第9話:【灰色の王国 ~繰り返す灰鱗病~】
1. 国境の出迎えと、繰り返される絶望
アトランティスを出発してから数日。リヴィアタンとなったクックの巨大な背に乗り、ルミナたちはようやく隣国ダガールの領海へと足を踏み入れようとしていた。
しかし、境界線を越えた途端、生温かく重たい海水が肌にまとわりつき、視界全体がどんよりとした灰色の濁りに覆われた。
本来のダガールは、海底火山の恵みを受ける温かな白砂の平原が広がる美しい国だったはずだ。しかし、世界の海流が停滞した今、その海底火山が吐き出す硫黄成分と有害な不純物が行き場を失い、海水をドロリとした泥のように濁らせていた。
「……これが、ダガールか」
重厚な甲冑をまとったカリオス将軍が、低く呟いた。
濁った水の向こうから、錆びついた胸甲をまとった十数名の騎士たちが泳ぎ寄ってきた。彼らの肌は、一様に灰色の硬い鱗に覆われている。華やかな儀仗隊の影などどこにもなかった。
先頭に立つダガールの騎士団長が、力なく胸に手を当てて頭を下げた。
「アトランティス王国派遣団をお待ちしておりました。王命により、我々が王宮までご案内いたします」
「アトランティス国王ポントス・エルダー陛下の命により、テュポーンドラゴン治療の救援として参った」
「感謝いたします。……しかしご覧の通り、我が国はすでに限界に達しております」
ダガール騎士団に先導され、石造りの街路へと足を踏み入れると、その深刻さがひと目で分かった。人々は街角や家の影に力なく座り込み、その皮膚は鮮やかな色を完全に失っている。古い灰を塗り固めたような「灰鱗」が全身を覆い、誰かがかすかに身動ぎするたび、パラパラと灰色の粉が水中に落ちて消えていった。
その時、崩れた石壁の陰で、ぐったりと横たわる幼い女の子の姿がルミナの目に飛び込んできた。ルミナは思わず駆け寄りかけたが、すぐに足を止めた。
(勝手に手を出してはいけない。ここはダガールの地だ)
ルミナは同行していたダガール王宮治癒師のグラウクスに向き直り、丁寧に尋ねた。
「……この子を、診てもよろしいですか?」
グラウクスは驚いたように目を見開き、ゆっくりと頷いた。
「……お願いする」
許可を得て、ルミナが子どもの傍らに膝をつこうとした、その瞬間だった。傍らにいた母親が我が子を必死に抱きかかえ、不安と諦めの混じった瞳で小さく首を振った。
「お薬を塗れば……痛みもなく、灰鱗は綺麗に剥がれ落ちてくれるんです。でも……何度治していただいたって、数日後にはまた灰色に戻ってしまう……」
母親は子どもの小さな手を強く握りしめ、掠れた声で続けた。
「この子も、最初は綺麗になるたびに『治った!』って喜んでいました。でも今は……『どうせまた灰になる』と言って、お薬を塗ることさえ嫌がるようになってしまって……」
泣き叫ぶのではなく、繰り返す絶望に心をすり減らされた母親の言葉。ルミナはその横顔に胸を締め付けられた。
2. ダガール治癒師団の真実
グラウクスが、苦悩を噛み締めるように目元を歪め、ぐったりと目を閉じた子どもを見つめながら、治癒の杖を強く握りしめた。
「……この子を治療するのは、これで四度目だ。水中でも流れ落ちにくい薬膏で灰鱗を軟化させ、自然に剥がれ落ちるのを待った。そのあとは、露出した皮膚を守る薬を重ね、体内に蓄積した毒を排出させる飲み薬も与えた……」
グラウクスは固く握りしめた拳を震わせ、悔しさに声を詰まらせた。
「灰鱗を取り除く治療そのものは、毎回成功していたのだ! だが……この海水の中で暮らしている限り、数日後には再び全身へ灰色の鱗が広がってしまう……! 我らは病を治せなかったのではない。治しても、治しても、この海が再び民を病ませるのだ!」
グラウクスの痛切な言葉に、ルミナはハッと胸を衝かれた。
ダガールの治癒師たちは、海中での治療法を深く熟知し、正しい方法で手を尽くしていた。それでも、海そのものがもたらす再発の連鎖を断つことだけはできなかったのだ。
ルミナは母子の前にそっと膝をつき、目線を合わせた。
「お母さん、大丈夫ですよ。……灰鱗には触れません。ただ、この海水から、少しだけ体を守らせてください」
母親はルミナの目をしばらく見つめたあと、ためらいながらも小さく頷いた。
ルミナは治癒の杖を静かに構え、そっと手をかざした。柔らかな青金色の光があふれ、温かな温泉水の膜となって子どもの身体を優しく包み込んだ。
「ん……ぁ……」
周囲の毒々しい汚染海水から遮断されたことで、子どもの胸がすーっと大きく上下し始めた。荒く引きつっていた呼吸が、驚くほど静かに落ち着いていく。
しかし、温泉水の膜の外側には、周囲を漂う灰色の不純物が次々とまとわりついていた。青金色の光を覆い尽くそうとするように、灰色の粒子がゆらゆらとうごめいている。
(ダガールの薬が効かなかったわけじゃない……! この海そのものが、治った身体を何度も病ませているんだ!)
温泉水の膜の中で、子どもがうっすらと目を開き、ルミナの顔を不安そうに見つめた。
「お姉ちゃん……私、また……灰になっちゃうの……?」
痛切な問いかけ。ルミナは誤魔化さず、まっすぐに少女の目を見つめ返した。
「今はまだ、灰を止めただけ。……でもね、灰が戻ってくる原因を、絶対に見つけて、元のきれいな肌に戻してあげる。……私が約束する」
呼吸が落ち着いた子どもは、母親とともにダガール治癒師団の治療所へ運ばれることになった。
3. 謁見と、暴かれる真実
王宮は、かつて海底火山の熱を利用して建てられた巨大な岩の宮殿だった。しかし、今はその美しさも色あせ、壁面には灰色の汚れがこびりつき、廊下を歩く人々の足音も重い。
謁見の間に通されると、ダガール国王が玉座に座っていた。灰色の鱗に覆われたその姿は、王としての威厳を保とうとしながらも、深い疲労を隠しきれていなかった。
カリオス将軍が進み出て、懐からポントス国王の親書を取り出した。
「アトランティス国王ポントス・エルダー陛下の命により、テュポーンドラゴン治療の救援として参りました。ここに親書を」
親書を受け取ったダガール国王は、ゆっくりと目を通すと、深く息を吐いた。
「……よく来てくれた。我が国はすでに限界だった」
国王は重々しい声で続けた。
「我々は静寂の海溝を疑っている。だが、これまでは治癒師団だけでは近づくことすらできず、確かな証拠を得られずにいた。そなたたちに頼むのは、あの巨大な守護ドラゴンの治療……そして、真実の確認だ」
ルミナが静かに一歩前へ出た。
「ダガール国王陛下。お初にお目にかかります。温泉治癒師のルミナと申します。王宮へ向かう道中で、灰鱗病のお子様を診させていただきました。どうか、我が国の部隊とダガール治癒師団で、共同調査を行う許可をいただけないでしょうか」
謁見の間に、わずかなざわめきが走った。ダガールの王宮治癒師が、国王の傍らで小さく頷く。
国王はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと口を開いた。
「……許可する。まずは事実を見極めよ」
共同調査はすぐに行われた。
第一段階は、患者記録の比較だった。グラウクスが治療記録を広げ、再発までの日数、患者が暮らす地区、症状が悪化した時間帯、海流の向き、海底火山の活動を丁寧に説明した。ルミナは、症状の重さが患者の年齢よりも、住んでいる場所や海流の向きに連動していることに気づいた。
第二段階は、各地区の海水調査。ゼノスが測定器具を手に、王宮付近、居住区、静寂の海溝に近い外縁部――三か所を測っていく。海溝に近いほど汚染度が高いのは、予想どおりだった。
そこでルミナは、先ほどの子どもから自然に剥がれ落ちた灰鱗の粉と、各地区の海水を比較した。灰鱗の粉から検出された硫黄成分と有害な不純物の組成は、静寂の海溝に近い外縁部の海水に含まれるものと一致した。さらに、その両方から同じ瘴気反応が検出された。
第三段階は、小規模な再現実験。薬膏によって軟化させた灰鱗の欠片を清浄な水に入れると、その状態は保たれた。しかし、静寂の海溝に近い外縁部で採取した海水を一滴加えた瞬間、表面に灰色の結晶が浮かび上がり、再び硬化し始めた。
「……これが、治療しても再発する理由です」
ルミナが静かに言ったとき、調査の場に緊急の報告が入った。先ほどの子どもの容体が、再び悪化し始めているという。ルミナの応急処置が失敗したわけではない。周囲の海水が汚れているため、温泉水の膜の効果が長く続かないのだ。
グラウクスが険しい表情で告げる。
「急がなければ、あの子だけではない。今夜を越えられない患者が、大勢いる」
アトランティス王国派遣団は王宮に戻り、謁見の間でダガール国王に報告した。報告を聞いたダガール国王は、静かに玉座から立ち上がった。
「やはり……そうか。ルミナ殿、アトランティス派遣団よ。……今、国民全体を治療したところで、海が汚れている限りすぐに再発してしまう。だからこそ、最優先で『静寂の海溝』へ向かい、テュポーンドラゴンを救ってほしい! 瘴気を止め、海流を取り戻してくれ……!」
「はい、ダガール国王陛下! 必ず原因を突き止め、この海に循環を取り戻します!」
重症者の命は、ダガール治癒師団がつなぐ。その間に、ルミナたちは灰鱗病を繰り返させる根を断つ。今、双方が果たすべき役目は決まった。
4. 静寂の海溝へ
「重症の民の応急処置は、我らダガール治癒師団が全力で引き受けます! ルミナ殿、どうかお気をつけて……!」
「グラウクス様、ありがとうございます! 行ってきます!」
ルミナたちは再び、クックの大きな背中に乗った。カリオス将軍率いる精鋭部隊、ラコス、ゼノス、そしてダガールから加わった案内人と治癒師たちが静かに後に続く。
一行は、灰色の街を後にし、さらに深い海底へと泳ぎ出した。視界の先に広がっていたのは、光さえ飲み込む濃い闇に沈んだ「静寂の海溝」だった。
下降するにつれ、水温は氷のように冷たくなり、暗黒が一行を包み込んでいく。ルミナは水棲脚をしならせ、冷えきった水をかき分けながら、一行とともに深みへ進んだ。
クックの身体からこぼれた青い光が、闇の中に進むべき道を浮かび上がらせた。一行が大断崖に沿ってさらに下降すると、その光の先に、山脈と見紛うほど巨大な青黒い影が横たわっていた。
巨体は苦しげに、かすかに脈打っている。その背に刻まれた古傷からは、黒い瘴気がゆらゆらと海中へ溶け出していた。
ルミナはクックの温かな背に手を置き、巨大な影をまっすぐに見つめた。
「……テュポーン、待っていて。今度は、あなたを助ける番だから」
海流を司る伝説の主、テュポーンドラゴン。その命を救うことこそ、止まったダガールの海を再び動かすただ一つの道だった。
ルミナたちの次なる治療が、今、始まろうとしていた。




