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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第二章 降りかかる試練
20/99

別れの予感(1)

 ラウルとユイの婚約が正式に発表され、ユイのフォルディス家での地位は、単なる客人から婚約者へと格上げされた。

 部下達は距離を置こうとしたが、ユイの強い希望により今も変わらず和気あいあいとやっている。


 この家がマフィア一家である事も忘れるくらいに、ユイはここフォルディス邸で楽しく過ごしている。それはこんな具合に…。


「ユイ様ぁ~、オレもうダメっす…」

「何言ってんの、その大きな体は何のためにあるのよ?しっかりしなさい、ほらほら、ボーっとしてる暇ないわよ!」

 射撃だけでなく、今では格闘技的な事まで指導しているユイ。


――なかなか楽しいのよ、これが!――

 退屈していた日々が嘘のように生き生きとしている。


「うわぁぁぁ~っ!!」

 根を上げた男の首が容赦なく絞まった。

「いい?武器がなくてもこうして戦えるの。拳銃に頼ってはダメ。弾は無限にはないんだから。最後に頼れるのは自分自身、分かった?」

「ぐわぁっ!ううっ、よく分かりました…」

 ようやくユイが手を離すと、男は逃げる力もなくぐったりとその場に伸びた。


「ハ~イ、そっちの人!お次はあなたよ?」

 一人の相手をしながらも抜かりなく周囲に目をやり、サボっている者にゲキを飛ばす。ゲキだけでなく今のはナイフが同時に飛んだ。


 寄りかかっていた木の幹に、グサリと突き刺さったナイフ。

 ギョッとした顔を向けるのは、どこから見てもコワモテマフィアの男。動揺のあまり吸いかけの煙草を取り落とす。

「全く容赦も隙もない!ボスに通じるものがある…」


「愛のムチです、愛のムチ!ラウルがいつも言ってるでしょ?あなた達は大事な家族だって。私にとってもそうなんです。殺されないように鍛えておかなきゃ?」

 ユイはまだ気づいていない。ラウルの言う大事な家族というものが、自分の考えるものと異なる事を。


 セリフはどこまでもダークだが、それを語っている顔はどこまでも可憐な少女。このギャップに心奪われる者続出だ。

「ああ、もう堪んねえやっ…オレ、一生ついて行きますっ!」

「俺の見る目は正しかっただろ~?ユイ様が花嫁の座を射止めるって!」

「ああ?お前最初の頃、あんな小生意気な異国の小娘、絶対ない!とか言ってなかったっけ?」

「ぐっ!…人違いだ、人違い!それ俺じゃねえよ?」


 ユイはこんな言い合いを眺めながら、自分が受け入れられている事を実感する。

――ステキ…これよ、私が求めていたものは。皆大好き!――

 ラウルとの愛に溢れた生活だけでなく、こんなところでも幸せを噛みしめる。


 そんな中、不意に敵意を感じて振り返る。

「…?気のせいか」

 そこには部下達以外誰もいない。

 そもそも部外者が侵入できるはずもない。屋敷の警備は万全なのだ。

 ユイは神経質になるのをやめた。


 だがこれは、決して気のせいなどではなかった。


・・・


「ラウル様。お呼びでしょうか」

「ダン。その後、例の件は?」

「はい。おおよその目星は付きました。ですがまだ確証がありません」

「親類の可能性は?」

「いえ。別の手の者かと思われます」

「そうか。引き続き警戒を怠るな。場合によっては私が対処する」

「はっ」


 ラウルの書斎にて、不穏な会話が交わされていた。この家にスパイが潜り込んでいる事が判明したのだ。

 親類の可能性とラウルは言ったが、これは叔父であるルーカス・フォルディスただ一人を示している。あえて名指しを避けた形だ。

 フォルディス家の後継の座を狙い、何度かラウル暗殺を目論んだ事もある要注意人物である。

 ラウルが飽き飽きしていた花嫁探しに本腰を入れたのも、この人物が関係していた。


 しかしながら力の差は歴然で、ルーカスには手も足も出せないのが現状だ。


――あの男は絡んでいなかったか。まあどちらでもいい。老い先短い身で、命を無駄にしてほしくないからな!――

 手を出してくる方が悪い。殺られる前に殺るのみ。これがラウルの考えだ。そしてラウルが負ける事はない。


「ユイ様にこの事は?」

「ああ…。ユイは家の者達に深入りしすぎている。もう気づいているかもしれない」

「そうなると…」

「ユイが自ら始末するか…」

 それはそれで構わない、とラウルもダンも考える。どこかそれを期待している節もあった。


 もうダンもユイの身を案じる事はない。彼女ならば自分で対処できると分かっている。

――ある意味、お手並み拝見というところか?ユイ・アサギリ!――


「ユイには私から話そう。ヤツは尻尾を出すまでこのまま泳がせる」

「承知しました」



 その夜。ラウルは早速屋敷に潜入するスパイの件をユイに伝えた。

 聞き終えたユイは何も答えず、握り合っている手を見つめる。


「その様子だと、やはり気づいていたか」

「そうじゃないの。どうしても信じられなくて…。あの中にそんな人が紛れ込んでるなんて」

「おまえはあの者達に気を許しすぎる。ヤキモチ、焼いてしまいそうだよ…」

「ええっ?ヤダ~、ラウルったら!」


 ユイに会ってヤキモチという感情を知ったラウル。沈んだ空気がこの一言で一転した。


 ユイは嬉しくなって猫のようにすり寄る。

「心配しなくても、私はあなただけのものよ?」

「知っている」

 微笑み合ってキスを交わす。先程の不穏な話題などどこへやらで、キスはすぐに濃厚なものに変わる。

「…ああユイ。こんなにもおまえに溺れている自分が怖いよ」

「ラウルにも怖いものがあったのね!」


 だがしかし、それは自分自身だ。どこまでも敵なしのラウルである。


「おまえに出会うまでは、こんな深い感情は持った事がなかった。今最も恐れているのは、おまえに嫌われる事だな」

「それもご心配なく!あり得ないわ…こんなに愛されてるのに嫌うだなんて?」

「ユイ、愛している」

「私もよ、ラウル…」

――裏切り者の存在なんて受け入れたくない。今はただこの愛に包まれていたい…――


 愛が溢れるこの屋敷に、偽りが紛れ込んでいる。ラウルを、そして自分を慕うあの者達の中に反逆者がいる。

 この事実に、ユイはどうしても向き合いたくなかった。



 だが無情にも、その現実は受け入れざるを得なくなる。

 敵はどういう訳か、自ら名乗り出てユイと対峙したのだ。


「どうして?何か事情があるんでしょ?ねえ…聞かせて!ウソだって言って…」

 今、ユイの前には拳銃を構えた男が一人立っている。この男はフォルディス家の一員でつい先日も楽しく笑い合った仲だった。

 至近距離で向き合う二人。周囲に人の気配はない。夜も更けた深夜の屋敷内での出来事だ。


「どこまでも甘い女だな!お前、本当にあの有名な殺し屋なのか?あの女は確か、冷酷な事で有名なはずだが」

 男の言い分になど耳も傾けずユイは続ける。

「誰かに人質を取られてるとか、弱みを握られて仕方なくやってるのよね?」

 男は答えずに挑発を続ける。「…抜けよ、お前の相棒を!それとも…愚かにも俺を信じ抜くか?」


「話してよ!本当の事を!」ユイは拳を握り締めたまま立ち尽くす。

 ただ目の前の男に真実を語ってほしいと懇願するばかりだ。


 だがその想いは通じそうもない。男が何かを打ち明ける気配はない。


「目的は女じゃなかったが…あの常に完璧な余裕ぶった顔を崩すには持ってこいだ!先に地獄で待ってな。すぐにアイツもそっちに送ってやるよ。…これでいいんだ」自分に語りかけるように男が言う。

「全部嘘だったの?私に向けてくれたあの笑顔も、楽しかった時間も何もかも…っ」

 ユイの大きな瞳から、ついに大粒の涙が零れ落ちる。

「はっ、これだから女は困る!残念だがマフィアの世界で泣き落としは通用しないぜ?…お喋りは終わりだ、死ね!」


 この段階に達してさえも、ユイは棒立ちのままショックで動けない。

 そしてついに、一発の銃声が屋敷中に響き渡った。


「…っ!」

 発射音が反響して鼓膜を響かせる。それが収まって、ユイは気づく。

――…あれ、私、どこも撃たれてない?どうして…――


 倒れたのは男の方だった。発射されたのは男の持った銃ではなく、いつからかドア横に立っていたラウルのものだ。


「ラウル…」

「ユイ、ケガはないか?」

 立ち竦むユイに手を差し伸べるが、その手を取らずただ唇を噛みしめているユイに、ラウルが首を傾げる。

「ユイ?」


「どうしてそんなに、あっさり殺せるの?みんな…家族、なんじゃなかったの?」

「ファミリーを裏切った者に、制裁を加えるのは当然の事だ。仲間を作らないおまえにだって、それくらいは分かるだろう?」

「分かるけど!何か事情があったのかも、とか思わないの?おかしいじゃない、わざわざ自分から名乗り出るような事して来たのよ?この私にコルトを出せなんて、殺してくれと言ってるようにしか思えない!」


 ユイにはこう思えた。心から慕うボスを手に掛ける事などできない。だからもう楽にしてくれと、自分に助けを求めて来たのだと。殺してもらうために。


――殺してあげる事はできないけど、何か方法があったかもしれない…!――

 事情が分かったなら救えたかもしれない命が、こんなにもあっさりと散って行った。その事がユイはどうしても許せない。


 ラウルはユイに向かって手を差し伸べ続ける。

「この者は語る気などなかったよ。私が撃たなければおまえが撃たれていた。そういう状況だった」

「その通りよ。…でも、それがここのボスの考えだとしたら、がっかりだわ」

「…何?」

 ユイへ差し出していた手が、ついに下ろされた。ラウルの表情がやや険しくなる。

「どういう意味だ」


「そんな考えでは、私とは相容れないって意味よ!」

「まだよく分からない」

「分かってる、私は甘いわよ、この人が言ってたように。それでも、どこまでも信じたいの、一度受け入れた人の事は!…そう簡単に割り切れないの!」

 涙を流しながら訴えるユイ。対してラウルは淡々と告げる。

「私はファミリーのトップだ。この家を守る責任がある。どんな理由があるにせよ、裏切り行為を見逃す訳には行かない」


 正論を返されユイは何も言えない。悔しさで握った拳にさらに力が入る。


「とにかく、おまえが無事で何よりだ」

 ラウルはそれだけ言って、俯いたユイの肩にそっと手を乗せる。顔を上げようともしないユイを見て、静かに息を吐き出す。

 表情を確認したかったラウルだが、それを断念するとその手はすぐに離れた。


「……。ダン!片付けておけ!」

「はっ」

 いつも以上に声を荒げたラウルに、ダンがいち早く参上してひれ伏す。


「ラウル、どうして?どうして何も言わないの。そうやって私にも怒鳴ってよ。おまえは甘すぎる、死にたいのか!って。やらなければやられるだけだって、何で怒らないのよ!」

「…」

「ねえってば!キハラなら言うわ。言うだけじゃない、きっとその場で殴り飛ばされてるところよ」

 ラウルを見上げて訴えるその顔は、すっかり涙で濡れていた。


 それを今すぐに拭ってやりたいラウルだが、思考が混乱中のため行動に移せない。

 ただ静かにユイを見つめる姿からは、そんな混乱は微塵も感じられないのだが。


「どうして黙ってるの。私の言葉、通じてない?何とか言ってよ!」

「ユイ。私にはできない。おまえを怒鳴る事も、手を上げる事も…。おまえは何も悪くないのだから」

「何それ!悪いでしょ、どう見ても?ねえダンさん、あなたなら絶対怒鳴り散らしてるでしょ、同じ立場だったら!どう?」


 唐突に話題を振られたダンは、床掃除を始める部下に指示を出す手を止めて、ユイに目を向ける。

――なぜ俺に振る?勘弁してくれ、ラウル様を否定する事などできるものか!――


 ここは誤魔化そうとダンはとぼける。

「ええと…申し訳ございません、聞いておりませんでした。もう一度…」

「もういいわよっ!この役立たず!」

 だがここまで言われては止まれない。精一杯の静かな口調を心掛けて反撃する。

「お言葉ですが、自分は残念ながらユイ様のお役には立てません。ラウル様の、側近ですので!」


 透かさずラウルの叱責が飛ぶ。

「ダン!」

「…申し訳ございません」


 ダンをこうして叱り飛ばすラウルを、ユイは何度も見て来た。だが、思えば自分は一度もそんな経験がない。ラウルは常に自分には優しいのだ。

 それは逆に感情を隠されている、心を開いていないとも取れる。


「ダンさんには毎回そうやって怒鳴ってるじゃない…」

「ユイ…」

 主張の内容が理解できないラウルは、途方に暮れた顔で呟く。

「これじゃまるで、初孫を溺愛するおじいちゃんだわ。何されても怒れないってね!」

 これには堪らずダンが口を挟んだ。「ユイ様!さすがにその例えは失礼では!」

「構わない。もういい、お前は下がれ」ラウルはダンに命じる。


 腑に落ちないながら、命令は絶対だ。

――俺に言うならともかく!あろう事かラウル様にあのようなっ…――

 溢れる思いを胸に秘め、ダンは深く一礼するとその場を後にした。


「ユイ。確認するが、おまえは私に怒鳴りつけてほしいという事か?」

――確認って…事務的!やっぱこの人変わってるわ――

 少しだけ気持ちが落ち着いたユイは、声のボリュームを下げて答える。

「今はそうだけど。でも、そういう事じゃなくて!」

「違うのか…」

 悩まし気な顔のラウルを前に反発する気持ちが折れそうになり、ユイはまたも声を張り上げる。

「…んもう、だから!もっと私にも感情をぶつけてほしいって事!」


「感、情…」

 ラウルにとって、それはこれまでほとんど意識した事のないもので、本人としてはごく自然に振る舞っていたつもりだ。

――やはり意味が分からない…ユイは感情的な言葉をかけられたいのか。だが訳もなくそんな事はできない!――


「ラウルはいつだって穏やかでクールで。だから余計に私が子供に見えちゃう」

「実際に年齢はかなり離れている。気にする事ではないと思うが」

「あなたはそうでも、私が嫌なの!私は対等でいたいのよ!」

「対等に扱っているつもりだが…」

 このラウルの呟きがさらにユイを逆上させる。


「できる訳ないよね。だってあなたはこ~んな大きな家のトップで。責任重大な立場だもの!大金持ちで頭も良くて?こんな私みたいな…小娘が、対等になれる訳ない」

「そんなふうには思っていない。私はおまえと対等でありたいと思っている。そういう相手でなければ、夫婦にはなれないだろう?」

 この言葉は決定的だった。


「…そう。対等でなければ、夫婦になるなんて無理よね」ポツリとユイが呟く。

 そして左手に光っていたはずのリングを思い出す。

 検査のために病院に行った日に預かってもらって以来、渡されていなかった。


「ユイ?」

「あの指輪どうしたの?返してくれてないわね。今まで忘れてた私も何だけど。本当はもう、気持ちが変わってたんじゃない?」

「違う!あれは今…」

――そうだった、リフォーム中だとユイに話していなかった――


 ラウルの言葉を遮ってユイが続ける。

「いいの!やっぱり私には無理みたい。フォルディス様のお相手なんて。初めから分かってた、だって私達、どう見たって全然釣り合ってないもの!ダンさんの言ってる事は正しかったのよ」

「…。それは、本気で言っているのか?」

「冗談でこんな事言えないわよ!…心から愛してしまった人にっ…」


――あなたに相応しい人は、きっと私じゃない――

 再びユイの目から涙が零れる。


「おまえの意思は尊重したい。どうやら私では、望む事をしてやれないようだ」

 ラウルは変わらず静かな口調で言うと、無表情のまま踵を返す。


 ユイをその場に残し、足音を響かせながら去って行った。


「…こんな時まであの人は、何であんなに冷静なのよ!私…どうすれば良かったの?ねえキハラ…っ」

 冷たい床に座り込んで嘆くも、答えなど返っては来ない。例えこの場に師匠キハラ・アツシがいたとしても、答えはもらえなかっただろうが。


 しばらくして、その場の冷え冷えとした空気により徐々に冷静さを取り戻す。

――マフィアと自分。トラブルの対処法がここまで違うとは。情って言葉、知らないんだろうな…――

 ユイは世間で噂される非情な女などではない。どこまでも情に厚い女なのだ。


 そんな彼女も時には冷酷にもなるが、果たして今はその時だったのか?あっさり部下を撃ち抜いたラウルを思い起こすユイ。

「私の事も見限ったら最後、あんなふうに簡単に殺せるんだろうな…何があってもラウルを殺す事なんて、私には絶対にできないのにっ…」


 数々の女達が直面して来た、ラウルの冷酷さという壁に、ユイも例外なくぶち当たってしまったのだった。


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