第2話
魔左衛門が「福村屋」に戻ってくると、喜平はもう床に就いていた。
ひなびたと言うより殺風景な六畳間の部屋だった。
押し入れの隣に申し訳程度の小さな床の間があるが、何も飾っていない。
「マーさん」
お菊が心配そうに言う。
「どうしてこんなに遅くなったの」
だが魔左衛門は答えない。
「どうしてなの」
もう一度聞いてみる。
すると魔座衛門は低い声で「辻斬りに合った」とつぶやくように言う。
「えっ、 辻斬り?」
お菊は頓狂な声を上げる。
魔左衛門は無言のまま一人分残された夕飯の高坏の前に座る。
お菊と喜平はとうに食事を済ませ、飯盛り女が高坏を下げていた。
魔左衛門は何事もなかったかのように、黙々と夕飯を食らう。
お菊はいろいろ話しかけてみるが、魔左衛門はあまり話したがらない様子だった。
マーさんは渡世人だ。お菊は心の中で思いを巡らす。
渡世人なら諸国をあてもなく行脚するうちに、これまでにも何度となく辻斬りや果し合いに遭遇してきたかも知れぬ。
マーさんにとり、辻斬りは雨降りのようなものだろうか。
毎日雨が降っているわけではないが、さりとて生涯の間、雨に何回降られるか数える気が起きないほど、それはありふれた日常の出来事なのだ。
「福村屋」の主人、福村屋太六は手酌で酒をすすりながら、八畳の間に寝そべっていた。
齢は五十手前。髪に白いものが混じりはじめたが、中肉中背ながら筋肉質の体で、まだ若い者には負けない気概があった。
太六の住居は離れで、中庭を挟んで母屋の旅籠から渡り廊下で通じていた。
「おまえさん」
女将のサヨが言う。
「寝るのか飲むのかどっちなんだい。そんなふうにしてると風邪ひくよ」
「てやんでえ」
サヨは太六の隣で裁縫に余念がない。
先ほど番頭の助六の報告では、四人の手下が全員、魔左衛門にやられたとのこと。
魔左衛門たち三人が「福村屋」にやってきたとき、六太は店の奥から暖簾越しに魔左衛門に目をつけていた。
三度笠でわざと顔を隠していたが、ときおり覗かせる顔は合戦場宿の高札場の人相書きにそっくりだった。
もとより魔左衛門の名は例幣使街道一帯で知れ渡っている。
極悪非道のならず者の剣客で百人斬りとも千人斬りとも言われる。殺めて首を問屋場に持っていけば三十両もらえるはずだ。
そこで六太は魔左衛門が両替商に出かけると、ひそかに四人の手下に追いかけさせた。
太六の表向きの顔は旅籠「福村屋」の主。裏の顔は合戦場宿一帯を縄張りにするヤクザ、「福村組」の親分だった。
だがまだ失敗したわけではない。太六はそう思う。
サヨから聞いた話だと、魔左衛門はうちにしばらく滞在するという。
そのうちに隙を見て始末してしまえばいい。
太六は酒を口に含みながら一人でにんまりした。
「サヨっ」
太六が言う。
「布団敷いてくれ」
江戸町奉行所の御用部屋では、東山金四郎景元が策を練っていた。
金四郎はおもむろに茶をすする。
奉行に就任して以来、これほどの事件に遭遇したことはない。
齢四十六歳の金四郎にとり、力が漲る思いがするとともに、重圧に押しつぶされそうな戸惑いもある。
先日、与力が持って来た話はこうだった。
日光街道の宿場町、幸手宿の旅籠「木村屋」にミヨという器量よしの飯盛り女がいた。
大奥女中とも吉原の太夫とも見まがう美形で、周囲からちやほやされるうちに男ぐせが悪くなった。
複数の男を愛人にしたまではいいが、愛人同士が鉢合わせすると話がややこしくなる。
公儀御普請役の宇佐美鉄三郎と関東取締出役の内藤賢一郎。くしくも二人の御家人がミヨの愛人だった。
宇佐美がカヨに宛てた恋文を内藤が見つけ、そのことをミヨが宇佐美に告げたことから、互いに恋敵の相手を知った。
一昔前の侍なら、愛する女と己の命を賭けて果し合いに挑むところ、天保のこのご時世、御家人風情にそんな気骨も気概も残ってない。
二人がやったことは、互いに相手の不正を上司に訴えて足の引っ張り合いをすることだった。
叩けば埃が出るのが役人の習い性かも知れないが、二人が役所の賄賂や横領の実態を暴露したため江戸町奉行所が調査を始めた。
調査が進むと関東全域に渡って様々な悪事が白日の下にさらされたが、とりわけ例幣使街道、合戦場宿の旅籠「福村屋」が金四郎の目に止まった。
「福村屋」の主人、福村屋太六という男は任侠集団「福村組」の組長で、不正な売春や賭博を営み、周辺住民に乱暴狼藉を働いているとの噂も耳にした。
まずは六太をしょっ引くことが先決だ。
宇佐美鉄三郎と内藤賢一郎の処分はその後からでも遅くない。
金四郎は茶をすすりながらそう思った。
(つづく)




