第4話
「なにっ、関東取締出役が贈収賄じゃと」
江戸町奉行、東山金四郎景元は思わず声を上げる。
「あってはならぬことじゃ」
江戸町奉行所の御用部屋では、御庭番の右衛門が奉行の金四郎と文机を挟んで向かい合って正座している。
御庭番とは表向きは江戸城の庭の管理だが、実際の仕事は隠密だった。
右衛門が目明しに扮して関東取締出役、宇賀神権助という男を見張っていたところ、福村屋六太という旅籠の主から金品を受け取り、六太の罪状を見逃したという。
「お奉行様」
右衛門が言う。
「福村屋の六太という男ですが、たえず小判を袖の下からちらつかせては、宇賀神殿に便宜をはからせようと企んでいるようでした。
真岡代官所の代官とも懇意だと申しておりました」
「そうか」
金四郎が言う。
「宇賀神にせよ、六太にせよ、早晩これは成敗しなきゃならんだろう」
肩に彫った桜吹雪の刺青がかすかにうずく。それは金四郎にとり、武者震いに近い感覚だった。
そこはかとなく桜吹雪が悟らせる己の使命。
これまでにも人生の一大事には常に桜吹雪がうずいた。
ここはやはり進むべきときか。金四郎は自問する。
「右衛門よ、わしが直接、合戦場宿に赴いてみようぞ」
「お奉行様がわざわざ足を運ばれなくても、拙者どもでなんとかいたします」
「いや、ここはわし自身がかたを付けねばなるまい」
金四郎は文机を扇子でポンと叩く。
曇り空だった。
お菊と喜平は役人たちに連行される魔左衛門を追いかけた。
「ついて来るな」
しんがりの目明しがお菊たちに言う。
だが目明しが前を向くと、お菊たちは後をつける。
マーさん、どうなってしまうのかしら。お菊は訝った。
生きて帰って来れるかしら。それともこのままマーさんと生き別れになったらどうしよう。
お菊の脳裏には様々な想念が渦巻いた。
「こらっ、ついて来るなと言ったはずだ」
また同じ目明しがお菊たちを注意する。
お菊と喜平は今度は彼らから少し距離を置いて後をつける。
そうこうしているうちに問屋場の近くまで来た。
唐突に魔左衛門が「ウォォォオー」と雄たけびを上げ、力づくで後手の縄を切る。
魔左衛門の刀、名刀村正を奪った目明しを殴り、ひるんだすきに村正を奪い返す。
鞘を放り投げ、側にいた侍一人と目明し一人を斬る。
目明したちは異口同音に「御用だ」と叫びながら十手を構え、魔左衛門の周囲を取り囲む。
魔左衛門が「呼出状」を持って来た同心の侍に斬りかかり、一合切り結ぶと、別の侍が刀を持っている魔左衛門の右手を切り落とす。
刀を握った右手から青緑色の血が噴き出して地面に落ちる。
「マーさん」
お菊は思わす叫ぶ。
魔左衛門が切られた手を左手でかばおうとする隙に、一人の目明しがみぞおちを十手で突く。
「うわっ」
魔左衛門が悶絶して前かがみになると別の目明しが縄で左右の腕を縛る。
魔左衛門はしばらく抵抗を試みるが、複数の目明しが魔左衛門を取り押さえる。多勢に無勢でやがて魔左衛門はおとなしくなる。
「ほらっ、歩け」
同心が後ろから魔左衛門の足を蹴飛ばす。
行列は再び街道を歩き続ける。
喜平は刀を掴んだ魔左衛門の右手を拾う。
お菊は鞘を拾う。
このへんでマーさんたちの後を追いかけるのをやめよう。お菊はそう思う。
これ以上、後を追っても仕方ない。
「喜平、帰ろうか」
お菊が言うと喜平は無言のままうなづく。
二人とももう彼らを追うのをやめ、元来た道を引き返す。
万屋「中松屋」は木賃宿「桜屋」の隣の例幣使街道沿いにあった。
「福村屋」からもさして遠くない。
お菊は必要なものを「中松屋」で買いそろえ、喜平と「福村屋」に帰る。
部屋に戻るとまずお菊は旅籠の井戸から水をくみ、「中松屋」で買った盥に入れる。
喜平が持って帰ってきた魔左衛門の右手を刀から離し、手甲を脱がせ、盥に入れる。
最後に盥の水に酢を数滴垂らす。
「どうしてこんなことするの」
喜平が訊く。
「昔、マーさんから教わったの。
こうすればマーさんがまた生えて来るわ」
「そんなあ、植物じゃあるまいし」
ジューという音がする。
盥の中の右手は傷口から白い煙を激しく上げ、なにかしら変容を始めた。
やがて右手は右腕になり、次第に人間の上半身を形成していく。
「マー兄ちゃんて、何者なの?」
「わからないわ」
わからない。お菊は自問する。わたしにもなにがなんだかわからないわ。
魔左衛門の話では玉村宿に来る前、ある僧侶から自分は人間でなく死人憑きだと言われたという。
死人憑きは異形の一種で、人間にない能力が備わっている。
しかも魔左衛門自身、自分の力をすべて理解していない。
手から砂金を出す能力は玉村宿を去ってからはじめて知ったとのこと。
気がつくと盥の中には体毛のない赤い皮膚の裸の男がうずくまっている。
やがて体毛が生え、皮膚の色も通常の人間のそれに近づいていく。
不意に男の目が開く。
「ウォォォオー」
うめき声が聞こえる。
「マーさん」
お菊が言う。
「わたしがわかる。お菊よ」
裸の魔左衛門はあたりを不審そうに見回す。意識が元に戻るまでしばらく時間がかかった。
盥から出た魔左衛門の濡れた全身をお菊は手ぬぐいで拭いてやり、服を着せる。
まずはふんどしを穿き、その上に小袖、股引を着る。
手甲脚絆をつけ、道中合羽をまとい、三度笠を被れば同心たちに連れて行かれる前の魔左衛門が出来上がる。
「これ挿してよ」
鞘に納めた名刀村正を喜平が魔左衛門に渡す。
魔左衛門は言われた通り腰の帯に挿してみる。
お菊は衣服はすべて「中松屋」で調達したことを魔左衛門に告げる。ただし名刀村正だけは「中松屋」に置いてないし、手持ちの金で買える金額ではない。
これは朝、魔左衛門が連行されたときに拾ったものだ。
お菊は手短に魔左衛門に説明した。
「ときに」
魔左衛門が言う。
「今、金はいくらぐらい持ってる」
「天保通宝が二枚しか残ってないわ。後はみんな使っちゃった」
「そうか」
魔左衛門はこれから両替商「梅屋」に出かけると告げた。
手から砂金を出して、金銭を増やすためだ。
(つづく)




