泥棒を追え!
『誰か助けて~! 下着泥棒よーーーっ!!』
顔から冷や汗をダラダラと吹き出させていた旭が声の主の方へ視線を向けると、一画先の住宅街に建つ一軒家の二階ベランダから、女性が怒り心頭といった様子で下を見下ろしていた。
そして、その女性の視線の先――路地裏を猛スピードで逃走していく影があった。
いかにも盗人といった全身黒タイツの男なのだが、普通の泥棒と違っていたのはその顔面だ。唐草模様の手ぬぐい……ではなく、あろうことかピンク色の女性用パンツを顔に被って目元だけを出していた。誰がどう見ても文句なしの変態である。
「あ、俺のことじゃなかった……」
旭が無意味な安堵を噛み締めようとしたその瞬間――隣にいた零が、迷うことなく被害の家へと疾走を開始していた。
「えっ、零さん!?」
「旭くんは警察に連絡を! 私は泥棒の後を追います!!」
「分かりました! ……って、俺、携帯持ってないじゃん!!」
零に頼りにされたこと自体は嬉しかったが、よく考えたらこの世界に来たばかりの自分は連絡手段であるスマホを持っていない。
(だからって、零さん一人に行かせてそのまま突っ立っていられるかよっ!)
旭もすぐさま零の後を追って走り出した。
だがその前に、まずは警察への通報だ。自分が通報できなくても、被害に遭った女性に連絡してもらえば解決する。そう判断した旭は、二階のベランダから身を乗り出している女性の真下で足を止めた。
「あ、あの! すぐに警察へ電話してください! 俺たちが絶対に捕まえますからっ!!」
「えっ!? は、はい! わかりました!!」
「それでは!……待っててください、零さん!」
零をあんな変態下着泥棒と二人きりにさせてたまるか。その一心で、旭は零の後を追って走り出した。
「あ! 待ってください! あの……実は……っ!」
「へ?」
◇
「待ちなさいっ!!」
子どもたちの登校や大人の出勤ピークが過ぎた、閑静な住宅街。
車通りもなく、人影すらない真っ直ぐな路地を、二つの影が猛スピードで駆け抜けていく。
「へっ! 追いつけるもんなら追いついてみるゲス!」
ピンクのパンツを被った泥棒は、見た目の不審さに反して恐ろしいほどすばしっこかった。
ただ疾走するだけでなく、角に来るたびに右、左、左と急ブレーキをかけて鋭く折り返し、足跡を眩まそうとしてくる。
(この身体のこなし……完全に常習犯ね!)
零は隊服のスカートをたなびかせながら、地面を強く踏みしめて食らいつく。
だが泥棒は、道路脇の室外機を踏み台にして軽々とブロック塀の上に飛び乗ると、そのまま塀の上を猫のように疾走し始めた。
「観念しなさいっ!」
「この狙った獲物は絶対に逃さない! 世紀末の怪盗……ルパンツ様が捕まるわけないゲス!」
「……何を言ってるのっ?」
「ハッハァ! 陸上部仕込みのパルクールを見せてやるゲス!」
「あっ!……くっ……! 待ちなさい……っ!」
零も並外れた脚力で地面を蹴り、壁を伝って距離を詰めようとする。あと数十センチで手が届く――そう思わせた瞬間だった。
「ゲスッ!」
泥棒は空中へ躍り出ると、向かいの家の二階ベランダの柵を蹴り、反動を利用して家と家の間の極細い隙間へと滑り込んだ。
着地と同時に薄暗い裏路地へと消えていく。
「きゃっ……!?」
入り組んだ住宅街の迷路。足場のない狭い隙間を器用に抜けられ、零は思わず足を止めざるを得なかった。
侮っていたわけではないが、想像以上に悪知恵の働く厄介な相手だ。
(速い……! それに、このあたりの抜け道を完全に把握してる……!)
悔しそうに息を整えながら、零が思案を巡らせていたその時――背後から、荒い息遣いとともに声が響いた。
「おーい! 零さーんっ!!」
「旭くん……!」
「零さん! あの下着泥棒、まだ盗む気ですっ!」
「えっ!?」
「実はさっきの女性だけじゃなくて、隣の家も被害に遭ってたみたいなんです!」
(なるほど……! ここ一帯の地形を完全に把握していたのも、ただ逃げるんじゃなくて巧みに撒こうとしていたのも、まだ次を狙う気だったからなのね……!)
旭の言葉で状況を理解した零だったが――だからこそ、唇を噛み締めた。
「……ごめんなさい、旭くん。私、今ちょうどあいつを見失っちゃったの……」
「そんな……っ! 零さんが謝ることじゃないですよ! とりあえず、さっきの被害に遭った女性のところに戻りましょう!」
「ええ……そうね」
◇
悔しさを滲ませる零を温かくフォローし、二人は急いで元の一軒家へと引き返した。
そして、二階のベランダから不安そうに下を覗き込んでいた女性のもとへ戻り、詳しい事情を聴き始める。
「警察への連絡は……?」
「はい、すぐに電話しました! ここら一帯をパトロールしてくれるそうです……。お二人とも、駆けつけてくださって本当にありがとうございました」
付けまつげだけはバッチリ付けているものの、急なことで他の身支度はおざなりになっている女性が、深々と頭を下げる。
「これから外出しようとしてベランダの窓を見たら……あの不審者がいて……っ」
「それは朝から嫌なものを見ちゃいましたね……」
朝イチで窓を開けたら、ピンクのパンツを被った黒タイツの男と目が合う――想像するだけでもなかなかのホラー体験だ、と旭は首をすくめた。
「でも……あたしが咄嗟に大声をあげたら泥棒が逃げていって。逃げた後に干してあるものを確認したら、何も盗まれてなかったんです!」
「なるほど。大声に驚いて、盗む余裕がなかったんでしょうね。でも、隣の家では被害が出てるみたいですし、奪われたものを取り返すに越したことはないです!」
「……気持ちは分かるけど、盗まれた下着を取り返されても、流石に被害者の人は使いたくないんじゃないかしら……」
意気揚々と拳を握りしめる旭の横で、零が困ったように苦笑いを浮かべた。
「あ、それもそうか……。でも、野放しにはできませんしね! しかし……次は一体どこに現れるのやら」
住宅街の迷路に逃げ込まれた以上、闇雲に探しても無駄足になる可能性が高い。旭が腕を組んで思案していると――
「ふふっ、それなら私に任せて! ちょっと考えがあるの……」
零がニヤリと、どこか楽しげで挑戦的な微笑みを浮かべた。
普段の優しくおっとりした雰囲気とはギャップのあるその表情に、旭は思わず胸がドキンと鳴ってしまった。
◇
怪盗ルパンツは、屋根の上の死角から静かに次の獲物を伺っていた。
地上では、通報を受けた警察官たちが慌ただしく周辺をパトロールしている。
(ふん、ポリ公どもなど大したことはないゲスが……さっきの女とのチェイスは、流石に肝が冷えたゲスな……)
あの少女が着用していた隊服。あれは間違いなくこの近くにあるイグゼクター教習所の生徒のものだ。まさかこんな住宅街の朝イチで、未来のイグゼクターと正面衝突するハメになるとは思いもしなかった。
――だが、そこで引き下がるルパンツ様ではない。
この道十数年。己のすべてをこの業に賭け、これで飯を食ってきたという自負とプライドがあるのだ。
(ふっ……仕事はやりがいのあるやつを選べ、ゲス。先人の格言は伊達じゃないゲスね……!)
「着いたゲス……」
ルパンツはターゲットの一軒家に最も近い、大きな街路樹の葉陰の中に潜り込んだ。
枝の上に身を潜めながら、お目当ての二階ベランダへと視線を走らせる。そこには風に揺れる鮮やかな下着がそのまま干されていた。
騒ぎがあったばかりだというのに、なんと無防備な住人だろうか。だが、だからこそ油断は禁物だ。ルパンツは入念に周囲の安全を確認する。
侵入ルートはいつものパターン。この太い大幹から隣家の屋根へと飛び移り、そこからベランダへ着地する。
周囲に人影がないことを最後にしっかり見定めた。
(今ゲスッ!!)
木から住宅の屋根へと跳躍するため、太い幹を足場にして思い切り地面を蹴り上げた。
朝日を背に、道路の上にルパンツの丸い影がふわっと浮かび上がる。
(このまま一直線に……ベランダへ着地ゲスッ!)
空中で見事な着陸体勢をとる――しかし次の瞬間、全身が金縛りに遭ったかのようにピクリとも動かなくなった。
「な、なん……ゲス……!?」
「――縛影」
静かで凛とした声が響くと同時に、空中へと伸びていたルパンツの体は放り出され、そのまま屋根ではなく真下の道路へと向かって一直線に落下した。
「ぐはッ!? あ、痛たた……ゲス……っ!」
アスファルトの上に無様に打ち付けられ、ルパンツは呻き声をあげながら腰をさすった。
「私の能力は、影を自在に操って他の影に干渉することよ。私の影であなたの影を直接踏みつけて、動作を拘束したの」
地上の影から伸びた黒い帯のようなものが、ルパンツの影をガッチリと押さえつけていた。それを見つめながら、旭は純粋な感動の声を漏らした。
「はえ~……! 零さんの能力、めちゃくちゃかっこいいなぁ……」
「も、もうっ! 旭くんったら、呑気なんだから……!」
「あ! ご、ごめんなさい……つい感動しちゃって……。でも本当に零さんの言った通りでしたね! まさか1回盗み損ねた下着をもう一度狙ってくるなんて……」
「ぐ、ゲスッ……!?」
地面に這いつくばったまま、ルパンツは信じられないといった様子で目を見開いた。
「ど、どうしてバレたゲス……!?」
「あなたが逃げている時に言っていたのよ。『この狙った獲物は絶対に逃さない!』ってね。それなら、一度目をつけたのに取り逃した獲物なら尚更執着するはず。だから、もしかしたらって張っていたの」
「なるほど……まさに犯人は現場に戻るってやつだな」
「くっ……完敗ゲス……」
ルパンツは逃げ場がないことを悟り、悔しそうにガックリと頭を垂れた。
「まったく……朝から人騒がせな泥棒だな。とりあえず被害者のお姉さんにもう1回警察を呼んでもらわないと……」
旭が呆れたようにため息をつく。その様子を見下ろしていた零だったが、ふと瞳を鋭くさせてルパンツへと問いかけた。
「……それと。あなた、もしかして能力者ね?」
「!?」
「えっ!? こいつ、能力者なんですか!?」
「ええ。チェイスしていた時のあの異様な跳躍力や身のこなし……おそらく『身体強化系』の能力よ」
「……正解ゲス……」
ルパンツは苦虫を噛み潰したような顔で、観念したようにポツリと呟いた。
「おいらは……脚に力を込めることで跳躍力を爆発的に引き上げる能力ゲス……」
「そうだったのか……」
「……なら、あなたは警察の管轄じゃなくて、イグゼクターの管轄になるかしらね」
「えっ? そうなんですか?」
「ええ。能力を悪用して犯罪を行う人間たちのことを『異能犯』って呼ぶの」
「なるほど……イグゼクターが戦うのは界裂生物だけじゃないんだな」
「むしろイグゼクターは、元々はそういう異能犯を取り締まるのが本来の仕事だったのよ。今は……裂け目っていう災害がメインになっちゃってるけど……」
「お、おいら……異能犯ゲスけど、誰も傷つけてないゲスよ……っ! 暴力なんて一度も振るったことないゲス!」
必死にアピールするルパンツに対し、旭は「はぁー」と深いため息をついて見下ろした。
「お前、何言ってんだよ。誰も傷つけてないって……下着を盗まれた被害者のお姉さんたちの心を思い切り傷つけてんじゃねーか!」
「うぐっ……!?」
「何が『怪盗ルパンツ様』だよ……。見た目はただの変態鼠小僧だし、盗む物も下着だし……。なにより、怪盗を名乗るなら下着じゃなくて女性の心を盗んでなんぼだろ!」
「旭くん……普段からそんなこと考えてたの……?」
隣で零が、ジト目になりながらどこか呆れたような視線を送ってくる。
「い、いやっ!? これはなんていうか……俺の持論というか! 怪盗たるものこうあるべきっていう、フィクションの前提の話というか……!?」
旭が焦って必死に弁明しようとした――その時。
身動きのとれないままのルパンツが、突然ぽろぽろと大粒の涙をこぼして泣きじゃくり始めた。
「う……うわぁぁぁんっ! たしかにアンタの言う通りゲスッ! おいらは怪盗として一番大切な美学を忘れていたゲス……ッ!! これからはアンタのその言葉を胸に刻んで、次の盗みを――」
「いや、そもそも盗み自体が完全アウトだからな?」
「ゲ、ゲス……っ!?」
「さてと。この人を近くのイグゼクターに引き渡したら、早く教習所に向かいましょ」
「あ……そうだった……。俺たち、もう完全に遅刻確定ですね……」
「そうね。朝から下着泥棒を捕まえてましたなんて言っても、信じてもらえなさそうだし……」
「ま、でも! これでこの街の平和が1つ守られたわけですし! 結果オーライですよ!」
旭は親指を立てて、零にニッとグッドサインを送った。
無事に事件解決となった達成感に、零も思わず笑みをこぼす。
「ふふっ、旭くんったら……前向きなんだから」
「それじゃ、イグゼクターの人に通報連絡をお願いできますか?」
「ええ、任せて。イグゼクター専用の連絡回線を使った方が事情も説明しやすいしね」
そう言うと、零は端末を取り出して近くにいる現役のプロのイグゼクターへと連行要請を出した。
連絡を終えた旭と零は、拘束したルパンツが見張りから逃げ出さないよう監視しつつ、たわいのない会話を交わして到着を待った。
――それから数十分後。
路地の奥から、軽快な足取りでこちらへ歩いてくる一人の人影が見えた。
だが……その姿は、旭にとってあまりにも見覚えがありすぎるものだった。
「よっしゃ! これで俺の寝坊もバッチリ誤魔化せるぜ……! あいつらには悪いが、遅刻の口実に使わせてもらうとするかぁ~♪」
ご機嫌な様子で独り言を呟きながら歩いてくる男。旭は目を丸くした。
「来ましたね。……あれ? でもあの服、黒峰教官と同じ教官服……?」
「な、なんで……っ!? 蓮司さん……!?」
「えっ? 蓮司さんって……?」
その男がだんだんとこちらへ近づいてくる。
そして、旭たちの顔を視界に収めた男は――まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。思い返せば、この男のこんな呆然とした驚き顔を見るのは初めてかもしれない。
「天城……お前、流石にちょっと怖いわ……」
「こっちのセリフですよ! まさか要請を受けて来たプロってのが蓮司さんだったなんて!」
「俺だって、このへんで千影零から要請が出てるってことしか聞かされてねぇからな!」
「あ! 呼び捨てはダメですよ蓮司さん! 零さんは蓮司さんよりずっとすごい人なんですから!」
「あれ? 今、俺ナチュラルに毒吐かれた……?」
「ほんとにこの男がイグゼクターなんゲスか……?」
「あ? これが例の不審者か?」
呆れていた蓮司だったが、ルパンツへと向けた視線が一瞬で鋭いプロのそれに切り替わる。放たれた威圧感に、ルパンツはヒッと首をすくめた。
「まあいい、お前らは先に行ってろ。後処理は俺に任せろ」
「了解しました。……でも、早めに来てくださいね? 遅刻の言い訳になってもらわないと僕たち困るんだから」
「はいはい、分かった分かった」
旭たちの方を見向きもせず、蓮司はテキパキと手際よくルパンツを引き渡し用に拘束し直していく。
「……それじゃ、行きましょうか、零さん」
「ええ……そうね」
何も事情が分からないことにまだ少し困惑気味の零だったが、旭に促されて二人で教習所へと歩みを進め始めた。
「ほら! 観念して大人しくついてこい!」
「いたたた! 乱暴にしないでゲスっ!」
「うるせー、変態!」
背後から聞こえるそんな二人のやり取りを聞きながら、旭たちが教習所への道を踏み出した――その時だった。
――ピキッ!
静まり返った空気に、ひび割れるような不快な音が響き渡った。




