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第20話『空の覇者』

第20話『空の覇者』


 夜はとっくに更け、信吾と美沙の家には、静かな空気が満ちていた。

 窓の外では初夏の風がそよぎ、街路樹の葉がさわさわと揺れている。夜の湿度は高くなく、ほんの少しだけ涼しさを感じさせる涼風だ。時計の針はすでに深夜一時を回っていたが、二人ともまだ眠る様子はない。


 居間のソファでは、美沙が薄手のブランケットにくるまり、文庫本を片手にページをめくっていた。指先だけは毛布の外に出ているが、時折その指が少し冷たく感じたのか、ふわりと毛布の中に引っ込む。夏の夜の微かな涼しさに、手先だけが敏感に反応しているようだ。

 信吾はキッチンで、まな板の上のブロッコリーと格闘中だった。明日の弁当の下ごしらえをしておくと朝が少し楽になる。そうわかってはいるが、夜中に野菜を切る音はやたらと響くものだ。


「こんな時間に台所立つと、なんか夜食作ってる気分だな」

 信吾が小声でぼやくと、美沙が本から顔を上げて笑う。

「夜食なら私も食べるけど?」

「いやいや、もうブロッコリーの茹で上げ寸前だから」


 そんな何気ない会話を交わしていたとき、隣の部屋から小さな鳴き声がした。

「……きゅぅ……っ」

 まるで毛布の奥から漏れた湯気みたいな、弱々しい音。

 美沙は眉をひそめて、信吾に視線を向ける。

「今、聞こえたよね?」

「ああ……ゴンちゃんの声っぽいな」


 ふたりはそろそろと足音を忍ばせ、寝室の戸を開けた。

 この夜はいつもと違って、ゴンちゃんは信吾のベッドで寝ている。眠そうだったから、今日は特別に一緒に寝かせたのだ。

 ベッドの端で小さく丸くなっているゴンちゃんがいた。鱗の背中はふわりと薄手の毛布にくるまれ、かすかに上下している。ときおり翼がぴくぴくと動くのが見えた。

 まるで空を飛ぶ夢を見ているみたいだ。


「……夢、見てるのかな」

 美沙が囁く。

「ドラゴンって夢を見るのか?」

 信吾が小さく呟く。答えはわからないが、少なくとも目の前のゴンちゃんは寝言のような声をもらし、尻尾の先がくいっと動いている。


「どんな夢見てるんだろうね」

 その言葉をきっかけに、次の瞬間——

 信吾の頭に、今、ゴンちゃん自身が見ているであろう“夢の風景”が映し出された。


 *


 ——そこは、どこまでも高い空だった。

 雲は羊毛のようにもくもくと広がり、その上を一頭のドラゴンが悠々と飛んでいる。青い鱗は陽を受けてきらめき、翼は大空を切り裂くように広がっていた。


 そのドラゴンは——ゴンちゃん。

 ただし夢の中のゴンちゃんは、信吾の知る“ころんとした小柄な生き物”ではない。背中は堂々と盛り上がり、翼はビル一棟ほどもありそうだ。目には知性と誇りの光が宿り、風を切る音さえ威厳を帯びている。


 ゴンちゃんの隣には、ファンタジードラマ『暁の牙』に登場するゴンちゃんの推し。緑のドラゴン・セラが飛んでいた。

 セラはちらりと横目をやると、優雅に翼を翻す。すると、どこからともなく十数頭のドラゴンが集まり、ゴンちゃんの周囲を取り囲んだ。それぞれ赤や緑、黒といった鮮やかな鱗を持ち、やたらと肩幅(翼幅?)が広い。空の王国の騎士団といった風情だ。


 しかし、よく見ると一頭だけやけに短足で、飛ぶたびに必死にバランスをとっているのもいる。もう一頭は羽ばたきのリズムが妙に遅く、時折ふらりと横に逸れる。壮観なはずの編隊飛行が、ところどころで不揃いになるたび、ゴンちゃんは思わず小さく咳払いをしていた。


 風が頬を撫で、雲が足元を流れていく。地上は豆粒ほどに遠く、そこからは届かない“空の匂い”がここにはあった。

 塩のような鋭さと、陽だまりのような柔らかさが混ざった不思議な香りだ。


 セラが振り返る。言葉を発してはいないのに、その瞳が語っている。

 『きみには空を導く力がある』

 誇らしい響きが胸に響く。


 ゴンちゃんは大きく翼を広げ、深く息を吸った。——その瞬間、背後から吹き上げる風が体を押し上げ、隊列の先頭に立つ。

 ドラゴンたちが一斉に雄叫びを上げた……のだが、一頭だけ声が裏返って「きゃー」と聞こえた。夢の中のゴンちゃんは真剣そのものだが、信吾の空想ではそこがやけに耳に残った。


 天が裂け、世界が開ける。

 前方には巨大な虹が架かっていた。いや、よく見ると虹の上には誰かが洗濯物を干している。——あれは夢だからこそ許される光景だろう。

 ゴンちゃんは気にすることなく虹をくぐり抜け、ますます高度を上げていった。


 やがて雲の切れ間から金色の宮殿が現れた。そこには玉座があり、まるでゴンちゃんを待っていたかのように空いている。セラが微笑む。

 『さあ、座りなさい、空の覇者』

 ——そしてゴンちゃんは、玉座の前で一瞬ためらった。座っていいのか、本当に? そんな逡巡のあと、意を決して腰を下ろす——が、玉座はふかふかすぎて、お尻が沈み込み、足は床に届かずぶらぶら。

 (ドラゴンが玉座に座るって、サイズ的にちょっと無理あるよね……まぁ夢だからいいか)

 それでも、ドラゴンたちは一斉に頭を垂れた。

 『我らの王よ』

 その響きは空を震わせ、ゴンちゃんの胸を熱くした。


 *


「……きゅぅ?」

 ふいに小さな鳴き声を漏らして、ゴンちゃんが目を覚ました。まだ夢の余韻が残っているのか、瞳はとろんとしている。

 翼を大きく広げ、ぐいっと伸びをしたかと思えば、胸を張って仁王立ちする。


「なんか……偉そうだな」

 信吾が苦笑する。

「まるで“空の覇者”だね」

 美沙がくすりと笑った。


 ゴンちゃんは小さく火花を吹き、くるりとその場で一回転した。夢の中で味わった栄光を、まだ心のどこかでなぞっているようだった。

 やがてゴンちゃんは毛布の上に再び丸まり、しっぽを鼻先に寄せて目を閉じた。


 窓の外の空には、夜明け前の淡い光が差し始めていた。

 信吾はその横顔を見ながら、そっと呟く。

「……あの空に飛び出す夢を見てるのかな」


 きっとそうだろう。

 なにしろ今も、その口元はほんの少しだけ、得意げに笑っているのだから——。




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