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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第五章 築き上げる覚悟
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幸せのカタチ(1)

 とある昼下がり。ラウルとダンが屋敷の一室の前で言い争っている。


「ラウル様、やはりドクター新堂を呼んだ方が良かったのでは!」

「私も考えたが、何事も起こらないうちから呼んでもあの男は来ないだろう」

「ですがっ…!」

 室内からはユイの唸り声が引っ切り無しに聞こえて来る。

 今まさに分娩中なのである。


「せめて病院でされた方が…ああ!どうしたものか!」

「ダン、少しは落ち着け。全てはユイの要望なのだ」


 病院嫌いのユイは自宅出産を強く希望した。そして新堂を呼ぶ事も拒否した。


 ダンは意味もなく廊下を行ったり来たりしながら拳を握り締める。

――ラウル様はユイ様に本当に甘い!そこは言いくるめていただかねば?何かあったらどうするのです!――

 ユイは特殊な血液型だ。ストックは病院に保管してあるが、そこに行くにも2,30分はかかるのだ。


「うう…っ、ああ!痛い、苦しい、うう~!…ラウル、ラウルぅ」


 閉ざされていたドアが開き、ナースの一人がラウルを呼ぶ。

「旦那様、中に入っていただけますか」

「いいのか?」

「奥様の側にいてあげてください」

「分かった。お前はここで待て」

 右往左往するダンを置いてラウルだけが中に入った。


 カーテンがピタリと閉ざされ、照明が煌々と照る中、ユイがベッドで苦しんでいる。

 汗の粒が額にいくつも浮いて、髪が張り付いてしまっている。


「ユイ…私に何かできないか?」

 ラウルはベッド横に膝を付くと、伸ばされたユイの手を掴んで両手で握り込む。その手は酷く汗ばんでいた。

「ラウル、はぁ…、ここに、いてほし…っ」

「もちろんだ。頑張れ、ユイ、もう少しだ」


「ううっ!痛い、痛ーいっ!」

 ラウルはユイの額の汗をタオルで拭い、張り付いた髪をそっと耳に掛けてやる。

「ああ!こんなに、苦しいなんてっ…、拳銃で撃たれた時の方が、まだマシ!」


――それほどに苦しいのか。済まないユイ、おまえだけにそんな思いを…どうにかして出産の手伝いを――

 ラウルがユイの膨れ上がった腹に目を向ける。そこにいるであろう、まだ見ぬ我が子に。そして強く念じる。

――あまり母を苦しめるな。早く出て来い――


「ユイ様、無闇にいきんでもダメです、ほら、タイミング良く力を込めてください!」

「無理っ、もうイヤ…もうできないっ」

 ユイの目に涙が溢れて、汗と共に流れ落ちる。

「痛い、痛いよ、ラウル…、ゴメン、私には無理みたい」

 珍しく弱気になっているユイに、ラウルは優しく声を掛ける。

「そんな事はない。大丈夫だ、私が付いている。一緒に頑張ろう、どうか…」


「あああーっ!いやぁー!」

 全てが引き裂かれそうな痛みに襲われ、ユイの意識が一瞬飛ぶ。


「ユイ、おまえならやり遂げられる。私はそう信じている。…愛している」

 ラウルのキスを受けて、ユイの意識は戻って来た。

「んっ、ラウル…」



 その後まもなく、二人の強い願いを聞き入れるように、愛の結晶が姿を現した。

「ユイ。本当にありがとう。私はこの日を生涯忘れない…愛しているよ」


 フォルディシュティ家に、ついに待望の男児が誕生した。この新たな命の誕生により、家の雰囲気はさらに変化して行く事だろう。

 今はもう過去の重苦しい雰囲気は一切なく、明るい未来を予感させる軽快で温かな空気に満ちている。


 今この時、ラウルの願いは叶ったのだ。


「無事に生まれて来てくれて良かったわ」

「安産で何よりだ」

 母子共に異常なしで、医療スタッフ達はあっという間に撤収している。

「これで?!死ぬかと思ったんだけど…!」

「おまえだけに痛い思いをさせて済まなかった」


「いいのよ、それは。ラウル、側にいてくれてありがとう。私一人だったらやり遂げられてなかったわ」

「気持ち、念力で引っ張ってはみたが…」

「そうだったの?!」

 役に立てたかは不明だ、とラウルが苦笑した。


「あ~あ、これで私のエスパー生活も終了かぁ」残念そうにユイが呟く。

「私はホッとしているよ」少し笑いながらラウルが返した。

「言ったわね?ラウルったら!」


 明るい陽射しが降り注ぐ室内は、若干振動している。それは新たに誕生したエスパーの力によるものである。

 ユイの胸に抱かれて元気良く泣き喚く男児に、自然と二人の視線が落ち着く。

 薄っすらと生えているのは淡い金色の柔らかな髪だ。瞳は透き通った見事なエメラルドグリーンだった。


「思った通りラウルにそっくり…。将来が楽しみね。ねえ、名前はどうする?」

 こんな問いに、泣き声に負けないよう、ラウルはいつもよりも声を張って答えた。

「もう考えてある。ヴァシルはどうかな」

「ヴァシル・フォルディスか。強そうな名前ね!」

「何ものをも恐れない、勇敢な者という意味だ」

「ステキ!無敵夫婦の私達にピッタリじゃない。これからどうぞよろしくね、ヴァシル?」ユイはそう呼びかけて微笑んだ。


 するとピタリと泣き止んだヴァシルは、小さな手をユイの方に目一杯伸ばす。

「あー、あー!」

「ラウル、この子、私の言葉分かってるみたい…」

「そのようだな。よろしく、ヴァシル。私がお前の父だ」

「あー!」


 ユイからヴァシルを受け取り、ラウルが持ち上げる。

 それは美しいシーンで、ユイは思わず見惚れた。

「神様が天使を抱き上げた!」

「私が神ならば、ユイ、おまえは女神だ」チラリとユイを見下ろしてラウルが言う。

 神を否定しないところがラウルらしい。

 一般庶民のユイは大いに照れた。


 そんなところへ賑やかな面々がやって来た。屋敷内はもう、メイドからコックに至るまで大騒ぎである。


 現れた部下から、まるで会話を聞いていたようなコメントが降ってきた。

「ユイ様は我らの女神様です!ご出産おめでとうございます!」

「おめでとうございます!こんな日に立ち会えて感無量ですっ」

 ダンを筆頭に部下達が続々と参上し、祝いの言葉を投げかける。


「まだ入っていいと言っていないぞ、お前達」

「待ち切れませんよ、ボス!元気なお子様の声が庭まで響き渡っているんですから」

「おい、まずは謝罪だろう!態度がなってないぞ!」

 砕けた物言いをする部下に怒りを露わにするダンだが、今は誰も気に留めない。それどころではないのだ。


 抱き上げられたヴァシルが、ラウルの頬に手を伸ばして触れた。

「あー」


「…分かった分かった。別に怒った訳ではない」

「ちょっとラウル、この子の言った事分かったの?」

「何となく」

「すっご~い!やっぱエスパーは違うわね。でも待って、この子が天才なのかしら?」

「さすがです、ユイ様!良くぞ優秀な跡継ぎを…っ」ダンが泣き出す。

 そして部屋ではさらなる歓声が上がった。


――ああ…ここで産んで良かったわ――

 誰もが満面の笑みを浮かべるのを見て、ユイはさらに幸せを実感する。


「皆私の大事な仲間。いいえ、家族よ。ラウルのお陰で出会えた。…愛してるわ、ラウル、ヴァシル、そして皆!」ユイは小さな声で囁いた。


・・・


 出産からひと月が経ち、テラスでヴァシルをあやしながら日光浴中のユイ。


 小さな指が、少し先にいる人物に向けられた。「あー、あー!」

「なーに?ヴァシル。ああ、あれ?ダンじゃない。…ん?もう一人いるみたいね」

 ダンの大きな体に隠れて見えなかったが、その対面に誰かいるようだ。


「うう、うあーっ、あー!」

「残念だけど、私には何言ってるか分からないのよ、ヴァシル」

「ブーブー」

「ブーイングされた…っ」

 ユイが嘆きながら顔を上げると、対面の相手が判明した。それはユイ付の若いメイドだ。

「ちょっと、ダンったら。あの子イジメてるんじゃないでしょうね!」


 ユイが声を張り上げようと大きく息を吸い込んだ時、ダンがこちらを振り返って向かって来た。それも物凄い形相だ。

 だが怒りを示しているのとは少し違う様子。


「な、何よ…?」

 警戒したユイだが、仏頂面のダンはさらに方向を変えて姿を消した。

「全く!何してたのか問いたださなきゃね」


 その後、ダンが掴まらずメイドを呼び出したユイだが、思いがけない展開に仰天する事となる。


「ウソでしょ~!!何でまたあんなのに?」

「ユイ様、あんなのとは…。でも、奥様とヴァシル様に見られていたなんて、恥ずかしいですっ」

「ああゴメン。私はてっきりイジメられてるのかとばっかり!」

――そうするとあの時の顔は、怒りってより驚きって事かしら――

 メイドいびり疑惑は晴れても、ユイにとって驚きである事は変わらない。


「全然そういった事ではありませんのでご心配なく。ダンさんは、その、とてもお優しい方ですから…」頬を染めてこう返すメイド。


 そう、何と彼女はダンに恋をしていたのだ。あれは告白シーンであった。


「それで?返事はもらったの」

「…いいえ」

「え~!?何で!ったくダンのヤツ、贅沢すぎるわ、こんな若くて賢くて可愛い子!調子に乗るなってのよっ」先程の仏頂面を思い出してユイは憤る。

「ユイ様っ!」

「ああ、またしてもゴメン…」


「いいんです。どうせ叶わぬ恋ですから。だって私なんて、ダンさんのような上層部の方に相手にしてもらえるはずないもの」

「だけど、あの人マフィアよ?その辺は大丈夫?」

「ユイ様ったら何を今さら?それを承知の上でお世話になっています」

「そう、よね…」

――忘れてたけど、あれでも上層部なのよねぇ――


 寂し気に呟くメイドを見て、ユイのお節介心がムクムクと湧き立つ。

「よ~し、私に任せて!キューピッド役、引き受けてあげる」

「ダメです!奥様にそんな事していただく訳には…」

「あらどうして?心配しないで、脅してイエスって言わせる、な~んて事はしないから!」


 まさにそれが心配だったメイド。ダンの性格上、ユイに強要されればノーとは言えない。そんな交際など嬉しくもない。

――よりによってユイ様に見られていたなんて…――


 だがしかし、この女が言い出したら聞かない事も分かっている。メイドは諦めた。



 お昼寝タイムに入った息子を部屋に残し、ユイは意気揚々とある場所へ向かう。


「おやユイ様。どうかされましたか?」

「ご苦労様。どう、順調?問題が起きたらすぐに言ってね」

「はい」


 ここはユイが立ち上げた警備事業用の内勤スペースだ。社名はユイのイニシャルを取りY・Aセキュリティと命名されている。

 始めた当初は屋敷内の一角だったが、今や倍以上のスペースとなった。


 妊娠出産の間は休業していたのだが、あまりの依頼の多さに断り続けるのは憚られ、部下達に単独でやらせてみたところ、想像以上の手腕を発揮した。

 よってユイは晴れて、当初のプラン通り相談役に収まっている。


「さすがはラウルの部下達よね。本当に優秀で文句のつけようがないんだもの!」

――あれだけの大金を要求するのも頷けるってものよ――

 それはユージーンに吹っ掛けた10万ドルの件だ。


 あれが元手となり、必要な装備も揃えられた。そうでなければラウルに資金提供を頼むしかなかった。

 必要性を考えてラウルがあの額を提示してくれたのだとユイは考える。

――行動には常に理由がある!計算高い男ってキライだったけど、ラウルだけは別だわ!きゃ~っ、惚れ直しちゃ~う――


 がしかし、当然ラウルにそんな意図はなく、単なる腹いせであった。


 ニヤケ顔をどうにか戻し、ユイは部下達に問いかける。本題はこちらだ。

「ねえ、ダンどこにいるか知ってる?」

「ダンだったらボスと一緒に外出中ですよ」

「なんだ。そうなの」

「どうかしたんですか?」

「別に!じゃ、引き続きよろしくね~」ウインクを飛ばし、手を振りながら答える。


 そして慌ただしくドアが閉ざされた。


 在室していた男達は、束の間ポーっとなりながら余韻に浸る。

「…なあ。ユイ様、ご出産されても何も変わらないよなぁ」

「ああ。あの頃のまんまだ!思い出すぜ、ユイ様がここへ来たばかりの頃を」

「おお、俺達の休憩所に顔出してたあれだろ!」

「あの頃から、可愛かったよな~」

 こんな昔話に花を咲かせる。


「俺達にこんな新規事業まで任せてくれて!俺今、かなりやり甲斐感じてるんだ!」

「それは奇遇だな、俺もだ!」

 長らく暇を持て余していた男達。打ち込める仕事があるのは良い事だ。それも世の中の役に立つ仕事である。

「堂々と仕事内容を家族に語れるようになって大満足だ!それもこれもユイ様のお陰」

「それそれ!いっそこのままマフィアから足洗えたらなぁ」


「おい!それはタブーだぜ?ここに盗聴器でも仕込まれてたら…お前もうアウトだな」

「冗談だろ?!いや、だから冗談だよっ!冗談ですよ?ユイ様ぁー!」

「今恐れるべきはユイ様じゃなくて、ダンだな」



 自分の噂話が繰り広げられているとは露知らず、ユイは軽く屋敷の見廻りを終えて部屋に戻る。


 まだヴァシルはすやすやと眠っている。

「あどけない寝顔…。これが起き出すと信じられない騒ぎになるから困るのよ!」


 たかが赤子と侮るなかれ。ユイの腹にいた頃からエスパーの片鱗を見せていただけに、そのパワーはラウルに匹敵する。

「ラウルのご両親も大変だったでしょうね…。ああ、でもあの人は大人しそうだから、そうでもないかぁ」

 自分の血が入っている事が何を意味するのか。

 それは狂暴さやら容赦なさを意味するのだ!


 ヴァシルが一度泣き出せば、部屋中の物が飛び回る。


 部屋を丸ごとひっくり返したようになる事もあって、そんな時はユイとベビーシッターだけでは手に負えない。これに太刀打ちできるのはラウルしかいないのだ。

 さらにラウルはヴァシルとテレパシーで会話ができる。

 これについてユイは大いに嫉妬している。母親なのに息子の考えている事がまるで分からないのだから。それは単に経験不足が要因な気がしないでもない。



 そんなヴァシルだが、決してユイに懐いていない訳ではない。ラウルはもちろん、ユイが抱き上げれば大抵は泣き止む。だが、ダンが抱いても泣き止まない。

 二人が不在の時はベビーシッターが世話をするが、ユイの目論見によりダンとメイドに子守を任せる事もある。


「お願いだから、ラウル様かユイ様がいる時だけにしてください!」


 泣きじゃくるヴァシルに困り果てたダンが訴える姿は、恒例になりつつある。

 それに対しメイドがテキパキと動きながら答えるのだ。

「赤ちゃんにそれは無理でしょう?…ああ!ダンさん、嘆くのは後です、あっ、もしかしてオムツじゃないですか?」

「お、おお…そうかもしれない」


 このコンビでのベビーシッター業務、意外な組み合わせながらなかなかスムーズにこなせていて、二人の相性の良さを表している。

 ユイが最初にメイドとの子守を提案した時は、猛反対していたダンだが、今やメイドが付いてくれる事を感謝しない日はない。


――まずは二人の距離を詰めて共通の話題を作る!共同作業の子守なんて打って付けじゃない?私って天才!――

 キューピッド・ユイの任務は着々とこなされている。


「あいたっ!ヴァシル様ぁ、もう大概にしてください!」

 今、ダンの頭に哺乳瓶が豪速球で飛んで来た。

「うふふ…っ、お腹空いてたみたいですね」

「はぁ…」

「ダンさんお疲れみたいですね。後は私がするので、少し休んでいてください」

「済まん。そうさせてもらう」


 長閑な昼下がり。ミルクを飲み始めたヴァシルがようやく静かになり、ダンは二人の様子を眺める。

「赤ん坊を前にすると、女性は皆幸せそうな顔をする…何と美しい事か」

「え…?」

「あっ!いや、別に…深い意味はっ」

――気が緩みすぎだぞ、ダン!心の声がダダ洩れとは…これではまるでユイ様ではないか?――


 例の告白を受けてからというもの、ダンはこのメイドを過剰に意識している。

 若い娘に相手にされた事など皆無のダンは、恋愛感情の類を一切封印して来た。だからこそ、女と組んでする仕事など断りたかったのだ。


 だが状況は変わった。抑え込んでいた分、欲はどんどん溢れ出る。


 そしてメイドも案外積極的だ。「私は…あなたの子が欲しいです」

「はあっ?がはっ、ごほっ!!」

「だ、大丈夫ですか?!」

 今度は爆弾発言が飛んで来て、盛大にむせるダン。

――哺乳瓶の次はこれか…!踏んだり蹴ったりとはこの事だ。だが悪くない――


 ダンの背を擦るメイド。思わぬ至近距離で目が合い、二人はあからさまに顔を赤らめた。年の割りに初心なダン40歳。


 それを見てか、ヴァシルが声を出して笑う。

「あーあー、きゃははっ!」


「あ、ヴァシル様…っ、零れてしまいました、ゴメンなさいっ」

 よそ見をしていたメイドは、哺乳瓶から零れたミルクに気づき、慌てて立ち上がる。

「これを使ってください」

「ありがとうございます!」


 この折も、見事な連係で事なきを得た。


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