第13話:【聖なる岩嶺 ~二百人の命を掲げた盾~】
1. 三国合同最高作戦会議と、一万名の大遠征計画
冷たい海へ撤退したあの日。
命を落としたアトランティスの若き騎士の防護服は、レムリアの工房の最奥に、そのまま展示されていた。
爪で深く切り裂かれた関節部。
不協和音を立てて崩壊した加湿回路。
三王国の職人や魔導士たちは、その痛々しい遺品を前にして、誰一人として言葉を発することができなかった。
「この傷を修復してはならない」
レムリアの老魔導士が、重く告げた。
「彼が命を懸けて示した弱点を、我々の未熟さを忘れぬよう、すべての防護服へ刻み込むのだ」
国家の垣根を越えた、血と汗の改良作業が始まった。
ダガールの鍛冶師たちは、耐熱鉱物を叩き重ねた『可動式耐熱装甲』を作り上げた。
レムリアの魔導士たちは、循環加湿の二重化回路を組み込んだ。
アトランティスでは、大破していた巨大な『海中大型魔導船』の改修が進み、機動性に長けた『小型魔導船』で海面へ『魔導海上中継ブイ』を設置。
双子共鳴貝から送られた声を、魔導海上中継ブイが地上の部隊から深海司令部まで中継する、長距離魔導通信網が完成した。
そして数ヶ月後――
レムリアの魔導殿にて、出撃直前の『三国合同最高作戦会議』が開かれた。
羊皮紙の古地図を囲むのは、各国の王と将軍たち。
地図の上の『聖なる岩嶺』は、海岸線から遥か彼方の内陸奥深くに聳え立っていた。
「目指す『聖なる岩嶺』は海岸から遠い。陸地を進む長大な進路を確保し、魔物の猛攻から維持し続けるには、生半可な兵力では足りぬ」
アトランティスの将校が重々しく口を開く。
「我がアトランティス軍五千は、改修された海中大型魔導船を拠点としつつ、前衛から後衛までの全陣形を組んで進路の死守を担う」
「我がダガール軍二千も、重装歩兵を中心に前・中・後衛を配置し、内陸への進路を力強く切り拓こう」
「我がレムリア軍三千も同様だ。魔導士の比率が多いが、前衛の精霊騎士から後衛の治癒師まで陣形を組み、加湿回路の維持と後方支援に全力を注ぐ」
総勢【一万名の大遠征軍】。
アトランティス、ダガール、レムリアの三王国から集められた総勢一万名の大遠征軍は、三か国合同第一部隊、第二部隊、第三部隊に分けられた。
そのほかに、ルミナとともに聖なる岩嶺へ向かうドラゴン部隊、二百名のおとり部隊、海岸と海中から支援を行う海中魔導船部隊が編成された。
三か国合同第一部隊、第二部隊、第三部隊は、海岸から聖なる岩嶺までの進路と補給線、通信線の確保を担う。
それらの部隊とドラゴン部隊の上陸に先立ち、各国の精鋭二百名からなるおとり部隊が先行して上陸することになった。
ドラゴン部隊の進路とは逆方向へ魔物を引きつける、命がけの作戦である。
「我々は死ぬために行くのではない! 生きて海へ帰り、子どもたちに地上の空を見せるために戦うのだ!」
隊長の誓いとともに、二百人の盾は灼熱の地上へと第一歩を踏み出していった。
2. 大陸の魔物と、途絶えた双子共鳴貝
「来たぞ! 第一波、接近! 前衛、大盾を撃ち鳴らせッ!」
灰色の荒野に、おとり部隊隊長の雷のような怒号が響き渡った。
空高く再び打ち上げられた極大の魔導信号弾が、不毛の天空を赤く染める。
膨大な魔力波を、ドラゴン部隊の進路とは逆方向へ解き放つ。
だが、地平線を埋め尽くした魔物の数は、事前の偵察の時とは比べ物にならないほど膨れ上がっていた。
数世紀前に消滅したアストリア王国。広大な領域を誇る『大陸国家』だった。
おとり部隊が上陸してから繰り返し放った魔導信号弾の膨大な魔力波と、二百名の海底の民が発する生命反応が、荒廃した大地へ広がっていた。
その気配を感知した魔物たちが、周辺だけでなく遠方からも、新たな獲物を求めて押し寄せてきたのだ。
「グゴオオオオオオオオッ!!」
大地を揺るがす不気味な地響きとともに姿を現したのは、身の丈三メートルを超える筋骨隆々の巨躯。
巨大な鉄槌や斧を振り回す【剛鬼オーガ】の群れ。
さらにその背後からは、漆黒の重鱗に身を包み、大剣と大盾を手に、殺気をみなぎらせて陣形を組む【戦蜥蜴リザードマン】の大軍勢が押し寄せてきた。
「な……大陸中の魔物が集まっているのか!? 偵察の数倍……いや、十倍以上だぞ!」
「怯むな! 前衛、衝撃に備えよ!」
ドオオオオンッ!!
剛鬼オーガの放った鉄槌の一撃が、前衛の耐熱鉱物盾を砕く。
改良された装甲は、リザードマンの大剣による斬撃に耐え、予備加湿回路も正常に作動し続けた。
だが、オーガの鉄槌が生み出す絶大な物理衝撃は装甲を透過し、騎士たちの骨を砕いていく。
さらに、知性を持つ戦蜥蜴リザードマンの軍勢が隙間になだれ込み、後衛を狙って左右から挟み撃ちにしてくる。
「残存、百五十二!」
「魔導士隊、前へ! 一斉射撃!」
火球と水槍が灰色の荒野を走り、先頭のオーガ数体を吹き飛ばした。
兵士たちの間から、わずかな歓声が上がる。
だが、リザードマンは倒れたオーガの巨体を盾にして距離を詰めてきた。
「まず治癒師を潰せ!」
人の言葉に似た濁声が響く。
敵は、こちらの陣形を見抜いていた。
数体が正面で盾を打ち鳴らす一方、別の一団が身を低くして側面へ回り込む。
「右側面、突破されるぞ!」
騎士たちが陣形を組み直した瞬間、オーガの鉄槌が中央へ振り下ろされた。
ドオオオオンッ!!
中央陣が崩れ、兵士たちが土煙の中へ弾き飛ばされる。
リザードマンの一団が、その開いた穴から治癒師たちの元へ殺到した。
「残存、百……ッ! 治癒師陣が突破されました! もう維持できません!」
凄惨を極める肉弾戦。
瞬く間に防衛線は粉砕され、残存兵の数が絶望的な速さで減っていく。
四方を包囲され、海へ戻る退路は完全に断たれた。
「だめだ……おとり作戦は失敗だ! すぐそばの地下遺構へ逃げ込め!」
隊長の叫びで、部隊は目の前に口を開ける古代の地下階段へとなだれ込もうとした。
しかし、その入口付近には、かつて逃げ惑った末に息絶えた人々が折り重なるようにミイラ化した死体となって通路を塞いでいた。
さらにその先は無残に崩落して行き止まり。
床には無数の亀裂が走り、踏み込めば崩れ落ちかねない。
洞内には緑色の毒と瘴気が満ち、退避するにはあまりにも狭すぎたのだ。
「くっ……ここはダメだ! 入れば全滅する! この地下への退避は断念する!!」
「隊長! ここから三百歩ほど先、ガレキの向こうに、もう一つ大きな地下への入口があります!」
先行していた斥候が駆け戻り、安全を報告した。
「ミイラ死体はごく少なく、足場も強固! 内部の空間は広大です!」
「よし、全員あの地下へ向けて全力で走れぇぇッ!!」
隊長の怒号が飛ぶ。
重傷者を抱え、追撃してくるオーガの鉄槌をかわしながら、生き残った兵士たちは命がけで荒野を疾走した。
その激走の最中、通信兵が血の滲む手で『双子共鳴貝』を抱え、深海司令部へ向けて叫んだ。
「……こちらおとり部隊! 死者百数十名……! おとり作戦失敗……! 負傷者多数! 生存者は、地下へ――」
ドカッ!!
「ぐあああっ!?」
通信兵の口から「地下へ」という言葉がこぼれた、その瞬間だった。
オーガの鉄槌が通信兵の肩を直撃し、その身体を弾き飛ばした。
血に濡れた手から双子共鳴貝が落ちた。
バチンッ!
魔物の足に踏み砕かれ、貝の共鳴が消えた。
深海司令部へ届いたのは、「負傷者多数」という絶叫までだった。
生存者が地下へ逃れようとしている事実は、司令部にも一万の大遠征軍にも届くことはなかったのである。
生き残った兵士たちは広い地下の石段へとなだれ込むと、ガレキを魔法で崩して入口を間一髪で封鎖した。
薄暗い地下空間で呼吸を整え、改めて人数を確認すると、生存者は――わずか七十八名であった。
3. 崩落壁の『再生』と、残された遺言
【初日】
ガレキで塞いだ入口を魔法で補強した後、同行していた魔導士たちは、残された魔力を節約しながら負傷者へ初歩的な治癒魔法を施し続けていた。
ガレキの向こうからドンドンと響く剛鬼オーガの鉄槌の音に怯えながらも、残されたわずかな水と傷薬を分け合い、かろうじて部隊の秩序を保つ。
入口付近には交代で見張りを立て、最低限の防衛態勢も維持していた。
激戦で、多くの防護服はすでに循環加湿回路を損傷している。
精霊石の魔力も尽きかけ、残された水は重傷者へ優先して使われていた。
◇
【二日目】
「……隊長。負傷者を休ませられる場所がないか、奥を調べてきます」
意識が途切れそうなほど疲弊する中、レムリアの老魔導士と数名の兵士が立ち上がった。
彼らが暗闇を照らすために掲げたのは、地上で使われるような炎のたいまつではなく、アトランティス軍の兵士が所持していた海底王国特有の装備――青く妖しい光を放つ『深海発光珊瑚の魔導灯』であった。
幻想的な青白い光が揺らめき、広大な石造殿堂の壁一面を照らし出した瞬間、兵士たちは息をのんだ。
「これは……壁画……!?」
そこには、あまりにも克明で凄絶な歴史の記憶が描かれていた。
空を黒く覆い尽くす無数の凶兆の光。
地上へと容赦なく降り注ぐ、巨大な赤き隕石群。
崩れ落ちる美しき高塔。
炎の海と化す街々や燃え盛る大森林。
悲鳴を上げながら海へ逃げ惑う人々と、遥か上空へ向けて飛び立つ数隻の魔導船。
「なあ……これほど精密で巨大な絵が描かれているということは、隕石群が落ちた後も、アストリアの人々はここでしばらく生きていたんじゃないか?」
「あぁ……それだけじゃないぞ。見ろよ」
一人の騎士が、自分たちが通り抜けてきた通路を振り返りながら呟いた。
「最初に逃げ込もうとして断念した隣の地下施設には、逃げ惑って倒れた死体が折り重なるように残っていた。……だが、この広い殿堂にはミイラ死体が圧倒的に少ない」
「確かにそうだ……。ここに残された死体の数が少なすぎる。……まさか彼らはここで絶滅したんじゃない。ここからどこかへ脱出したんじゃないのか……!?」
兵士たちの胸に、小さな疑問と予感が芽生え始めたその時だった。
疲弊した一人の兵士がよろめき、壁際に並んでいた古びた装飾棚のレリーフへ肩を預けた。
静寂の地下空間に、硬い金属音が響く。
兵士が慌てて身を引いた瞬間、棚の側面に彫られた王家の紋章の石細工が奥へと沈み込んでいた。
ズズズズズズ……ッ!
重々しい石の擦れ合う音とともに、壁面の一角が横へスライドし、隠し通路が姿を現した。
「隠し扉……!? 部屋の奥にこんな仕掛けがあったのか!」
深海発光珊瑚の青い光を掲げ、兵士たちは恐る恐る隠し通路の奥へと進んだ。
ホコリと古代の乾いた風が吹き抜ける通路の最奥――崩落した巨大なガレキの山の手前に、それらは静かに横たわっていた。
豪奢な金の刺繍が施された衣を纏う、ミイラ化した二体の遺体。
頭に残る朽ちかけた冠と王家の意匠から、アストリア王国の国王と王妃と思われた。
「国王陛下……王妃様まで……」
兵士たちが息を呑んで頭を垂れる中、老魔導士の目が国王のミイラのすぐ傍らに残された品に注がれた。
そこには、半透明で美しく重厚な『水晶の魔導箱』が、国王の腕に抱かれるように置かれていた。
魔導士が慎重に魔導箱の封印を解除し、蓋を開ける。
魔法の気密保護によって風化を免れていた箱の中から現れたのは、羊皮紙ではなかった。
古代の精巧な製紙技術で作られた紙を綴じた日誌や記録文書が、何冊も収められていた。
魔導士は震える指先で紙のページをめくった。
文字自体ははっきりと残されているものの、乱れた独特の字体で書かれた古い文章に苦戦しながら、専門の解読者ではない魔導士の知識で読み解けた部分だけを静かに声に出していく。
『――予言者はアストリア王国に隕石群落下による未曽有の災害の予言を告げた。予言に従い……事前に空中魔導船による避難準備が行われた……数隻の空中魔導船へ生き残った者たちを分乗させ……海ではなく、地底の世界を目指し脱出を開始する……孫たちが無事に……』
『――地上の灼熱と隕石群の猛威に対し……海底王国は我がアストリア王国へ救援の魔導船を発進させた……』
『――しかし、救援船は無数の隕石の直撃を受け大破……。海底との通信は途絶し、救援が届く見込みは永遠に失われた……』
言葉を失い、息をのむ兵士たち。
アトランティス、ダガール、レムリア――三王国に残るいずれの古代史料からも確認されていない事実。
かつて陸上を追われた人々は、海の底ではなく、大地のさらに深奥――地底世界へと逃げ延びていたのだ。
さらに、記録の最後には、後世にこの場所へ辿り着く者へ向けた国王の遺言が記されていた。
『この地を訪れし者へ。ここに眠る者たちを、どうか丁重に葬ってほしい。名を残せぬ者も、最後まで生きようとしたアストリアの民であった。アストリア王国と、大陸の文明はここに終わりを迎える。私たちが失った空を、次の時代を生きる者が再び見上げることを……切に願う』
そして、国王たちの遺体のすぐ奥――行く手を完全に塞ぐ崩落ガレキの無慈悲な岩壁に、兵士たちの視線が吸い寄せられた。
その岩壁の表面には、手や刃物で狂おしいほど深く、幾重にも刻み込まれた文字があった。
――『再生』
浅く彫られたもの。
岩を削り穿つほど深く抉られたもの。
手の届かない高い位置にまで刻まれた、無数の『再生』の二文字。
未曽有の大災害。天から降り注いだ隕石群。すべてを焼き尽くした大火災。増大する魔物の恐怖。
そして歴史から消し去られた国家。
絶望の底で国が滅びゆく中、崩れ落ちるガレキに閉じ込められた人々が、死を前にしてなお、命と世界の再生を次の時代へ託そうとした―――その凄絶な意志が、無数の文字となって岩壁に刻まれていた。
その崩落した壁の足元には、文字を刻むために使い古され、刃先が鋭く欠けた一本の古びた短剣がポツンと転がっていた。
「これは……戦うための剣じゃない。滅びの中で、生き抜こうとした証なんだ……」
隊長は静かに膝をつき、刃の欠けた短剣を両手で拾い上げると、じっと見つめた。
◇
【三日目】
海との通信は途絶えたまま、外から味方の戦闘音は一切届かない。
聞こえるのは、地下の絶望的な静寂だけだった。
(俺たちは……見捨てられたのか?)
(いや……一万名の大遠征軍すら、あの魔物の大軍に呑み込まれて全滅したのでは……)
脱水症状で意識を失う者が相次ぎ、生存者七十八名の心は底なしの絶望に蝕まれていった。
しかし―――先人たちが灼熱と激炎の災厄の中で刻み残した『再生』の二文字と、手元にある欠けた短剣を前にして、兵士たちの胸に重い衝撃が走る。
安易な希望などではない。
国を奪われ、絶望の中でなお生命を繋ごうとした者たちの凄絶な覚悟が、生存者たちの魂を強く打ち据えたのだ。
「……先人たちは、国が滅びても諦めなかった。ならば俺たちが、ここで不平を言って死を待つわけにはいかない」
隊長は短剣を強く握りしめ、全員を見渡すと、掠れた声で告げた。
「生きて……生きてこの歴史を地上へ、海へ持ち帰るぞ。俺たちの命は、まだ終わっちゃいない!」
意識を保っていた者たちの眼差しに、揺るぎない覚悟の光が宿っていた――
暗闇の地下空間へ逃げ込んでから、苛酷な【三日】の時間が流れていた。
地上では、正常な循環を失った大気が荒れ狂い、聖なる岩嶺を激しく叩く猛烈な暴風雨となっていた。
暴風の咆哮と絶え間ない雷鳴が分厚い岩盤を震わせ、地底深くまで不気味な低音となって響き始めていた。




