第17話: 恩は、布で返る
布の重みが、先に腕へ落ちてきた。
戸の向こうから押し込まれた包みが、ミラの両腕をふさぐ。麻のざらつき。絹のすべり。その下で、毛織がずしりと沈んだ。
「まだある。そこを空けてくれ」
聞き覚えのある低い声だった。布の山の向こうから顔をのぞかせたのは、ガレスだった。
「ガレスさん? どうして——」
「お届けものだ」
彼は右手で次の包みを抱えていた。左の空袖が、肘の上から一本の線になって落ちている。荷を受け渡すたびに肩が傾いても、その線はまっすぐ下を向いたままだった。
叙勲の前、この人の礼装を仕上げた日に、ミラは言った。あたしは袖を垂らしただけです、立ったのはガレスさんですよ、と。戸口で足を止めた彼は、それを聞いていたはずだった。その袖が今日は、布の山の横にある。
ミラは慌てて作業台に布を置いた。衣装宮の小部屋が、急に狭くなった。北向きの窓から入る夏の湿った風が、新しい布の匂いをかき混ぜていく。
入口の外には荷車が停めてあった。廊下へ車ごとは入れられず、ガレスが一つずつ包みを下ろしている。荷台には紐を掛けた反物や、大小の袋がまだ積まれていた。
荷車の陰で、ニルスが腰をさすっていた。
「布は来ると言ったろうが」
「爺さんまで運んできたんですか。昨日の今日ですよ」
「朝いちばんに通りを回って声をかけた。お前の店に来た客の顔なら覚えてるからな。騎士の旦那の詰所にも車大工の親方のとこにも、通りの小僧を走らせた。昼にはこの山だ。年寄りの腕じゃ運びきれねえと思ってたら、この騎士さんが店の前に立ってやがった」
「爺さんの使いが詰所に来た。あんたが布を探してると」
ガレスは包みを台に置き、紐を片手でほどいた。
「俺に布の良し悪しはわからん。運ぶほうならできる。門の衛兵も、俺の顔なら通す」
「でも、お勤めは」
「朝のうちに済ませた。今朝は支度が早かった」
それで話は終わりだった。ガレスはまた戸口へ戻っていった。
ミラは最初の包みを開いた。
包みごとに、ニルスの癖のある字で札が差してある。持ち主の名と、短い言づて。いちばん上の札を、ミラは読んだ。
——ヴェラさんに習った目で織った端です。王様に足りなきゃ、雑巾にでも。
「織り屋の倅だ。ヴェラに針を教わった口でな」
ニルスが横から言った。試し織りの麻は、目がきちんと詰まっていた。雑巾にするには、もったいない布だった。
ほかの包みにも、それぞれ札が差してあった。ミラは一枚ずつ読むのをやめた。読んでいたら、手が止まりそうだった。
昨日まで、王都じゅうの反物商を回って一反も買えなかった。その腕から、今日は布があふれている。
けれど、台の端から落ちた紺の布を拾ったところで、ミラの手は止まった。
「どうだ。使えるか」
ニルスが訊いた。
「これは袖にも足りません。こっちは色が違う。同じ紺でも、並べるとわかります」
ミラは二枚を重ねた。一枚は青が強い。もう一枚は赤く見えた。
「陛下の前身頃を左右で別の布にするわけにはいきません。厚さも伸び方も違うから、着て動くと片側だけ引かれます」
言ってから、ミラは部屋を見回した。運び込まれた布の山が、急に重く見えた。
みんなが出してくれたものだ。
ありがとうと言う前に、使えないと言ってしまった。
ニルスは二枚を見比べた。それからミラの前へ、次の包みを押した。
「使えねえもんは脇へ置け。全部使おうとして悩むな。出したやつは、そんなことで怒りゃしねえよ」
「でも」
「まだ荷車の半分も見てねえぞ」
ニルスの目が、ちらりとミラの背の引き出しへ流れた。今朝、宮へ着いてすぐ、型紙を包んだまましまった引き出しだ。老人は何も言わず、すぐに荷車のほうを向いた。
ミラも何も訊かなかった。
次の包みを開くと、端の色がまだらになっていた。
紺に白っぽい筋が横切っている。ミラはその筋を指でなぞった。織り目はきちんと詰まっている。薄くなっているのは色だけだ。
「染め屋が出した。反の終わりで、甕の藍が尽きたんだと」
ニルスが言った。
「一反そろってねえと納められん注文でな。染め直しても同じ色にはならねえ。丸ごと棚の奥へ突っ込んでたそうだ」
「丸ごと?」
ミラは反物を巻き戻した。
白い筋が消える。その先は深い紺だった。さらに広げても、色は変わらない。
布の端をつまみ、二つに折る。爪で折り目をしごいてから、指を離した。折り目はふわりとふくらんで、ゆっくり元の平らへ戻っていく。癖が残らない。毛足を逆に撫でると、短い毛が指の腹の下でそろって立ち、すぐに寝た。
「ちょっと、これ」
声が勝手に跳ねた。
「詰まってるのに硬くない。毛が短いから金糸を乗せても埋もれない。折っても角が残らないから肩を丸く組める。ねえ、これすごくいい布だよ」
「よかったな。頬ずりはやめとけ。顔の脂がつく」
「してません。まだ」
「まだ、か」
ニルスは鼻を鳴らした。それから、紺の端を指でつまんだ。
「あいつは棚を開けるたびにこれが目に入ったそうでな。しくじった自分の腕を奥にしまい込んどる気がしたと。今朝真っ先に持ってきやがった」
ミラは白い筋の手前を撫でた。
しくじったのは、端だけだ。その奥はずっと、いい布のまま眠っていた。
「陛下の肩は、少し前へ丸いんです」
気づけば、口が動いていた。
「硬い布で組むと、服のほうが陛下に胸を張らせようとする。でもこの布なら熱と湯気で曲げてやれる。陛下の肩の丸みのほうへ布が寄っていってくれる」
それから、白い筋のところへ指を戻した。
「この筋のところも捨てません。胸の内側の隠し——物入れの袋に使います。表からは誰にも見えないけど、陛下の心臓にいちばん近いところに来る布です」
ニルスは、しばらく黙っていた。
「……それ、染め屋に言ってもいいか」
「言ってください」
言い終えて振り向くと、戸口でガレスと目が合った。包みを抱えたまま、立ち止まって聞いていたらしい。
「……すみません。布の話をすると、つい」
「謝らんでいい。置き場所を言え」
ミラは染めむらの境目に、しつけ糸で印をつけた。その先を巻尺で測る。幅も長さも、二度確かめた。
「夏のうちは、毛織の入りが細え。棚の奥に眠ってたのが運だな」
「その運、使わせてもらいます」
王の型紙を全部並べるには、まだ台が足りなかった。
「床でやるか」
「床だと布が汚れます。それに、腰が」
「……わしの、出番か」
戸口から、木と膠の匂いが入ってきた。
ミラは顔を上げた。トビアスが細長い板を肩に担いでいる。荷車のいちばん下に積んであったものらしかった。
「トビアスさんも?」
「車を、貸した。……ついでに、来た」
彼は板を壁に立て掛けた。腰の袋から木片と小さな金槌を出す。
「台が小さいと、爺さんに聞いてな。……上に足す板を、持ってきた。下の台は傷つけんように留める」
「そんなものまで」
「角を触ってみてくれ。布が引っかからんように削った。……わしの指じゃ、細かい糸まではわからんでな」
ミラは板の縁に指を走らせた。木肌は、絹を撫でたときのように引っかかりがなかった。裏まで触り、首を振る。
「大丈夫です。すごくきれい」
「そうか。……なら、布をよけてくれ」
トビアスはもう台の下をのぞき込んでいた。娘の一着を頼みに来た日には、銀貨の袋を握ったまま、戸口で何度も頭を下げていた人が。
金槌が小さく鳴った。ガレスが片手で板を支え、トビアスが留める。二人は留める場所だけを短く話し、手を動かした。
足された板は、思っていたよりずっと長かった。台の向こう端が、ミラの腕の届くところより、さらに先にある。
「ずいぶん、広くしましたね」
「王様の型紙が、いっぺんに全部載る幅にした」
トビアスはそれだけ言って、また金槌を握った。
そのあいだに、ミラは炭を熾した。
こてが熱くなるのを待ち、紺の毛織に湿らせた当て布をかぶせる。こてを当てると、白い湯気が立った。濡れた羊毛の匂いが、部屋に広がる。
地直しだ。毛織は湯気に当たると少し縮む。裁ってから縮まれたら、寸法が全部狂う。だから裁つ前に縮ませて、ゆがんだ布目もまっすぐに戻しておく。
こての下で、布がわずかに息をした。
「お針子さん。受け取る前に、持ち主を確かめます」
イレーネの声に、ミラはこてを置き台へ戻した。
戸口の主計官は、鉄色の礼装を着ていた。ミラが仕立てた一着だ。肩の線が、本物の肩のすぐ上で止まっている。左腕に帳面を抱え、右手にはもう筆を持っていた。
「門で検めた荷の控えです。ここで持ち主と突き合わせます」
「これ、受け取ってもいいんですか」
「それを今から確かめます。今朝、総監督どのから伺いました。縫い通りから荷が入るかもしれないと、お針子さんが言っていたと」
イレーネは部屋に入り、台の端を借りた。
「御用達商人を通っていない布は、宮の帳面のどこにも載りません。載っていない布は、あとで出どころを疑われます。儀典長の筋に問われたときの答えは、この帳面です」
ニルスが懐から折った紙を出した。
「店ごとに書かせてある。売ったもんじゃねえ。持ち主が、自分の布を出すんだ」
「使わない分の返し先も要ります」
「裏に書いてある」
イレーネは紙を裏返して目を走らせた。筆の先が紙をこする。
「イレーネさんのお仕事を、増やしちゃいましたね」
「お気遣いは結構です。減らすために来ました。出どころのわからない布を裁ってから説明されるほうが、ずっと手間です」
刃のような声だった。けれど、筆は止まらなかった。
最後の行を書き終えて、イレーネは顔を上げた。
「この礼装で、初めて予算の会議に出た日のことですが」
ミラの目が、反射で鉄色の肩へ向いた。線は崩れていない。
「何か浮きました? 襟ですか。座ったときに——」
「服の不具合ではありません」
イレーネは筆を置いた。
「以前はわたしが数字を読みはじめると、半分も行かないうちに誰かが言いました。結論は、と。女の話は長いという顔で」
彼女の指が、自分の肩の角に触れた。
「あの日は最後の数字まで誰も遮りませんでした」
ミラは返す言葉を探した。見つからなかった。
イレーネは肩に指を置いたまま、窓のほうへ目をやった。一つ息を吸って、吐く。それから袖口を直した。直すほどの乱れはなかった。
「今日はその礼をしに来たのではありません。仕事をしに来ました。仮布に回すものと御一着に使うものは分けてください。まとめて書くと、あとで追えません」
「……わかりました。まず、麻をこちらへ」
長さの足りない布にも、仕事はあった。肩だけをもう一度試すなら、この麻で十分だ。薄い絹は、襟の裏に回せる。
使える山は小さくなった。その山に、イレーネが持ち主の名を一つずつ添えていく。
「金糸は、これだけか」
ニルスが木箱を開けた。小さな糸巻きが数本。色も太さも違うものが混じっている。
ミラは同じ輝きの二本を手元へ寄せた。
「この二本は襟の縁へ。違う色は混ぜません。少ないからって目立つところへ全部盛ったら、布が負けます」
紺の毛織の上へ、糸を一本置いた。
金の細い線が布を横切った。紺は派手に光らなかった。その深さの中で、金だけが澄んで見えた。
イレーネの筆が、また動いた。
台が広がると、部屋を横へ通り抜けられなくなった。
ミラは地直しを終えた紺の上へ、王の型紙を並べた。
前身頃を二枚。背と袖。布の端に沿って、織り目の向きを揃える。斜めにずらせば詰め込める場所でも、それはしなかった。
「ここの隙間、もっと寄せられねえか」
ニルスが指を差した。
「無理です。縫い代がなくなります。背中が動いたとき、ここが最初に引かれる」
袖の型を動かす。二枚とも布の同じ向きに揃え、脇の小さな型を間へ入れる。
染めむらの印にかからず、最後の型が収まった。
まだ裁たない。全部の端を、もう一度回った。長い身頃は途中で継がずに取れる。袖も前身頃も、同じ一反の紺だった。
「取れます」
声がかすれた。
「身頃も袖もこれで取れます。見返し——前の合わせの裏に折り返す布だけが少し足りません。でもそこは裏に回るから、別の紺で組めます」
「なら、探すのは見返しだけだな」
「はい。……だけ、です」
トビアスが台の下から立ち上がった。
「……揺れる、か」
ミラは両手で押してみた。台は鳴らなかった。
「揺れません」
「なら、いい」
トビアスは腰袋の口を締めた。袖口に継ぎがあった。ネリの縫った跡だ。ミラはそこへ目が吸い寄せられ、すぐに彼の顔へ戻した。
「ネリさんは、お元気ですか」
「便りが来た。……服を、着とると」
トビアスの手が、腰袋の口で止まった。
「まだ布は出さんでいいそうだ。あんたに、そう言っといてくれと」
布を出す。あの一着に多めに残した縫い代をほどいて、体に合わせて広げることだ。ネリが自分の手で直していけるように、ミラがそう組んだ。
「よかった。きつくなってからで大丈夫です」
「ああ。……わしにも、そう書いてあった」
トビアスはそれきり、腰袋の紐ばかり見ていた。ミラもそれ以上は訊かなかった。
鋏を取りに立ったとき、戸口へ向かうガレスとすれ違った。
襟の端が、ほんの少し折れていた。荷を担いだときについたのだろう。ミラは手を伸ばしかけて、止めた。
これ以上、見ないでくれ。
替え玉の若い男が、崩れながら絞り出した声。あれは、まだ耳の奥で消えていない。断りもなく人の体へ手を伸ばすことが、どういうことか。あの日、ミラは知った。
「ガレスさん。襟、直してもいいですか」
ガレスは足を止めた。
「頼む」
ミラは布だけをつまんで返した。古傷のある首筋へは指を寄せず、裏の縫い目を撫でて離す。
ガレスは自分でも襟に触れた。右手だけの、慣れた手つきで。
「この服、片手で着られる。前のより早い」
それだけ言って、彼は目を逸らした。
今朝は支度が早かった。昼に聞いた言葉が、ミラの耳に戻ってきた。
ガレスはもう、入口で荷紐を片づけ始めていた。空袖をしまう仕草は、なかった。
ミラは鋏を握ったまま、少しのあいだそこに立っていた。
紺の前へ戻った。
広くなった台の上で、型紙を載せた紺が向こう端まで伸びている。台の端からは、裁たずに残した反の続きが垂れていた。その重みが、並べた布を少しずつ向こうへ引いていく。
押さえようと腕を伸ばした。向こう端には、届かない。
布目が、ずれかけた。
ミラは台に手をついたまま、息を止めた。
一反。一度しか入れられない線。
通りじゅうが出してくれた布のなかで、陛下の身頃が取れるのは、この一反だけだった。一度入れた鋏は戻らない。線を一本しくじれば、陛下の身頃は、もうどこからも取れない。
一人で台に向かうのには、慣れている。これまでずっと、そうしてきた。なのにこの台は、ミラ一人の腕には広すぎた。
「トビアスさん。この台……」
言いかけて、ミラは口ごもった。広すぎます、とは言えなかった。せっかく作ってもらった台だ。
トビアスは、垂れた反のほうを見ていた。
「……王様の型紙に、合わせた」
ゆっくり、言葉を探すような声だった。
「あんたの腕の長さは、測っとらん」
ミラは目を上げた。
ガレスの右手が、垂れた反をすくい上げた。トビアスが向こう端へ回り、布の縁を持った。
ミラは布を受け取ろうとした。けれど二人は、離さなかった。
「どっちへ引けばいい」
ガレスが訊く。
「……引かないで。そのまま、持っていてください」
声に出してから、ミラは自分の言葉に驚いた。誰かに布を持っていてほしいと頼んだのは、師匠がいなくなってから初めてだった。
ニルスが黙って、手前の角を押さえた。
イレーネが帳面を閉じた。
「記録は、あとでも書けます」
筆を置き、残った角に指を添える。インクの染みた指先が、紺の上で白く見えた。
布の四方に、手があった。
ミラは顔を上げた。
台の向こうに、まっすぐな線が一本、垂れていた。
ガレスの左の空袖だった。右手で紺を持つ彼の隣で、中身のない袖が、揺れずに落ちている。折り畳まれて胸に押しつけられていた袖を、ほどいて、ただまっすぐ落ちるようにミラが組んだ。その線が今、ミラの布のすぐ脇にあった。
鉄色の四角い肩も、継ぎの当たった袖口も、同じ台のまわりにあった。
あたしが測って、あたしが縫った人たちだ。
測られることは、裸にされることだ。あの替え玉の目を見てから、ミラはずっとそう思ってきた。自分の巻尺は、人が隠しておきたいものまで読んでしまう。ずっと隠されてきた袖さえ、ミラは読んだ。
その人たちが、今日は布を持ってくれている。
喉の奥が熱くなった。ミラは唇を強く結んだ。泣くと布に落ちる。作業台の上には、布しか置きたくなかった。
「……あたし、布を組んだだけなのに」
トビアスが、布の縁を握り直した。
「わしも、板を削っただけだ」
ガレスは、前を向いたまま言った。
「俺は、持ってるだけだ」
少し、間があった。
「裁つのは、あんたの手だ」
立ったのはガレスさんですよ。あの日自分が言った言葉が、形を変えて台の向こうから返ってきた。
ミラは息を吸った。
「……陛下のための、最高の一着にします」
裁ち鋏を開く。刃が窓の光を拾った。冷たい鉄の重みが、胼胝のある指に沈む。
部屋から音が消えた。炭のかすかにはぜる音と、誰かの浅い息だけが残った。
下の刃を、台の板に沿わせて滑り込ませる。トビアスが削った縁は、刃の背を一度も引っかけなかった。
握る。
毛織が、じょき、と鳴った。
刃が羊毛を噛む手応えが、柄から手のひらへ上ってきた。詰まった布の、重たい抵抗。それが刃の進みに合わせて、すっとほどけていく。
刃が進むたび、台の向こうの手が、ほんの少しだけ布を張った。引かない。落とさない。布がまっすぐであるように、ただ持っている。張られた紺は、鋏の前で一度もたわまなかった。
王の布に入れる、最初の鋏の音だった。布の伝手を断たれてから、ずっと待っていた音だ。一人で台に向かっていたころは、ただの仕事の音だった。今は違った。
こんなにまっすぐ進む鋏を、ミラは知らなかった。
ミラは先を急がず、決めた線を裁った。
日が窓枠を二つ越えるころ、届いた布にはそれぞれの置き場所ができていた。
陛下の表地は裁ち終え、型紙と一緒に畳んだ。白い筋の端も小さく一枚だけ裁って、隠しの袋の型に添えてある。残りの反物もしまった。まだ要る見返しの紺と裏地を、ミラは紙に書き出した。
人が来たからといって、全部が済むわけではない。明日はくせ取りだ。熱いこてと手の力で、まっすぐな布を陛下の肩の丸みへ少しずつ曲げていく。それから毛芯——胸や肩に張りを持たせる芯地を入れて、中縫い、本縫いへ。王の一着だけでも、仕事は山ほどある。
ニルスは不足の紙を読んだ。
「で、間に合うのか」
「裁ちには二日かかると数えてました。台のおかげで、今日で済みました」
ミラは麻の山へ目をやった。
「二度目の仮縫いは肩だけにして、この麻で試します。あとは夜を削れば、式の前の晩に最後の糸が切れます」
「ぎりぎりじゃねえか」
「ぎりぎりです。見返しの紺が遅れたら、そこで落ちます」
布を探して歩いた日のぶんは、そうやって取り返すしかなかった。
ニルスは紙を畳んだ。
「なら見返しが先だな。通りへ戻って訊いてみる」
「余っているものだけでいいです。次の注文のぶんは取らないでください」
「わかってる。お前も飯を食えよ。……染め屋には、言っとく」
老職人が帰り、荷車も戻っていった。ガレスは最後に荷紐を一本残らず巻き取り、トビアスは床の木の粉を手で集めて袋へ入れた。イレーネは受領の控えをミラに渡し、礼も待たずに廊下へ消えた。
ミラは控えを引き出しへ入れた。型紙の包みの、すぐ上へ。
広い台に一人で座ると、向こう端が遠かった。
今朝、両腕をふさいだ布の重みを思い出す。あれは、一人で抱えるものではなかった。持っていてください。その一言を、ミラは今日やっと言えた。
「入ってもいいかな」
シリルが戸口にいた。
「どうぞ。でも、台が大きくなったので横からは通れません」
「なるほど。私の居場所がまた減った」
「椅子ならあります。布はどかさないでくださいね」
「君というやつは」
軽い声だった。けれどシリルは椅子へ来ず、裁った紺の前で立ち止まった。
「昼に少しだけ覗いたよ。四人がかりで布を張っていたね」
「張ってもらいました。布も、みなさんが」
ミラは顔を上げた。
「シリルさんにもお願いしていいですか。明日のくせ取りのあいだ、台の向こうでこの布を持っていてほしいんです」
シリルの指が紺へ触れかけ、止まった。
「私の手で、いいのかい」
「針は持たなくていいんです。布を落とさないでいてくれれば」
いつもの軽口が、すぐには返ってこなかった。
シリルは、自分の手を見ていた。長い指。ミラが一度も、針を持つところを見たことのない指だった。
昼に台の四方にいたのは、ミラが一着を仕立てた人たちと、師匠の隣でこの通りの布をかがってきた人だった。どの手にも、布の記憶があった。
——誰かに、ちゃんと測られた跡がない。
いつかこの人の肩に巻尺を回した日に、自分の口からこぼれた言葉だった。それをミラは、なぜか思い出していた。
「……明日の朝まで、少し考えさせてくれるかな」
軽く言おうとした声が、途中で軽さを失っていた。
シリルの指は紺に触れないまま、ゆっくりと引かれた。
台の上には、明日こてを当てる紺だけが残った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ガレス、イレーネ、トビアスと久しぶりに会えました。三人とも、前に来たときより言葉が少なくて、手を動かすのが早い。ミラの部屋が少し狭くなるくらいに人がいるのが、書いていて嬉しかったです。
最初の鋏の場面は、ずっと前から決めていました。ミラはいつも「立ったのはお客様の足」と言って、自分の手柄にしない職人です。その言葉が、いつか形を変えて本人に返ってくる日を書きたかった。台の四方を持つ人たちは、ミラを助けたつもりはありません。布を持っているだけです。裁つのは、ミラの手です。
ネリは遠くで暮らしているままです。トビアスと娘の便りのやり取りは、またいつか読みたいなと思っています。
次回、台の向こうに立つかどうか、シリルが少しだけ迷います。引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




