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最終話 『旅立ちの日(前編)』

最終話 『旅立ちの日(前編)』


 朝の光が差し込む部屋で、信吾はゆっくりと目を覚ました。

 だが、隣にいるはずの虎之介の姿はどこにもなかった。


「……あれ?」


 慌てて部屋を見回す。窓が少し開いている。鍵をかけ忘れていたらしい。

「虎之介……行っちゃったんだ」


 そう呟いた信吾の声には、寂しさと、どこか清々しさが混じっていた。


 美沙がそっと隣に座り、肩に手を置く。

「大丈夫?」

「うん。虎之介には、もう感謝しかないよ。ぼくたちに勇気をくれたんだ」

 信吾はそう言って、小さく笑った。



---


 その朝の食卓には、信吾と美沙、そしてゴンちゃんの三人が揃っていた。

「いただきます!」


 ゴンちゃんが尻尾を振りながらパンをもぐもぐ食べる。

「これがゴンちゃんと食べる最後の朝食なんだね」美沙がぽつりとつぶやく。

「でも、いい顔で食べられてるなら、それでいいよ」

 信吾が笑い返す。


 ふとゴンちゃんが、信吾のひざに前足をのせてきた。

 信吾がパンをちぎって差し出すと、嬉しそうに「きゅっ」と鳴いてぱくりと食べる。

 その仕草が愛おしくて、美沙も思わず涙をこらえながら笑った。

「ほんとに……いつも通りだね、ゴンちゃん」

 ゴンちゃんは何も知らないようにただ一心に食べ続けていた。



---


 朝食も終わり、少しの沈黙のあと、美沙が言った。

「……じゃあ、行こっか」

「うん」

 信吾も頷き、ゴンちゃんも元気よく「きゅっ」と鳴いた。



---


 マンションのエントランスの前には、すでに赤荻さんと久方さんの姿があった。

「昨日は眠れたか?」赤荻さんが短く尋ねる。

「はい。気持ちの整理もできました」

 信吾が答えると、美沙も静かに頷いた。


 カートの中のゴンちゃんも、小さく「きゅう」と鳴いて応えた。


「よし。それじゃあ行くか」

 赤荻さんが短く言い、歩き出そうとする。

 だがすぐに立ち止まり、振り返った。

「せっかくだ。俺が運転するから一緒に乗れ。俺の車なら全員乗れるだろ」


 信吾は美沙を見て、軽く会釈する。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます」


 一行は赤荻さんの車に乗り込み、桜小路家へと向かった。



---


 車内には、どこか張りつめた空気が漂っていた。

 信吾はそれを感じ取り、わざと明るい声で口を開いた。

「なんだか、修学旅行みたいですね」

 赤荻さんが片眉を上げる。

「まぁ修学旅行にしては、ずいぶん行き先が渋いがな」

 その言葉に、車内の空気が少し和らいだ。


 しばらくすると、久方さんが優しく口を開いた。

「それにしてもおじいちゃんが急に“旅立ちの義を桜小路さんの家でやる”って言ったときは、正直驚きました」

「えっ、そうだったんですか?」信吾が驚く。


「はい。元々は、通常通り他の守護者たちと山で行う予定だったんです」

 久方さんは軽く微笑みながら続けた。

「でも、おじいちゃんが“どうしても桜小路さんの家で信吾さんたちとやる方がいい”って強く言ったんです。あの時はおばあちゃんがカンカンで大変だったんですよね」


「ふん、アイツはほっとけ」

 赤荻さんは顔を背けた。その仕草は、どこか照れ隠しのように見える。


 信吾と美沙は思わず笑い合った。

「やっぱり赤荻さんって、ツンデレですよね」美沙が笑いながら言う。

「そうですね。……絶対そうだと思います」

 信吾は心の中でそっと思った。

(赤荻さん……いろいろと気を使ってくれてありがとうございます)


 後部座席でゴンちゃんが「きゅっ」と鳴き、車内は和やかな空気に包まれた。



---


 やがて白い門柱の向こうに、ひときわ大きな西洋のお城のような屋敷が姿を現した。

 車が止まると、赤荻さんは深く息をつき、門柱の先に立つ桜小路さんへ声をかけた。

「今回は突然頼んで悪かったな。感謝してる」

 桜小路さんは穏やかな微笑みを浮かべ、首を振った。

「構いませんわ。むしろ光栄なことです」


 桜小路さんは久方さんに目を向けた。

「かなえちゃん、お久しぶりね。また少し大人っぽくなったんじゃない?」

 頬を赤らめて「そ、そんなこと……」と口ごもる久方さんに、信吾と美沙も思わず微笑む。


 次に桜小路さんは、二人へと向き直った。

「信吾くん、美沙さん。今日は来てくれてありがとう」

「はい。こちらこそ、ありがとうございます」信吾が頭を下げ、美沙も静かに会釈する。


「前にも言ったけれど――別れは悲しいだけのものではないのよ」

 桜小路さんは穏やかに言葉を紡いだ。

「大切なものを心に残して、新しい一歩を踏み出す。そのための節目でもあるのだから」


 その言葉に、信吾と美沙は胸の奥が熱くなるのを感じた。



---


 桜小路さんの足元で、ルネは静かに佇んでいた。

 その瞳はどこか翳りを帯び、主人の影に寄り添うように身を縮めている。

 まるで、これから訪れる別れを察しているかのようだった。


 だがゴンちゃんはお構いなしに駆け寄り、尻尾を振ってじゃれつこうとする。

「やっぱりルネは、何か気づいているんですね」

 信吾が尋ねると、桜小路さんは小さく頷いた。

「ええ。ルネはゴンちゃんとの別れを分かっているみたい。言葉にしないものを感じ取ったのかもしれないわね」


 こうして人と真竜とが寄り添うように集まった庭で――

 いよいよ、旅立ちの義が始まろうとしていた。




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