第14話: 一人では回らない
待ち針は、刺すべき布を待っていた。
ミラの作業台には、王から託された御一着の図面が広げてある。襟の返り、肩の据わり、毛芯の流し方——どこにどう針を入れるか、ミラの頭の中ではもう一着が完成していた。あとは布に裁ち入れるだけだ。
その布が、なかった。
針山に挿したままの待ち針を、ミラは一本抜いて、また戻した。冷たい針の頭が、指の腹を一度だけ押し返す。布に入らない針は、ただの細い鉄だった。
ミラは、布の伝手を片端から当たった。
御用達の老舗が駄目なら、別の店がある。そう思って、王都の反物商を一軒ずつ回った。けれど、どの帳場でも答えは同じだった。
「紺の格の毛織は、うちにはないねえ」
「叩き金? ああ、当分入らないよ」
誰もが、ミラと目を合わせなかった。布のことなら読めるミラには、棚の奥に布があるのも、相手が嘘をついているのも、手に取るようにわかった。けれど、わかったところで、どうにもならなかった。みな、同じ顔をしていた。御用達の主人と同じ、何かに挟まれて身動きの取れない顔だ。
王都じゅうの反物商が、申し合わせたように、ミラにだけ布を売らなかった。
誰か一人の店主が決めたことではない。もっと上で、宮の偉い誰かが、王都の布の流れそのものに、そっと手を置いていた。ミラには見えない高さで、見えない手が、布の蛇口を締めていた。
衣装宮へ戻る途中、ミラは大広間の前で足を止めた。
量産の音が、いつものように布を呼吸させずに鳴っている。その奥の裁ち板に、布が積んであった。紺の毛織。緯糸を二本どりで詰めた、王の正装と同じ格の布だ。その隣に、叩き金の巻きも幾つも。——ミラがどの店でも一反も手に入らなかった布と糸が、量産の現場には山と積まれていた。
「探してるのは、それか」
声に振り返ると、ゴドーが帳面を小脇に立っていた。
「一式の儀仗や侍従の装束に使う分だ。うちは量で買う。何代も付き合いのある商人を、何軒も束ねてな。一軒が渋っても、別の伝手から流れてくる」
「親方が、布を止めさせたんですか」
ミラは、まっすぐ訊いた。ゴドーはすぐには答えなかった。
「俺じゃない」
低い声だった。
「だが、儀典長まわりが動いてるのは知ってる。止めてもいない。——お前さんの誂えが王の一着を攫った。それを面白く思わない連中が、いちばん効くところを締めた。布だ。お前さんがいちばん欲しがって、いちばん手の届かないところを」
ゴドーは、積まれた紺の毛織にちらりと目をやった。それから、ミラに戻した。値踏みするような、けれどどこか居心地の悪そうな目だった。
「ここの布を一反、お前さんに回すのは、わけもない。だが、回さない。——これは競りだ。誂えと量産、どっちが王の戴冠を着せるに足るか。布を恵んで勝たせる競りなら、最初から競りじゃない」
「……はい」
「恨むなら、恨め」
ゴドーは背を向けた。けれど、二、三歩で足を止めた。
「だが、一つだけ言っとく。布が来ねえなら、布を持ってる奴を探すな。お前さんに布を渡したいと思う奴を、探せ。——商いの理屈の外に、まだ糸は残ってるかもしれん」
それだけ言って、ゴドーは量産の音の中へ消えた。框を出るとき、その左肩が一度つっかえた。
ミラには、ゴドーが最後に何を言いたかったのか、すぐにはわからなかった。
「布が、集まらないんです」
その夜、ミラはシリルの執務室にいた。窓の外は、もう暗い。
「どの店も売ってくれません。棚に、ちゃんとあるのに」
「だろうね」
シリルは机に積まれた書類から顔を上げた。いつもの軽い笑みが、今夜は薄かった。
「儀典長が、御用達筋に手を回した。『前例のない仕立て師に王の一着を任せるのは、宮の信用に関わる』——そういう体でね。布が集まらなければ、君は納期に間に合わない。間に合わなければ、やはり市井の小娘には無理だった、という話になる。腕で潰せないなら、布で潰す。きれいなやり口だよ」
「シリルさんの力で、どうにか——」
「ならないんだ」
シリルは、静かに言った。
「私が総監督として表立って御用達に圧をかけ返せば、儀典長と正面からぶつかる。そうなれば、戴冠の一式の話そのものに、けちがつく。旧臣派は、それを待ってる。総監督が市井の小娘をひいきして宮を私物化している——そう言い立てる口実を、欲しがってるんだ」
シリルは、指で軽く眉間を押さえた。ミラが初めて見る仕草だった。
「君を守るために動けば、君を立たせる舞台そのものが、壊れる。——まいったな。こんなに手が縛られるのは、久しぶりだ」
ミラはその横顔を見ていた。首から提げた巻尺を、指が無意識に手繰っている。巻いて、ほどいて、また巻いて。
いつも余裕で、何でも食えない顔で受け流す人が、今は眉間に皺を寄せたままだった。布のことなら、ミラはこの人を助けられる。肩の返り一つ、組み直してやれる。けれど、宮の高いところで回っている政治の糸は、ミラには一本も見えなかった。見えないものは、組み直せなかった。
「あたしのせいで、すみません」
「君のせいじゃない」
シリルは即座に言った。
「君の腕のせいで、君が狙われてる。それは、まるで違うことだ。——ただ、私の手が、今は短いだけだ」
執務室を出て、ミラは自分の仕事場へ戻った。
戴冠式まで、もう日がない。指を折って数えれば、王の一着を仕立てるのに必要な日数は、ぎりぎりだった。今日、布が手に入っても、間に合うかどうか。明日になれば、もう間に合わない。明後日なら、確実に落ちる。
ミラは、図面の上に手を置いた。指先が、布を探した。けれど、そこにあるのは紙だけだった。冷たくも温かくもない、ただの紙。指が行き場をなくして、図面の縁を一度なぞって、止まった。どうすればいいのか、わからなかった。布のことなら、何だってわかるのに。
ミラは初めて、自分の仕事のかたちを外から眺めた。
あたしは、たった一人で針を握る。たった一人の客のために、世に一枚きりの型を起こして、最高の一着を組む。それが、信条だった。誇りだった。——でも、その一人きりの仕事は、布が一反途切れただけで、止まる。代わりに裁つ手もない。代わりに布を流す伝手もない。眠らずに縫う腕はあっても、眠らずに布をかき集める力は、ない。
ゴドーの言葉が、また耳の奥で鳴った。
お前さんが一人を抱きしめてる間に、二十九人は裸で寒空に立ってる。理想は皆を巻き込んで沈む。
あのとき、ミラは言い返せなかった。今も、言い返せない。むしろ、あのときより深く、その正しさが身に染みていた。誂えという仕事は、強い。たった一人に、これ以上ない一着を届けられる。けれど、細い。布一反、糸一巻きを、誰かに上から握られただけで、その強さは、根元から折れた。
ミラは、首から提げた巻尺を握りしめた。これまで、どんな体でも測ってきた。怯えた王の背中も、片腕を失った騎士の肩も、嫁ぐ娘の門出さえ、巻尺一本で読んできた。読めないものなど、ないと思っていた。
なのに、いま自分が立たされているこの場所の寸法だけは、どうしても測れなかった。どこに針を入れれば、この壁を抜けられるのか。その一目が、ミラには、まるで見えなかった。
ミラは作業台のへらに手を伸ばした。ヴェラの遺した、すり減った木のへら。指で窪みをなぞる。
——師匠だったら、どうしただろう。
ヴェラもかつて、この宮にいた名工だった。一着を最後に、宮を去った人。その師が、こういう壁の前で、どう手を動かしたのか。ミラには、わからなかった。教わったのは、布の裁ち方と、針の運びと、一人のための一着という信条だけだ。布が来ないとき、どうやって布を呼ぶのか。それを、師は教えてくれなかった。
窓の外で、夏の夜が、しんと更けていった。
図面はある。腕もある。頭の中には、もう、王の一着が完成している。
なのに、その一着を、現実の布の上に、一目も縫い起こせなかった。
ミラは、待ち針を一本、口にくわえた。刺すべき布のない待ち針を。ただ、そうしていないと、手がどうしていいのかわからなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、ミラがいちばん苦しい回です。客の一着を仕立てて誰かを立たせる、いつもの爽快さは、ここにはありません。布が手に入らない。ただそれだけのことで、無敵だったはずの彼女の手が、完全に止まってしまう。
書きながら大事にしたのは、「ミラの腕は一度も否定されない」ということでした。誰も、彼女の仕立てが下手だとは言えない。だから敵は、腕ではなく布を断つ。そして布を断たれると、誂えという仕事は驚くほどもろい。一人で、一着に懸ける——その強さと弱さは、同じ一本の糸の裏表なんですよね。前回ゴドーに言い負かされた「数の論理」が、ここで実害になってミラを追い込みます。彼女が無双しないための、大事な壁です。
シリルが眉間を押さえる仕草を、初めて書きました。いつも余裕の彼が、本当に手を縛られている。「君を守るために動けば、君を立たせる舞台そのものが壊れる」——彼の余裕は、たぶん、こういうときのために取ってあったはずの余裕でした。それが、今は効かない。
そして、ヴェラのへら。「師匠だったら、どうしただろう」。けれど師は、布の呼び方までは教えてくれなかった。この問いの答えは、ミラ自身が、人の縁の中で見つけていくことになります。次回、戴冠の準備が進むなか、ミラの採寸眼が、ある人の体に「合わないもの」を見つけてしまいます。どうかお付き合いください。




