それぞれの役割
空間を裂いて現れた怪物は、明らかに異常だった。
鹿、形だけなら、そう呼べるかもしれない。
だがその巨体は、普通の鹿の何倍もあった。
体高は2メートル近く。
全身の筋肉は破裂しそうなほど異様に膨れ上がり、頭部から四方に伸びる角は、まるで大量の鉄 串を無理やり束ねて溶接したかのような歪な形状をしている。
首元には肉に焼き付いた焼き網のような金属。脚にはテント用のワイヤーロープや長いペグが深く食い込み、歩くたびにジャラジャラと耳障りな金属音を鳴らしていた。
「なんだよ……あれ……」
旭は息を呑んだ。
この世界に来たときの怪花とはまた違う。暴力的な禍々しさを肌で感じる。
そんな感想を抱いた、まさにその瞬間だった。
「――行く」
ボソリ、と。隣にいた仄が呟いた。
「あっ、おい!」
旭が反応した時にはもう遅かった。
仄の身体が、音もなく地面を蹴る。
「朝比奈さん!?」
結城の、いつになく焦燥を孕んだ声が響く。
「待てってほのの! ガチで何やってんの!?」
玲奈も叫ぶが、仄は一瞥もくれない。
一直線に、猛然と裂け目から現れた不気味な鹿——怪鹿へ向かって駆け出してしまった。
「チッ……!」
背後で蓮司が小さく舌打ちする。
だが、その顔に驚きはない。いつものことなのだろう。
「天城!」
呼ばれて振り返った旭の胸元に、蓮司の手から小さな機械が放り投げられた。
「うわっ、と!」
慌ててキャッチする。小型のインカムだった。
「付けろ。連絡用だ。そいつを追うなら必要になる」
「っ……!」
考えるより先に身体が動いていた。
旭は反射的にインカムを耳へ装着すると、仄の後を追ってがむしゃらに走り出した。
「あ、天城さん!」
今度は理人が慌てて呼び止める。
「一人で行かないで! 連携を――」
「でも、朝比奈が!」
返事も待たず、森の木々の中へと飛び込む。
理屈じゃなかった。あんな化け物相手に、いくら能力者だからって女の子を一人で突っ込ませるなんて、精神的に無理だった。前世がどうあれ、見過ごせるほど旭の心は擦り切れていない。
しかし、
「はっ……、はっ……、くそ、速すぎる……っ!」
仄が速すぎた。
障害物だらけの森の中を野生動物のように駆け抜ける彼女の背中は、どんどん遠ざかっていく。
すぐに肺が焼けるように痛み、脚が鉛のように重くなった。長年、部屋の中でゲームのコントローラーしか握っていなかったツケが、ここ一番の有事で最悪の牙を剥いている。
それでも、執念だけで生い茂る枝を掻き分け、ようやく視界が開けた頃には――既に、仄の絶技とも言える戦闘が始まっていた。
「クズ」
仄が静かに呟く。
直後、怪鹿の足元から太い植物の蔓が爆発的に噴き出した。
蛇のようにうねりながら牙を剥いた蔓が、怪鹿の四肢と胴体を瞬く間にぐるぐる巻きにしていく。強引なまでの急速拘束。怪鹿が怒りの咆哮を上げた。
「すげぇ……」
旭は足をとめ、圧倒されて思わず声を漏らした。
「ヤセウツボ」
さらに仄が追撃の声を乗せると、今度は不気味な赤色の植物が地面から顔を出した。それは怪鹿の肉厚な皮膚へ直接突き刺さるように絡み付き、その生命力を吸い上げるように急速に寄生していく。
怪鹿の動きが、目に見えて鈍った。
押している。完全に仄がハメ技のように圧倒している。
だからこそ――敵の、反撃が視認できなかった。
バキィィィッ!!!
鼓膜を揺らす轟音。
怪鹿が強引に身を捩ると、あれほど強固に見えた蔓が、ただの消しゴムのようにもろく引き千切られて弾け飛んだ。
「!」
仄の無表情な目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、視界から怪鹿の巨体が消えた。
そう錯覚するほどの爆発的な初期微動。地面を派手に抉りながら、弾丸さながらの速度で突進してくる怪鹿は、もはや生き物ではなくただの戦車だった。
「朝比奈――ッ!!」
旭が叫ぶ。
仄も即座に回避行動をとろうとするが、肉薄する巨大な角の方が圧倒的に速い。間に合わない。
またしても、考えるより先に身体が勝手に動いていた。
旭はがむしゃらに地面を蹴り、仄の小さな身体を目がけて思い切り飛び込んだ。
「っ!」
「?」
短い息の詰まる声。
二人まとめて泥にまみれながら、激しく地面を転がる。
直後、ゴォォッ!!! と鼓膜を裂くような風切り音と共に、怪鹿の巨体がすぐ真横を通り過ぎていった。まるでこちらのことはいつでも殺せるかのように。人間がアリのことを気にしないかのように。怪鹿の通った後は凄まじい質量に突撃された大樹がへし折れ、数秒遅れて地響きを立てながら倒れ伏す。凄まじい破壊の跡だった。
「はっ、ひゅ……大丈夫、か……っ!?」
旭は心臓をバクバクと鳴らし、勢い余って口に入った土を吐き出しながら声を絞り出す。
仄はパチパチと数回、不思議そうに瞬きをしたあと。
「……大丈夫」
何事もなかったかのように、平然と立ち上がった。
「いや、大丈夫じゃないだろ!」
緊張の反動もあって、思わず声が大きくなる。
「今の普通に死ぬほど危なかったぞ!? 自覚あんのか!?」
「倒せた」
「倒せてない! むしろ倒されたのあっちの木だからな! 見ろよあれ!」
へし折れた大樹を指差す。
仄はそちらをじっと見つめ、それから、ぽつりと言った。
「惜しかった。……私の能力なら、タイマンが一番確実」
「は?」
「結城は足が遅いし、燃費も最悪。剛柔院はやる気がない上に、前線に来るまで時間がかかる。天城は、能力すら不明の素人」
仄は感情の起伏がない淡々とした声で、冷酷なまでに身内のスペックを並べ立てた。
「足を引っ張る要素を待つ時間は無駄。私が先制して、そのまま処理するのが一番生存率が高い。――これが、一番合理的」
彼女の目に悪気は一切なかった。
ただ、計算機のように冷徹な事実として、自分一人で戦う選択をしたのだと言っている。
「お前さ……」
旭は息を整えながら、思いきり眉を寄せた。
「そんなの、合理的とは言わねぇんだよ」
「……どうして?」
仄が不思議そうに小首を傾げる。
「お前が言ってるのは、ただのソロプレイだ。もし、お前の計算が1ミリでも狂ったらどうするんだよ。さっきみたいに、敵のパワーがお前の想定を超えて拘束を引き千切ってきたら? その瞬間、ゲームオーバーだ!」
「私は……失敗しない」
「現にしただろ。俺が来なかったら、今頃普通にあの角で串刺しにされてたぞ」
「……」
仄はピタリと黙り込んだ。気まずそうに、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「強い奴が一人で全部抱えて突っ走るのは、合理でも何でもない。ただの無謀だ。チームを作るのは、その1ミリの狂いをカバーするためなんだよ。チームには意味があるんだよ。 俺も、結城も、玲奈もいる。全員で考えて戦う方が、よっぽど合理的だ。一人で何も伝えずに勝手に行って不確定要素を作るのは合理的とは言わねーだろ」
しばらく、静寂が流れた。
仄は何かを深く咀嚼するように、長い睫毛を伏せて目を落とす。
だが、彼女は分かったとは言わなかった。
仄は静かに顔を上げると、まだ納得のいかない目を旭に向けた。
「……でも」
「ん?」
「天城が、助けた」
旭は一瞬、思考がフリーズして骨組みが固まった。
「私の計算に、天城の介入は入っていなかった。でも、結果として私は無傷。天城がカバーした。これからそれを考慮して行動する。だから、やっぱり大丈夫」
「そういう話じゃねぇぇ!!」
思わずガシガシと自分の頭を抱えた。
なんだその「天城のカバーまで計算カバーに入れればソロで突っ込んでも合理的」みたいな歪んだ超理論は。自分の言った仲間という言葉を、都合のいいパーツみたいに解釈しやがった。今までにあったことのないタイプの人間だ。どう説得するのが正解か、次の言葉を旭は考える。
すると、その時だった。
耳元のインカムから、バリバリと激しい静電気混じりのノイズが走った。
『天城さん! 朝比奈さん! 聞こえますか!?』
理人の声だ。スピーカー越しでも、彼が尋常ではないほど取り乱しているのが分かった。
『まずいです、至急離脱を!』
「結城か? どうした?」
『界裂生物が、僕たちの観測エリアから移動しました!』
理人の叫びに、旭の背筋が冷たく凍りつく。
『木々をなぎ倒しながら、猛スピードで南進しています! 進行方向の先……あそこには、現役のキャンプ場があります! 人が、たくさんいるんです!現在、相馬教官が避難誘導に向かっています。僕たちもそちらに向かいましょう』
仄の瞳の色が、スッと鋭く変わった。
旭も反射的に顔を上げる。
生い茂る森の向こう。
一般の利用客たちが、何も知らずにのどかな休日を楽しんでいる場所へ向かって。
あの凶悪な暴力の塊が、今まさに牙を剥いて突進していた――。
『界裂生物が移動しました! 進行方向はキャンプ場です!』
インカム越しに響いた理人の叫びには、これまで聞いたことのない焦燥が滲んでいた。
旭と仄は同時に顔を上げる。
説教の続きをしている場合ではなかった。怪鹿は既に動き出している。そしてその先には、何も知らない一般人がいる。
「行くぞ、朝比奈!」
「……ん」
二人は言葉短さに地を蹴り、怪物の足跡を追って猛スピードで森を駆け戻った。
◇
旭たちがキャンプ場へ戻った頃には、既に現場はパニック寸前の騒然とした空気に包まれていた。
「落ち着け! パニックになるな!」
広場に、蓮司の地鳴りのような怒声が鼓膜を揺らす。
「案内看板に従って北側の丘へ移動しろ!命より重い荷物なんてねぇ、余計なもんは全部置いてけ!」
悲鳴を上げるキャンプ客たちを、蓮司は的確な指示でコントロールしていく。普段のやる気のない気怠げな姿からは想像もできないほど、その立ち回りは迅速で、圧倒的な場慣れ感があった。
「あーもう! ガチでめんどくさ!」
そんな悪態を隠そうともせず吐き散らしながら、玲奈も避難誘導に奔走していた。
「ほらそこのキッズ、走ると転ぶからあーしの手握りな! おじいちゃんも荷物置いて! 体1つで上行きな!」
口は最悪に悪いが、手は一瞬たりとも止まらない。小さな子供の手を引き、足元のふらつく高齢者の背中を支えて丘へと押し上げていく。
「玲奈」
一通り客を捌ききった蓮司が、鋭い声で呼びかけた。
「なにー? センセー、あーしも早く逃げたいんだけど」
「避難が終わったら、お前はここに残れ」
玲奈がぴくりと美眉をひそめた。
「は? 何言ってんの」
蓮司は顎で大勢の避難民が進む丘の方向を示した。
「俺はコイツらを安全圏まで送り届ける役目がある。引率だからな」
「じゃあ、今から来るあの化け物は誰が隠密処理すんのよ」
「誰もでもねぇよ」
蓮司はニヤリと、獰猛な肉食獣のように口端を釣り上げた。
「戻ってくる旭と仄に伝えとけ。――さっきの失態は、お前らがここで返せってな」
「……りょーかい。そういうことなら、やってやんし」
玲奈は不敵に、ギャル特有の軽い笑みを浮かべた。
◇
数分後。
蓮司は避難民を引き連れ、観測地点である見晴らしの良い丘へと到着した。
そこには既に理人が待機していた。彼は地面に伏せるような姿勢で寝そべり、大型のスコープ付きライフルを微動だにせず構えている。
「状況は」
背後に立った蓮司が尋ねる。
「接近中。完全にキャンプ場をロックオンしています」
理人はスコープの十字レティクルから目を離さず、淡々と、だが冷徹に答えた。
「予想到達まで、あと一分弱」
「了解。……撃ち漏らすなよ~。結城」
「そんなに煽らないでくださいよ。僕の能力のスペックはそこまで高くありませんから!」
そう言いながらも、理人の引き金にかける指先は、ミリ単位のブレもなく固定されていた。
◇
一方、無人になったキャンプ場に残された玲奈は、小走りで周囲の物品へと次々に触れていた。
「――『硬化』」
木製の重厚なピクニックテーブル。
「『硬化』」
続けてスチール製のバーベキュー台。
「『硬化』!」
乱雑に放置された折り畳み椅子。
玲奈がキャンプ場にあった物品をすべて硬化し尽くしたその瞬間、
「玲奈――ッ!」
背後からの呼気混じりの声。旭だった。
振り返れば、森の斜面を滑り降りるようにして、旭と仄の二人が滑り込んできたところだった。
「遅いし! ガチで待ちくたびれたんだけど!」
「悪かったな、これでも死ぬ気で走ってきたんだよ!」
「はいはい、朝比奈の世話係ご苦労様って感じー」
「だから誰が世話係だ!」
息を切らしながらツッコむ旭だったが、玲奈はそこで「あ」と何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。忘れるとこだったし。相馬先生からの伝言」
「相馬先生から?」
「『さっきの失態は、お前らがここで返せ』ってさ」
――さっきの失態。
つまり、数分前に森の中で仕損じた、あの突撃の落とし前をここでつけろということだ。
旭の胸の奥が熱く跳ねる。
隣の仄も、小さく小首を傾げながらも、その瞳の奥に静かな闘志の炎を灯した。
さっきはソロプレイで失敗した。だけど、今は違う。
「……上等だろ」
旭が不敵に口端を上げた。
「ならここにあるヤツ、全部積み上げてくんない?」
玲奈は硬化した物品を指さし、旭達に命令する。
三人で無理やり山積みに上げていった。最後に仄が蔓でがっちりと結合し、完成した。
見た目こそゴミの山のような雑なバリケードだが強度も高度も一級品だろう。そう旭は誇らしげに鼻を鳴らした。
「よしっ……!」
額の汗を手の甲で拭い、玲奈は腰に手を当てて前方を睨みつけた。
「来るなら来いっての。あーしらのバリケー、舐めんなし」
そう呟いた、直後だった。
◇
ガシィン! ガシィン! ガシィン!
森の奥から、硬い金属が岩を穿つような耳障りな足音が響き渡る。
ペグが食い込んだ四肢。間違いなく、あの怪鹿だ。木々を強引になぎ倒しながら、凄まじい質量がこちらへ直進してくる。
「来た……っ!」
バリバリと音を立てて最後の木々が弾け飛び、広場にその巨躯が躍り出る。
体高2メートルを超える、異形の怪鹿。
四方に突き出す大量の鉄串の角。首元で焼き付いた焼き網。肉を緊縛するワイヤーロープ。そしてその背中には、先ほどの旭との小競り合いでへし折った大樹の枝と、引き裂かれたカラフルなテント生地がボロ布のように絡みつき、その禍々しさを増幅させていた。
怪鹿は、赤く濁った憎悪の瞳で、立ち塞がる三人を明確に捉えた。
ごう、と肌を刺すようなプレッシャーがキャンプ場を支配する。
◇
丘の上。
理人がレンズの向こうの光景を捉える。
「――接敵を確認」
息を吐き出し、引き金へかけた指にじわりとトルクをかける。
「これより、戦闘を開始します」
◇
怪鹿の蹄が、爆発的な力で地面を爆破した。
突進。その巨体からは到底信じられないほどの初期加速。一直線に、玲奈の作った防壁を目指して特攻してくる。
「来たし! バリケーで受け止めるから後ろ頼んだよ!」
玲奈が防壁の裏で身構え、叫ぶ。
「玲奈に合わせろ、朝比奈!」
旭が前線を見据えて鋭く叫び、身構える。
「……了解」
仄の瞳にスッと植物の緑の燐光が宿り、静かに地面へと両手を添えた。
「あさひっちは?」
「俺は……アイツに嫌われてやるよ」
「は?」
「?」
問題児クラス。
歪で、噛み合わない彼らの、これが初めての共同実戦。
その血煙混じりの幕が、今まさに切って落とされた――。




