最終話 『旅立ちの日(後編)』
最終話 『旅立ちの日(後編)』
しばらくの静寂が流れたあと、庭を吹き抜ける風に揺れる木々がざわめく。
「……そろそろ始めるか」
赤荻さんの低い声が、場を引き締めた。
信吾はその声に振り向き、深く頭を下げた。
「赤荻さん……すいません。少しだけ、美沙さんとぼくに時間をもらえませんか?」
赤荻さんはほんの一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。
「ああ、好きにしろ。お前らが納得するまで。俺たちは待ってる」
「……ありがとうございます」
信吾は美沙に視線を送り、小さく微笑む。
「美沙さん、ゴンちゃん。行こう」
三人は噴水の前に移動し、石畳に腰を下ろした。
水音が静かに響く中、ゴンちゃんは信吾の膝の上に乗ろうとする
信吾が言う。
「ゴンちゃん、膝の上はもう少し重いかなでも、本当に大きくなってね。おいで。」
ゴンちゃん信吾の膝の上で尻尾を揺らし、美沙はゴンちゃんの頭を撫でている。
なんでもない仕草なのに、胸の奥が温かくなった。
「ゴンちゃんが産まれた日のこと、覚えてる?」
美沙がぽつりと問いかけると、信吾は微笑んで頷いた。
「もちろん。美沙さんがドラゴンだからゴンちゃんにしようって言ったんだよね……そうしたらゴンちゃんが小さな声で鳴いたんだよね」
「うん。あの瞬間から、家族になったんだね」
信吾はゴンちゃんの頭をそっと撫でる。
遊んだ日も、泣いた日も、笑った日も――そのすべてが胸に去来し、言葉が震えた。
「ゴンちゃん……ありがとう」
美沙も横で小さく呟いた。
「ほんとに……ありがとうね」
やがて信吾は顔を上げ、赤荻さんに向き直った。
「赤荻さん……もう大丈夫です」
「そうか」
赤荻さんは短く応じた。
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そして、ついにその時が来た。
赤荻さんがゴンちゃんを抱き上げようとした瞬間、久方さんが一歩前に出た。
「おじいちゃん、待って。ゴンちゃんを空に放つのは……信吾さんと美沙さんにやらせてあげて。二人は家族なんだから」
赤荻さんは小さく息を吐き、頷いた。
「……そうだな」
信吾と美沙は二人と少し間をおいたところにいる桜小路さんに深く会釈し、そっと腕の中のゴンちゃんを抱えた。
そして、力を込めて空へと放つ。
ゴンちゃんの小さな体は、風を切って高く舞い上がり、ぐんぐんと太陽の方へ向かっていく。
その時、一瞬だけ、振り返ったように見えた。
その瞳に映っていたのは――確かに、信吾と美沙だった。
「ゴンちゃん……今まで、ありがとう!」
信吾の声が震える。
だがゴンちゃんは戻ってこない。
そのまま光の中に溶けるように、どこまでも遠くへ飛んでいった。
庭に静寂が広がる。
それでも、信吾の胸には確かに温かいものが残っていた。
信吾は隣の美沙を見て、少し笑みを浮かべた。
「ゴンちゃんは……どこに向かったんだろうね」
「そうだね……」
美沙も静かに呟く。
赤荻さんがふっと口角を上げ、低い声で言った。
「知りたいか? 真竜がどこへ向かうのかを」
少し考えて信吾は首を振った。
「いいえ、やっぱり大丈夫です。ぼくたちがそれを聞いてもどうにもならないし……それにこのあとはゴンちゃん自身が作っていく物語だと思いますし」
美沙も頷く。
「うん。そうだね」
「……そうか」
赤荻さんはわずかに笑みを浮かべた。
信吾は大きな木の下に立っていた。
枝葉の隙間から差し込む柔らかな光が揺れ、落ち葉の香りを含んだ風が頬を撫でる。
空を見上げながら、心の中でゴンちゃんとの思い出をひとつひとつ探すように目を閉じた。
その時、足音が近づく。振り返ると久方がそこに立っていた。
「信吾さん、少しお話いいですか」
「はい。大丈夫ですよ」
二人は大きな木の根元に並んで腰を下ろす。背中に触れる樹皮はごつごつとしていて、長い年月を感じさせた。
「……ゴンちゃん、行っちゃいましたね」
久方の声は、小さいがしっかり通っていた。
「そうですね」
信吾は目を細め、遠くの空を見た。
「寂しいですよね?」
久方が問いかける。
「はい。でも、意外と大丈夫です」
信吾は膝に手を置き、ゆっくりと息を吐いた。
「だってゴンちゃんがくれた思い出が残ってますし……それに赤荻さんや桜小路さん、久方さんともこうやってお話できてるので」
久方さんは驚いたように目を瞬き、そして小さく笑った。
「……嬉しいです。実は、私、後悔してるんですよ」
「後悔、ですか?」
信吾が首を傾げる。
「はい。少し前に……私が守護者だってお話した夜に言いましたよね。『ここは、あなた達が考えているようなやさしい世界じゃない』って」
「ああ……ありましたね」
久方さんは指先で裾を握りしめ、うつむいた。
「でも……信吾さんがいる世界なら、やさしい世界なのかなって。そんなふうに思ったんです」
不意に胸を突かれ、信吾は言葉を失った。
心臓がどくりと跳ね、思わず彼久方さんをまっすぐに見つめる。
「……信吾さんに、お伝えしたいことがあるんです」
久方さんは顔を上げ、瞳に決意を宿した。
「……実はこの秋から、大学で心理カウンセリングをもっと本格的に勉強してみたくて……大学の寮に引っ越すことにしたんです」
「えっ……そうなんですか」
信吾の表情が崩れる。驚きと寂しさと、少しの情けなさが入り混じった顔だった。
「今まではおじいちゃんに頼んであのマンションに部屋を借りてたんですけど、けっこう遠くて大学に通うのが大変で。でも……信吾さんみたいに、こんなにやさしい人がいるんだって思ったら、私ももっと頑張りたいって思えて」
信吾は口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。肩を少しすくめ、視線を足元に落とす。
「おーい、かなえ。ちょっと手伝ってくれ」
庭の方から赤荻さんの低い声が飛んできた。
「あっ……おじいちゃんが呼んでる。信吾さん、本当にありがとうございました」
久方さんは立ち上がり、深く頭を下げて駆けていった。
木の下に残された信吾は、呆気に取られたように空を仰いだ。枝の間から青空がのぞき、光が瞬いている。
そこへ、美沙がひょいと顔を出した。
「まさか、ドラゴンと生活してた男が……とんだチキン野郎だったとはね」
「なんだよ、チキン野郎って」
信吾は耳まで赤くなり、照れ隠しのように突っ込む。
「いいの? 久方さん、引っ越しちゃうんでしょ?」
「これでいいんだよ。久方さんにもやりたいことがあるし」
信吾は少し間を置き、拳を膝の上で握った。
「……それに」
「それに?」
美沙が首を傾げる。
信吾は空を見上げ、光の中へ消えていったゴンちゃんの姿を思い描いた。
「ゴンちゃんも、自分の空を選んで飛び立った。だから……ぼくらも、やりたいことをやればいいんだよ」
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――こうして「旅立ちの義」は幕を閉じた。
ゴンちゃんの羽ばたきは、信吾たちの心に確かな道を残した。
別れは終わりではなく、始まり。
それぞれの胸に灯された想いは、やがて未来への翼となり、新たな空へと導いていく。
ゴンちゃんがいなくなり、信吾と美沙はまた二人で元の生活に戻ったはずだった ……。
一年後
「ただいまー! 信吾!今夜はすき焼きだよー! ……あと、カッパの赤ちゃんも連れてきたよ!」
まだまだこれから、ぼくと姉の生活は大変だけどきっと楽しい日々が続くのだろう。




