第26話『ちょっと立ち寄っただけの部屋で』
第26話『ちょっと立ち寄っただけの部屋で』
週末の午後、信吾は隣の部屋の久方さんに新しいゴミの当番表を渡そうと、郵便受けから書類を手にしてエントランスへ向かっていた。
「ゴンちゃん、ちょっと待っててな。すぐ戻るから」
信吾は部屋にいるゴンちゃんに声をかけ、尻尾をゆらゆら揺らす様子を確認してから、廊下へ向かう。
「……さて、ゴミの当番表、忘れず渡さないとな」
ドアをノックすると、久方さんが少し驚いた顔でドアを開けた。
「わざわざありがとうございます、信吾さん」
「いえ、こちらこそ急にすみません。ゴミ当番表が変更になったので、渡しに来ました」
手渡しながら、信吾は何気なく口を開く。
「今日は風が強いですね。洗濯物、飛ばされてませんか?」
「ええ、さっきベランダに出たら少し冷たい風で……秋が近いのかもしれませんね」
二人はほんの短い世間話を交わした。
その会話の最中、虎之介が勢いよく廊下を駆け抜け、久方さんの部屋へ飛び込んでしまった。
「おい、虎之介!あっ、それぼくの財布が入った袋……!」
慌てて声を上げる信吾。久方さんも思わず後を追い、信吾は仕方なく荷物を抱えてついていく。
部屋に入ると、信吾は少し戸惑いながら頭を下げた。
「す、すみません、虎之介が……ぼくの財布を持っていっちゃったので、ちょっとお邪魔しました。すぐ出ます」
「あっ、別にいいですよ。ちょっと散らかってますけど」
久方さんは笑顔を見せつつ、虎之介を追いながら床に散らばった雑誌を片付けている。
「ふふ、ここには初めて来たばかりなのに、もう自分の家みたいに走り回ってますね」
久方さんは苦笑しながら、散らかった雑誌を重ね直した。
「いや、人の部屋に勝手に入るのは良くないだろ、虎之介!」
信吾は軽く注意しながら、机の下から財布を取り戻す。
そして、少し間をおいて勇気を出した。
「そういえば、この前言ってたゼミのテーマって、ここに資料とか置いてるんですか?」
久方さんは一瞬だけ視線をそらしたが、すぐに柔らかく微笑む。
「ええ……ちょっとだけ、ここに保管してます。でも、まだ教授にも見せられないんです」
小さな引き出しを開け、古びたノートや鍵のかかったUSBをちらりと見せると、そっと閉めた。
信吾は思わず身を乗り出した。
「……なんか、すごく気になるな」
「そうなんですね。でも、まだ詳しくは言えません。……そのうち、話せるときが来るかもしれないですね」
信吾は疑問を抱きながらも、その日が来ることを楽しみにしている自分に気づく。
「……あ、そういえば虎之介、ちゃんと久方さんのこと覚えてるんだな」
信吾が気づいたように声をかけると、虎之介は机の下から顔を出し、久方さんの膝にすり寄った。
「そうですね。一度、信吾さんたちの部屋でゴンちゃんと一緒にスイートポテトを食べましたよね」
久方さんは懐かしそうに微笑んだ。
そのとき、閉じたばかりの引き出しの上に、彼女の手が一瞬だけ止まった。
ほんのわずかだが、引き出しの中身を確かめるような、何かを隠すような仕草に見えた。
信吾は言葉にはしなかったが、その動作が妙に心に引っかかった。
「……じゃあ、もうそろそろ帰ります。ゴンちゃんも待ってるんで」
信吾は軽く頭を下げて部屋を出る。
「虎之介、勝手に入っちゃダメだぞ」
そう軽く声をかけると、虎之介は何事もなかったかのように尻尾を振り、すっと廊下へ出ていった。
自分の部屋に戻ると、ゴンちゃんが玄関前で小さく尾を振りながら、「遅かったじゃないか、何やってたんだ」とでも言いたげに見上げてくる。
「ごめんごめん、ちょっといろいろあって。そんなに怒るなって」
信吾は小さく笑った。
心の中で、改めて思う。
「……久方さんのあの行動、気になるなぁ。何を隠そうとしてるんだろう」
――信吾はそのちょっとした違和感を胸に抱えながら、次に訪れる日常の波へと戻っていった。




