると、向こう端もついてきた。ゆっくりと、布が来たぶんだけ。肩の付け根に、前へ流れる柔らかな線が生まれていく。
「……こんな感じで、いいのかな」
「いいです。そのまま、もう少しだけ」
悪くない。ミラはこてを動かしながら、指先で布の張りを読んだ。
そのとき、気づいた。
布の目を伝って、何かが渡ってくる。
細かい、細かい揺れだった。布鳴りよりも、ずっと微かなもの。張られた紺の向こう端から、毛足の一本一本を通って、ミラの指の腹まで届いてくる。
ミラは顔を上げた。
シリルの指先が、白くなっていた。紺の縁を、卵でも持つように支えている。強く握ってはいない。けれど、力を抜くこともできずにいる。その間で、指が小さく震えていた。
顔には、薄い笑みが乗っていた。いつもの位置に、いつもの形で。
手だけが、笑っていなかった。
ミラの口が、勝手に開きかけた。
——これ以上、見ないでくれ。
替え玉の若い男の声が、よみがえった。読み上げられるたびに、布を一枚ずつ剥がされていった人の顔。あの日ミラは、自分の指が何をする指なのかを知った。
口を閉じた。
こてを置き台に戻す。布の向こうで、震えはまだ続いていた。
「シリルさん」
「なんだい」
声は軽かった。軽く、作られていた。
「布の向こうから、手のことが伝わってくるんです」
ミラは、紺に指を置いたまま言った。
「……言っても、いいですか」
シリルは答えなかった。
紺の両端に、二人の手があった。湯気が当て布の上で細くなり、ほどけて消えた。沈黙が、布の上に薄く積もっていく。
やがて、シリルが小さく笑った。
「一度、巻尺で裸にされてるからね」
笑いの形をしていたが、声は笑っていなかった。
「今さらだ。……どうぞ」
ミラは、指の下の紺を見た。
「落とさないように、じゃないんです」
一つ息を吸う。
「壊さないように持ってる手です。卵を持つみたいに。強く握ったら割れる、でも離したら落ちる。その真ん中で、ずっと震えてます」
言い終えて、ミラは顔を上げた。
シリルの口の端が、笑おうとして途中で止まっていた。
薄い笑みが、ずり落ちた上着みたいに、ゆっくりと外れていく。その下から出てきた顔を、ミラは初めて見た。肩に巻尺を回したあの日とも違う。あのときは、思いがけず剥がされた人の顔だった。今は、自分で外した人の顔をしていた。
シリルは、自分の手を見下ろした。紺の縁を持ったままの、長い指を。
「壊すんだよ。私が手を出すと」
低い声だった。いつもの、語尾をふわりと浮かせる話し方ではなかった。
「子供のころ、一度だけ針を持とうとしたことがある」
ミラは黙っていた。
「指が、握れなかった。つまんだはずの針が、指のあいだから三度落ちた。拾って、また落とした。布には、一針も通らなかった。それきりだ」
短い言葉が、一つずつ台の上に置かれていく。
「手で作るものは、何をやってもそうだった。紙を折れば破る。紐を結べばほどける。だから、作れる人の手を見ているのが好きだった」
シリルの指が、紺の縁で少しだけ動いた。
「見ているだけなら、何も壊さない」
炭が、ちいさく爆ぜた。
「昨夜、君に頼まれてね。一晩、自分の手を眺めていたよ。この手で、王の布に触っていいのかと」
そこで、彼は口を閉じた。
続きは、なかった。言いかけてやめたのではなく、それで全部なのだとミラにはわかった。いつもなら最後に冗談を一つ足して、全部を軽くしてしまう人だった。今日は、何も足さなかった。
ミラは、何か言わなければと思った。
大丈夫ですよ。壊してなんかいません。そういう言葉が、喉のすぐ下まで来た。けれど、それはミラの知っている言葉ではなかった。ミラが知っているのは、布の言葉だけだった。
だから、布を見た。
さっき直した肩の付け根。その先へ、紺がまっすぐ伸びている。しつけ糸の印は、布目に沿って一本の線を引いていた。曲がっていない。震えていたあいだも、一度も。
「布、ずれてません」
シリルが、顔を上げた。
「最初の一回のあとは、一度も。震えてても、高さが変わってないんです。ほら、この印。台からずっと同じ高さで、まっすぐ」
ミラは、しつけ糸の線を指でなぞった。
「シリルさんの手、震えてるけど離れてない」
それから、言った。
「布は、器用な手なんか選びません。最後まで離さない手を、覚えるんです」
シリルは、何も言わなかった。
ミラも、待たなかった。こてを炭から引き上げ、頬の近くにかざす。熱は、まだ十分だった。
「そのまま、持っていてください。背中、曲げます」
背は、前身頃より難しい。
ミラは背の型を台の中央へ滑らせた。シリルが向こう端を持ち直す。指の震えは、まだ止まっていなかった。けれど、もう隠そうとはしていなかった。
当て布を濡らす。肩甲骨のあたりへ、こてを置く。
湯気が立った。
ミラは左手の指で、こての周りの布をそっと寄せた。毛織が、熱の中で少しずつ縮んでいく。縮んだぶん、布の真ん中がふくらむ。平らだった紺に、ゆるい丘が一つ生まれた。
こてを動かす。指で寄せる。また動かす。
布が、指の下で丸くなっていく。陛下の背中の丸みが、ミラの指先に戻ってきた。初夏に初めて巻尺を回したときの背中。下を向く癖が骨にまで染みていた背中。その丸みを、直さずに、そのまま布に写していく。
左の肩甲骨が終わる。右へ移る。
向こう端は、一度も垂れなかった。ミラが寄せるたび、布が来たぶんだけ、ゆっくりとついてくる。引かない。押さない。言われたことだけを、言われたとおりに。
右の丘ができあがった。
ミラは、こてを置いた。
「冷めるまで、動かさないで」
シリルは頷いた。声は出さなかった。
湯気。紺。指先。
当て布の上で、湯気が一筋ずつ細くなっていく。ミラは丘の両側に手を添えたまま、動かなかった。台の向こうで、シリルも動かなかった。
布の熱が、手のひらの下で少しずつ引いていく。
その同じ紺を伝って、向こう端の震えが届いていた。細かく、途切れずに。それが、湯気が細くなるにつれて、少しずつ間遠になっていった。
布が冷めていく。震えが、ほどけていく。
二つは、同じ速さだった。
最後の湯気が消えたとき、指の下の紺は、もう何も伝えてこなかった。ただ静かに、張られたまま、そこにあった。
ミラは、そっと手を離した。
丘は、崩れなかった。
背の型を両手で持ち上げる。台から離しても、肩甲骨のふくらみは、ふわりと宙に残っていた。まっすぐだった布が、もうまっすぐには戻らない。
陛下の背中が、そこにあった。
「……覚えたのか」
シリルの声だった。
振り向くと、彼は紺を見ていた。薄い笑みは、まだ戻っていなかった。布のふくらみを、まばたきもせずに見つめている。子供が、初めて手品を見たときのような目だった。
「覚えました。陛下の背中です」
「これを着たら、陛下は胸を張らずに済むのかな」
「張らなくていいんです。前を向けたら、それで足ります」
ミラは、布の向こう端を指した。
「向こう端が一回も垂れなかったから、肩の丸みが崩れずに冷めました。熱いうちに一回でも下がってたら、こっちの丘は半分つぶれてます」
シリルは、紺から自分の手へ目を移した。
それから、もう一度紺を見た。
「……君の布は、私の手を嫌がらないんだな」
「布は、手を選びませんから」
ミラは、彼の手から紺の端を受け取ろうとした。
指先が、触れた。
冷たかった。冷めきった布よりも、シリルの指のほうがずっと冷たかった。一晩じゅう眺めていたという指。布を壊さないように、朝からずっと力を入れたまま震えていた指。
ミラは紺を受け取り、台に置いた。
顔を上げると、シリルの額に、黒髪が一房だけ落ちていた。
さっきまで、きっちり整えられていた髪だった。疲れたのだろうか。それとも、眠っていないのか。
ミラの右手が、ふと持ち上がった。
その一房を、後ろへ撫でつけようとして——指が、宙で止まった。
布ではなかった。採寸する体でもなかった。直すための手ではないのに、手が勝手に動いていた。何のために伸ばしたのか、ミラにはわからなかった。
手を下ろした。紺の皺を伸ばすふりをして、台の上に置く。
布はもう冷めているのに、指先だけが熱かった。
前身頃の右も終わるころには、炭を二度足していた。
シリルは椅子の座面から長上着を取り上げた。ミラが畳んだ線のまま、皺一つない。袖を通し、肩を回す。肩の返りが、またすうっと抜けた。
ボタンを留め終えるころには、薄い笑みが元の位置に戻っていた。髪も、指で一度かき上げただけで、きれいに収まっている。
さっきの顔は、もうどこにもなかった。
けれど、ミラの指先は覚えていた。布越しに届いていた震えと、それがほどけていった速さを。冷めた布が形を覚えるように。
「総監督を布持ちに使った仕立て師は、君が初めてだ」
シリルが言った。いつもの軽い口調だった。陛下をまっすぐ立たせた日と、同じ言い方だった。
「布を持った総監督も、シリルさんが初めてです」
シリルが、笑った。
心の底からほどけた笑いだった。薄い笑みでも、乾いた笑いでもない。ミラが初めて聞く笑い方だった。
「毛芯を入れるときも、要るかい。持つ手は」
「要ります」
即答してから、ミラは慌てて付け足した。
「……あ。お忙しくなければ、ですけど」
「忙しいよ」
シリルは戸口で振り返った。
「空けておく」
戸が閉まった。
ミラは、しばらくその戸を見ていた。
午後は、一人で袖をやった。
袖なら短い。向こう端に鉄の重しを置けば足りる。こてを当て、指で寄せ、冷めるのを待つ。朝と同じ手順だった。
重しは、震えなかった。
布はきちんと冷めて、きちんと形を覚えた。何も間違っていない。それなのに、冷めていくあいだの指先が、妙に手持ちぶさただった。
日が傾くころ、縫い通りの小僧が駆け込んできた。ニルスの使いだった。
「爺さんから。見返しの紺、織り屋の倉に余りがあったって。明日の昼には持ってくって」
「ありがとう。爺さんに、助かりますって伝えて」
小僧が帰ると、部屋に音がなくなった。
ミラは、裁ち終えた布を一枚ずつ畳んだ。背の型だけは畳まずに、丘を上にして台の端へ置く。冷めたふくらみは、夕方になっても崩れていなかった。
引き出しを開けた。
イレーネの受領の控えが、いちばん上にある。その下に、布にくるんだ包みが沈んでいた。
師匠の、未完の型紙だった。
その型紙は、人に見せるな。
ニルス爺さんの震えた声が、指の先によみがえった。ミラのために怯えていた、あの目も。
それから、今朝の手を思い出した。
衣装宮に来た最初の日。師匠の名を出したとき、書類をめくるシリルの手が、一瞬だけ止まった。あのときも、気づいてはいた。気づいたのに、追わなかった。話したくないことを無理にほどくのは、布の目を逆さに裁つのと同じだと思ったから。
今は、あの止まった手を知っている。布越しに震えていた手を。見ているだけなら何も壊さない、と言った声を。
あの人なら、何か知っているのだろうか。
あのとき訊いて、昔の話だ、とはぐらかされた。もう一度訊いて、いいのだろうか。
ミラは、引き出しを閉めた。
台の端で、陛下の背中を覚えた紺が夕暮れの色に沈みながら、丸いまま冷めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
くせ取りを調べていて、いちばん心に残ったのが「毛織は冷めるときに形を覚える」という話でした。熱と湯気で曲げても、冷める前に動かすと元に戻ってしまう。だから職人は、こてを置いたあと、手を添えたまま待つそうです。この「待つ時間」を、いつか誰かと二人で過ごさせたいと、ずっと思っていました。
シリルが子供のころに針を持とうとした話は、プロットにはありませんでした。ミラに手のことを言われた瞬間、彼が勝手に話しはじめた感じです。書きながら、この人は今まで誰にもこれを言わなかったんだろうなと思って、少しだけ手が止まりました。
それから、ミラが髪に手を伸ばして止める場面。ミラは人の体に触れる仕事をしている子なのに、何のために触ろうとしたのか、自分でわかっていません。本人より先に、手のほうが気づいてしまったのかもしれません。
次回、ミラの引き出しの中のものが、少しだけ動きます。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




