ガラスの檻
光の渦に呑み込まれた感覚は、一瞬の永遠だった。
上下の感覚が消え、内臓が裏返るような浮遊感。
その後に襲ってきたのは、全身を叩きつけられるような硬い衝撃だった。
「――っ、う……」
ミラは咳き込みながら目を開けた。
そこは、あの焦げ付くような熱気の満ちた地獄ではなかった。
ひんやりとした冷たい空気。
鼻をくすぐるのは、焼け焦げた肉の臭いではなく、清浄な香の匂い。
見上げれば、ステンドグラス越しに青白い月の光が差し込む、高い高い天井があった。
「ここは……?」
「救護班! 早く! 勇者様が重傷だ!」
クリオの叫び声が、広い石造りのホールに反響した。
その声に弾かれるように、奥の回廊から白衣を纏った神官たちが雪崩れ込んでくる。
「勇者様……? まさか、その銀の髪は!」
「なんと神々しい……! 間違いなく伝承にある勇者様のお姿だ!」
駆けつけた神官たちは、床に横たわるアルの姿を見て息を呑み、即座に色めき立った。
月光を反射して輝く銀髪と、気絶してなお溢れ出る圧倒的な魔力。
誰の目にも、彼が「特別な存在」であることは明らかだった。
「すぐに治療院へ! 国一番の治癒術師を呼べ! 一刻を争うぞ!」
怒号と足音が交錯する。
ミラは状況が呑み込めないまま、アルへと這い寄った。
「アル……! アル、目を開けて!」
アルはぴくりとも動かなかった。
顔面は蒼白で、唇からはまだ赤い血が糸のように流れている。
けれど、その手だけは――気絶しているはずなのに、ミラの袖を痛いほど強く握りしめたままだった。
「アル……」
「どいてくれ!」
突然、神官の一人に肩を突き飛ばされた。
「あっ……」
無理やり引き剥がされる。
アルの手が、ミラの袖からずるりと滑り落ち、石床に投げ出された。
「な、なにをするの! 私は……!」
「邪魔だ、娘! 見ればわかるだろう、勇者様の命がかかっているんだ!」
神官は、煤と泥で汚れきったミラの姿を一瞥し、汚いものを払うように怒鳴りつけた。
「難民ならあちらで待機していろ! ここは選ばれた方のみが入れる聖域だ!」
「ちがっ……私は、アルの……!」
ミラの声は、周囲の喧騒にかき消された。
数人の神官がアルを取り囲み、恭しく担架へと乗せる。
真っ白な法衣の背中が壁となり、アルの姿を完全に隠してしまった。
ミラは立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、その場に崩れ落ちた。
担架は足早に運ばれていく。
遠ざかるアルの銀髪だけが、月の光を浴びて冷たく、遠い世界のもののように輝いて見えた。
「……う、うぅ……」
隣で、押し殺したような嗚咽が聞こえた。
シュナだった。
彼女は床に両手をつき、肩を震わせていた。
銀の髪は乱れ、やつれてはいたが、その法衣は煤ひとつなく白く輝いている。
後方で結界を支えていた彼女は、あの地獄のような炎の中にあってなお、無傷で美しかった。
「シュナ、さん……」
ミラが声をかけると、シュナは弾かれたように顔を上げた。
紫色の瞳から、大粒の涙が溢れ出している。
「お婆様が……ジアナ様が……」
「……っ」
ミラの胸が締め付けられる。
あの炎の中で微笑んでいた老巫女の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
彼女が命を懸けて時間を稼いでくれなければ、今頃自分たちも灰になっていただろう。
「シュナ様、お立ちください」
クリオが沈痛な面持ちで、シュナの肩に手を置いた。
彼もまた、鎧に焦げ跡ひとつなく、青銀の輝きを保っている。
ただ、その表情だけが苦渋に満ちていた。
「今は悲しんでいる時間はありません。ジアナ様の遺志を無駄にしないためにも……勇者様をお守りしなくては」
「……はい」
シュナは袖で乱暴に涙を拭うと、ふらつきながらも立ち上がった。
その瞳には、悲しみを無理やり封じ込めたような、痛々しいほどの決意が宿っていた。
「勇者様の容態を見に行きます。クリオ、あなたも来て」
「はっ」
二人は早足で、アルが運ばれていった回廊へと向かう。
そこには迷いがない。
「勇者を守る」という使命を持つ者たちの、確固たる足取りだった。
広いホールに、ミラだけが取り残された。
「……え?」
ぽつりと、乾いた声が漏れる。
誰も、私を見ない。
誰も、私に声をかけない。
村では、みんなが名前を呼んでくれた。
アルの隣には、いつも私がいた。
それが当たり前だった。
けれど今、アルは、その姿だけで誰もがひれ伏す「勇者様」。
シュナたちは、彼を守る使命を帯びた「選ばれし者」。
私だけが、泥と煤にまみれ、髪も服もボロボロのまま、この煌びやかで冷たい神殿の中に転がっている。
床に落ちた自分の手だけが、異様に黒く、汚れて見えた。
「アル……」
名前を呼んでも、答える声はない。
広すぎる空間に、自分の声だけが虚しく響いて消えた。
ガチャン、と遠くで重い扉が閉まる音がした。
それはまるで、アルと私の世界を隔てる断絶の音のように聞こえた。
ここから、二人の距離は決定的に開いていく。
物理的な距離だけではない。
「住む世界」の違いという、残酷な現実を突きつけられながら。
†
意識の底から浮上したとき、最初に感じたのは薬品と香が混じった匂いだった。
「……っ」
アルヴィンは重い瞼を開けた。
全身が鉛のように重い。
背中と腕には焼けるような痛みが残っているが、致命的な傷は癒えているようだった。
「勇者様! 気が付かれましたか!」
覗き込んできたのは、シュナだった。
その紫色の瞳は赤く腫れ、泣きはらした跡がある。
けれど、今は気丈に振る舞い、アルの手を両手で包み込んできた。
「ご無事で……本当によかった……」
「シュナ、さん……」
アルは乾いた喉で呟き、半身を起こそうとして――止まった。
記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
燃え落ちる村。
魔王の圧倒的な力。
そして――ミラ。
「ミラは……!?」
アルは弾かれたように周囲を見渡した。
豪奢な天蓋付きのベッド。白い石壁。
ここは王都の神殿の一室だ。
けれど、一番近くにいるはずの、あの温かな存在がない。
「ミラはどこだ! 無事なのか!?」
「落ち着いてください。彼女なら、別の部屋で休んでいます」
答えたのは、扉の近くに控えていたクリオだった。
「別の部屋? どうして一緒じゃないんだ」
「彼女は……勇者様と同じ部屋には……」
「関係ない!」
アルは声を荒らげ、シーツを握りしめた。
あの時、意識を失う直前、自分はミラの袖を掴んでいたはずだ。
離してはいけないと、魂が叫んでいたのに。
誰かが、僕の手を引き剥がした。
「連れてきてくれ。今すぐだ。彼女の顔を見ないと、僕は……」
アルの声が震える。
分離不安にも似た衝動。
だが、それ以上に彼を駆り立てているのは、あの瞬間の記憶だった。
魔王の剣が振り下ろされた時。
ミラが放った、禍々しい氷の魔法。
そして――鮮血のように赤く染まった、彼女の瞳。
(見た……)
アルは心臓が凍るのを感じた。
見間違いじゃない。
僕も、ゼルディードも、そしておそらくシュナたちも、あれを見た。
「勇者様」
シュナが、固い声で呼んだ。
彼女は視線を逸らし、けれど意を決したように口を開く。
「……あの方の瞳を、ご覧になりましたか」
部屋の空気が凍りついた。
クリオも沈痛な面持ちで口を閉ざしている。
やはり、バレている。
魔族の赤。それは人類の敵の証。
もしミラが魔族、あるいはそれに連なる者だと断定されれば、神殿は彼女をどう扱うか。
処刑か、幽閉か、あるいは――。
アルは拳を握りしめ、爪が肉に食い込む痛みで思考を冷やした。
(守らなきゃ)
たとえ彼女が何者であろうと。
世界中が彼女を敵と見なそうと。
僕だけは、彼女の味方でいなければならない。
アルはゆっくりと顔を上げ、黄金の瞳でシュナを射抜いた。
そこには、少年のような甘さは微塵もなかった。
「何のことだ?」
「え……?」
「僕は何も見ていない。ミラはただの人間だ。僕の大切な幼なじみだ」
「で、ですが! あの氷の魔術、それにあの赤い――」
「見間違いだ」
アルは言葉を被せ、断言した。
その声には、勇者としての「威圧」さえもが滲んでいた。
シュナが息を呑み、言葉を詰まらせる。
「魔王の炎の照り返しだ。あるいは、僕たちが恐怖で見せた幻覚だ。……そうだろう?」
それは問いかけではなく、命令だった。
勇者である僕が「白」だと言えば、それは「白」になる。
そうしなければならない。
シュナは唇を噛み、しばらくの沈黙の後、深く頭を下げた。
「……はい。勇者様がそう仰るなら、それは見間違いです」
「感謝するよ、シュナ」
アルはふう、と息を吐き、ベッドから降りようとした。
「勇者様、まだ安静に!」
「王への謁見があるんだろう? 準備をするよ」
アルは痛む体を押して立ち上がる。
窓の外には、煌びやかな王都の夜景が広がっていた。
この美しい街のどこかで、ミラが一人で怯えているかもしれない。
そう思うだけで、胸が張り裂けそうになる。
(強くなる)
アルはガラスに映る自分――銀髪と金瞳の「勇者」を睨みつけた。
(誰にも文句は言わせない。魔王からも、神殿からも、この国からも……ミラを守り抜けるくらいの、最強の勇者になってやる)
それは世界を救うためではない。
たった一人の少女を、僕の檻の中に繋ぎ止めておくための、歪で強固な誓いだった。




