燃え落ちる故郷、あるいは絶望
ミラ・ディオラは十六歳。
十二まで母と二人でラダー村に暮らし、母亡きあとは教会付属の孤児院に通いながら家の炊事や洗濯、孤児の世話を続けてきた。 ミラにとって、村の人々はみな家族だった。
アルは孤児院育ちの幼なじみ。 誰より近く、誰より弱いところを知っている相手――だった。
二人は森道を駆ける。 高い梢が空を塞ぎ、湿った風が葉を鳴らした。
鼻腔に焦げ臭さが刺さり、遠くの空が濁る。 霧ではない、煙だと気づいた瞬間、足が自然と速くなった。
「この煙……アル、あなたは勇者なんでしょ。村がどうなってるか、わからない?」
「ごめん、そこまでは。けど……すごく嫌な予感がする」
ミラの肩は上下し、汗がうなじを伝う。
対してアルは息一つ乱していない。 金の瞳が前だけを見据えていた。
「アル、疲れてないの?」
「うん。体が軽いんだ」
羨む暇はない。 焦げの匂いは濃くなり、視界の端で火の粉が漂う。
最後の林を抜けて、二人は村の入り口へと踏み入った。
「……アル、これは」
炎が音を立てていた。 燃える木の軋みが、誰かの泣き声のように夜を裂いている。
ミラは息を切らしながら、坂道を駆け下りた。 胸が痛いほど高鳴る。 夜気は熱を孕み、焦げた木の匂いが肌にまとわりつく。
村の広場に立った瞬間、視界が揺れた。 そこにあったのは――かつて“故郷”と呼んだものの残骸だった。
「そんな……嘘……」
家々は燃え落ち、地面は黒く焦げ、あの小さな畑も、子どもたちが遊んでいた広場も消えていた。 火の粉が空を舞い、灰が頬に触れる。 涙が熱で乾き、喉が痛む。
「ミラ、待って! 危ない!」
背後からアルの声が響く。 振り返ると、肩で息をしながら彼が駆け寄ってきた。 額には汗と灰がにじみ、手には焦げた木片を払う仕草。
その表情からは、いつもの柔らかさが消えていた。
「どうして……誰が……」
ミラの声は震え、言葉が続かない。 アルは彼女の横に立ち、唇を結んだまま炎の中を見据える。 その金の瞳には、恐れと怒りが入り混じっていた。
次の瞬間、空気が裂けた。 耳の奥で、何かが“弾けた”音がした。
「そこにいたか」
低く、地の底から響くような声。 炎の向こうから、ゆらりと黒衣の男が現れた。
髪は夜よりも黒く、瞳は血のような紅。 人間ではない――魔族だ。
「お前が勇者か。我は災いの芽は早めに摘み取る質でな。ここで死んでもらう」
その言葉に、ミラの背筋が凍った。 男が掌を掲げると、炎が渦を巻いて天に昇る。 熱が皮膚を焦がし、空気が重く沈んだ。
「あなたは……」
ミラの問いに、男は冷笑を浮かべた。
「我は魔族の王、ゼルディード。冥土の土産に覚えておけ」
次の瞬間、空から炎の塊が降り注ぐ。 空気が焼け、地面が爆ぜた。
アルはミラを抱き寄せ、自身の身体から光を放つ。 二人を包むように光の膜が展開し、炎の衝撃を防いだ。
だが――。
膜が軋む音がした。 耳をつんざく破裂音と共に、結界は砕け散る。 圧倒的な熱と衝撃が襲い、ミラの体は宙を舞った。
背中に激痛が走り、地面を転がる。
「……っ!」
肺に空気が入らない。 焦げた匂いと鉄の味。 必死に顔を上げると、アルが視界の端で膝をついていた。
衣の袖は焼け焦げ、腕には裂傷。 唇から血が流れ、呼吸が荒い。 それでもアルは立ち上がろうとしている。 膝が震え、支えを失いかけながら――。
「アル!」
ミラの声が掠れる。 ゼルディードは笑いもせず、黒い刃を引き抜いた。 月光を吸い込むような、闇の剣。
「死ね」
その一言で、世界の空気が一瞬で冷えた。 アルは構える暇もなく、ただミラを庇うように前へ出た。
「アル、だめ!」
ミラは本能的に両手を突き出した。
魔術の心得などない。祈りの言葉も知らない。
けれど、彼を失う恐怖と、理不尽な暴力への激しい怒りが、体の中で混ざり合い、暴発した。
ドクン、と心臓が奇妙な音を立てる。
体の奥底、自分でも知らない深い場所から、灼熱の塊がせり上がってくる。
視界が、赤く染まった。
(――え?)
炎の照り返しではない。 自分の目の奥が、熱い。焼けるように熱い。
「……ほう?」
剣を振り下ろそうとしていたゼルディードの手が、ピタリと止まる。
彼の紅い瞳が、驚きに見開かれ、ミラを凝視していた。
次の瞬間。 ミラの突き出した両手から、爆発的な冷気が渦を巻いて噴出した。
それは、ただの氷魔法ではなかった。
禍々しいほどの魔力を孕んだ、黒に近い濃紺の氷柱。
それが天を突き刺す巨大な槍となって具現化し、地響きを立ててゼルディードへと落下した。
ズドォォォォン!
爆風が巻き上がり、炎が吹き飛ぶ。
灰が雪のように舞い散る中、ミラは肩で息をしながら立ち尽くしていた。
「……ミラ?」
薄れゆく意識の中で、アルが掠れた声を出す。 彼は見ていた。
幼なじみの碧い瞳が、一瞬にして鮮血のような赤に染まり、人ならざる力を振るうその姿を。
「今のは……」
ゼルディードが氷柱を片手で砕き、煤を払う。無傷だが、その表情からは余裕が消え、代わりに嗜虐的な興味が浮かんでいた。
「面白い。まさか、こんな所に同胞の雑種が紛れ込んでいるとはな」
「……え?」
ミラは自分の手が震えているのを見た。視界の赤色は、いつの間にか消えていた。
何を言われているのか、分からない。
その時、背後から空気を裂くような転移の音が響いた。
シュナたちが到着したのだ。だが、彼女たちは動けなかった。
「……嘘、でしょう?」
シュナが口元を押さえ、凍りついたようにミラを見つめている。クリオも、ジアナも。
駆けつけた全員が、今の光景を目撃していた。
燃え盛る村の中で、魔王と対峙し、禍々しい氷を放った少女。
その瞳に宿った、忌まわしい赤色を。
「シュナ、転移の陣を! クリオ、勇者様と娘を陣へ!」
最初に我に返ったのは、ジアナだった。
老いた声には、鋼のような決意と、隠しきれない動揺が混じっていた。
「はい!」
シュナが震える手で陣を描き、クリオがアルの身体を支える。
アルの顔は青白く、呼吸が浅い。
「勇者様、しっかり!」
ジアナは二人の前に立ちはだかり、結界を張った。
炎の衝撃を遮りながら、彼女の体が少しずつ焼け焦げていく。それでも一歩も退かない。
「お婆様! 転移の準備ができました! 早く!」
「儂のことはよい。クリオ、シュナを頼んだぞ」
ジアナの声は静かだった。背中越しに見える白髪が、火の粉を浴びて光っている。
「そんな……嫌です! 一緒に行きましょう!」
「シュナ、泣くでない。巫女の涙は祈りを曇らせる」
ジアナの声が穏やかに揺れる。 彼女の足元で魔法陣がさらに輝きを増した。
肉体が焦げ、杖を握る手が震える。
「今のお前たちでは、この王に勝てぬ。ならば儂が時を稼ぐ」
「でも……!」
「もうよい。こうして終われるのは本望じゃ」
ジアナの周囲に光が集まり、まるで体が透けるように輝き始めた。
老いた瞳が、最後に優しく細められる。
「シュナ、お前を愛しておる。どうか生きて、勇者様を導け」
その言葉にシュナが嗚咽を漏らし、杖を握り締める。
ゼルディードが苛立たしげに剣を構え、結界を叩きつけた。
轟音。亀裂。 光の膜が揺らぎ、ひびが全体に走る。
「早く行け!」
ジアナの叫びと同時に、炎が爆ぜた。
白光が彼女の全身を包み、視界が焼ける。 その身が炎を飲み込みながらも、彼女は笑っていた。
「世界を……勇者様を頼んだぞ」
その声が消える直前、陣が光を放ち、地面が反転した。
ミラの体が浮き、意識が遠のく。 最後に見たのは――崩れ落ちながらも微笑む老巫女の姿だった。




