第49話『旅立ちの前日』
第49話『旅立ちの前日』
静かに沈む夕陽の色が、どこか切なさを帯びて町を染めていく。翌日には「旅立ちの義」が待っている。けれど、信吾の胸の内はざわついたまま、落ち着きを取り戻せずにいた。ゴンちゃんと過ごす最後の夜を前に、確認しておきたいことがあったのだ。
「そういえば……赤荻さん。旅立ちの義って、どんなことをするんですか?」
夕刻、赤荻さんの小屋を訪れた信吾は、疑問を問いかけた。
赤荻さんは少し眉を寄せ、強く澄んだ目で信吾を見返した。
「……あぁ、あれのことか。大層に“義”だなんて言ってるが、実際はシンプルなものだな」
「シンプル?」
信吾は思わず聞き返す。
「ああ。やることは一つ。真竜を空に放つ。それだけだ」
赤荻さんは静かに、しかし揺るぎなく言い切った。
「……え、それだけですか?」
信吾の声が裏返った。赤荻さんの語る「義」という響きから、もっと厳かな儀式──火を焚き、祝詞を捧げ、古代の舞でも舞うのだろうと想像していたからだ。
赤荻さんは笑いもせず、ただ短く頷いた。
「それだけでいい」
「でも……それだけだと、真竜、いやゴンちゃんがまた戻ってきたりしませんか? だって、ゴンちゃんは人懐っこいし……」
信吾が驚いたように声を上げる
「ないな」
赤荻さんの声音には一分の迷いもなかった。
「真竜はな、本能的に『巣』を求める。生まれ育った地を離れれば、空を越え、風を越え、必ず自らのあるべき場所に向かう。放てば戻らぬ。……それが、真竜の性だ」
「……本能、か」
信吾はその言葉を繰り返し、胸に引っかかる寂しさを覚えた。本能に従って飛び立つというのは、自然で尊いことだ。けれど同時に、人間の情を置き去りにする冷たさも含んでいるように感じられた。
その表情を見て、赤荻さんは少しだけ柔らかい声に変えた。
「あと……旅立ちの義を行う場所だが、桜小路の家に決めた」
「えっ、桜小路さんの家で……ですか?」
信吾は目を丸くし、思わず声を上げた。
「そうだ。本来は守護者と過ごした山で行うものだが、今回は特例だ。あそこなら人目も避けられる。それに──」
赤荻さんは一拍置き、咳払いをした。
「急に知らない山へ連れていかれてみろ。さすがに坊だって警戒するだろう。それに……お前たちにとっても、見慣れた顔と場所の方がいいだろ」
「……僕たちのために、ですか?」
信吾は驚きを隠せなかった。
赤荻さんはふいと視線を逸らし、肩をすくめて笑った。
「大げさに言うな。ただ……そういう方がいいと判断しただけだ」
その横顔には、いつもの無骨さの奥に確かな温かさが宿っていた。
夕暮れ時、信吾は部屋に戻った。窓から差し込む橙色の光が、部屋全体を寂しげに染めている。時計の針の音が、やけに大きく響いた。
「……明日なんだな」
少しかすれた声が漏れる。
キッチンにいた美沙が振り返り、明るく答えた。
「そうだね、明日だよ」
けれど、その笑みの端は震えていた。ゴンちゃんは二人の空気を感じ取り、とことこと足元に寄ってきて、温かな体温を押しつけてくる。
「きゅ……」
その鳴き声は、まるで「ここにいるよ」と伝えるようだった。
夕食には、焼き魚や味噌汁に加え、特別にゴンちゃんのための分厚いステーキも並んだ。テーブルの下に座ったゴンちゃんは、自分用に用意された皿から嬉しそうに肉を頬張る。
「きゅっ」
人参までぱくりと食べる姿に、美沙がくすりと笑った。
「ここに来た頃は人参なんて嫌いだったのにね」
「本当にそうだな」
二人は互いに目を合わせて、そっと笑ってごまかす。
信吾はふと苦笑しながら付け加えた。
「……まあ、ゴンちゃんが来てから、食費は相当増えたけどな」
「ふふ、確かにね」
美沙は箸を置き、小さく肩を震わせた。
食後にはデザートとして、手作りのウォルシュケーキが出された。
「ネットでレシピ見て作ったけど、意外と上手く出来たね」
「やっぱりウォルシュケーキ好きなのかなぁ」
美沙が微笑む。
「うーん、好きだと思うけど……ゴンちゃんは何でも美味しそうに食べるからなぁ」
信吾の言葉に、美沙はうなずいた。ゴンちゃんは幸せそうにウォルシュケーキを食べ、二人を見上げて小さくしっぽを振った。
その夜。翌日のため、三人はリビングに布団を並べた。旅立ちを前に、同じ空気を共有して眠りたい──信吾と美沙が自然とそう決めたのだった。
やわらかな闇の中、時計の針の音だけが響く。
そのとき、不意に窓を叩く音がした。振り返ると、カーテンの隙間から虎之介の顔が覗いている。
信吾には、その姿が「よう、まだ起きてるか?」と語りかけているように見えた。
「おぉ虎之介。ありがとう……来てくれたのか」
窓を開けると、虎之介は軽やかに部屋へ入ってきた。まるで「来てやったぜ」と言わんばかりに尻尾を揺らし、すぐにゴンちゃんへ駆け寄ってじゃれ合う。
「お前も一緒に寝るか?」
信吾が笑うと、虎之介は迷うことなく、ゴンちゃんの布団に潜り込み、隣に寄り添った。川の字の真ん中に割って入るようにして丸くなり、まるで最初からそこが自分の場所だと言わんばかりだった。
信吾は美沙にしみじみとつぶやいた。
「本当に明日なんだな」
「……そうだね」
美沙の声も震えていた。
ゴンちゃんを挟むようにして虎之介が身を寄せ、ゴンちゃんは気持ちよさそうに目を細める。信吾は、その様子を見ながら小さく呟いた。
「ゴンちゃんは、幸せもんだな。いろいろな人たちに出会えて」
その言葉に、美沙の目が潤み、信吾は黙ってうなずいた。
ゴンちゃんの思い出話をしようと信吾が口を開きかけると、美沙が首を振った。
「……ダメ。それを話したら、きっと泣いちゃうから。思い出話は、明日まで取っておこう」
「……ごめん。分かった」
信吾は素直に口をつぐんだ。
「……明日はちゃんと笑って送り出さないとね」
美沙が小声で言う。
「……うん」
そう答えながら、信吾の目尻に涙が滲んでいた。虎之介は何も言わず、ただ天井をじっと見つめている。
その間にゴンちゃんが、ごそごそと動き、川の字になった布団の真ん中から二人に身を寄せた。その間に挟まれた小さな温もりは、まるで「一緒にいてくれてありがとう」と伝えているかのようだった。
「おやすみ、ゴンちゃん」
美沙が囁き、信吾も続ける。
「おやすみ」
ゴンちゃんは静かにしっぽを振り、満ち足りたように目を閉じた。
誰もが理解していた。明日は避けられない。けれど、この夜だけは──永遠に続けばいいと願いながら。
外では、秋の虫が静かに鳴いていた。




