狂犬の旭
「いやぁ~! びっくりしたよぉ~!」
「あ! あん時のおじいさん!」
旭が間一髪で助け上げた清掃員の老人は、以前、零と一緒にこの教習所へ登校した際に出会った半屍冥だった。
「そのまま下に叩きつけられるかと思ったが……まさかこの歳になって、男の人に抱き抱えられるとは思わんかったよのぉ……。ありがとねぇ、旭くん」
「旭っ……!? って……あの、天城旭か……!?」
「おい嘘だろ……あの狂犬の……!?」
静まり返っていた廊下が一転し、蜂の巣をつついたようなざわめきに包まれ始める。先ほどまでの死に絶えたような沈黙が嘘のようだ。
だが、それは助かった老人を喜ぶような大歓声ではない。全員が一定の距離を保ち、チラチラと引き攣った目配せを交わしながら、仲間内でコソコソと怯えるように噂話を囁き合っている。
旭にとって、お世辞にも気持ちの良い状況ではなかった。
(……ん? 俺……そんな有名人なのか……?)
アニメや漫画のお決まり展開なら、ここでピンチを救った主人公として「すげぇ!」「あいつ何者だ!?」と一目置かれ、クラスの英雄扱いされるポジションのはずだ。
(……にしては、みんなの目があまりいい目じゃないのは気のせいか……? 俺が問題児クラスにいることなんて、他の奴らは知らないはずだし……)
「旭さん……」
「あ! 世羅、悪りぃ!」
「何を謝ることが……。あなたは紛れもなく、人の人生を変えたのですよ」
(この清掃員の老人も……そして、僕のことも)
足がすくみ、ほとんど諦めていた自分。その目の前で言葉ではなく圧倒的な結果で見せつけてくれた旭の存在が、世羅の胸の奥にあった燻りを静かに溶かしていく。
世羅の声は、先ほどまでの悔しさを通り抜け、澄み切った落ち着きを取り戻していた。
「行きましょう。僕も、旭さんと話したいことがありますから」
「お、おう……。それじゃあ……半屍冥さん、また!」
「いやいや! いっぱい強くなって、未来を守ってくれよぉ!」
「まかしとけい!」
「零ちゃんとも仲良くしてやってくれ……」
「分かったぜ!」
笑顔で手を振り、旭は白石教官と世羅と共に、異様な熱を孕んだざわめく廊下を後にした。
◇
道場に着くと、旭は再び道着姿になり、気合を入れ直して世羅に向き合った。
「よっし! 改めて特訓頼むぜ!」
「……その件のことで」
「ん? どうかしたか?」
世羅は真剣な眼差しで旭をまっすぐに見つめると、2メートルを超える巨躯を深く折り曲げ、6本の腕を胸の前で丁寧に揃えて頭を下げた。
「……僕を。僕を正式に旭さんの弟子にしてください!」
「ちょ、ちょっと待て!? いきなりどうしたんだ!?」
「『狂犬の旭』。その異名を、先ほどこの目で確かに実感しました」
「きょ、狂犬の……旭……!?」
あまりにも聞き覚えのない物騒すぎるあだ名。そんな噂、蓮司や理人達からも一度だって聞いたことがない。
(もしかして……さっきの廊下のみんなの引き攣った反応って、これか……!?)
一人で冷や汗を流す旭を余所に、世羅は静かな、しかし情熱を秘めたトーンで語り続けた。
「イグゼクター協会を否定し、裏でクーデターを起こすための集団……『特異適性クラス』」
「は?」
「天城旭。中途試験で合格するほどの実力者でありながら、なぜかその凶悪なクラスへと自ら足を踏み入れた奇妙な生徒」
「は??」
「手始めにトレーニングジムにて、特異適性クラスを侮辱した者たちを圧倒的な力でねじ伏せ、瞬く間に教習所内にその悪名を轟かせ……」
「は???」
「あろうことか、協会の指揮官トップである神条指揮官に真っ向から宣戦布告。自らの担当である相馬教官へ絶対の忠義を示した……。己の身を顧みず、仲間に手を出す者にはどんな相手であろうと容赦なく噛みつく男。それゆえについた二名こそ――『狂犬の旭』」
「は?????」
「教習所内では、すでにそう噂されています」
(いや尾ひれのつき方が異常だよ!!? なんだよクーデター集団って! そんな危険な思想なんて持ってねーよ! しかもなんだよ狂犬の旭って! ……まぁちょっと格好いいな……)
世羅のあまりにも完成されたストーリーに、旭の頭の中は限界突破を起こしていた。
「世羅! ちょっと落ち着くんだ! な? いいか!?」
「僕も、最初は疑っていたのです……」
「いや! 話を聞けって! 止まれよ!」
しかし、一度熱の入った世羅の真面目な熱弁は止まらない。
「生徒個々の伸び悩む能力や、直視せねばならない課題を集中して矯正していく……それこそが特異適性クラスの本来の意義。そのクラスが実はクーデター集団だったなどという絵空事、到底信じられるわけがありません」
「世羅くんは真面目だからね☆」
「え? 白石教官まで話に入ってくるの!?」
「ましてや、現代のイグゼクター協会に反発するなど正気の沙汰ではない。一体どのような風貌の男なのか、狂犬と呼ばれるほどの力は本物なのか……それを確かめたくて、僕は今日ここへ来たのです」
「そう☆ 本来の特訓は僕と天城くんだけだったのさ☆」
「そして実際にあった結果は……言うまでもありません。僕を見ても物怖じしない胆力。溢れる武道のセンス。極めつけは……先ほどの廊下での出来事です!」
「僕も驚いちゃったよ☆」
「あの中でただ一人動けたのは、旭さん……あなただけでした」
(……よし、1回全部聞いてから整理しよう……)
旭は反論を諦め、心の中で諦観の境地で腕を組んだ。
「旭さんは仰いましたね。『共に高め合っていこう』と。ですがあのような差を見せつけられた以上! 僕が旭さんと同じ高みにいるとは到底思えません!」
「世羅くん……☆ よく言ったねぇ☆」
白石教官が感極まった様子で、ずび〜とハンカチで盛大に鼻をかんでいる。
「お願いします! 僕を……旭さんの弟子にしてください!」
二メートルを超える巨躯を限界まで深く折り曲げ、六本の腕を恭しく揃えて、世羅は旭に最大限の誠意を示した。
「世羅……」
「はい!」
「……言いたいことはいっぱいあるけど……要するに、友達になってほしいってことでいいんだろ?」
「い、いえ! 弟子にしていただきたいのです!」
「弟子よりも友達の方がいいぜ、俺は」
「ですがっ……!」
「世羅の言う俺の強みってのは、自分じゃさっぱり分からないしな」
旭は頭を掻きながら、困ったように苦笑いを浮かべた。
「弟子とか師匠なんて大層なもんじゃないって。そもそも俺、午前中に軸と重心を教えてもらったばっかりの超初心者だぞ? 2メートルの強打者に教えられることなんて何もないって!」
「いいえ! 先ほどの一瞬の踏み込み、そして迷いのない初動……間違いなく旭さんの中には、言葉では表現しきれない至高の何かが存在しています! 弟子としてそのお側で学ばせてください!」
「いや頑固だな!?」
思わぬ方向への熱血ぶりに旭が頭を抱えていると、白石教官が「アハ☆」と手を打ち鳴らした。
「世羅くん☆ そこまで言うなら、まずは観察から始めてみたらどうだい☆?」
「か、観察……ですか?」
「観察って?」
旭が尋ねると、白石教官は人差し指をチチッと振った。
「天城くんの強さの秘密を、世羅くん自身の目でじっくり分析するのさ☆ 弟子入りするかどうかは、それからでも遅くないんじゃないかな☆」
「……なるほど! 旭さんの日常の身ごなし、思考、そして無意識の体の使い方……それらを徹底的に観察し、その強さの源泉を解き明かす……! 素晴らしい提案です、白石教官!」
「えっ、ちょっと待って? なんか背後にストーカーが憑くみたいな流れになってない!?」
世羅はカッと目を見開くと、胸の前で6本の拳をギュッと握りしめた。
「決まりました! 旭さん、まずはあなたを極限まで『観察』させていただき、その強さを掴み取ってみせます! ですので……本日の実戦組手は一旦見送らせてください! 生半可な状態であなたと手合わせするなど失礼にあたります!」
「いや特訓はしようよ!? 俺、午前中めちゃくちゃやる気満々だったんだけど!?」
「では、失礼します! 観察日記のノートを用意してまいります!」
「ノート作ろうとしてるじゃん!! 待てって、世羅ぁー!!」
(俺は夏休みの宿題のアサガオじゃねーっての……)
風のように道場を飛び出していく6本腕の巨体。
取り残された旭は、ガクッと肩を落として道場の天井を見上げるしかなかった。
「アハ☆ 賑やかでいいねぇ☆ それじゃあ天城くん、世羅くんが戻るまで僕とマンツーマンで重心の反復練習といこうか☆」
「……ハッ★(もうなるようになれ……)」
◇
「う〜ん☆ 惜しい☆!!」
「能力がブレブレさ☆ こんなのすぐに分かってしまうよ☆ 聞いてるかい☆」
「白石教官、それデコイです」
数メートル離れた畳の上で、本物の旭が額の汗を拭いながら声を上げる。
「アハ☆ 冗談さ☆」
(見破れてなかっただろ絶対……)
世羅が去った後、基本の体術を概ね会得できたと判断された旭は、自身の『陽炎』を組み合わせた実戦形式の特訓へと移行していた。しかし、先ほどのように無意識ではなく意識的に出そうとすると、なかなか上手くいかない。
「う〜ん。なんか綺麗にできないなぁ……。さっきはもっと自然に身体が動いたのに……」
「そうだねぇ☆ 無意識でできたことを意識して再現するのは、武道の第一歩であり一番の難関だからね☆」
「ふぅ~。相変わらず体力使うぜ~」
白石教官はくるりと爽やかに1回転して旭に向き直ると、ふっと笑みを深めた。
「ねぇ、天城くん☆ 君は『能力』って、一体どこから来ると思う☆?」
「確か……身体の体力とかとは別に、特別なエネルギーがあるんだろ? そのエネルギーを使って能力を発動させてるんじゃないのか?」
「ノンノン☆ 僕が言いたいのは、そのもっと手前の話さ☆ そのエネルギーは、一体何によって引き出されるのか……ってこと☆」
「というと……?」
「能力の源☆ 天城くんには、最初の基礎から詳しく説明してあげた方がいいかもしれないね☆」
「へ?」
「今現在、能力の源には大きく分けて3つの説が考えられている。……そもそも俺らが普段『能力』と呼んでいるものの正式名称は『異能質』。
1つ目は、人間の悲しみや憎悪といった負の感情から異能質が顕現するという『厄心説』。
2つ目が、情熱や守りたいという正の感情から顕現する『祥心説』。
そして3つ目が、そのどちらの感情も合わさって顕現するという『双心説』だ」
道場の入り口から、聞き覚えのある低く落ち着いた声が響いた。
振り返ると、腕を組みながら道場の柱に背を預けている相馬蓮司の姿があった。
「アハ☆ 良いところだったのに、蓮司に横取りされちゃった☆」
「お前が前置きを気取って無駄に長引かせるからだろ、白石。……特訓の進み具合を見に来てみれば、なかなか面白いことを教えているじゃないか」
蓮司は足音もなく道場の畳を踏みしめ、旭と白石の元へと歩み寄ってくる。
「蓮司さん!」
「あの……それって源をわざわざ説として分ける意味ってあるんですか? 結局どれも感情で発動するなら、同じような気も……」
旭の率直な疑問に、蓮司は小さく口角を上げた。
「大ありだ。車のエンジンに合わない燃料を突っ込めば壊れるだろ。それと同じだ。厄心の人間が無理に正の感情で能力を出そうとしたり、その逆をやれば……最悪の場合、急な負担に耐えきれず心身共に壊れるか異能質が暴走して己を喰う。異能質の『源』を知るってのは、自分の限界と危険域を知るってことだ」
「暴走……」
「ま、と言うわけだ。異能質にはその源が関わっているが、詳しいことは分かっていない」
「どっちの説が正しいかよりも、大切なのは気持ちを込めて能力を出すことさ☆」
「気持ちを込める……いや、込めてはいるんだけどな」
「とりあえず、今日はここまで☆ 次は3日後かな☆」
「あぁ。それまでに自分でも考えてみるよ」
「アハ☆ 熱血なのは嫌いじゃないよ☆」
「そんじゃ! ありがとうございました!」
白石教官に一礼し、旭は蓮司と共に道場を後にした。
――数分後。
バンッ! ガラガラガラッ!!
「旭さん! さっそく色々と質問させていただきたいのですが――!!」
分厚い新品のノートとペンを握りしめ、息を切らせた世羅が勢いよく道場の引き戸を開け放った。6本の腕にみなぎる圧倒的な情熱とやる気。
だが、静まり返った道場の中に、お目当ての少年の姿はなかった。
「もう帰ったよ☆」
「え……」
白石教官の爽やかすぎるスマイルと一言が、道場にむなしく響き渡ったのだった。
◇
「見てよ、蓮司さん!」
廊下を二人で並んで歩いている最中、旭が自慢げに声を弾ませた。
そして、今日白石教官と世羅から叩き込まれた軸と重心を意識した歩き方を、蓮司の目の前でドヤ顔で実践してみせた。
「お、おお……! もうそんなコツを掴んだのか」
「だろー! 才能があるって世羅にも白石教官にも褒められたんだぜ!」
「へぇ〜……。その世羅はさっき、ノートを抱えてらしくもなく廊下を爆走していたんだがな」
「う〜ん。それは一体なんでだろうねぇ」
これ以上話がややこしくなるのは避けたかった旭は、口を滑らせないよう遠い目をしてすっとぼけた。
「あ! そういえば世羅から聞いたんだけどさ。特異適性クラスがクーデター集団だとか、俺が神条のヤツに宣戦布告したとか、教習所内で変な噂が広まってるらしいぜ!」
「らしいな。どうやら神条側の回し者が、意図的に尾ひれをつけて広めて回ったんだろうよ」
「やっぱりか!……って、えぇ!? 良いのかよ言われっぱなしで! 日に日に俺たちのクラスの肩身が狭くなってんじゃん!」
「まぁ、なんとかなるだろ」
「なんか他人事過ぎない!!? 担任だろ!?」
右から左へと軽々しく聞き流す蓮司の態度に、旭は思わず頭を抱えて叫んだ。
特訓の時はあんなに頼りになるのに、こういう時は呆れるほどいい加減だ。理人が以前言っていた「あの人に期待したら負け」というのは、まさにこういうところなのだろう。
「そんじゃ。俺はまだまだやることがあるからよ。また明日な」
「……まぁ……また明日」
旭は半ば呆れつつも、肩から腕まで大きく使ってぶんぶんと手を振った。蓮司は背を向けたまま、手首だけをひらひらと揺らしてそれに応える。
夕巾着の影が長く伸びる廊下で、去っていく担当教官の背中を見送りながら、旭は小さく息を吐いた。
(……クーデター集団に、狂犬の旭、か)
自分の意図しないところで勝手に巨大化していく噂。
「ハァ……こんなんで卒業できんのかな、マジで……」
文句を零しながらも、旭は今日体得したことを意識しながら、一歩一歩しっかりと踏みしめて帰ろうとしていた。
――とその時。
「あ」
「うん?」
校舎の曲がり角で、仄と鉢合わせた。
「朝比奈も今から帰りか?」
「うん」
「俺もなんだ。一緒に帰ろうぜ」
「……うん、いいよ」
仄は小さく頷くと、旭の隣へと並んで歩き出した。
夕巾着のオレンジ色が二人の影を廊下に長く伸ばしていく。




