消えた傷痕
「いや〜。すごい人だかりだったなぁ……」
隊服を雑に腕へ掛け、泥と埃に塗れたスーツに身を包んだまま、旭は半分だけ赤く染まった白いマスクを装着して仄の隣を歩いていた。
「それより……傷……大丈夫?」
「ん? あぁ……平気平気! これくらいどうってことねぇよ!」
心配そうに視線を向けてくる仄に対し、旭はどこか誇らしげに満面の笑みを浮かべてみせる。
西の空に沈みゆく夕日はすでに山端へと消えかけており、群青色の夜の気配が少しずつ街を包み込もうとしていた。
「それにさ、あの時加勢してくれただろ! めちゃくちゃ嬉しかったぜ!」
「……チーム……だから」
「……さっきからチーム、チームってなんだよ。」
「旭が……教えてくれた」
「そりゃそうだけどよぉ~! なんかそんな急に意識変えられても、こっちが困るっていうかさ~!」
「?」
「なんていうの? もっとこう……グラデーション?っていうの? 段階を踏んでじわじわ変わっていくっていうかさ……。そんな急に態度が変わると、リアクションに困るっていうか……。分かんだろ?」
「……?」
「そこはピンと来いよ!!ッツ――!?」
ノリノリでツッコミを入れた旭だったが、思わず全身に不要な力が入ってしまったらしい。
過負荷に耐え抜いたばかりの筋肉と細胞が一斉に悲鳴を上げ、ふらりと体勢が崩れる。閉じかけた額の傷口から、再び一筋の赤い血が頬をつたって垂れ落ちた。
「……やっぱり傷が……! 立ち止まって!」
「だから、このくらい平気だって……」
「……どうして……っ! コアシャフトも、旭も……どうして誰も自分の身体を心配しないの……!?」
普段は感情をほとんど表に出さない仄が、珍しく感情を昂ぶらせて声を荒らげる。
息を呑む旭に対し、仄はぎゅっと拳を握りしめ、責めるような、けれどどこか傷ついたような瞳で彼を見つめていた。
「……言っただろ? 俺はもう……あの時、助けてもらったんだよ」
「だからって……っ!」
「今度は、俺が誰かを助ける番なんだ」
(……それに、これは俺自身の『人生のやり直し』でもあるんだからな……)
口には出さず、胸の奥だけでそう呟く。
しかし、仄の真剣な眼差しに気圧された旭は、ポリポリと頭を掻きながら気まずそうに目を逸らした。
「……まぁ、これからも色々と迷惑かけることについては、今も未来の分も含めて謝っておく! 本当にごめん!」
旭は両手をパンと合わせ、背中を小さく丸めて平謝りする。
その拍子に、ふと自分の着ている服装へ視線が向かった。
「それにしても……随分と汚しちまったな。血と泥でドロドロだ……。さすがにこのまま帰るわけにもいかないし、着替えるか。なぁ仄、俺あそこの路地裏でさっと着替えてくるわ!」
「……うん」
(……やっぱり、旭も自分勝手……)
疾走するように路地裏へと駆け込んでいく旭の後ろ姿を、仄はただじっと見つめていた。
彼のペースにすっかり呑まれ、本当はもっと言いたいことがあったはずなのに、胸の奥に言葉が引っかかったまま離れてくれない。
モヤモヤとした、名前のつかない不快で、けれどどこか愛おしいような不思議な感覚。
それは――朝比奈仄という名の人生4年で、初めて味わう感情だった。
◇
「……ようやく、きちんとした意識が戻ってきたのう」
脳裏の奥底で、重く響き渡る誰かの声。
聞き覚えなど全くない、どこか浮世離れした不気味な老人のような語り口だった。
「自力で『立夏』を編み出すとは……想像以上だで」
「……誰だ……!?」
闇の中で、旭はその謎の声に向かって問いかける。
「……そんなこと――」
返答と同時に、旭の意識と視界が爆発的な白光によって塗りつぶされていく。
「――駒のお前が、知ることではないのう」
◇
「うっ……!」
強烈な眩しさに跳ね起き、足で勢いよく布団を蹴飛ばしながら、旭は顔の上に両手をかざした。
「眩し……っ……って、あれ?」
旭が目を覚ましたのは、見慣れた天井と使い古された家具が並ぶ場所――いつも通り寝起きを繰り返している、己の部屋『雨宮荘』であった。
「ん……? 夢……か……?」
重い体をゆっくりと起こし、部屋の壁に立てかけられた全身鏡へと目をやる。
鏡に映った自分の頭部には重々に包帯が巻かれ、頬にも大きな絆創膏が貼られていた。まさに激戦を潜り抜けてきた戦いの勲章そのものが刻み込まれている。
「怪我してる……ってことは、夢じゃない……? ……って、あれ? 俺……なんでここに……?」
「あ! 旭兄ちゃんが起きた!」
自室の扉からひょこっと顔を覗かせた蒼太が、旭の無事を確認するやいなや、廊下に向かって大声で叫んだ。
「お姉ちゃん! 旭兄ちゃんが目を覚ましたよーっ!」
その叫び声を合図に、階段をドタドタと賑やかに駆け上がってくる足音が部屋に向かって近づいてきた――。
「旭! 大丈夫なの!?」
詩織が焦った様子で駆け寄り、起き上がろうとする旭の背中を慌てて支えた。
「俺……」
「昨日、本当に大変だったのよ! 仄ちゃんって女の子がね、旭を背負って雨宮荘を尋ねてきたんだから!」
「そ、そうだったのか……! ってか、あいつ俺の家知ってたのか……?」
「旭がうなされながら雨宮荘って呟いてたり、みんなの名前を呼んでたりしてたらしいわ」
「うわぁ……うわ言を言って家までおぶられるとか、まるで酔っ払いじゃん……」
「それだけじゃないよ! 旭兄ちゃん、上だけ裸だったんだよ!」
「は? ………………あ! 思い出した! 俺、あのあと路地裏で着替えようとしてたんだ!」
「そうよ! 無理してるのに路地裏で着替えようとして、結局そのまま気絶しちゃうなんて! 仄ちゃんにきちんとお礼を言っておきなさいよ!」
「そうだな……。でも詩織さんも蒼太も、手当てとか色々とありがとな!」
「手当ても仄ちゃんが大半をやってくれたのよ! 全く、外で何をしてきたのか知らないけれど……どうしてそんな傷だらけになるまで無茶をするのよ……」
「本当に……合わせる顔がねぇ……」
「僕はね! 僕はね! 旭兄ちゃんにパジャマを着せてあげたんだよ!」
「そんなお人形さんみたいに……。本当に申し訳ありませんでした!」
旭はすぐさまベッドから飛び降りると、詩織たちに向かって畳に勢いよく頭を下げた。
「いいから! 頭を上げて! 怪我人なんだから、今日は大人しく休んでいなさい!」
「でも……不思議と痛みはもうないんだよ……」
「またそうやって我慢して! そうやって昨日も無理をしたから倒れたんでしょう!?」
「そうだけどさ……」
「ほら、いいから横になりなさい!」
「うぅ……」
(でも……この感じ……なんか、どこかで……)
詩織に押し戻されそうになりながら、旭は薄れる意識の中で見たあの光景を思い出そうとする。
まるで自分の意識と感覚が、あそことは違う異次元の領域に確かに存在していたかのような、不思議な夢。よく考えればあの時も――目覚めたあとは、全身を苛んでいた激しい筋肉痛や疲労が綺麗サッパリ消え去っていた。
(もしかして……っ)
何か重大な事実に思い当たった旭は、突如として頭に巻かれていた包帯の端を掴み、ぐるぐると勢いよく外し始めた。
「ちょっと! 何やってるのよ旭!」
慌てて詩織が制止しようとする。
――パラパラパラ……
解き明かされた包帯。傷口に当たっていたであろう箇所は、規則的な円状に黒く変色して壊死した血液が固着していた。それが床の上へと力なく落ちていく。
「……これ、見てみてくれ」
旭は前髪を上げ、詩織たちへ向けて己の額を剥き出しにした。
「嘘……でしょ……っ!?」
詩織の瞳が驚愕に大きく見開かれる。
彼女が見たのは――昨日まで痛々しく血を流し、刻まれていたはずの傷などではなく、すでに乾いて綺麗な瘡蓋と化している旭の額であった。
「どうして……っ? 確かに昨日までは、ここに酷い怪我があったのに……」
信じられない様子で、詩織は旭の額へとそっと手を伸ばし、その肌を優しくさする。だが指先に触れる感触は、やはり軽症の傷痕特有の瘡蓋の硬さだけであった。
「一体、どういうことなの……?」
「きっと旭兄ちゃんの能力なんだよ! 無敵なんだ!」
「……でも、旭の能力って『自分のデコイを出現させる』やつなんじゃ……」
「……俺自身も、正直よく分かってないんだ。どうして昨日の怪我がここまで急激に癒えているのかも……」
(それに……あの気味が悪い夢の正体も……)
一瞬、旭の表情が陰り、暗い影が落ちる。あの夢の中で囁かれた立夏という謎の言葉。そして「お前は駒だ」と吐き捨てた謎の声――。
「分からないことだらけだからこそ……俺は早く一人前のイグゼクターになって、この世界の真実を知りたいんだ」
己の拳を握りしめ、旭は静かだが揺るぎない決意をその瞳に宿した。
「ふぅ……。分かったわ。行ってらっしゃい! 行って、さっさと自分が本当は誰なのかを確かめてきなさい!」
「あぁ。分かった!」
「ま、旭が何者であっても、私たちには今更関係ないけれどね!」
「え?」
「もう家族みたいなものだよ! えへへ~」
蒼太が嬉しそうにニカッと満面の笑みを旭に向けた。
「……ふっ。そうだな。じゃあ、これからも遠慮なくお世話になるとするか」
「うん! ずっといていいよ!」
「ほら、蒼太はもう学校へ行く時間じゃないの? 教習所には私から連絡を入れておくから、旭は大人しく身支度してなさい」
「ぶ~っ!」
蒼太は頬を膨らませると、べーっと舌を出して抗議の意を示した。
「本当に……助かるよ」
詩織は旭と年齢が二歳しか離れていない。にもかかわらず、雨宮荘の切り盛りから二人の面倒まで完璧にこなす彼女の見事なお母さんっぷりには、旭もただ感服するばかりであった。
◇
「行ってきま~す!」
隊服へと着替えを済ませた旭は、見慣れた通学路を軽快な足取りで教習所へと向かっていた。
(……それにしても、最近零さんと会わないなぁ……)
ここ最近、いつもと同じ通学路を使っているはずなのだが、なぜか零の姿を見かけることがなくなっていた。ちょうど、あの怪鶏の事件があった翌日あたりから、ぱったりと遭遇しなくなっている。
「やっぱり……忙しくなったのかなぁ……」
自然と声が漏れ出る。
入学当初、教官の高城が『特待生クラスの生徒は、すでにプロのイグゼクターに帯同して実践活動を行っている』と言っていたのを思い出す。もしかしたら、どこか遠方の現場へ長期の遠征にでも出ているのかもしれない。
「はぁ~……。もっと話したかったのになぁ……」
歩きながら呟く独り言の回数が増えていく。
――いや、正直に言ってしまえば、これは旭の淡い下心が生み出した密かな再会作戦でもあった。
初めて零に声をかけてもらったあの時も、確かこうして一人でブツブツと独り言を呟いていた状況だったのだ。もしかしたら、今日もどこからか「また独り言?」なんて声をかけてもらえるんじゃないか――そんな淡い期待。
(……あるわけねぇよな。絶対ないって)
心のどこかでは冷めた自分が「そんな都合の良い奇跡があるか」と澄まし顔で笑っている。
だが、論理もへったくれもない苦く青臭い淡望を捨てきれず、旭は懲りずにひとりごちていた。
「はぁ……。結局、会えなかったか……」
そうこうしているうちに、視界の先に教習所の敷地が見えてきた。
よくよく考えたら、今日の登校スケジュールは普段よりも少し遅めの時間に出発していた。その事実に気づいたのは、教習所の巨大な校門を目にした瞬間だった。
「はぁ……今日は一日中……座学かぁ……。めちゃくちゃ面倒くせぇ……」
静まり返った校門をくぐり抜け、教習所の校舎へ入ろうとしたその瞬間――入口の影に誰かが立っていることに気づき、旭は足を止めた。
「よっ。怪我の具合はどうだ?」
「蓮司さん! おはようございます!」
「なんだ、案外元気そうじゃねぇか」
「はは……。でも、もうとっくに授業の時間ですよね? 理人たちも先に行っちゃったんじゃ……」
「今日は予定を変更した」
「変更……ですか?」
「なぁ……天城。話は聞いたぜぇ? 朝比奈がお前をおぶって、雨宮荘まで送り届けてくれたんだってな」
「へ? ま、まぁ、そうですけど……」
「その光景、俺も一目見てみたかったところだが……一体どうしてそんな状況になったんだぁ?」
そう言って、蓮司はニヤリと口角を上げながら、ゆっくりと旭へ顔を近づけてきた。
その鋭い眼光を正面から浴びせられ、旭は瞬時に悟る。
(――しまっ……! 蓮司さん、怪しんでやがる……!)
昨日の界裂生物との激闘。自分たちがその現場に居合わせ、討伐に関わっていたのではないかという疑念。当然、あの現場にいた全プロイグゼクターおよび関係者に対し、自分たちの介入は徹底して隠し通さなければならない。そのためにわざわざダサいコスチュームまで用意して身分を偽装したのだ。ここで口を滑らせるわけには絶対にいかなかった。
「い、いや~……なんかぁ……近くで、大きなビルが崩落してきちゃって……」
「ほぅ? それに巻き込まれた、と?」
「そ、そんな感じ……かなぁ……なんて……」
冷や汗が背筋を伝い落ちるのを感じながら、旭は薄い笑みを浮かべて必死に誤魔化そうと試みた――。
「そいつぁ、災難だったな……。確か討伐されたのは……モグラの界裂生物だったろ? 迷惑な奴だぜ、まったく」
「いや、蓮司さん! 昨日のあれはモグラじゃなく――っ!?」
「ん~? モグラじゃねぇのか?」
「いやいや! ホントにモグラみたいな奴だったのかなぁ~って! ハハハ……! ほら、俺って本物のモグラ見たことないですし……!」
「ふ~ん。そういや昨日の奴と言えば、ほんの少しだがニュースの中継に『オレンジ色のコスチュームを着たイグゼクター』が映っていたって話だな。誰も正体はおろか、名前すら知らねぇ謎の新人だってよ。天城、何か知ってるか?」
「い、いや~? 全然知らないなぁ~! 俺なんて昨日はずっとベッドの上でお陀仏でしたしね~!」
「ふ~~ん……。あーダメだダメ! 面倒くさい駆け引きは止めだ止め! お前のことだ……どうせ影でこっそり討伐に参加したんだろ?」
耳元へそっと吹き込まれた鋭すぎる指摘に、旭は過剰に反応してしまわないよう、全身の筋肉を硬直させて必死に耐えた。
「そんなこと、するわけないじゃないですか~! 蓮司さんったら、もう! 冗談はおやめくださいよ~!」
「そうかぁ? まぁ天城がいくらしらばっくれてもな。ニュースに朝比奈がばっちり映ってた訳でね。今日、朝比奈に直接聞いてみたら『普通に旭と一緒に参加した』って白状したぜ?」
「はぁ!? マジかよあいつ……! 朝比奈ぁ~! それは絶対に言っちゃダメなやつだろ~っ!?」
「――別に、朝比奈は何も言ってないぜ? 鎌をかけただけだ」
「………………は?」
「ま、詳しい話は道場で聞こうかな」
「へ?」




