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エメラルドグリーンの誘惑  作者: 氷室ユリ
第一章 引き寄せ合う力
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再契約(1)

 翌早朝。太陽が地平線から顔を覗かせるのとほぼ同時刻、ユイは弾かれたようにパチリと目を覚ました。


「はっ!しまった、寝ちゃってた!…あれ、部屋?いつの間に」

 ベッドから起き上がり、昨日の出来事を思い返す。尾行紛いの事をして、あろう事か拳銃の所持を知られてしまった。今までのようにここにいられるはずがない。

 無意識にコルトの定位置、左の腰元に手を伸ばすユイ。そして部屋を見渡す。

「っ、コルトがない…。そりゃそうか。見逃してくれる訳ないよね…」


 手早く身支度を整え、すぐさまラウルの部屋に向かう。何が何でもコルトだけは返してもらわなければならない。

――もう嘘はつきたくない。どうやって返してもらおう…――


 考えも纏まらないまま、早い時間だが寝室ではなく書斎の方へ向かう。


 ドアをノックすると、扉を開けたのはダンだった。

「どうぞ。お待ちしておりました」

「…どうも」


 いつもはユリ様、と名を呼ばれるが今日は様子が違う。

 その事で、素性までも暴かれたのだと察した。


 部屋に入るやドアが閉じられる。窓際のデスクの向こうに座るラウルは、いつもと変わらない様子で落ち着いている。


「こんなに朝早くからごめんなさい」

「構わん。よく眠れたか?ユリ、いや、ユイ・アサギリと呼んだ方がいいか」

 いつも通りのラウルの澄んだ声が室内に満ちる。

「やっぱりお気づきでしたか。お陰様でぐっすり。昨夜はベッドまで運んでいただいてスミマセン…」ユイはチラリとダンに目を向ける。


 その視線は未だかつてないレベルで研ぎ澄まされている。ともすれば、胸元からすぐさま拳銃が登場しそうな勢いだ。


 こんなあからさまな殺気を浴びながらも、ユイに恐怖心はない。

――これぞマフィアの巣窟!って、喜んでる場合じゃないよね…――

 身も心もラウルに奪われてしまったユイに、抵抗するという選択肢はすでにない。

 後はもう、最後までこのラウルとのひと時を楽しむのみだ。


「そこに掛けなさい」

 デスクの前に置かれた一人掛けソファを示してラウルが言う。

 ユイは頷いて腰を下ろす。

「ダンさんの任務って、私を調べる事だったのね」

「お前にルーマニア人の血が入っていない事など、ラウル様にはお見通しなのだ」ダンは得意げに語る。


――えっ、何で?ルーマニア語ができないから?なんて事はないでしょうが…――


 ユイの疑問に答えるようにラウルが口を開いた。

「語学は判断要素ではない。おまえの顔のパーツや体つき、思考、全てにおいて東欧の血は感じられない」

 それが確実となったのはあの一夜の行為だ。それはラウルが数多の経験により導き出した結論である。


「そんなの、どうして分かるのよ」

「勘、かな」

「かっ、…ああ、エスパー、なんだったわね」

 全てを暴かれた今となっては、理由などどうでもいい事だ。


 ユイは深く吸い込んだ息を盛大に吐き出した。


「そっかぁ。甘く見過ぎたわね、謎の力とやらを。ただのイカサマ心霊現象の類だとばかり思ってたわ。…やっぱりこんな依頼、受けたのが間違いだったのよ!」

「なぜ受けた?」間を置かずラウルが問う。

 そしてダンが続く。「どうせ金のためだろう!ああそれとも、お前もその辺の女同様、魅力的なラウル様に目が眩んだか?」

 これだけ調子に乗って喋り立てれば、当然ラウルの牽制が入る。

「ダン」

「…失礼いたしました」


「フォルディス様、いいんです。ダンさんの言う通りですから」

「では、私に目が眩んだのか?」

 真顔でそれだけを再確認してくるラウルに、ユイは黙りこくる。

――はいそうです、ハイスペック男子を拝みに来ましたなんて?言えると思う?――


 その上、もう引き返せないくらいのめり込んでしまった。命を差し出しても構わないと思えるくらいに!

 そこまで思える相手は、大尊敬する師匠キハラ・アツシしかいない。それを上回る人物が現れようとは、人生何が起こるか分からない。


「私はフォルディス家の皆さんを騙しました。それは事実だし、言い逃れをするつもりはありません。どうぞ気の済むようにしてください」

「私がおまえを殺すと?」

「お望みならば…」

「やるつもりなら昨日やっていると思わないか」


 言われて気づく。あれだけ無防備に寝入っておいて、何という無警戒振りかと!

「…ですよね」


「一つ確認したい。おまえは先程嘘をついたと言ったが、これまでの言動全てが嘘だったと言う事か?」

「違います!そんな事は決して…」

 ラウルに会ってときめいたのも好意を持ったのも、守りたいと思うのも嘘ではない。あの夜の行為が素晴らしく感じたのも。

 どれも初めから演技ではなかった。


「自分でも不思議なんです。ここへ初めて来た時、父役の依頼人にフォルディス様を紹介されて、確かに娘を演じていました。でも…」


 ユイが言葉を切ったところで、ダンが口を挟んだ。

「令嬢を演じるつもりなら、もっと勉強してからが良かったな!」

「ダン」視線はユイに向いたまま、ラウルの牽制が入る。

「申し訳ございません、思わず…」

「いいんです、その通りです。私にご令嬢役は務まりません。そもそも!私にお金持ちの世界なんて無縁だし?」


 この最後の言葉に、ラウルは少しだけ傷ついた。ユイの物言いに若干の敵意を感じたからだ。生まれてこの方、変わらず富裕層のラウルはこの世界しか知らない。


「おまえは、金持ちが嫌いか?」

「そうですねぇ。だってあんまり、いいイメージないじゃないですか!って…スミマセン、思わず」ダンと似たような言い回しで謝るユイ。

「構わない。話の続きを聞かせてくれ」

「…はい。嘘はその、身分を偽っていた事くらいです。あと名前か。恥ずかしながら、他はほとんど…素でした」


 ラウルもダンも、ユイから一時も視線を逸らさない。

 居た堪れずに下を向くユイ。


「昨日の車内での会話は?」ラウルが質問する。

「あれも全部本当の気持ちです!もう嘘は言いたくなかった…だから、むしろあの事件が起きてくれて良かったなって、あ…ごめんなさい、フォルディス様は襲われたのに不謹慎でしたね」

「おまえだって危険な目に遭っただろう?敵地にたった一人で乗り込むとは!エスパーの私ならともかく、自殺行為だな」


 これにはユイも苦笑するしかない。だがすぐに正面を向いて真顔で言い放った。

「何としてでも、フォルディス様を助けたかったんです。あなたに危害を加えているあの連中が許せなくて!」

「それについては、自分からも感謝いたします」唐突にダンがユイに向かって恭しく頭を下げた。


 そんな律義なダンに見向きもせず、ラウルはユイへの質問を続ける。

「自分の身に危険が及んでさえも、私を助けたかったと言うのか」

「そうです」これにユイは即答した。

「なぜだ?おまえの仕事は私のボディガードではないだろう?」


「ええそうです!仕事だからではありません、好きな人を守りたいと思うのに、理由なんていらないでしょ!」

 勢いで口にしてしまった。ハッとするももう手遅れだ。

――…しまった、つい…――


 ラウルは口元に手を当てて固まっているし、ダンはやや後退っている。

 ダンの心境はこうだ。

――恐れていた事が!…いや、ラウル様に近づけば、誰しもこうなってしまうのは分かっていた事。しかしこの女だけはダメだ!必ずや阻止せねばっ――


 そんな心の声が聞こえたかのように、ラウルはダンに命じた。

「ダン。席を外せ」

「え?しかしっ!」

「廊下で待機しろ。いいと言うまで部屋には入るな」

「ラウル様…っ」


 ラウルがユイに好意を抱いている事を、ダンは知っている。自分がどんなに彼女を警戒するよう言っても聞きはしないのだから。

――今二人きりにすれば、仲が進展してしまうかもしれない!――

 ダンはユイを受け入れていない。邪魔な存在でしかない。


「ダン。私に逆らう気か?」

「ラウル様もご存じでしょう?ユイ・アサギリがその筋でどのように言われているか、思い出してください!」


 その女スナイパーは若い割にやり手でずる賢く、その美貌で男達を容易に取り込み、用済みになれば殺す。依頼遂行のためには容赦ない女。ダンの調査ではこうなっている。

――目の前のこの小娘が、果たしてそうなのかは疑問が残るところだが…警戒するに越した事はない!――


「まさかこの私が、容易に手玉に取られて殺られるとでも言うのか」

「まさかそんなっ、滅相もない!自分はただ…」

「心配するな。ユイ・アサギリの力の源は、今私の手中にあるのだぞ?」

 腕を組んだままのラウルが、デスクの上に置かれたコルトに視線を送って言う。


――おっしゃる通りだ。ラウル様がそう簡単にやられるはずはない。…命令は絶対――

「かしこまりました。何かあればすぐに駆け付けますので…」


 ダンの言葉を遮って、ラウルが出て行くよう顎で促す。

 再度一礼した後、ダンは速やかに退室した。


 二人きりになった室内にて、ユイとラウルは向かい合う。

「ユイ・アサギリ。これを返してほしいか」

「はい。そのためにここへ来ました」

「時に、おまえのここでの仕事は終わったのだろう?」

「まあ…そうとも言えますけど」


 全ての謎と言われるものは、ラウルの超能力が引き起こした事と判明した。

 だが依頼人にどう説明するのか。目の当たりにした自分でさえ信じがたいというのに!


「おまえがここへ来て、今日で十日だ。期間はまだあと四日ほど残っているが…もうその必要はないな」

「それは、どういう意味ですか?」

「お試し期間は終了という事だ」


 当然の流れだ。分かってはいても、ユイは落胆の色を隠せない。

――これでフォルディス様とも終わりかぁ…――


 だがラウルの次の言葉は意外なものだった。


「おまえの依頼人を呼べ。ユイ・アサギリに入った依頼を終わらせる。私が手伝おう」

「…え?」ユイが思わず聞き返す。

「あの男の前で能力を使う。一番手っ取り早い方法だろう」

「それはそうですけど!…いいんですか?」

 突如協力的になったラウルに、当然ユイは警戒する。


「ああ。私としても早々に済ませたい」

「なぜフォルディス様が私の依頼を終わらせたいと?」

「ユイ・アサギリ。おまえに新たな契約を持ち掛けるためだ」

「新たな契約?それはどのような…」

――ボディガードって?でもそんな必要ないだろうし…。一体何だろう――


 首を傾げるユイを眺めていたラウルは、不意に表情を崩した。

「私に好意を寄せている事が嘘でないならば、おまえにとっても悪い話ではないと思う」

「…」

――もしかして、このまま一緒にいられるって事?――


「この人質はその時まで預かっておく。いいな?」

「…分かりました」

 ラウルはそれ以上の説明はしない。取りあえず命の保証を取り付けたユイは応じるしかない。

 素直に応じたユイに満足したラウルは、背もたれに体を預けた。


――そういえば…――

 ラウルはふと思い出し、置時計の横に無造作に置かれた萎れかけの花束に目をやる。

 襲撃を受ける前に買った花束が部屋に届けられていた。律義なダンが運んだのだ。


「ユリにやろうと用意したものだが…あれではもう用をなさないな。それに、ユリはもういない」やや寂し気に呟くラウル。

「えっ、それ!私のために買ってくれてたんですか?嘘でしょ…嬉しいんだけどっ!」

 思わぬ事実を受けて、ユイの顔がパッと明るくなる。

――経験豊富なブロンド美女にあげるためじゃなかったのね!――


 ユイのコロコロと変わる表情に、ラウルは呆気に取られてしまう。

「…」

 そしてユイはと言えば、いつまでも花束を凝視している。

 ラウルは立ち上がって花束を手に取ってみた。


 するとユイが両手を差し出して言う。

「私はユリじゃないですけど…それ、いただいてもいいですか?」

「これはもう萎れている。欲しいなら新しいものを用意するよ」

「いいえ、それで結構です。だってまだまだキレイだもの!お水に浸けてあげれば生き返りますよ、きっと」

「そうか…?」

 ラウルは躊躇いがちに花束を渡した。


 受け取ったユイは心から嬉しそうな顔で微笑んでいる。そんな表情が見られて、ラウルも満更でもない。

――思った通りの顔をする、ユリ…いや、ユイ・アサギリ――


「…あの、フォルディス様」控えめな様子でユイが声を掛けた。

「何だ」

「私の事、ユイと、呼んでくれませんか」

「ああ。分かった、ユイ」

「ありがとうございます」ホッとした表情でユイは微笑んだ。


――例え短い間でも、本名で呼んでほしい…――

 ユイは萎れかけた花束を胸に抱えながら、心の中だけで思うのだった。


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