第15話: 替え玉の肩
巻尺が、知らない肩の線をなぞっていく。
その朝、ミラは衣装宮の採寸部屋にいた。王の一着には、まだ手をつけられない。布が一反も来ないからだ。けれど、戴冠の日は近づいてくる。手をこまねいているより、できることをするほうがましだった。
シリルが、回してくれた仕事だった。戴冠式には、王だけでなく大勢の貴顕が立つ。その装束の寸法直しなら、布の調達と関わりなくできる。
「君は、宮でいちばん正確に測れる。だったら、立つ人たちの体を測っておくといい。布が来たとき、すぐ動けるように」
シリルはそう言った。ミラには、ありがたかった。測っているあいだは、布のことを忘れていられた。巻尺を体に回せば、相手の肩も背も癖も、いつものように指に返ってくる。その手応えだけが、いまのミラに残された確かなものだった。
午後に、その客が来た。
従者を二人連れた、年配の貴顕だった。仕立てのいい外套。磨かれた靴。けれど、ミラの目は外套の下の体を読みはじめていた。
「ドルフェン侯爵様です」
従者が、低く告げた。
「戴冠式の参列の装束を、新調なさる。寸法を」
「はい。失礼します」
ミラは侯爵の上着を脱がせてもらい、巻尺を肩に回した。
その瞬間、指が止まった。
肩の据わりが、おかしかった。いや、おかしいのではない。きれいすぎた。ミラは、肩甲骨のあいだに指を当てた。それから、肋骨の張りと背骨の通りを順になぞっていく。読めば読むほど、指が冷たくなっていった。
いつもなら、知らない体を読むのは楽しかった。その人の来歴が、肩の据わり一つから立ち上がってくる。けれど今日は、読むほどに、読んではいけないものを読んでいる気がした。それでも指先は、勝手にそれを拾ってしまう。
壁際に、分厚い採寸台帳が積んである。歴代の貴顕の寸法を、何十年ぶんも記録した帳面だ。ミラは、その背表紙を見た。「ドルフェン侯爵」の文字が、見えた。
台帳の体と、いま測っている体が、違った。
「……これ」
ミラは、考えるより先に口にしていた。採寸に没入したときの、いつもの癖だった。
「台帳のドルフェン侯爵様と、お体が、違います」
部屋が、凍った。
「肩甲骨のあいだが、台帳より指二本ぶん狭い。骨は、生まれつきの幅で、肉がついても痩せても、そんなには動きません。それに、この肋骨の開き方は、若い。台帳の侯爵様は長く馬に乗った張り方なのに、この方の胸は、馬の張りじゃない」
ミラは巻尺を握ったまま、貴顕の顔を見上げた。
「あなたは、台帳のドルフェン侯爵様じゃ、ないですよね」
貴顕の顔から、血の気が引いた。
それは、年配の男の顔ではなかった。よく見れば、目尻にも口元にも、刻まれているはずの年輪がない。化粧と立ち居振る舞いで老いを装っていただけの、まだ若い男の顔だった。
「ち、違う」
男の声が、震えた。
「私は、ドルフェン侯爵だ。何を、世迷いごとを」
「お声も、若いです」
ミラは言ってしまってから、しまった、と思った。けれど、止まらなかった。指が読んだものを、口が勝手に並べてしまう。
「喉のここ。年を取ると、声を出す筋が落ちて、肩で息をするようになります。でも、あなたの喉は、まだ張ってる。測れば、わかります。あなたは、本物の侯爵様より、三十はお若い」
男は、後ずさった。従者の二人が、慌てて男を支える。その手つきが、主人を支える手つきではなかった。仲間を、庇う手つきだった。
「やめてくれ」
男が、絞り出すように言った。さっきまでの、作り物の老いた声ではなかった。若い、本当の声だった。
「やめてくれ。頼む。これ以上、見ないでくれ」
ミラは巻尺を握ったまま、動けなくなった。
男の目が、ミラを見ていた。怒りでも、敵意でもなかった。裸を見られた人間の目だった。隠していたものを布一枚ずつ剥がされ、最後の一枚まで取られた人間の、あの目だった。
ミラは、その目を知らなかった。これまで巻尺を回したどの客も、最後にはほっとした顔をした。見てもらえた、という顔を。見られたことを、こんなふうに怖がる目を、ミラは初めて向けられた。何かを、間違えた。そう感じたけれど、どこを間違えたのかは、その場ではわからなかった。
騒ぎを聞きつけて、シリルが部屋に入ってきた。
一目で、何が起きたかを察したらしい。シリルは、若い男と従者たちを別室へ移させた。声を荒らげず、人払いをして、その場を手際よくおさめていく。ミラには見えない政治の糸を、シリルの手が素早く手繰っているのがわかった。
ミラは採寸部屋に一人、残された。
しばらくして、シリルが戻ってきた。
「驚いたよ。本当に、君は」
シリルの声は、いつもの軽さを装っていた。けれど、その目は笑っていなかった。
「あれは、ドルフェン侯爵の縁者だ。若い、甥らしい。——本物の侯爵は、もう何年も、床から起き上がれない。頭も、はっきりしないそうだ。だが、侯爵家が戴冠の式に顔を出さなければ、家は宮中での立場を失う。だから、甥を侯爵に仕立てて、立たせるつもりだった。寝たきりの当主の、最後の見栄のためにね」
ミラは、何も言えなかった。
「政治の話は、私がやる。あの家がどう動くか、儀典長がどう絡んでくるか。——それは、君が気にすることじゃない」
シリルは、そこで少し言葉を切った。
「ただ、一つだけ。君は、悪いことは、何もしていない。ありのままを、測って、言っただけだ」
その言葉は、慰めのはずだった。けれど、ミラの胸に刃のように刺さった。
その夜、ミラは縫い通りの店に帰っても、巻尺を手から離せなかった。
ありのままを、測って、言っただけ。そのとおりだった。ミラは、嘘をついていない。見えたものを、見えたとおりに言った。それだけだ。いつもと、同じことをした。
いつもと、同じことを。
ミラはこれまで、たくさんの体を測ってきた。怯えた王の背中。片腕を失った騎士の肩。男だらけの宮廷で生きる女の、隠した本心。嫁ぐ娘の、これからの体。みんな、ミラの巻尺の下で、隠していたものをそっと差し出してくれた。そして、ミラはそれを読み、その人だけの一着を組んだ。測られることは、その人にとって、いい一着に変わって返ってくることだった。
だから、ミラはずっと思っていた。測ることは、その人をいちばん深く見ることで、いちばん優しいことなんだと。
今日、それが、違った。
あの若い男は、測られることを望んでいなかった。隠したかった。寝たきりの伯父の、最後の見栄を。自分が偽物だということを。ぜんぶ、布の下にしまっておきたかった。なのに、ミラの巻尺が、その布を一枚残らず剥がした。
ミラは、自分の巻尺を灯りにかざした。
——測ることは、その人を、裸にすることだ。
今まで、客は裸になりたくて、ミラのところへ来ていた。本当の自分を見てほしくて、巻尺の前に立った。だからミラは、気づかなかった。同じこの巻尺が、見られたくない人を無理やり裸にする刃にもなるということに。
あの男の最後の目が、消えなかった。「これ以上、見ないでくれ」。裸を見られた人間の、あの目が。
ミラは、巻尺をそっと膝に置いた。
布のことなら、何でも読める。読めることは、ずっとミラの誇りだった。今日、初めて、その誇りがこわかった。
読めてしまう。望まれなくても、読めてしまう。この目は、祝福なのか、それとも——。
窓の外で、夏の夜が深く更けていった。ミラは答えを持たないまま、長いあいだ、自分の巻尺を見つめていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、ミラの「採寸眼」に、初めて影を落とす回です。
これまでミラの採寸眼は、人を立たせる、優しい力でした。怯えた王も、片腕の騎士も、ミラに測られることで、隠していた本当の自分を肯定され、まっすぐ立ってきました。客はみんな、「見てほしくて」巻尺の前に立っていた。だからミラは、測ることはいちばん優しいことだと、疑っていませんでした。
でも、今回の若い男は、違いました。彼は、見られたくなかった。寝たきりの伯父の見栄を、自分が偽物だということを、布の下にしまっておきたかった。なのにミラの目が、それを一枚残らず剥がしてしまう。「これ以上、見ないでくれ」——同じ巻尺が、人を立たせる力にも、人を裸にする刃にもなる。ミラはここで初めて、自分の力がこわくなります。
無双の力に、倫理のコストを入れたかったのです。なんでも読めるミラが、なんでも読めるからこそ、傷つける。この「測る怖さ」を一度知ったうえで、それでも彼女がまた誰かを測る日が来ます。そのとき、彼女の巻尺は、今日より少しだけ重いはずです。
ミラには、今回、救いを差し出しません。シリルの「君は悪いことは何もしていない」も、慰めにはならない。彼女は答えを持たないまま、自分の巻尺を見つめて終わります。それでいい、と思いました。職人の業というのは、たぶん、そういうものだから。
戴冠の布は、まだ一反も来ていません。次回、ようやく、人の縁が動きはじめます。どうかお付き合いください。




