第29話『最近虎之介来ないね』
第29話『最近虎之介来ないね』
最近、ゴンちゃんがやけに静かだ。
いや、元気がないわけじゃない。ご飯もちゃんと食べるし、昼寝もよくする。おもちゃにもそれなりに反応するし、美沙が帰ってくればしっぽをぶんぶん振って迎えに行く。
でも――何かが足りないような、そんな空気が漂っていた。
信吾はその理由をまだ言葉にできず、ただぼんやりと観察していた。
午前中。
仕事の合間にコーヒーを淹れ、リビングに戻ると、ゴンちゃんはベランダにいた。
網戸越しに外をじっと見つめ、耳をぴくぴく動かしている。
「……何見てんだ?」
声をかけても、返事はない。
ただ、視線の先には何もなかった。道も静かで、人影すらない。
そういう日が、もう何日も続いていた。
*
その夜。
美沙が帰宅すると、ゴンちゃんはひときわ熱烈に迎えたが、それもほんの数秒。すぐにまた玄関の方へと向かい、じっと扉を見つめて座り込んだ。
「……誰か待ってるみたいだな」
信吾がつぶやくと、美沙が靴を脱ぎながら眉をひそめた。
「たしかに。なんかそわそわしてない?」
「そうなんだよ。ここ数日ずっとこんな感じでさ」
二人でゴンちゃんを見ていると、扉の前で座ったまま、しっぽが床をぱたぱたと叩く音がする。
「……あ」
美沙がぽんと手を打った。
「虎之介、最近来てないね」
その名前に反応したのか、ゴンちゃんが小さく「きゅ」と鳴いた。
「やっぱり、それか」
信吾は納得したように頷く。
思えば最後に見かけたのは、もう一週間前だった。
そのときは、ベランダからふらりと現れ、ゴンちゃんとしばらく向かい合ってから、何事もなかったかのように去っていった。
虎之介――近所を歩く野良のキジトラ猫で、ゴンちゃんにとっては初めての“友達”だ。
出会った当初は、お互い警戒しながらも、気づけば隣に座って日向ぼっこをしていたり、リビングの隅で一緒に遊んでいたりした。
その距離感は絶妙で、べったりとくっつくわけでもなく、かといって完全に他人行儀でもない。
信吾は、そんな二人の関係を見ているのが好きだった。
*
「何してるんだろ、虎之介」
「さあね……どっか別の縄張りに行ってるとか?」
「この前、久方さんの部屋に勝手に入って行ってたりしてたから他にも居場所があるのかもしれないし。」
「でも、あの子って気まぐれに見えて、ちゃんと来るときは来るよね」
美沙がそう言うと、ゴンちゃんはもう一度「きゅ」と鳴き、玄関の方へ首を伸ばした。
待っても来ない――その事実が、少しずつゴンちゃんの表情を曇らせている。
*
翌日の午後。
信吾が洗濯物を干そうとベランダに出ると、ゴンちゃんが手すりの上に前足をかけ、身を乗り出していた。
「危ないって。落ちるぞ」
抱き上げて中に戻すと、ゴンちゃんは抗議するようにしっぽをぶんっと振った。
その顔は、「まだ来てない」と訴えているようだった。
窓辺で耳をそばだてるゴンちゃん。
窓の外の景色をじっと見つめるゴンちゃん。
玄関マットの上で動かず座るゴンちゃん。
――全部、同じ目的の行動なんだと、信吾はようやく確信した。
*
夜、美沙とその話になる。
「なんかさ……ゴンちゃん、虎之介のこと、本気で心配してるっぽい」
「心配……っていうか、会いたいんだろうね」
二人の間に、少しの沈黙。
*
それからも、虎之介は現れなかった。
ゴンちゃんは変わらず待ち続けた。
でも、扉の向こうから聞こえてくるのは、郵便受けに入る手紙の音や、近所の人の足音ばかり。
信吾も美沙も、わざと「きっとすぐ来るよ」と口に出した。
でも、内心は少しだけ不安になっていた。
*
それでも――
ある夜、信吾は思った。
もし今、虎之介がここにいないのだとしたら、それはきっと理由がある。
あの猫は気まぐれでも、ただの偶然で姿を消すような奴じゃない。
何かをしているのだ。
どこかで、何かを。
だから、待っている。
今日も、静かに。
――やがてまた、会える日のために。




