少年は女を見た
「古典の動詞は中学の時に習った動詞とは活用形が異なります。五段活用だったものは古典では四段活用。上一段活用は上二段活用。下一段活用は下二段活用と言うように古典ではこれを覚えなくてはなりません」
また覚えなきゃならんのか……
「それと古典にもちゃんと上一段活用と上二段活用が存在します。その動詞は決まっているので覚えやすいです。では早速、完全マスター古典文法の最後のページを開いてください」
先生の言った通りにその教科書の最後のページを開く康太はそのページを見て「ゲッ!」と声を出しそうになった。
そこには文語動詞活用表が書かれていた。副詞などもちゃんと書いてある。しかし、この流れからいくと、今から使うのはその文語動詞活用表だろう。
「中間テストではこの活用表が出ます。それと教科書の『児のそら寝』の内容を出すつもりです」
溜息が漏れる教室で先生だけが笑顔を浮かべている。
「大丈夫ですよ。すぐに覚えられます。ゴールデンウィークにはプリントを用意してますので。やっぱり、覚えるには書いて覚えるのが一番だとは思いませんか?」
書いて覚えさせようとしている先生の企みを生徒たち全員が察し、黙りこくる。
「では、動詞の活用の種類について勉強していきましょう。その前に、古典と現代では活用形が違うものがあります。誰か分かる人いますか?」
と先生が尋ねかけた時、一人の人物がそれに答えた。
「仮定形が無くて、已然形があります」
その人物は先生によって学級委員に選ばれた人物――久田武彦であった。
「そう。久田くんの言うとおり、古典では未然、連用、終止、連体、“已然”、命令と言う活用形になっています。皆さん、間違えないようにしてください」
已然を強調した先生は黒板に活用形の六個を書きながら、表を作り始めた。
「では、まずは『聞く』と言う動詞から見ていきましょう」
未然の上に語幹、基本形と書いた先生は生徒のほうを向いた。
「基本形は終止形です。では『聞く』の終止形は何ですか? 明間さん」
「……聞く」
消え入りそうな声で呟いた明間だった。
「そう。その通り。なので、基本形は“聞く”です」
先生は基本形と書かれてある所の横に「聞く」と書いた。
「“聞く”は『か、き、く、く、け、け』と言うような活用をします。か、き、く、けと四段活用するから、四段活用なんです」
そこで千原康太の頭の容量が限界に達した。
☆
古典が終わって、康太は額を机につけていた。
「やっぱりこうなったかー……」
と康太の席へと近づいていく拓也は「やれやれ」と溜息を吐いた。
「頑張れよー……中学と違って赤点、留年あるんだからなー」
「ちゃんと分かってるよ……でも、俺無理かも……」
顔を机から離した康太。今度は天井を仰ぎ見た。
「まあ、留年しようがお前の勝手だけどなー」
「そんな悲しい事、言うなよな……てか、思ったんだけどさぁ。この学校ってオリエンテーション合宿とかねえの?」
いきなりの康太の尋ねかけに少し戸惑った拓也であったが、答えるのは遅くなかった。
「ああ。同じ中学の先輩とかに聞いたけど、無いみたいだぞー? その分、クラスの奴らと打ち解けるのは少し、遅くなるって話だ」
「ふーん……」
天井に向いていた目線を机へと向けた康太。
その瞬間にチャイムまで一分前だと気が付いた拓也はすぐに自分の席へと戻っていった。
次は……オーラルか……
オーラルと言う単語を思い浮かべただけで憂鬱になる康太の目にそれは映った。
一瞬だけ廊下を通った女の姿は幽霊の様にすぐに消え、康太は席から立ち上がった。
康太はその女を見た経験が中学時代にあった。
『あなた……これを使ったら?』
康太の頭に過ぎる女の声は康太を廊下へと誘わせた。
そこには誰もいない。だが、消えたのだから当たり前と言えば当たり前のことだった。
「えーと……千原くん……? もうチャイム鳴ってるよ?」
いつの間にか目の前にいた先生に頭を下げながら、康太は静かに教室の自分の席へと腰を下ろした。
何で……確かに見た……あの女……くそ! 嫌な事、思い出させるな!
康太は気を紛らわすために授業へとその頭を集中させた。しかし、黒板に書かれた内容が頭の中にスムーズに入って来る事はいつもどおり無かった。
☆
放課後
康太はいつもどおり帰宅すると、すぐにバイト先のコンビニへと向かう。
「ありがとうございました!」
客に向けて同じ言葉を吐いた。そして、客がいなくなった時間帯に康太は一緒に働いている三十代前半の男性に対して尋ねた。
「Time is money制度って、やっぱりもう『無くてはならないもの』なんですかね……?」
いきなりの質問に男性は暫くの間、考えて答えた。
「そうだろうねぇ……Time is money制度のおかげで日本の化学力が大きく躍進したけど、君のような高校生も同時に少なくなった……Time is money制度は国民の九十パーセント以上の人々が活用してるし、『無くてはならないもの』なんじゃないかな……」
「そう、ですか…………そうですよね……」
愛想笑いをした康太は拳を強く握り締めた。




