第16話: 縁が動く
縫い通りは、布の鳴る町だった。
王宮の冷たい石の廊下とは、何もかも違う。狭い路地の両側に仕立て屋と織り屋と糸屋がひしめき、どの戸口からも、布を裁つ音と機を織る音が低く重なって流れてくる。ミラは、その音の中を歩いた。子供のころから聞いてきた音だ。歩くだけで、肩の力が少しだけ抜けた。
衣装宮では、布が一反も手に入らなかった。王都じゅうの反物商が、上からの一声でミラにだけ口を閉ざした。けれど、ここでは——とミラは思った。ここでは、まだ別の何かが動いている気がした。
ゴドーの言葉が、耳に残っていた。布を持ってる奴を探すな。布を渡したいと思う奴を探せ。商いの理屈の外に、まだ糸は残ってるかもしれん。
その意味は、まだわからない。わからないなりに、ミラの足は生まれ育ったこの町へ向かっていた。
ニルスの店は、ヴェラの店から三軒先にある。
縫い通りでいちばん古い仕立て屋だ。ニルスはヴェラの古い友で、ミラにとっては近所のうるさい爺さんでもあった。店先で、老人は老眼鏡を鼻にずらして布の端をかがっていた。
「ニルス爺さん」
「おう、ヴェラんとこの」
ニルスは顔を上げて、目を細めた。それから、ミラの顔色を読んだらしい。
「……難しい顔だな。宮で、何かあったか」
ミラは、抱えてきた包みを店先の台に置いた。布をほどく。中から、一枚の型紙が出てきた。ヴェラが最後まで手元に置いて誰にも渡さなかった、あの未完の型紙だ。
「これ、なんの型紙か、知りませんか」
ミラは、まっすぐに訊いた。
「師匠が、最後まで持ってた型紙です。戴冠の格の、すごい一着の型。でも、襟も肩も途中で止まってて、誰のために起こしたのかも書いてない。爺さんなら、師匠といちばん長かったから、何か——」
ニルスの手が、止まった。
老眼鏡の奥の目が、型紙の上をゆっくりと這った。一目見て、それが何かわかった顔だった。布の端をかがっていた針が、宙で止まったまま動かなくなった。
店先の音が、ふっと遠のいた。
「……どこで、それを」
ニルスの声が、低くなっていた。さっきまでの、近所の爺さんの声ではなかった。
「師匠の店の壁に、ずっと掛かってました。あたし、これがなんなのか、知りたくて」
「しまえ」
ニルスが、言った。
「早く、しまえ。布をかけて、人の目に触れさせるな」
「爺さん——」
「ミラ」
ニルスは初めて、ミラの名を呼んだ。皺だらけの手が、震えていた。
「その型紙は、人に見せるな。ヴェラがなぜそれを誰にも渡さず、市井の奥に引っ込んで死ぬまで黙ってたか。——お前が、それを知らずに済んでるのが、いちばんいいんだ」
「知らずに済むって、どういう——」
「これ以上は、言えん」
ニルスは、目を逸らした。
ミラは、その横顔を見ていた。つい先日、ミラは人が見られたくないときに、どんな目をするかを知ったばかりだった。あの替え玉の若者の目。布を一枚ずつ剥がされた人間の目。ニルスの今の目は、それとは違った。怯えていたが、自分のためにではない。ミラのために、怯えていた。
ミラはそれ以上、訊かなかった。型紙に布をかけ直して、包みの奥にしまった。
知りたい、と思っていた。あの夜、店で型紙を見直して初めて、布以外のことを本気で知りたいと思った。けれど、知ろうとした最初の一歩で、いちばん近い人に固く戸を閉ざされた。師は死に、師の友は口を噤む。型紙の謎は解けるどころか、急に冷たく底の見えないものになった。
ミラは、包みを抱え直して頭を下げた。
「……すみません。変なこと、訊いて。帰ります」
「待て」
ニルスの声が、追いかけてきた。さっきの、震えた低い声ではなかった。元の、近所の爺さんの声に戻っていた。
「難しい顔の用は、それだけじゃないだろう。宮で、何かあったんだな。布のことか」
ミラは、足を止めた。
布のこと。そうだ。本当は、それで追い詰められていた。型紙のことは、つい、別に持ち出してしまっただけで。
「……王様の一着の布が、手に入らないんです」
ミラは振り返って、言った。
「あたしが王様の御一着を任されたのが、面白くない人がいて。王都じゅうの反物商に、あたしには売るなって、上から手が回ってます。紺の格の毛織も、海の向こうの金糸も、棚にあるのに一反も買えない。図面はあるのに。腕もあるのに。布が、ないんです」
ニルスは、しばらくミラを見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「宮の偉いのが、反物商を脅して、布を止めた。——だが、それは『売り物の布』の話だろう」
「え」
「売り物の布なら、宮の一声で止まる。商人は、商いを潰されたくないからな。だが、縫い通りには、売り物にならん布がいくらでもある」
ニルスは、店の奥を顎で示した。薄暗い棚に、布の端切れや織り損じや古い反物が山と積まれている。
「織り屋が試し織りに使った端。寸法が足りなくて売れなかった反物。色が一度きりしか出せなかった、無理な染め。——売り物にはならんが、腕のいい仕立て屋の手にかかれば、化ける布だ。ヴェラは、そういう布を見つけるのが、誰より上手かった」
ミラの胸が、とくんと鳴った。
「宮の手は、売り物の布までしか届かん。縫い通りの、売り物にならん布の山までは、届かねえ。——それに、だ」
ニルスは店先から、路地を見渡した。
「この通りで、ヴェラに恩のねえ仕立て屋は、一人もいねえ。あいつは、貧乏な織り屋の倅に針を教え、潰れかけた糸屋に客を回し、誰にも言わずにそれをやってた女だ。そのヴェラの娘が、王様の一着の布で困ってる。——一声かければ、明日には、この通りじゅうから布が集まるぞ」
ミラは、すぐには言葉が出なかった。
巻尺なら、どんな体でも測れる。肩の据わりも、骨の幅も、庇った古傷も。人と人のあいだに張られた目に見えない糸は、巻尺では測れない。ミラは、その糸を、これまで一度も数えてこなかった。一人で針を握る。一人の客のために。それだけが、ミラの世界だった。
なのに、その数えてこなかった糸が、いまミラのために動こうとしていた。師が生きているあいだに、この通りじゅうにそっと張りめぐらせていた糸が。
布を持っている人を、探していた。違った。布を、渡したいと思う人を、探すんだ。——ゴドーの言葉の意味が、やっとミラの中で形になった。あの量産の親方は、商いの理屈で勝つと決めている。だからこそ、商いの理屈の外にミラの活路があることを知っていた。
「……いいんですか。みなさんに、迷惑が」
「迷惑?」
ニルスは、笑った。皺が、深くなった。
「恩を返させろ、と言ってるんだ。ヴェラに返せなかったぶんを、娘に返す。それを、迷惑なんて言うんじゃねえよ。——お前は、施しを受けるのが嫌いだろう。ヴェラと同じでな。だが、これは施しじゃねえ。貸し借りの、ただの帳尻だ」
ミラの目の奥が、熱くなった。布のことなら、いくらでも言葉が出るのに、こういうときに限って何も言えなくなる。
「明日、声をかけといてやる。お前は宮で、その図面をいつでも裁てるようにしとけ。布は、来る」
「……はい」
ミラは、深く頭を下げた。包みの中の型紙が、胸に固く当たった。
戸を閉ざされた謎と、開かれた縁。冷たいものと温かいものを両手に一つずつ抱えて、ミラは縫い通りを後にした。
布は、来る。商いでは一反も買えなかった布が、巻尺では測れない糸を伝って明日集まってくる。
ただ——と、ミラは夜の路地を歩きながら思った。包みの中の型紙の角が、また胸に当たる。師匠はなぜ、これを誰にも見せるなと遺したんだろう。ニルス爺さんが、あたしのために怯えるほどの何かが、この一枚の紙に隠れている。
夏の夜の風が、縫い通りの戸を一つずつ低く鳴らしていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、追い込まれたミラに、ようやく一筋の光が差す回です。ただし、その光は、商人からでも、政治からでもなく、「縁」から差します。
前回までで、ミラは布の伝手をすべて断たれました。宮の偉い人が、売り物の布を、上から押さえてしまったからです。でも、ニルス爺さんが言うとおり、宮の手が届くのは「売り物の布」まで。縫い通りには、売り物にならない布——試し織りの端、売れ残りの反物、無理な染め——が、いくらでもある。そして、その布を動かすのは、商いの理屈ではなく、亡き師ヴェラがこの通りじゅうに張りめぐらせていた、恩義の糸でした。
ミラは、一人で針を握る職人です。人と人のあいだの「縁」なんて、これまで一度も数えてこなかった。巻尺では測れないものだから。なのに、その測れない糸が、今、彼女のために動きはじめる。ゴドーが言った「布を渡したいと思う奴を探せ」の意味が、ここでようやく形になります。
その一方で、型紙の謎は、逆に深まりました。ニルス爺さんは、型紙を一目見て顔色を変え、「人に見せるな」と封じます。しかもそれは、ミラを叱る怒りではなく、ミラのために怯える、守るような拒絶でした。守りたくなるほど危ないものが、あの一枚の紙には隠れている——温かい縁と、冷たい謎を、ミラは両手に一つずつ抱えて帰ります。
次回、いよいよ縫い通りと、これまでミラが仕立ててきた客たちの恩が、一つに集まります。どうかお付き合いください。




