助け合いの精神(2)
ラウルの交渉現場では、相手方の動きが慌ただしくなり始めた。交渉の合間に、側近と思われる者が頻繁にボスに耳打ちに来るのだ。
それを察しながら、ラウルは足を組んだまま澄まし顔で尋ねる。
「どうかしたか?」
ちなみにここでの会話は全てダンが通訳している。
「ああ、大した事ではない。外野がうるさくて済まんね、フォルディス君」
「いや。それは気にしていないが」
こんな話の最中にも再び情報が入り、それを聞くや堪らず罵声を浴びせる。状況が良くない事は一目瞭然だ。
「何を手こずっている?アジア人の小娘の一人や二人何だというのだ!諸共さっさと始末しろ!」
これを聞いたダンは一瞬ユイの顔が浮かんだ。相手方のボスが部下を叱責する中、ラウルに耳打ちする。
「ラウル様、どうやら先方とトラブルを起こしているのは、アジア系の若い女性のようです…」
「この地でアジア系とは珍しいな」
ここはモスクワ。極東と違ってこの地域でアジア系を目にする事は稀なのだ。
全く取り乱した素振りも見せないラウルに、ダンは思う。
――ラウル様、少しはユイ・アサギリを疑ってください!自分は大いに疑い…いや、もはや確信に近いものが…――
「少し休憩を入れてはどうだ?」ラウルが気を利かせて先方に提案する。
「そうしていただけると助かる!では、しばし席を外すよ、フォルディス君。10分後に再開としよう」
「どうぞごゆっくり」肩を竦めてラウルは答えた。
相手方のボスが席を立つと、その場にはフォルディス側の人間のみが残された。
ラウルは席を立ち窓辺に向かうと、懐から携帯を取り出してかけ始める。
だが会話は始まらず、ラウルが無言のままダンを振り返った。
「…ラウル様?」
「ユイが電話に出ない。GPSもオフになっている。何もないとは思うが、念のため確認しろ」
「はっ!」
――やっぱりだ!おのれユイ・アサギリめ、こんな時に一体何をやらかした?ラウル様に恨みでもあるのか?――
一人廊下に飛び出したダンは、早速護衛に当たらせた部下に電話を入れる。当然二人とも出ない。
「クソっ!どいつもこいつも使えん!俺はここを離れられない。…どうする?」
時間は10分しかない。ダンの中の嫌な予感はどんどん膨張して行くのだった。
・・・
廃屋の薄闇の中を移動して上階へ上がった時には、ユイのコルトも弾切れとなった。その甲斐あって今のところ敵の姿は見当たらない。
――あれで全員ってワケないよね…。これからどう動く?――
ユイは新堂を気遣いながら先に進む。二階は妙に粉っぽい空間が広がっていた。
奥には何かが袋に詰めて大量に積んである。どうやら倉庫のようだ。
「これ何だろう…。とにかくそこ座って、先生。まさかこれ麻薬じゃないよね!」
「バカだな、こんな無造作に置いてる訳ないだろ。うっ…、悪いな」体を支えたユイに、新堂が一言加える。
「ゴメンね、あんなのさっさと片付けたいんだけど…。どんどん増えるんだもん!どんだけ大きな組織よ?」憤慨するユイ。状況は最悪だ。
「ラウル、もうお仕事終わったかな…電話しちゃおうかな」
ずっと切っていたGPSを今しがたオンにした。もはや自分の力だけでは脱出は不可能と判断したのだ。
部下達もどうなったか分からない。散々響いていた物を投げつける音や発砲音も止んでいるからだ。
「やられちゃったのかしら…」申し訳なさが募り、ユイが俯く。
それを見てさらに新堂が落ち込む。「済まない、俺のせいだ…」
「違う!もういい、ラウルに連絡を入れるわ」
そう考えた矢先に携帯がバイブする。
「っ!ビックリしたぁ…あ、ダンさんだ!…もしもし!」
『ユイ・アサギリ!そんな辺鄙な場所で何をしている?なぜ今までGPSを切っていた!』
「落ち着いてよ、ダンさん。こっちは結構シビアな状況なんだから。街でね、新堂先生に会ったの。命を狙われてるのよ!ケガもしてて…」
『何?ドクター新堂だと!…それで、そこでかくれんぼでもしてるのか?いいか、お前のその相手はな、ラウル様の交渉相手だぞ!分かってるのか!』
「はぁ~?!何ですって!」ユイの大声が倉庫内にこだました。
途端に男達の濁声が響き渡る。「いたぞ!上だ!」
「っ、しまった、やっちゃったじゃない、ダンさんのせいよ?…先生!」
『おい、ユイ・アサギリ?おい!お…っ』
ユイは仕方なく電話を切る。そして弾切れのコルトを構えた。
「カッコだけでも、ってね…。あっちは全員弾入り拳銃を持ってる。ラウルのシールドの力でもない限り、切り抜けるのは…」
「こんな時にカッコつけてどうするんだよ!気でも触れたか?」新堂が吐き捨てるように言って来る。
「失礼ね!私にだって信条があるの!」
「バカな事言ってないで、何か方法を考えろよ。例えばこの…この後ろに積んであるのを使うとか」
「使うったって、何なのこれ」
「…カラー、パウダー」
同時にキリル文字を読み取り、一瞬二人の脳裏に同じ案が過ぎる。
「ユイ。やるんだ、もうそれしかない」
「でも!そんな事したら…私達だって逃げ切れるか」
――特にケガをしてるあなたがね!――
「迷ってる暇はない。敵はもうすぐそこまで来てる。さあ、こっちへ来い!」
窓際にいる新堂が、一番側の袋を持ち上げながらユイを呼ぶ。
「先生、あんまり動かないで。私がやるわ」
「いいか。それをぶちまけたら、すぐに窓から飛び降りるんだ。すぐにだぞ」
「分かってる!」
ユイは勢い良く袋を破った。途端に中身が舞い上がり、窓からの陽光を受けてキラキラと光る。とても細かい粒子だ。これなら行ける、ユイは確信する。
そんなユイの左手でエメラルドが怪しく輝く。
「だけど先生、こんな事したら何人死ぬか分からないわよ?信条に反するんじゃなかった?」
「何を言う。これから起こるのは事故ってヤツだろ?」
「ふふっ…物は言いようね。では心置きなく!」
二人が狙ったのは粉塵爆発。これを成立させるには火気が必要だ。コルトが使用不能の今、敵が拳銃を撃たなければ成立しない。
だがその心配は無用だ。勢い良く開いたドアから早速の発砲が始まる。
「今だ!」
「え~いっ!!」
新堂の掛け声と共に、ユイはドアに向けて袋の中身を豪快にぶちまけた。
直後、銃声と同時に目を空けていられない程の光が一帯に広がり、銃声ではなく別の轟音と衝撃が襲った。
二人は衝撃で割れた窓から、飛び出す前に吹き飛ばされる。
「…ユイっ」
「新堂先生!」
抱きしめ合ったまま外へと投げ出された二人は、地面に叩きつけられた。
ほんの一瞬の出来事だった。ユイはすぐに新堂の安否を確認する。
「…先生、新堂先生大丈夫?何で庇うのよ、ケガしてるのに!…バカっ」
「おまえは、無事、か…?」
新堂はユイを庇って下敷きになっていた。お陰で衝撃が吸収された事もありユイは無傷だ。この時少なからずリングの力が働いた事は、二人には知る由もない。
側に肌身離さず持っていた新堂のドクターズバッグが転がっている。
「抜かりない人!何なの?あなたはっ…」
――あの一瞬にカバンを掴んで私を抱き寄せて、身を反転させて先に地面に落ちるなんて?ケガしてるのよ?この人は!――
「とにかく、早く救急車を呼ばなきゃ…携帯落としてないよね?」
ポケットに入れた携帯電話を探りながら周囲を警戒する。敵方の人間は誰一人建物から現れない。
反応しなくなった新堂を見下ろして涙が零れ落ちる。
「良かった、携帯も無事だわ。ロシアの救急車って何番で呼ぶんだっけ?番号が分からないじゃない!…ああどうしようっ」
途方に暮れるユイの耳に、遠くの方からサイレンの音が聞こえて来た。
「もしかしてダンさん、気を利かせて呼んでくれたのかな」
その後到着した救急車から下りて来た二名の隊員は、慌てた様子で言い合う。
「おい、爆発事故とは聞いていないぞ!」
「我々だけでは対処しきれない、もっと救急車が必要だ!連絡を!」
「あなた方は大丈夫ですか?」
「私は何ともないです。それよりこの人を!撃たれてます、それから…、あそこから落ちてっ…死なないで、先生…っ」涙で声が詰まるユイ。
この時には新堂の意識は完全になかった。
共に救急車で病院へと向かう。ユイは片時も新堂の手を離さず、ずっと握り締めて無事を祈った。
――きっとラウルも、私が撃たれた時こうやって…――
そんな事を思ってさらに涙を溢れさせる。自分にはラウルのように血を留める事などできない。
ただこうして祈るしかないのだ。
病院に着いて、新堂はすぐに集中治療室へ運ばれた。
少しして当然の問題にぶち当たる。
「この方は非常に特殊な血液型でして…」
「私のを使ってください!」
――きっと私達の型は一致するはず…ちゃんと聞いた訳じゃないけど、きっと…――
「…え?」
「いいから早くっ!先生が死んだら許さないからね!」
すぐさま名乗りを上げて血液を提供するユイ。自分の言動がマフィア化している事には気づいていなかった。
一通りの処置が終わった頃、ラウルがダンを従えてここへ現れた。
「ユイ!無事か?」
「ラウル…ああ、会いたかったっ」ラウルを見て、一気に張り詰めていた気が緩む。
「ケガは?」
「私は大丈夫。それより先生が…っ。私、役立たず、全然守れなかった。私が助けられてどうするのよっ」ラウルに抱きつき、思いのままに言葉を吐き出す。
溢れ出した涙はラウルの胸を濡らした。
そんなユイの頭に優しく手を乗せ、ラウルが抱き寄せる。
「おまえが無事で良かった」
冷静すぎるそのセリフに、ユイはふと我に返る。
「あっ、それでラウル、その、お仕事の方は…」
感情的になりすぎて周りが見えていなかった。ユイのした事は、どれもラウルには無関係の話なのだ。むしろその行動が交渉の妨げになったのは確実。
ユイは抱きついた体をやや離してラウルを見上げ、答えを待つ。
「もう話はついた。おまえは何も心配するな」
「えっ、大丈夫…だったの?」
「私が一番大切なのはおまえだ。数億の損失などどうとでもなる。ユイを失う事に比べたら、大した事ではない」
「すっ、数億、損したのね…私のせいで!」
ラウルは至極当然の事を言ったのだが、ユイには嫌味に聞こえてしまう。
「聞いているか?ユイ」
「はい、聞いてます…」
――完全に邪魔してるじゃない、私!…ダンさんはきっとカンカンだわ――
そっとダンの方に目を向けるも、サングラスを装着しているため元々分かりにくい表情は全く読めず。
ラウルは再びユイを抱きしめる。
「それに…事故で出た死人は仕方のない事だ。おまえ達は一人も殺してはいないそうだからな」
「え…、何でそれを」
ユイはラウルの視線の先を振り返る。
そこには護衛をしていた二人の部下が傷だらけで立っていた。
「二人とも!無事だったのね…ああ、良かった!」
「ユイ様。爆発が起きたのが上階で助かりました。最後までお守りできず、申し訳ございませんでした」
「そんなのいいのよ!ああ、本当に良かった…」
さらなる涙を流し部下の無事を喜ぶユイに、ダンも少しだけ貰い泣きしたが、サングラスがここでも役に立ち気づく者はいない。
やや涙声のダンが口を開く。「お陰でこちらの筋は通せた。非は全て向こうにあるとな。ドクター新堂は何ら問題を起こしてはいないのだから」
「そうよね。先生の患者さんが、あのマフィアのヤバい取引現場とかを目撃してたとしても、先生には関係ないもの!」勝手な推測でユイが続ける。
それにダンが付け加えた。「残念ですが、その目撃者は殺されました」
「…そう。先生が知ったら悲しむでしょうね」
自分の助けた患者がすぐに殺されたと知れば、やり切れない。
新堂の心配ばかりしているユイだが、ラウルはそんなユイを心配する。
「それよりもユイ、顔色が悪い…おまえも少し休ませてもらえ」
「大丈夫よ、ラウル。心配してくれてありがとう」
「血を分けたのだろう?」
「…知ってたのね」
「新堂に尋ねた時は煙に巻かれたが、そうだろうと思っていた」
「私も」
「…そうか」
――本人が打ち明けた訳ではなかったのか――
二人のざっくばらんな会話の様子から、それとなく親密性を察していたラウルだが、読みは外れた。そこまで打ち解けてはいないという事だ。
だがユイは命懸けで新堂を守ろうとした。どういう理由からなのか?
――いずれにせよ、それだけ大切な相手という事だろう――
「新堂は私にとっても大切な、おまえのドクターだ。死なせる訳には行かない」
「うん。…ありがとう、ラウル!」
見るからに反論したそうな顔をしているダンにラウルの目が向く。
「ダン。言いたい事があるなら言え」
「はっ。…いいえ」
「どっちだ!」
「ですから、ございませんっ!」
コントのようだが、双方大真面目な顔、むしろ怖い顔でのやり取りである。
――そもそも!新堂さえいなければユイ様は巻き込まれていなかった。取引は成立していたのだ!それなのに非難もしないとは、ラウル様はどういうお考えなのかっ――
怒りの矛先はユイから新堂に向けられる。
ダンの中で、新堂への恨みがまた一回り膨らんでしまった。
手術が済み、一般の病室へと移された新堂。そのベッドサイドにいつまでもしゃがみ込んだままのユイに、耐え兼ねたラウルが声をかける。
「ユイ、もう深夜だ。おまえも休んだ方がいい。意識が戻ったら教える。あちらの部屋で横になれ」
「私は平気だから」
「ユイ…どうか、そうしてくれないか」
心からユイの身を案じるラウルの言葉は、深く胸に沁み込んで行く。
――これじゃ、ラウルを心配させてるわね…。私がここにいても仕方ないし――
「分かったわ。目が覚めたらすぐに教えてね?」
「ああ。ダン」
こんな一言だけで有能な側近は理解する。「はっ、そのように」
「では行こう、ユイ」
「ええ。先生の事よろしくね、ダンさん」
ダンは一礼して二人が出て行ったのを見届けると、部屋の隅の丸椅子に腰を下ろした。
規則的な機械音だけが室内に響いている。
「この男さえいなければ!…。いなければ、もしもの時にユイ様が困る。クソッ!どうすればいいのだ!」
青い顔で眠る新堂。ラウルとはまた別の魅力に溢れたマネキンのように整ったその顔を見下ろし、憎々し気に呟く。
だが芽生えた殺意はすぐに消え、モヤモヤとしたイラ立ちだけが残った。
・・・
ユイをベッドに寝かせてから、ラウルはその横の椅子に腰を下ろす。
「ラウル…本当にごめんなさい」
「もういい。おまえは何も悪くないのだから」
「でも、せっかくの大きな取引が!」
「また次がある。取引相手はここだけではない」
――ああ…この人は何て心が広いんだろう。また惚れ直しちゃった――
微塵も怒りを見せないラウルに、ユイは盛大に感激する。
「それより、もっと早くに連絡してほしかったな」
「そう、よね…それもごめんなさい」
「今後、携帯のGPSは切るな。いつでも、おまえの居場所を把握しておきたい」
「はい」
――今の私に、この人に秘密にするような事は何もない。問題ない――
「ありがとう、ユイ」
蕩けそうな笑顔を向けられて、ユイは改めて自分の出した答えに満足した。
ラウルはユイの頬を愛しげに撫でる。
「疲れただろう。少し眠るといい」
「でも…先生が心配で眠れないわ」
「大丈夫だ。おまえの血を使ったのだろう?ならば、すぐに良くなる」
「ふふっ!そうよね、私の血は無敵なんだから?」
「ああ、そうだ」
ユイを乗せるのが格段に上手くなったラウル。気が晴れて素直に目を閉じたユイを見守り、その額にキスを落とした。




