歪
「……そして、これが突きです」
シュッ――!
風を切る強烈な素振りとともに、旭の目の前数センチのところで世羅の拳がピタリと止まった。あまりの速さと迫力に、旭の頬を風圧が撫でていく。
「すっげー迫力……」
「ありがとうございます。では、今お教えした一通りの動作を流してやってみましょうか」
「あ、ああ……! えーっと、まずは立ち方から……だな」
旭は深く息を吐き出すと、世羅の真似をして脚を肩幅に開いた。
「最初は、骨盤を立てることを意識してください。頭のてっぺんから足の裏まで、一本の柱が通っているようなイメージです」
(一本の柱……骨盤を立てる……)
アニメや漫画でよく耳にしていた重心移動や軸という言葉。かつて部屋のベッドの上で作品を観ていた頃は「ふーん」と聞き流していただけの概念だったが、いざ自分の体で実践するとなると想像以上に難しい。
自分の身体の内側に意識を集中させてみる。
骨盤をぐっと垂直に起こすと、腹の底――へその下あたり(丹田)に、ずしりと重い鉛の玉のようなものが落ちていく感覚があった。
(あ、これか……? 今まではかかと側に体重がかかってたけど、みぞおちから腰、へその下へ……重さを真下に落とすイメージ……)
揺らぐ船の上に立っているような不安定さから、急に足の裏がしっかりと畳に吸い付くような感覚へと変わる。上半身の余計な力が抜け、逆に下半身がどっしりと安定した。
「……うん、すごく良い姿勢ですよ、旭さん。飲み込みが早いです」
「おう? そうか……?」
「えい☆」
「っとぉ!?」
突然、横から白石教官が旭の右膝の裏へ軽やかに足を滑り込ませてきた。
いわゆる膝カックンだったが、崩れかけた軸をギリギリのところで踏み留まらせる。不意打ちにもかかわらず、旭の足は畳を離れなかった。流石はあの世羅を教えている教官だけあって、一瞬の隙も見逃さない。
「うわっ、いきなり何すんだよ!?」
「ほら☆ 足の裏が地面から離れない☆」
「え? あ……本当だ」
「きちんと自分なりの軸が通った証拠さ☆」
「ええ。これが初日でできる人はかなり珍しいらしいです。素晴らしいセンスですね、旭さん」
世羅が感心したように目を細め、6本の腕のうち上の2本で静かに拍手を送った。
「マジで……!? なんかこう、へその下に重りを沈める感じを意識したら、急に体がブレなくなった気がする!」
「正解☆ 体幹がブレなくなると、次に繰り出す攻撃のキレが劇的に変わるんだよ☆」
白石教官が、親指を立てて眩しいスマイルを向けた。
「姿勢が整ったら、次はそこから重心を倒すトレーニング☆ 力で足を踏み出すんじゃなくて、重力に身を任せるようにね☆」
「重心を……倒す……」
「はい。そのまま、僕の持つ的に向かって突いてきてください。型はまだ見よう見まねで構いません」
世羅が6本のうちの2本の腕で、分厚い衝撃吸収用のミットを胸の前でしっかりと支えた。
掴みかけた身体の感覚を忘れないうちに、旭はへその下の『重り』を前方に一気に滑らせるイメージで一歩を踏み出す。前に倒れ込む重力をそのまま拳に乗せ、思い切り突き出した――。
――パアァァンッ!!
道場全体の空気を震わせるような、鋭く重い破裂音が響き渡った。
一番驚いたのは、間違いなく旭自身だった。まだまだ発展途上の腕から放たれたとは思えないほどの衝撃が、拳を通して手応えとして伝わってくる。
「……うそ……これ、俺が打ったのか……!?」
「ナイス突き☆ 重心の移動が完璧に乗っていたよ☆」
「素晴らしい威力です、旭さん。ミット越しでもしっかりと重みが伝わってきました」
世羅の穏やかな称賛。
この世界に来るまでは引きこもりで体力皆無だった自分が、今確かに武道としての第一歩を踏み出している――その実感が、旭の根底にあるアニメオタクの血と「男として強くなりたい!」という単純な憧れを大きく奮い立たせ、胸を熱く焦がした。
「なんだか俺、めちゃくちゃ強くなった気がする……!」
(なんか、雰囲気も良い感じだし! これはいけるぞ……!)
「気、だけではありませんよ、旭さん。確実に、お強くなっています」
「それじゃあ☆ この調子で爽やか制圧術の続きをしていこうか☆」
「おう!」
「ちっちっ☆ 返事は『ハッ★』だよ☆」
(……爽やか要素、この語尾と笑顔だけなんだよな……)
謎の挨拶指導に心の中で冷ややかにツッコミを入れつつも、旭は目を輝かせて再び組手へと向かっていった。
◇
「ふぅ……!」
それから数時間後、午前のメニューが終わり、ようやく待ちに待った休憩時間となった。
旭は白石教官と世羅の二人と一緒に道場を出て、昼食をとるために食堂へと向かっていた。
「良い姿勢だね、天城くん☆ 食堂までの移動中も気を抜かない姿勢、実に素晴らしい☆」
「……っ! ……ふぅー……」
褒めてくれるのは嬉しいのだが、旭には返事をする余裕すらなかった。
武道を習う者として食堂に着くまで常に重心と軸を意識した歩行を維持すると白石に言われ、忠実に実行しているからだ。
(骨盤を立てて……へその下に重りを沈めて……踏み出す時は重力に任せる……っ!)
一歩踏み出すごとに自分の身体と対話し、重心を滑らせるように歩く。はたから見ればただ静かに歩いているだけに見えるが、意識を集中し続けている旭の額からはタラリと汗が垂れていた。満足に体が動かせないのは心身ともにストレスであり、疲れがじわじわと全身を蝕んでいく。
「無理はなさらないでくださいね、旭さん。最初は歩くだけでもかなりの集中力を消費しますから」
「だ、大丈夫……! これくらい……アニメの修行パートに比べたら……っ!」
「アハ☆ 例えが独特☆」
「意外と……いけ……そう……っ!」
「あともう少しですよ」
「到着さ☆ 楽になっていいよ☆」
段々とコツを掴んできた旭は、なんとか集中を切らさずに食堂の前までたどり着いた。
緊張を解き、肩の力を抜いて食堂の引き戸をくぐる。だが、そこに広がっていた光景に旭は目を丸くした。広い食堂の中は、教習生の隊服を着た生徒たちですし詰め状態になっていたのだ。
アニメや漫画でもよく見かける、ごった返す学校の食堂の風景。
そんなありふれた大混雑の中で、旭はふと妙な違和感を覚えた。
(……ん? なんか……俺たちの周りだけ、やけに人がいなくね……?)
食堂全体がぎゅうぎゅう詰めなのに、自分たちの半径数メートルだけ、まるで目に見えないバリアでも張られているかのようにポッカリと隙間が空いているのだ。
「世羅……?」
「…………」
世羅は返事をせず、バツの悪そうな顔で静かに黙り込んでいる。
旭が前の食券券売機に並んでいる生徒たちに視線を向けると――
「ひっ……! あ、あ……先、先にど、どうぞ……っ!」
前の食券券売機に並んでいた小柄な教習生が、恐る恐る振り返って世羅を見上げ、声を震わせながら順番を譲ってきた。
(あ……これ、世羅の見た目の圧にビビっているんだ……!)
身長2メートルを超える威圧感抜群の巨体に、威厳溢れる強面。さらに道着の肩口からは、巨大な腕が左右に3本ずつ生えているのだ。周囲の生徒たちが恐怖で蜘蛛の子を散らすように距離を置くのも、無理はない話だった。
混雑を回避していつもの日替わり定食を受け取り、三人で空いているテーブル席につく。
旭の隣には白石教官、向かいには世羅が腰掛けた。……が、正面から改めて向き合うと、やはりその体躯と存在感からひしひしと圧力を感じてしまう。
「……すみません、旭さん。これがいつもの日常なんです」
世羅が6本のうちの2本の腕を胸の前で小さく縮め、すまなそうに頭を下げた。
「いやいや! 大丈夫だって! 正直最初は俺もビビったけど、世羅が優しいのはもう分かってるし!」
「ありがとうございます、旭さん……」
ホッとしたように目元を緩める世羅を見て、旭は箸を割りながら隣の教官へと視線を向けた。
「それにしても、白石……教官も僕らと一緒にご飯食べるんですね」
「もちろんさ☆ 僕はいつだって生徒のことを第一に思っているからね☆」
「へぇ〜。そりゃあ、あの問題児クラスの俺を訓練してくれてるくらいだもんなぁ」
「はっはっは☆ 蓮司とは昔からの親友にしてライバル☆ 永遠の絆で結ばれているからね☆ だから、蓮司の生徒は僕の生徒さ☆」
「……お前のものは俺のもの、みたいな理屈を爽やかに言わないでほしいな……」
「アハ☆」
白石教官の眩しすぎるスマイルを隣で直に浴びながら旭は定食のご飯を口に運んだ。
「それで、ご飯を食べ終わったら特訓の続き?」
「はい。旭さんは重心を掴むのが上手ですので、少し早いですが午後からは僕と実戦を交えて特訓しましょう」
「おう! よろしく頼むぜ!」
(へへっ、俺って意外と武道センスみたいなのもあったんだな……!)
自分の意外な適性に少し鼻が高くなるのを感じながら、三人は昼食を済ませて食堂を後にした。
帰り道ももちろん、教官の言いつけ通り重心と軸を意識した歩行で道場へと向かう。だが、行きでコツを掴みかけていた旭は、最初よりも随分と楽に身体をコントロールできるようになっていた。
「ふぅ……この歩き方も、なんとか慣れてきたな」
「すごいです、旭さん。こんな短時間でものにできるなんて、なかなかできることではありませんよ」
「そうか? でもさ……午前中に世羅の突きとか蹴りを見せてもらったけど、めちゃくちゃ迫力あったぜ。世羅の実力なら、もう卒業試験なんて余裕で受けられるんじゃないか?」
「……そうだったら、良かったのですが」
「え……?」
世羅の表情が、ほんの少しだけ翳った。
旭が首を傾げると、横を歩く白石教官が静かなトーンで言葉を挟んだ。
「世羅くんはね、去年の卒業試験を受けていたのさ☆」
「ですが残念ながら、第二次の時点で落ちてしまったんです」
「えっ……!? そんな……ごめん! 俺、本当に知らなくって……!」
あんなに強くて礼儀正しく、6本腕という圧倒的な能力を持つ世羅が落ちるなんて思いもしなかった旭は、慌てて手を振って謝罪した。
「いえ、お気になさらないでください。旭さんに悪気がなかったのは分かっていますし……何より、悪いのは実力不足で落ちてしまった僕自身なんですから」
世羅は静かに微笑んでみせたが、その言葉には隠しきれない悔しさと重みが滲み出ていた。
卒業試験。それは旭が思っていた以上に過酷で狭き門なのだという現実を、改めて突きつけられた瞬間だった。
「なら……なおさら、特訓はハードにしないとな! 俺も世羅と同じくらい強くなって、手合わせの相手になってやっからよ!」
「はい! 励まし、ありがとうございます」
「そうと決まれば、早く道場に行こうぜ!」
「そうですね」
世羅が口角を上げ、柔らかく笑顔を戻した――その時だった。
「おっとっと……っ!?」
――ガタガタッ!!
廊下の先、二階へと続く階段の上から、唐突に悲鳴と激しい破壊音が響き渡った。
「うわあああぁぁぁっ!?」
見上げれば、大きな脚立と掃除道具を抱えた清掃員のおじさんが、足を滑らせて階段の上から真っ逆さまに落ちてくるところだった。その真下はコンクリートの床。あの高さから落ちれば無事では済まない。
廊下にいた何人もの教習生たちが「ハッ」と息を呑む。
危険だと分かっている。助けなければいけないと脳は理解している。だが、突発的すぎる事態に誰もが金縛りに遭ったように体を硬直させ、足がすくんで動けないでいた。
(危ない――ッ!!)
世羅もその一人だった。危ないから助けに行かなければ。しかし、一歩目が出ない。ここにいる全員が動けない。そう悟った。そして、同時に、
(……これは助からない……)
その思考に落ちた。いや、落ちてしまった。
――が、
その瞬間、世羅の隣でゆらゆらと何かが揺れるのが視界の端に映った。何事かと視線を向けると、そこには旭の姿がぼやけるように揺らめいていた。それが、旭が無意識に作り出したただの陽炎(残像)であることに気づくのに、時間はいらなかった。
思考よりも早く旭の身体が弾け跳んだ。跳んだ後から、遅れてひゅんっと空気が揺れる。
「――え!?」
世羅が目を見開く。
(この動きは……骨盤を立てて……重力に、身を任せる――さっきまでやっていたこと……!?)
力で地面を蹴るのではない。前に倒れ込む重心のエネルギーそのものを爆発的な推進力へと変える。硬直する生徒たちの間を、まるで影が滑るように――人間離れした速度で駆け抜けていく。
「とおおぉぉぉっ!!」
落下してくる清掃員の真下に滑り込み、両腕を大きく広げてその身体を全力で受け止めた。
――どさっ!!
「ぐ、ぐおっ……!?」
重みが全身にのしかかり、旭はおじさんを抱きかかえたまま廊下の床を二、三メートルほどズザザッと滑り、壁の手前でピタリと止まった。
「ふぅ……ふぅ……っ! だ、大丈夫ですか、おじさん……!?」
「あ……あぁ。ありがとうねぇ」
――静寂。
昼下がりの陽光が差し込む廊下の空気が、まるで氷のように凍りついていた。
誰一人として声を上げない。拍手も、安堵の息漏れすらも湧かない。ただ、床に落ちた清掃用具のバケツから水が垂れるポタリ、ポタリという不気味な音だけが響いている。
周りの教習生たちが差し向ける視線。
誰もが一歩も動けず、ただ死を確信していたコンマ数秒の間隙。その絶望の静寂を、不自然な陽炎だけを残して消失し、事もなげに塗り替えてみせた異物。教習生たちは無意識のうちに、半歩、また半歩と静かに後ろへと引き下がっていた。
「…………」
世羅は、己の胸の前で強く固められた6本の拳を見つめた。
指関節が白く浮き出るほどに、力任せに握り締められている。6本もの腕を持ちながら、一歩すら踏み出せなかった己の足元。そこに伸びる自分の影は、ひどく鈍重で、小さく思えた。
そして世羅の視線は、まだゆらゆらと残像の輪郭を溶かし切っていない、旭の足元へと向かう。
半日前まで素人だったはずの男が、自分が諦めたその瞬間の隙間にいとも容易く入り込み、残像を置き去りにして届いてみせた。
世羅の喉の奥に、焦げ付くような熱い塊が重く落ちていく。直視したくないほどの眩しさと、背筋を這い上がる冷や汗のような不気味さ。
そして白石もまた、珍しく額から汗を垂らしていた。
静まり返る廊下で、旭が壁に背を預けて荒い息を吐き出す音だけが、不自然なほど明瞭に響き渡っていた。
「最初の課題もすぐに終わりそうだね……☆」
「……ッ!……そ、そうですね」




