第37話『二週間』
第37話『二週間』
朝。眠い目をこすりながら、信吾は仕事に向かった。
昨夜の出来事が頭の片隅に残り、それに加えて寝不足で体が重い。
「おはよう、信吾。今日はずいぶん眠そうだな?」
同僚の熱男が茶化すように声をかける。
「うん、まあ……」
信吾は軽く笑いながら返す。
「今度またゴンちゃんと一緒にBBQやろうぜ」
熱男はにやりと笑いながら続けた。
信吾はきょとんとする。
「俺さ、ついにバーベキューインストラクターの資格取ったんだよ! もう公式に“焼き奉行”だからな。牛でも豚でも魚でも、俺の手にかかれば最高に仕上げてやる。俺の中のBBQ魂が、今この瞬間もゴンちゃんを呼んでるんだ!」
大げさな身振り手振りまでつけて語る熱男に、信吾は半分呆れたように肩をすくめた。
(……本当に暑苦しいなぁ。今日はいつもより輪をかけて来るな)
「はいはい、また別の日に詳しく聞くから」
信吾は苦笑しつつ、心の中で昨夜のゴンちゃんとの時間を思い返す。
「どうした? お前が仕事に集中できてないなんて珍しいな」
熱男がちょっと心配そうに訊く。
「いや、BBQの話してないでお前はちゃんと仕事に集中しろよ」
信吾は軽く突っ込み、少し気まずい空気を和ませる。
「まぁ……ちょっと昨日いろいろあってさ」
信吾は小さく呟いた。
「……そうか。お前も大変だな。無理すんなよ」
熱男はそれ以上追及せず、労わるように肩を叩いてくれた。
夕方。
仕事を終え、帰宅した信吾は思いを巡らせる。
(赤荻さんがゴンちゃんのこと、後日話すって言ってたけど……いつ話してくれるんだろう。まだまだわからないことだらけだし、ぼくもゴンちゃんのことを少しでも理解したい。やっぱり今から赤荻さんのところに行ってみよう)
まだ少し怖い気持ちも残っているが、信吾は作業小屋に向かう決意を固めた。
作業小屋に到着すると、扉は半開きで、中から灯りが漏れている。
信吾は静かに覗くと、赤荻さんが作業台に向かって道具を片付けていた。
「……こんばんは」
信吾は意を決して声をかける。
「おお、山之内か」
赤荻さんは驚いたように顔を上げ、しかしすぐに柔らかな笑みを見せた。
「今日はどうした?」
「昨日のこと……赤荻さんから、いろいろ聞かせてもらいたくて」
信吾は正直に口にした。
赤荻さんは少し考え込むように目を細めた。
「そうか……。本当にお前達には悪かったな」
「気にしないで下さい。ぼくらにはいろいろ言えないこともあったと思いますし。ただ……監視されてたのは、ちょっと嫌でしたけど。まぁ……カートのこともありますし」
「あぁ、そうだな」
赤荻さんはうなずく。
「俺達のことをすぐに信用しろとは言わん。……カートを持ってこい。発信機も盗聴器も全部取る。それでも嫌なら処分してくれて構わん」
「別に処分はしなくていいですよ。ゴンちゃんだって気に入ってるカートですし。でも、いいんですか? ゴンちゃんの居場所、分からなくなりますよ?」
「あぁ、構わん」
赤荻さんは真っ直ぐに答えた。
「山之内を信用してるからな」
その言葉に、信吾の胸に温かいものが広がった。
誰かに“認められた”という実感が、じんわりと込み上げてくる。
——まだ全部を納得できたわけじゃない。けれど、自分がゴンちゃんと共にあることを、赤荻さんは確かに受け入れてくれている。
それだけで、心が少し軽くなった。
その時だった。
「おじいちゃん」
軽やかな声とともに扉が開き、久方さんが入ってきた。
「あっ、信吾さんもいたんですね」
少し驚いたように言い、気まずそうに視線を外す。
「信吾さん、昨日はごめんなさい」
そう言って立ち去ろうとする久方さんを、信吾は思わず引き留めた。
「もう、ぼくは気にしてないですよ。……正直、納得できないこともまだいくつもあります。でも、あの状況じゃなかったら“守護者”って言われても信じなかったと思うし、ゴンちゃんのためにしてたことだってわかりますから」
久方さんは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。本当に……真竜を育ててくれてる人が信吾さん達で良かった」
赤荻さんも静かにうなずく。
「久方さんは、赤荻さんに用があるんですよね? だったらぼくはここで失礼します。また、ゴンちゃんのこと教えて下さい」
「悪いな」
赤荻さんが短く返す。
「またね、信吾さん」
久方さんも一言添えた。
——信吾は二人に背を向け、作業小屋を後にする。
胸の奥に残るのは、安堵と、まだ拭えない不安。
それでも“自分はゴンちゃんのそばにいていい”――その事実が、少しだけ背中を押してくれた。
帰り際、信吾はふと気づいた。
(あっ、しまった。赤荻さんの作業小屋に資料を入れた袋を忘れちゃった……)
引き返して扉の前に立つと、中から赤荻さんと久方さんの声が聞こえてきた。
(袋は中にあるけど……今入るのは気まずいな。……少し待って、話が切れるタイミングで入ろう)
そう思い、信吾は足を止めて耳を澄ませた。
「おじいちゃん、ごめんね。私の不用意な言動で、信吾さん達にいろいろバレちゃった」
赤荻さんは首を振る。
「別に構わん。いずれは伝えなければならんことだった。それが今だっただけだ」
「うん……そうならいいんだけど」
久方さんは小さくうなずき、少し遠くを見つめた。
赤荻さんが続ける。
「それに――旅立ちの義の日も、もう近い。山之内にも、そろそろ説明せんとな」
(旅立ちの……義?)
信吾の胸に不穏な響きが残る。
赤荻さんの声がさらに低く落ち着いた。
「……真竜はいつか必ず空に帰る。ここで育っても、向こうで過ごしても、それは変わらない。あの子も例外じゃない。それにこの前、桜小路からも“もう飛ぶには十分”と連絡もあった。予定通り――あと二週間で空に帰す」
「二週間……?」
信吾は思わず声を上げ、物陰から前に出ていた。
赤荻さんと久方さんは驚き、顔を見合わせる。
「山之内? いつからそこに……」
赤荻さんの声が低く響いた。
——突きつけられた「急な別れの期限」。
信吾の胸に広がったのは、期待ではない。
強烈な動揺と、胸を押し潰すような不安だった。
残された時間は、あまりに短い。




