第30話『揺れる日常』
第30話『揺れる日常』
今日は信吾と美沙とゴンちゃんの三人で散歩。
いつもは信吾とゴンちゃんで行くのだけど、あの茂夫の病院の日以来、美沙も一緒に散歩に来るようになった。美沙なりに、ゴンちゃんとの時間を大事にしようとしているみたいだ。
いつものようにゴンちゃん用のカートに乗って、いつもの公園へ向かう。
ただそれだけの光景なのに、美沙が隣にいるだけで、信吾にとってはいつもの散歩が少しだけ違うものに見える。
「アンタたち、いつもこんな……ただ歩いて帰ってくるだけのことしてるの?」
美沙が不思議そうに言った。
「そうだよ。いつもこんな感じ。公園に行ってベンチに座って、ゴンちゃんに話しかけて、疲れたら帰ってくるって感じかな」
信吾は当たり前のことのように答えた。
「えっ、なんかそれってつまんなくない? ここでしか出来ないイベントとかないの?」
美沙が首をかしげる。
信吾は肩をすくめて答える。
「いやいや、これでいいんだよ。ゴンちゃんのことが他の人にバレたら大変なことになるでしょ。ゴンちゃんにとっては、何も起きないことが一番のイベントなんだよ」
ちょっと誇らしげに、信吾はそう言った。
「言ってることは分かるんだけどさぁ」
美沙はそう言いながら、カートの中のゴンちゃんを覗き込む。
「ゴンちゃんだって、そんな“ルーティンドラゴン”じゃ飽きるんじゃない?」
ちょっとおどけるように、美沙は肩をすくめた。
「なんだよ。“ルーティンドラゴン”って」
思わず信吾はツッコミを入れる。
でも、信吾は思った。美沙さんの言うことも一理ある。とはいえ、ここで正体がバレてしまったら元も子もない。……また赤荻さんに相談して、何か工夫をしてもらおうかな。
そんなとき、美沙がふと思いついたように言った。
「ちょうど今、人がいないし……あの滑り台、信吾と滑ってみれば?」
「いやいや、バレたらどうするんだよ……」
内心焦る信吾の視線の先で、カート越しにゴンちゃんは期待に満ちた目でこちらを見ている。
楽しみにしているのが伝わってきて、信吾はため息をついた。
「……一回だけだぞ」
そう言って、信吾はゴンちゃんを抱えて滑り台を滑る。
小さな身体が風を切るたびに、ゴンちゃんは尻尾を大きく振り、楽しそうに鳴いた。
「ほんとに人間の子どもみたいなリアクションするのね」
滑り台の下で見ていた美沙が、感心したように笑った。
そうして過ごすうちに、あっという間に時間は過ぎていった。
公園を出るころには、空は少しずつオレンジ色に染まっていた。
マンションのエントランスに戻ると、信吾は苦笑しながら言った。
「結局、遅くなっちゃったね。あの後、ゴンちゃんと十回は滑り台滑ったよね」
「そうだよね」
美沙も肩をすくめながら笑う。
「滑り台を離れようとするとさ、ゴンちゃんが『もう一回!』って顔で見てくるんだよ。おかげで、バレないかヒヤヒヤしたよ」
信吾は参ったなぁと笑いながら言った。
「いや、アンタだってめっちゃ楽しそうな顔してたじゃん」
美沙の言葉に、信吾は照れ笑いを浮かべた。
……何気ないひとときだったけど、すごく大事な時間だった。
ゴンちゃんの笑顔を、美沙と一緒に見られたことが嬉しかった。
その空気を破るように、エントランスの自動ドアが開いた。
「あっ、信吾さん、美沙さん、ゴンちゃん。お疲れ様です」
久方さんだった。手には重そうな鞄を提げている。
「今帰り?」
美沙が声をかける。
「そうなんです。大学のゼミの課題があって、ずっと図書館で調べものしてました」
久方さんは、少し疲れたように笑いながら答えた。
「大変だね。でも頑張ってね」
美沙が労うように声をかける。
そんな何気ない会話の後、不意に久方さんの表情がわずかに曇った。
「あと……ゴンちゃんなんですけど、あんまり外に出さない方がいいと思いますよ。滑り台の上なんて、他の人に見つかりやすいですし」
「……えっ?」
信吾と美沙は同時に驚き、顔を見合わせる。
「なんで知ってるんですか?」
信吾が問い返すと、久方さんはあっさりと答えた。
「図書館に行く途中で、たまたま見かけちゃって」
淡々とした口調で、久方さんはそう答えた。
「あ、ごめんね。ゴンちゃんが退屈そうだったから、つい……」
美沙が頭を下げる。
「今後は気をつけるね」
「はい。私も、ゴンちゃんが騒ぎになって欲しくないですし」
そう言って、久方さんは小さく会釈すると、階段の方へ足を速めていった。
その後ろ姿を見送りながら、信吾は思わず口を開いた。
「ねぇ、美沙さん。今の久方さん、おかしくなかった?」
「特におかしなところはなかったけど……」
そう言いながら、美沙は少し考え込んだ。
「でもさ、図書館に向かう途中って言ってたけど、あの公園と図書館の距離だと相当遠回りになっちゃうんじゃない?」
信吾は首をひねりながら疑問を口にする。
「確かに遠いけど、なんか他に予定があったんじゃない?」
美沙は不思議そうに信吾を見て言った。
「……あれ、なんか久方さんとあったの?」
彼女が首をかしげたので、信吾は今までの出来事をかいつまんで話した。
「へぇ…そうなんだ。まあ……確かに不思議なところはあるけど、そんな気にしなくていいんじゃない?」
「ま、でも教授に見せられない課題ってのは、確かにちょっと気になるけどね」
美沙は笑い飛ばすように言ったが、ほんの少しだけ眉をひそめていた。
「うん、それならいいんだけどさ」
信吾はそう答えながらも、胸の奥に残る違和感を拭いきれなかった。
この前のゴンちゃんと虎之介とスイートポテトを食べたときの曖昧な返事。
それに引き出しの中のノートやUSB。
そして、さっきの件――。
久方さんは、ただの隣人じゃない。
そんな、嫌な予感がしてならなかった。




