第13話: 王国の威信を、一着に
謁見の間は、布の鳴らない部屋だった。
ミラは敷石の上に膝をつき、頭を垂れていた。床に額づく姿勢のまま、それでも指先だけは、自分の膝に触れた敷物の毛足を読んでいた。固く詰まった毛足。足音を吸う厚み。王の御前を、しんと静めるために織られた敷物だ。
上座から、若い声が降ってきた。
「面を上げてくれ」
ミラは顔を上げた。玉座に、レウベンが座っていた。三月前、ミラが藍の一着を組んだ若き王だ。あのときより、背筋がわずかに伸びている。仕立てが立たせた背中を、本人の時間が、少しずつ自分のものにしはじめていた。
その脇に、儀典長ヴァルターが控えている。さらに奥には、見覚えのない高位の貴族たちが居並んでいた。誰もが厳めしい礼装を着ている。ミラの目は、その礼装の肩をひとりでに読みはじめた。
「衣装宮の仕立て師ミラ」
ヴァルターが、巻物を広げた。
「戴冠式の正装一式のうち、陛下の御一着を、そなたに任せる。これは正式な下命である。式までの日数、布の格、金糸の量——すべて、王国の威信に直結する。承知か」
「承知、します」
ミラは答えた。けれど、その目はもう玉座のレウベンの肩に吸い寄せられていた。
王国の威信に直結する、とヴァルターは言った。ミラの胸に、その言葉が、いつもと違う重さで落ちた。これまで縫ってきたのは、目の前の一人のための一着だった。ガレスの空袖。イレーネの肩。トビアスの娘の門出。どれも、たった一人の体に向き合えばよかった。けれど、戴冠の一着は違う。これを着た王を、国じゅうが見る。仕立ての出来が、王の威信になり、ひいては国の格になる。ミラの針の一目が、一人の客の枠を越えて、もっと大きなものに繋がりはじめていた。
居並ぶ貴族たちの視線は、冷たかった。市井から来た小娘が王の戴冠の一着を縫う。その不満が声にならないまま、部屋の隅に溜まっている。ミラには、布の滲みなら読めても、この視線の冷たさを払う術はなかった。
「陛下。少し、肩が前に出てます」
ヴァルターの手が、巻物の上で止まった。居並ぶ貴族の幾人かが、顔を見合わせる。
「三月前より、ずっといい。背中、自分で立てるようになってます。でも、今日は緊張で、また少し前に巻いてる。式の日は、もっと——」
「ミラ」
声は、横から来た。
シリルだった。いつのまにかミラの斜め後ろに進み出ていた。いつもの食えない笑みではなかった。声が低かった。
「——そこまでに、しておこうか。さすがに、この場は」
ミラは、はっとした。
顔を上げれば、ヴァルターが眉を寄せている。居並ぶ貴族たちの目が、冷たくこちらを向いていた。ここが謁見の間で、自分が王に向かって肩の話を始めたことに、ミラはやっと気づいた。
「……あ。すみません」
ミラは頭を下げた。それから、何か取り繕おうとして口を開いた。
「あの、悪い意味じゃなくて。陛下の肩は、いい肩なんです。立てる肩で——」
「ミラ」
シリルが、もう一度だけ、静かに名を呼んだ。ミラは、口をつぐんだ。
玉座のレウベンが、ふっと小さく笑った。咎める笑いではなかった。
「いい。私の肩のことを、この娘ほど正直に言う者は、宮中にひとりもいない」
レウベンは、ヴァルターのほうを見た。
「儀典長。この娘に、最良の布と金糸を。私の一着は、この娘に委ねる」
「……御意」
ヴァルターは、頭を垂れた。けれど、その声には苦いものが混じっていた。垂れた頭の下で、その指が巻物の端を、一度固く握り直した。
謁見の間を出ると、シリルが廊下で待っていた。
「ひやひやしたよ」
いつもの軽い口調が、戻っていた。
「玉座のレウベンに向かって、肩が前に出てます、はないだろう。あそこで儀典長が機嫌を損ねたら、布の一反だって渋られかねないんだ」
「……つい、見えちゃったんで」
ミラは、首から提げた巻尺を所在なげにいじった。
「シリルさんが止めるの、初めてでした」
シリルの足が、半歩、止まった。
たしかに、これまでミラがどれだけ失言しても、この人は止めなかった。むしろ面白がって、横で笑っていた。ミラの不躾を、いつも誰かから庇っていたのは、この人のほうだった。
シリルは、何か言いかけて、口をつぐんだ。廊下は静かで、遠くの大広間から量産の音だけが、低く伝わってくる。その沈黙が何の沈黙なのか、ミラには読めなかった。布のことなら、滲み一つ見逃さないのに。
「……ああ」
シリルは、すぐにいつもの笑みに戻した。
「珍しく、私が庇いきれない場だったってことさ。謁見の間は、私の領分の外でね。——だから、覚えておくといい。布の話をしていい場所と、しちゃいけない場所がある。君の腕は、それくらいで曇りはしないから」
ミラには、シリルがなぜ半歩足を止めたのか、わからなかった。布のことなら、肩の据わり一つで何でも読めるのに。人の足が止まる理由は、布の打ち込みみたいには確かめられなかった。
シリルは、少し間を置いてから、声の調子を変えた。
「——わかってるか。君が引き受けたのは、ただの一着じゃない。あの方が、国じゅうの目の前で、たった一人で立つための一着だ。仕立てがしくじれば、王が嗤われる。下手をすれば、国が揺らぐ。それくらいの重さが、ある」
「はい」
ミラは頷いた。それから、いつもの調子で続けた。
「だから、いつもどおりやります。陛下の体を測って、陛下だけの一着を組む。国のことは、あたしにはわかりません。でも、陛下の肩のことなら、あたしがいちばんわかってます」
シリルが、ふっと笑った。今度は、いつもの食えない笑みだった。けれど、その奥に、何か眩しいものを見るような色が一瞬だけ差した。ミラは布のことしか見ていなかったから、気づかなかった。
「君は、本当に」
シリルは、最後まで言わなかった。
「とにかく、御一着は君のものになった。王が、はっきりそう言った。——あとは、布だ」
シリルは、軽く言った。
「最良の布と金糸。儀典長が手配する。明日にでも、布蔵に届くはずだ」
けれど、布は届かなかった。
翌日も、その翌日も。ミラの仕事場には、王の一着に使う紺の毛織も叩き金の金糸も、運ばれてこなかった。
三日目の朝、ミラはとうとう布蔵まで降りていった。衣装宮の布を商う御用達の店——王都で代々、宮に布と糸を納めてきた老舗だ。その帳場に、ミラは立った。
「王の御一着の布を、取りに来ました。紺の毛織と、叩き金の金糸です」
帳場の主人は、帳面から顔を上げなかった。
「……ああ、その話ね」
主人は、しばらく黙っていた。それから、ようやく口を開いた。
「あいにく、紺の毛織は、品切れだ。緯糸を二本どりで詰めたあの格の毛織は、すぐには織れない。叩き金のほうも、海の向こうからの入荷が、当分、止まっててね」
「品切れ……」
ミラは帳場の奥に積まれた反物を見た。布のことなら、目だけで読める。あの棚の奥に、紺の毛織は、ある。叩き金の巻きも、たしかに、ある。
「あそこに、あります」
ミラは、棚を指した。
「奥の棚。紺の、緯糸を二本どりで詰めた毛織。一反、いえ、二反。叩き金も、その隣に三巻き。——品切れじゃ、ないですよね」
主人の手が、帳面の上で止まった。
「……お針子さん」
主人は、初めてミラを見た。困った顔をしていた。怒ってはいなかった。ただ、何かに挟まれて、身動きが取れない顔だった。
「あれは、もう、別のところへ納める約束になってる。悪いが、王の御一着の分は、回せない」
「別のところ、って」
「言えないよ」
主人は、目を逸らした。
「うちは、宮に布を納めて、何代も食ってきた。宮の偉い方に『あの仕立て師には布を回すな』と言われたら、回せない。……それだけだ。恨むなら、私を恨んでくれ。でも、私だって、商いを潰すわけにはいかないんだ」
ミラはその顔をしばらく見ていた。
布のことなら、何でも読める。この主人が嘘をついていないことも、わかった。彼は本当に、板挟みになっている。誰かが、彼の上から、布を止めさせている。
「……わかりました」
ミラは、それだけ言って、帳場を出た。
外の通りに立つと、夏の日差しがじりじりと首筋を焼いた。ミラは自分の鞄を抱え直した。鞄の底には、布にくるんだ師の型紙と、王から託された御一着の図面が入っている。
図面は、ある。腕も、ある。
ただ、それを縫うための布が、一反も手に入らなかった。
誰かが、ミラの手の届かないところで布を止めた。ゴドーの言ったとおりだった。妨害は腕にではなく、布と糸と納期から来る。お前さんの手が届かないところから来る、と。
ミラには、布を織ることはできる。けれど、布を商う店に「あの娘には売るな」と命じる力はなかった。それは、布の話ではなかったからだ。
ふと、ゴドーの顔が浮かんだ。あの量産の親方なら、こんなことにはならない。何代も付き合いのある商人を何軒も束ね、量で買い、量で売る。一軒に断られても、別の伝手から布を流させる。数を捌く力は、布をかき集める力でもあった。ミラには、それがない。たった一人で、たった一着のために、最高の布を一反だけ欲しがる。その細い糸は、上から軽く指で弾かれただけで、ぷつりと切れた。
誂えという仕事の、いちばん細いところを、誰かに正確に握られていた。
ミラは鞄の上から、布にくるんだ師の型紙の角にそっと触れた。固い紙の感触が、布越しに指へ返ってくる。中には、王から託された御一着の図面もある。頭の中では、もう一着が出来上がっていた。襟の返りも、毛芯の流し方も。
なのに、それを縫う布が、この王都のどこを探しても、ミラには一反もなかった。
じりじりと照る日差しが、首筋を焼いた。ミラは立ち尽くしていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二アーク「最高の一着」の幕開けです。第一アークが「ミラの腕と価値観を、客一人ひとりで見せる」アークだったとすれば、ここからは「その腕だけでは、どうにもならない壁」と向き合うアークになります。
書いていて自分でも切なかったのは、シリルが初めてミラを諌める場面でした。これまで彼は、ミラがどんなに失言しても、止めるどころか面白がって、横でこっそり庇ってきた人です。その彼が、声を落として「さすがに、この場は」と止める。彼が庇いきれない場所がある、ということが、謁見の間という場の重さを物語ってくれたらと思います。ミラが「初めてでしたね」と言ったとき、シリルの足が半歩止まる——その理由は、まだ書きません。
そして、妨害。ミラの腕は、誰にも否定できません。だから狙われるのは、腕ではなく、布です。布を織ることはできても、「あの娘に売るな」と商人に命じる力は、ミラにはない。御用達の主人が悪人ではなく、ただ板挟みになっているだけ、というのが、この妨害のいやらしいところでした。
図面はある。腕もある。なのに、布が一反も手に入らない。次回、ミラはこの壁の前で、誂えという仕事の弱点と、正面から向き合うことになります。どうかお付き合いください。




