第8話:【魂の再会 ~深淵に響くエコー~】
1. 海底平原の暗雲
アトランティスの門を抜けた先には、カリオス将軍率いる精鋭の海底騎士団、王室付きの老治癒師ラコス、そして魔力測定を担当する筆頭研究者ゼノスらの姿があった。
ルミナは一度だけ立ち止まって振り返り、静かに眠る故郷のドウゴ街へ心の中で別れを告げると、父から譲り受けた革の鞄を強く抱き直し、未知なる隣国ダガールへと向かって力強く泳ぎ出した。
隣国のダガール王国へと続く広大な海底平原。そこは本来、やわらかな光が差し込む穏やかな白砂がどこまでも続く場所だった。
しかし、ルミナたちが辿り着いたその地で目にしたのは、水流が激しく荒れ狂い、濃密な砂煙が渦を巻いて視界を奪う、恐ろしい光景だった。
「これは……! 一体何が起きているのだ!?」
カリオス将軍が険しい表情で剣の柄に手をかける。
その戦場の中心で、伝説の最強生物リヴィアタンと、巨大な悪夢のような魔物『アビス・エキドナ』が命がけの死闘を繰り広げていたのだ。
アビス・エキドナ――それは、ダガール海域の奥深くに眠るテュポーンドラゴンの傷口から漏れ出した漆黒の瘴気が、海中の不純物を巻き込んで巨大化した深淵の化身だった。
海底平原は、もはや死の戦場と化していた。激しい水流が渦を巻き、濃密な砂煙が視界を完全に奪う中、二つの巨影がぶつかり合う。
リヴィアタンの美しい銀灰色の巨体が、傷つきながらも必死に動き続ける。対するアビス・エキドナは、深淵の瘴気が凝縮した悪夢そのもの。無数の黒い触手が鞭のようにしなり、毒棘の雨を降らせながら容赦なく襲いかかっていた。
『ウウウウウオオオオオオオオオオンッ!!!』
リヴィアタンの怒号のような重低音の咆哮が、海全体を激しく震わせた。水圧が直接鼓膜を内側から殴りつけてくる。
リヴィアタンは右側から迫る巨大触手を狙って、巨体を猛烈に右旋回させた。
『ドゴォォォンッ!』
強靭な尾びれが海底の岩盤を打ち砕き、腹の底まで響く凄まじい地鳴りとともに巨大な衝撃波が発生した。爆発的に舞い上がった砂が周囲を覆い尽くしていく。
対するアビス・エキドナも、触手を不気味に蠢かせながら狂気じみた異音を撒き散らす。
『ジジジジジ……シャアアアアアアアッ!!』
頭上から容赦なくズシャアアアッ! と毒棘の豪雨が降り注ぐ。
『ゴォォォォッ! ババババババッ!』
リヴィアタンは体を高速で一回転させながらスピン攻撃を放ち、渦巻く水流の猛烈な轟音と圧倒的な水圧で、降り注ぐ毒棘の雨を弾き返した。水中を切り裂く無数の甲高い衝突音が駆け抜けていく。
水流が爆発的に乱れ、衝撃で海底に巨大なクレーターが刻まれる。砂煙が再び爆発的に舞い上がり、視界を完全に覆い尽くした。
(……あの右旋回……あのスピン……あの完璧なタイミング……!)
遠くからその戦いを見つめていたルミナの息が、詰まった。胸の中で心臓が激しく鳴り響く。前世の記憶が、指先から全身へと駆け巡っていた。
ふと見れば、リヴィアタンの巨体のすぐ傍ら、鋭い岩の陰に、一匹の小さな海洋生物がガタガタと震えながら縮こまっていた。リヴィアタンはその小さな命を守るため、あえて回避行動をとらず、自らの体を盾にしてアビス・エキドナの猛攻を真正面から受け止め続けていたのだ。
ルミナは叫び、迷わず飛び出した。
「待って! その子を……!」
「ルミナ!? 危険だ、戻れ!」
ラコスたちの制止を振り切り、岩陰の小さな海洋生物を保護しようと駆け寄るルミナへ、リヴィアタンが鋭い警戒の威嚇を向けた。
『グルルルルッ!!』
しかし、ルミナは足を止めない。危険を察知したリヴィアタンは、ルミナを退けようと巨大な体で正面から突進してきた。
ルミナは海底にひざまずき、両腕を大きく広げた。
「リヴィアタン! この子は私が守る! 安心して……!」
「逃げろ! ルミナ!!」
カリオス将軍や騎士たちが一斉に悲鳴のような叫びを上げる。だが、ルミナは怯まなかった。彼女の身体は、前世で何千回、何万回と繰り返したあの日々の動きを、自然に再現していた。
ルミナは右手を真上へとまっすぐに上げた。
(ジャンプ……!)
続いて、そのまま腕を大きくなめらかに一回転させる。
(スピンジャンプ……!!)
その瞬間、突進してきたリヴィアタンの瞳が丸く見開かれた。直前で急激に軌道を外したリヴィアタンは、ルミナの送った合図と寸分違わぬ美しい動きを見せたのだ。水流を切り裂きながら頭上高くへと一気に急浮上し、そのまま高速でスピン回転!
(私のハンドシグナルを……理解して動いた……? ううん、まさか……ただの偶然……?)
驚きに胸を打たれるルミナだったが、戦況は一刻を争っていた。
「伏せろ! ルミナ!!」
リヴィアタンの後ろを追っていたアビス・エキドナが、突如現れたルミナの方向へそのまま突進してきていたのだ。
ルミナは震える小さな海洋生物をその腕でしっかりと抱き上げ、海底へと身を伏せた。間一髪。巨大な黒い影が、ルミナのすぐ上を怒涛の勢いで通過していく。
『ガアアアアアアアアアッ!!!』
急降下したリヴィアタンの強力な尾びれの一撃が、アビス・エキドナの脳天へと寸分の狂いもなく叩き込まれた。
バギィィインッ! ズドオオオオンッ! と凄まじい衝撃波が炸裂し、海底全体が激しく揺れ動く。
リヴィアタンは容赦なく鋭い牙を突き立て、魔物の核を一瞬で噛み砕いた。
『ジ……ジジッ……ギヤアアアアアアアッ……!』
アビス・エキドナは引きつるような苦痛の悲鳴を上げ、紫色の汁と黒い霧を噴き出しながら崩れ落ち、そのまま消え去っていった。
激闘に勝利したリヴィアタンもまた、全身に負った無数の深い傷によって体力を奪われ、力尽きたようにゆっくりと海底へ横たわった。
2. 魂のオーラ
「……すごい。一頭で深淵の魔物を打ち倒すとは……」
立ち並ぶ騎士たちがその圧倒的な威圧感に気圧され、立ちすくむ中、ルミナだけは違うものを見つめていた。
幼い頃から「水のざわめき」を色として感じ取り、生命の不調を嗅ぎ取ってきた彼女の鋭敏な感性――『オーラ・リーディング』の力が発動する。ルミナは、横たわるリヴィアタンの全身から放たれる生命の光を克明に捉えていた。
目の前に横たわる巨獣は、凶暴な怒りと毒の瘴気に重く覆われている。しかし、その禍々しい外層のさらに奥深く――魂の核から解き放たれているのは、あまりにも純粋で、温かな「献身の青」だった。
(あの色……あの穏やかで、朝の空気のように透き通った波長を知っている……!)
さっきのハンドシグナルへの反応と、目の前で静かに輝くこの優しく清らかなオーラ。胸の中に言いようのない予感が膨らんでいく。
だが、今はそれを確かめることよりも、瀕死の重傷を負った目の前の命を助けるのが先決だった。
「近づいてはなりません! リヴィアタンは狂暴な魔獣です!」
カリオス将軍や騎士たちが剣を握り直し、制止しようと声を張る。しかしルミナはためらうことなく、横たわる巨獣のもとへと一歩一歩駆け寄っていった。
苦痛に身を捩るリヴィアタンの傍らに膝をつくと、ルミナは腰から【治癒の杖】を引き抜き、清らかな魔力を集中させた。
「地の底に眠りし 清冽なる炎 湧きて奔れば暗き毒は消え去らん。脈打つ鼓動を光で満たし、健やかなる生命をここに呼び戻せ!」
杖の先から柔らかい温もりの魔力が広がり始める。しかし、力任せに傷を塞ごうとすると、弱り切ったリヴィアタンの体が拒絶するように小刻みに震えた。
(ダメ……! 押し付けちゃダメ……! 一気に力を流し込んだら、この子の身体が壊れちゃう……!)
その瞬間、ルミナの脳裏に、前夜マリンから告げられた言葉が鮮やかによみがえった。
『ルミナ。巨大な命を癒やすときほど、力を押しつけてはいけません。相手が受け取れる温度を、決して見失わないで』
(……そうだった。観察するんだ。この子の弱った鼓動と、巡りの速さを……!)
ルミナは深く息を吐き、相手の生命反応に集中した。水温と成分を調整しながら、注ぎ込む魔力の温度を慎重に少しずつ下げていく。
「まだ高すぎる……もっと優しく……相手が受け取れる温度まで、私が下がるんだ……!」
注ぎ込む魔力の温度を、相手の体が「心地よい」と感じる温もりまで下げた瞬間、すーっと魔力が浸透し始め、詰まっていた体内の血管と魔力の流れがやわらかく開き始めた。眠っていた自己回復力が、内側から呼び覚まされていく。
だが、この極めて精密で高度な治癒施術は、ルミナの身体に苛烈な負荷を強いた。治癒の代償である『黒い結晶』が、ルミナの左腕の皮膚を急速に侵食していく。
「くっ……うあぁっ……!」
激痛が走り、意識が遠のきそうになる。それでもルミナは歯を食いしばり、指先から発する温もりの調整を、決して狂わせることなく耐え続けた。
やがて、リヴィアタンの全身を覆っていた毒の傷が内側から綺麗に塞がり、不気味な黒い瘴気がサッと消え去っていった。
3. 深淵に響くエコー
傷を癒やされたリヴィアタンはゆっくりと目を開けると、体を起こし、ルミナの周りを愛おしそうに優しく泳ぎ回り始めた。
その大きな瞳が、ルミナの腕の中で静かに息づいている小さな海洋生物を見つめる。安心したように、ゆっくりと瞬きをした。
(……この子を守ろうとしていた……。私と同じように)
ルミナは震える息を整えると、前世のクックとの間で二人だけの合図に使っていた、エコーロケーション(反響定位)のクリック音を模した特殊な舌打ちを、小さく響かせた。
(カッ、カカッ――)
その高い反響音が水中に伝わった瞬間、リヴィアタンの大きな瞳に、ハッとした驚きと、溢れんばかりの光が宿った。しかし、すぐに言葉は出てこなかった。
リヴィアタンは少し距離を置き、慎重に、迷いを残した目でルミナを見つめる。
『……あなたは、誰?』
念話のような透き通った声が、直接心に届く。
『どうして、その音がわかるの?』
ルミナは胸の奥で熱いものが込み上げるのを感じた。それでも、すぐに名前を口にはしなかった。
『前世でね……大切なイルカに教わったの。あの子は、私の合図をいつも完璧に覚えていてくれた』
リヴィアタンの瞳が揺れた。
『……合図』
『そう。右手を上げるとジャンプ。腕を回すとスピン。それに、私が落ち込んでいるときは、いつも決まって水をかけてくれたの』
その言葉を聞いた瞬間、リヴィアタンの巨体が大きく震えた。
『……水を……かけた』
ゆっくりと、ためらいがちに近づいてくる。
『あなたは……ナナミ……?』
ルミナは声を詰まらせた。
『……そうよ』
『ナナミ……本当に……?』
『本当よ。クック……あなたはクックなの?』
長い沈黙。リヴィアタンは、消えてしまうのを恐れてでもいるのか、慎重に鼻先をルミナの額に寄せた。
『……ナナミ。また会えたんだね』
『クック……会いたかった。ずっと、会いたかったよ』
ポロポロとこぼれ落ちる涙が、青い海中に溶けていく。ルミナは震える両腕を伸ばし、その大きな顔を力いっぱい抱きしめた。
言葉は出てこない。ただ、もう二度と会えないと思っていた絶望と、あのとき救うことのできなかった後悔、そして今ここにある確かな温もりが、波のように押し寄せてくる。
リヴィアタン――クックもまた、ルミナの背中にそっとひれを回し、消えてしまいそうな愛おしい存在を確かめるように、静かに目を閉じた。
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。失われた時を埋めるように、懐かしい温もりだけが、二人の魂の奥へ静かに広がっていった。
ふと、クックの胸の奥から、淡く澄んだ青色の光が溢れ出した。それは温かな水流となってゆっくりと漂い、ルミナの胸へと吸い込まれていく。
『ナナミ。これは、今の私が持っている力。あなたなら、きっと誰かの心を救うために使ってくれる』
心に届いたクックの優しい声とともに、ルミナの胸の奥で、これまで知らなかった温かな旋律が脈打ち始めた。人々の荒れた心と深い病を優しく解きほぐす、古代の秘術――『癒やしの歌』の芽生えだった。
ルミナは愛おしそうにクックの巨体を撫でると、胸に宿った旋律にそっと声を乗せた。
『……響け――エコー 時を超えて
凍てついた この海を溶かして
ナギの声が 命を呼び覚ます
巡りゆく 温もりの魔法……』
澄んだ歌声が、静かに深海を揺らしていく。




