表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
68/70

第49話『旅立ちの前日』

第49話『旅立ちの前日』


 静かに沈む夕陽の色が、どこか切なさを帯びて町を染めていく。翌日には「旅立ちの義」が待っている。けれど、信吾の胸の内はざわついたまま、落ち着きを取り戻せずにいた。ゴンちゃんと過ごす最後の夜を前に、確認しておきたいことがあったのだ。


「そういえば……赤荻さん。旅立ちの義って、どんなことをするんですか?」


 夕刻、赤荻さんの小屋を訪れた信吾は、疑問を問いかけた。

 赤荻さんは少し眉を寄せ、強く澄んだ目で信吾を見返した。


「……あぁ、あれのことか。大層に“義”だなんて言ってるが、実際はシンプルなものだな」


「シンプル?」

 信吾は思わず聞き返す。


「ああ。やることは一つ。真竜を空に放つ。それだけだ」

 赤荻さんは静かに、しかし揺るぎなく言い切った。


「……え、それだけですか?」

 信吾の声が裏返った。赤荻さんの語る「義」という響きから、もっと厳かな儀式──火を焚き、祝詞を捧げ、古代の舞でも舞うのだろうと想像していたからだ。


 赤荻さんは笑いもせず、ただ短く頷いた。

「それだけでいい」


「でも……それだけだと、真竜、いやゴンちゃんがまた戻ってきたりしませんか? だって、ゴンちゃんは人懐っこいし……」

 信吾が驚いたように声を上げる


「ないな」

 赤荻さんの声音には一分の迷いもなかった。

「真竜はな、本能的に『巣』を求める。生まれ育った地を離れれば、空を越え、風を越え、必ず自らのあるべき場所に向かう。放てば戻らぬ。……それが、真竜の性だ」


「……本能、か」

 信吾はその言葉を繰り返し、胸に引っかかる寂しさを覚えた。本能に従って飛び立つというのは、自然で尊いことだ。けれど同時に、人間の情を置き去りにする冷たさも含んでいるように感じられた。


 その表情を見て、赤荻さんは少しだけ柔らかい声に変えた。

「あと……旅立ちの義を行う場所だが、桜小路の家に決めた」


「えっ、桜小路さんの家で……ですか?」

 信吾は目を丸くし、思わず声を上げた。


「そうだ。本来は守護者と過ごした山で行うものだが、今回は特例だ。あそこなら人目も避けられる。それに──」


 赤荻さんは一拍置き、咳払いをした。

「急に知らない山へ連れていかれてみろ。さすがに坊だって警戒するだろう。それに……お前たちにとっても、見慣れた顔と場所の方がいいだろ」


「……僕たちのために、ですか?」

 信吾は驚きを隠せなかった。


 赤荻さんはふいと視線を逸らし、肩をすくめて笑った。

「大げさに言うな。ただ……そういう方がいいと判断しただけだ」


 その横顔には、いつもの無骨さの奥に確かな温かさが宿っていた。


 夕暮れ時、信吾は部屋に戻った。窓から差し込む橙色の光が、部屋全体を寂しげに染めている。時計の針の音が、やけに大きく響いた。


「……明日なんだな」

 少しかすれた声が漏れる。


 キッチンにいた美沙が振り返り、明るく答えた。

「そうだね、明日だよ」


 けれど、その笑みの端は震えていた。ゴンちゃんは二人の空気を感じ取り、とことこと足元に寄ってきて、温かな体温を押しつけてくる。


「きゅ……」

 その鳴き声は、まるで「ここにいるよ」と伝えるようだった。


 夕食には、焼き魚や味噌汁に加え、特別にゴンちゃんのための分厚いステーキも並んだ。テーブルの下に座ったゴンちゃんは、自分用に用意された皿から嬉しそうに肉を頬張る。


「きゅっ」

 人参までぱくりと食べる姿に、美沙がくすりと笑った。

「ここに来た頃は人参なんて嫌いだったのにね」

「本当にそうだな」

 二人は互いに目を合わせて、そっと笑ってごまかす。


 信吾はふと苦笑しながら付け加えた。

「……まあ、ゴンちゃんが来てから、食費は相当増えたけどな」

「ふふ、確かにね」

 美沙は箸を置き、小さく肩を震わせた。


 食後にはデザートとして、手作りのウォルシュケーキが出された。

「ネットでレシピ見て作ったけど、意外と上手く出来たね」

「やっぱりウォルシュケーキ好きなのかなぁ」

 美沙が微笑む。

「うーん、好きだと思うけど……ゴンちゃんは何でも美味しそうに食べるからなぁ」

 信吾の言葉に、美沙はうなずいた。ゴンちゃんは幸せそうにウォルシュケーキを食べ、二人を見上げて小さくしっぽを振った。


 その夜。翌日のため、三人はリビングに布団を並べた。旅立ちを前に、同じ空気を共有して眠りたい──信吾と美沙が自然とそう決めたのだった。


 やわらかな闇の中、時計の針の音だけが響く。

 そのとき、不意に窓を叩く音がした。振り返ると、カーテンの隙間から虎之介の顔が覗いている。


 信吾には、その姿が「よう、まだ起きてるか?」と語りかけているように見えた。

「おぉ虎之介。ありがとう……来てくれたのか」

 窓を開けると、虎之介は軽やかに部屋へ入ってきた。まるで「来てやったぜ」と言わんばかりに尻尾を揺らし、すぐにゴンちゃんへ駆け寄ってじゃれ合う。


「お前も一緒に寝るか?」

 信吾が笑うと、虎之介は迷うことなく、ゴンちゃんの布団に潜り込み、隣に寄り添った。川の字の真ん中に割って入るようにして丸くなり、まるで最初からそこが自分の場所だと言わんばかりだった。


 信吾は美沙にしみじみとつぶやいた。

「本当に明日なんだな」

「……そうだね」

 美沙の声も震えていた。


 ゴンちゃんを挟むようにして虎之介が身を寄せ、ゴンちゃんは気持ちよさそうに目を細める。信吾は、その様子を見ながら小さく呟いた。

「ゴンちゃんは、幸せもんだな。いろいろな人たちに出会えて」


 その言葉に、美沙の目が潤み、信吾は黙ってうなずいた。


 ゴンちゃんの思い出話をしようと信吾が口を開きかけると、美沙が首を振った。

「……ダメ。それを話したら、きっと泣いちゃうから。思い出話は、明日まで取っておこう」

「……ごめん。分かった」

 信吾は素直に口をつぐんだ。


「……明日はちゃんと笑って送り出さないとね」

 美沙が小声で言う。

「……うん」

 そう答えながら、信吾の目尻に涙が滲んでいた。虎之介は何も言わず、ただ天井をじっと見つめている。


 その間にゴンちゃんが、ごそごそと動き、川の字になった布団の真ん中から二人に身を寄せた。その間に挟まれた小さな温もりは、まるで「一緒にいてくれてありがとう」と伝えているかのようだった。


「おやすみ、ゴンちゃん」

 美沙が囁き、信吾も続ける。

「おやすみ」


 ゴンちゃんは静かにしっぽを振り、満ち足りたように目を閉じた。


 誰もが理解していた。明日は避けられない。けれど、この夜だけは──永遠に続けばいいと願いながら。


 外では、秋の虫が静かに鳴いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ