第10話 :【静寂の海溝 ~眠れる海流の主~】
1. 海溝の主と、刻まれた古傷
静寂の海溝は、その名の通り、音すら吸い込むような恐ろしいほどの闇と沈黙に包まれていた。
ダガールの案内人が先導し、一行は大断崖の壁面に沿ってゆっくりと深淵の底へと降りていく。クックの巨大な身体が、青く温かな光を放ちながら周囲の凄まじい水圧を受け止めていた。
やがて、その光の先に、山脈と見紛うほど巨大な影が浮き上がった。青黒い重厚な鱗を持つ、海の主――『テュポーンドラゴン』だ。
しかし、その背骨に沿って、数世紀前の隕石落下による凄惨な痕跡が深く刻まれていた。赤黒く膿んだ傷口からは、高濃度の黒い瘴気がゆらりと漂い、そこから生まれた魔物たちとともに、テュポーンの生命力を奪い続けていた。
「あれが……海流の司」
カリオス将軍が息を呑み、剣の柄を固く握りしめた。
ルミナはクックの背から飛び降り、ドラゴンの巨大な傷口の近くへと降り立った。想像を絶する冷気と圧倒的な瘴気に、意識が遠のきそうになる。
「……ひどい」
老治癒師ラコスが杖を握りしめて慎重に近づき、研究者ゼノスは手元の魔導測定器を起動させた。
「傷口から流出している瘴気の濃度は、測定限界を超えています。この瘴気がテュポーン様の生命力を削り、深層海流の循環を止め続けているようです」
ポントス国王が命じた三者協力。今こそ、その力を結集させる時だった。
「ラコス様、ゼノス様……お願いします!」
二人が力強く頷いたその時、傷口の奥から、黒い影が複数蠢き始めた。長年にわたり、傷口の瘴気から生み出され続けてきた深海の魔物たちだ。
「来るぞ! 騎士団、防衛陣形!」
カリオス将軍の号令とともに騎士たちが剣を抜く。クックが低く力強い咆哮を上げ、巨大な尾びれで海底を叩いて衝撃波を発生させ、魔物の群れを押し返した。
「クック、下で魔物を食い止めて! 私たちは、この子の傷を治す!」
2. 受け取る温度と、三者の絆
ラコスがルミナの周囲に強固な防御結界を張り巡らせ、ゼノスが測定器具を傷口へ向け、リアルタイムで数値と波長を読み上げていく。
「瘴気濃度、危険域! ルミナ殿、魔力の流入量は慎重に!」
「はい!」
ルミナの水棲脚を包む青金色の温泉水流膜が広がり、柔らかな光の尾びれとなって深海の闇を照らした。ルミナは治癒の杖を傷口の近くに静かに構え、塩化物泉と二酸化炭素泉の魔法を放つため、魔力を集中させた。
「地の底に眠りし清冽なる炎よ……湧きて迸れ! 暗き毒を消し去れ!」
しかし、二つの温泉魔法を勢いよく注ぎ込もうとした瞬間、ドラゴンの巨大な身体が拒絶するように激しく震えた。
(ダメ……! 押し付けちゃダメ……!)
クックを治したときと同じだ。マリンの言葉が脳裏によみがえる。
『相手が受け取れる温度を、決して見失わないで』
ルミナは注ぎ込む魔力の勢いと温度を、慎重に下げていった。
「まだ高すぎる……もっと優しく……この子が受け取れる温度に、私が合わせる……!」
クックは治療班の前方で魔物を押し返しながら、低く鳴き、短いクリック音を連続して響かせた。その反響が、テュポーンの心拍と体内を巡る流れの変化を捉え、ルミナへと伝えてくる。
「ゼノス様、調整の数値を!」
「段階的に流入量をコントロールします! 温度・魔力流入量ともに適正範囲に入りました! 生命反応、上昇!」
「ラコス様、支えをお願いします!」
「お任せあれ! テュポーン様の心臓と生命力は、我が治癒結界で支えてみせよう!」
「聴け、深淵の鼓動。凍てつく傷を、母なる温もりで包まん。……巡れ血潮、目覚めよ、海の主」
ルミナの身体から、黄金と白銀の光が静かに広がっていった。塩化物泉の温もりが巨大な肉体の奥へと少しずつ染み渡り、二酸化炭素泉が細かな血管をゆるやかに開いていく。
ルミナの左腕を侵食する黒い結晶が急速に広がり、激痛で視界が白く揺れる。それでも彼女は、左腕に走る激痛に耐えながら、温もりの調整を狂わせなかった。
「まだだ……この子の巡りが、ちゃんと戻るまで……!」
3. 海流の主の覚醒
やがて、古傷に巣食っていた黒い瘴気が、傷口の奥から少しずつほどけていった。
「……数値、低下! 瘴気濃度が急激に下がっています!」
ゼノスの声が弾む。
ドラゴンの巨大な体がびくりと震え、赤黒かった膿がゆっくりと浄化され、滑らかな青い鱗へと再生していく。傷口から生み出されていた魔物たちも、黒い粒子となって次々に消えていった。
深淵の底から、ゴオオオオ……という地鳴りのような音が響いた。テュポーンドラゴンが、数世紀ぶりに、その巨大な青い瞳を開いたのだ。
長い痛みの眠りから戻ってきた意識は、まだぼんやりとしていたが、傷口から流れ出していた黒い瘴気は完全に止まっていた。
テュポーンドラゴンがゆっくりと身を起こし、巨大なヒレを一度振るった。その瞬間、静まり返っていた海溝の底に、かすかな水の流れが生まれた。その流れは少しずつ力を増し、長く停滞していた深層海流を、ゆっくりと動かし始めた。
「……やった」
カリオス将軍が剣を下ろして呟き、ゼノスが測定器具を見つめながら声を弾ませた。
「瘴気濃度、危険域を脱しました! 海流の循環も再開しています! これでダガールに滞留していた汚染海水も少しずつ外海へ運ばれ、清浄な水と入れ替わっていきます!」
その時――テュポーンドラゴンの巨大な青い瞳がルミナを捉え、その深遠な声が直接ルミナの頭の中に重く、温かく響き渡った。
『……小さき治癒師よ。我が傷を癒やし、長き痛みの眠りから救いし者よ……感謝する』
ルミナははっと息を呑み、ドラゴンの瞳を見つめ返した。
『……だが、我が力で動かせるのは、ダガールへ連なる深層海流に過ぎぬ。海の底には、我が同胞たるテュポーンドラゴンたちが、今も各地で深い眠りについておる。そして、海だけではない。地上では、天空と大気を司る主、ゼピュロスドラゴンもまた、目覚めの時を待っておる』
「ゼピュロス……ドラゴン……! 天空と大気を司る主……!」
『海と空、二つの循環が再び重なり、眠れる同胞たちが目覚めぬ限り、この星に真の夜明けは訪れぬ。……ゆけ、癒やしの歌を継ぐ者よ。まずはゼピュロスドラゴンを目覚めさせ、世界に命の風を吹き渡らせるのだ……!』
テュポーンドラゴンはそう告げると、慈しむように低く一鳴きし、清らかな海流を生み出しながら静かに深海へと泳ぎ去っていった。
「ゼピュロスドラゴン……天空と大気の主……」
ルミナはその名を胸に刻み、杖を握り直した。
「でも、まずはダガールのみんなを助けなきゃ。あの子との約束を果たすために」
原因は絶たれ、止まっていた海は、ゆっくりと動き始めた。しかし、灰鱗病に苦しむ人々の治療は、まだ終わっていない。
ルミナたちは、清らかな流れが生まれ始めた海を抜け、ダガール王都へと急いだ。




