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朝の予兆

 不気味な夢のせいで早朝に起きてしまった旭は、トイレを済ませて自分の部屋へと戻った。

 本来起きる予定だった時間は午前七時半。まだまだ時間はたっぷりある。

 当然、家の中の他のメンバーは誰も起きていないだろう。どうやって時間を潰したものかと、旭は腕を組んで思案した。

 元の世界の自分の部屋と違って、暇を潰せる漫画もラノベもない。かと言って、時間を忘れて没頭できるゲームがあるわけでもない。

 デジタル機器から切り離された予期せぬデトックス環境に密かに苦しみながら、ふと机の上の数学の教科書に目をやる。数学は流石に早朝からやる気が起きなかったが――他の教科ならいけるかもしれないと、旭は床の段ボール箱から別の教科書を引っ張り出した。

 

 「……これにしてみるか」

 

  取り出したのは、『英語』の教科書だった。

 実は、旭はこの世界に来てからずっとひとつの不気味な疑問を抱いていた。

 

(この世界は一応、俺がいた世界とは違う『異世界』のはずだよな……?)

 

 それにしては、あまりにも元の世界と似すぎているのだ。

 ファンタジー小説なら女神様の加護だなんだで言語が自動翻訳されるのがお約束だ。しかしこの世界では、当たり前のように日本語がそのまま通じているし、専門用語や概念までもが元の世界と同じように使われている。

 そして何より――この英語の教科書が存在しているということ。

 それはつまり、この世界にも日本以外の国々や文化圏が存在しているという明確な証拠なのではないか?

 そんな、勉強のやる気とは少し違った世界の謎に対する好奇心を胸に、旭はパラパラと教科書を開いてみた。

 

「ふーん……。やっぱり、アルファベットも文法も元の世界と全く一緒なんだな」


 教科書に載っている英文は、どれも元の世界で一度は見かけたことのあるようなものばかりだった。

 もしこれが、転生モノによくある見たこともない異世界の独自文字だったら、旭の頭では試験突破など絶対に不可能だっただろう。だが、元の世界と同じだからといって、この世界に対する謎が解けたわけではない。むしろ、新たな疑問が次々と湧き上がってくる。


(そもそも……俺が今いるここは、どこなんだ?)


 ここというのは異世界全体のことではなく、今まさに自分が暮らしているこの「街の名前」のことだ。

 もし元の世界の日本とよく似た構造なら、○○県○○市といったような明確な住所が存在するはずではないか。そう思ったのだ。


「かといって、この世界じゃスマホで調べることもできねぇしな……」


 ネット検索もマップアプリもない現状に頭を抱えかけたその矢先――旭の脳裏に、ポンと名案が閃いた。


(待てよ……ここって『宿屋』だよな? なら、ロビーとかに観光雑誌や近隣のマップくらい置いてあるんじゃないか?)


 そうと思い立ち、旭は静かに部屋を出て一階へと下りていった。

 廊下を歩いていると、キッチンの方からトントンと心地よい包丁の音が響いてくるのが聞こえた。さっき下りた時は静まり返っていたはずなのにと、恐る恐る覗き込んでみる。

 そこでは、おばさんが黙々と朝の野菜を切っていた。いつもの赤色のエプロンをしている。


「あ、おはようございます」


「あぁ、旭ちゃん。早いわねぇ、どうしたの?」


「いやぁ……なんか変な夢を見て目が覚めちゃって。おばさんは、こんな朝早くから何してるんですか?」


「あたしはね、この時間からお客様にお出しする朝ごはんを作ってるんだよぉ」


「へぇ~……。大変ですね、何か手伝えることはないですか?」


「ううん、大丈夫大丈夫! 旭ちゃんは気にせずゆっくりしてていいんだよぉ」


「そうですか……。あ、そうだ。おばさん、この辺の地図か案内冊子みたいなものって、どこかに置いてないですか?」


「あぁ、地図ねぇ。それなら――」


 おばさんがトントンと動かす手を止めて、宿屋の入り口の方角を指さした。


「玄関横のロビーに置いてあると思うよ。いっぱいあるから遠慮なく持っていきな」


「ありがとうございます!」


 おばさんはそう言い終えると、手際よく料理作りの作業へと戻っていった。毎朝この時間から一人で宿泊客のための朝食を仕込んでいるのだろう。旭は感謝と感心の吐息を漏らしながらロビーへと向かった。

 雨宮荘自体はそこまで巨大な旅館というわけではなく、三階建ての少し縦に長い作りだ。ロビーもこじんまりとしており、目的のものはすぐに見つかった。壁際に立てかけられたラックの中に、周辺地域のパンフレット型マップがぎっしりと差し込まれている。

 まだ薄暗いロビーの照明を点け、旭はラックからパンフレットを一枚引き抜いて表紙のタイトルに目をやった。


「どれどれ……ここは何県ですかっと……え?」


【――哀知県の観光名物!!】


「あい……ちけん……?」


 哀知県。間違いなく、旭の見たこともない県名だった。

 いくら不登校の引きこもりだったとはいえ、旭だって日本の47都道府県の名前くらいは常識として知っている。詳しい地理や位置関係までは怪しいが、漢字くらいはわかる。

 ふりがなを見ると『あいちけん』と書いてあった。漢字の『愛知』なら旭だって知っている。だが、パンフレットに印字されているのは、悲しみを意味する『哀』の字だった。


「俺……元の世界じゃ東京都出身なんだけどな……」


 頭をポリポリと掻きながら呟く。

 どういう原理でこうなっているのかはさっぱり分からないが、とりあえず「今自分がいる場所」の名称だけは判明した。それだけでも、何も知らなかった頃に比べれば大きな収穫だ。


(まぁ……ヒントになりそうなものは、片っ端から覚えておくに越したことはないか)


 ゲームをやるときも、旭は町にいるNPC全員に片っ端から話しかけて情報を回収するタイプだった。

 この世界の謎はまだまだ深まるばかりだが、旭の胸の中には不安以上に、少しずつ「世界の仕組みを紐解いていく面白さ」が芽生え始めていた。

 そうして完全にゲームのプレイヤー気分に浸っていたところへ、背後から不意に声をかけられた。


「旭! 早いね。どうしたの?」


 振り返ると、髪を後ろでラフにまとめた詩織が立っていた。


「今日は……なんか変な夢見て早く起きちゃっただけだよ」


「そう? ならいいけど。無理はしないでね」


 そんな短い言葉を交わした後、旭は詩織と一緒におばさんの朝食作りを手伝うことにした。

 旭の担当は、出来上がった料理を次々と小鉢やお皿に彩りよく盛り付けていく係だ。午前六時を回ると、宿泊客たちが一人、また一人と起きて食堂へと集まり始める。旭は詩織と共にお膳を運び、笑顔で料理を提供していった。


 配膳が一段落した頃、二階からパタパタと足音が響き、蒼汰が目を覚まして下りてきた。


「おはよう……ふぁぁ……」


 パジャマ姿のまま、小さな手で眠そうに目を擦りながらか細い声で挨拶をする。

 自分が蒼汰くらいの歳の頃は、親に叩き起こされるまで自力で起きることなんて滅多になかったはずだ。そう考えると、毎朝ちゃんと起きてくる蒼汰は随分と偉いなと旭は感心する。


「おはよう、蒼汰。もう朝ごはんできてるわよ」


「うん……いただきます……」


 蒼汰はテーブルに用意された自分用の朝食を平らげると、歯磨き、着替え、そしてランドセルを背負って学校へ行く準備という朝のルーティンを手際よくこなしていった。


「いってきまーす!」


 玄関ではなく、旭と同じようにキッチン奥の勝手口から、蒼汰は元気いっぱいの声を響かせて登校していった。


「それじゃあ、お客様の分は行き渡ったから、旭ちゃんと詩織ちゃんも食べておくれね」


「わーい、いただきます!」


 おばさんのお言葉に甘えて、旭と詩織も厨房の端のスペースで朝ごはんをいただくことにした。


「それにしても……今日も元気だったな、蒼汰」


 出来立ての味噌汁を啜りながら、旭は向かいの詩織に話しかけた。


「ふふ、そうね。でも……旭がこの家に来てから、あの子の笑顔が増えた気がするよ」


「そうか?」


「うん。……あの子もあの子なりに、必死に頑張ってるんだろうけど……」


 詩織のトーンが、ふっと翳りを帯びて低くなった。

 理由なら分かっている。――学校での『いじめ』だ。

 この世界に飛ばされてきた初日、旭がいじめられていた蒼汰を助けたことで、巡り巡って今の生活がある。蒼汰がいなければ、旭は今頃路上で途方に暮れていたはずなのだ。


(あんなに良い奴なのに……元の世界の俺みたいになってほしくねぇ)


 自分と同じように、傷ついて学校に行けなくなるような未来を迎えてほしくない。

 気まずい空気にしてしまう覚悟を決めて、旭は意を決して切り出した。


「……なぁ、詩織さん。蒼汰は……なんでいじめられてるんだ?」


 ピタリ、と詩織の箸が止まった。

 聞きづらいことを聞いた自覚はある。けれど、後悔はしていない。


「……」


 詩織はわずかに目を伏せた。


「わ、悪い! いきなり変なこと聞いて……」


 「……助けたのよ」


「え?」


「クラスで目立つ、人気者の男の子グループがいてね。そのリーダーの子が自分がみんなのリーダーだ!って、仕切りたがる子なの」


「あー……子供の社会によくいるな、そういう目立ちたがり」


「ええ。それでね……前に運動会のドッジボール大会のときにね、おとなしい子が狙われて困ってた時に、蒼汰がパッと割り込んでその子をカッコよく庇っちゃったらしくてね。そしたらそのリーダーの子、自分の見せ場を奪われたと思ったみたいで……蒼汰ばかりカッコつけてずるい!って嫉妬しちゃってね」


「……プライドを傷つけられたと思ったのか」


「そうなの。そこからそのグループで蒼汰をハジいたり、嫌がらせをするようになっちゃって……あの子も意地になって平気だよって顔してるけど、本当は寂しいはずなのに……っ」


 語る詩織の声には、弟を思いやる悔しさと切なさが滲んでいた。


(なるほどな……陰湿な嫌がらせってよりは、ガキ特有のプライドと嫉妬のぶつかり合いか)


 根っこからの悪意というよりは、子供ゆえの幼さと引っ込みがつかなくなったプライド。しかし、人生は些細な事でも大きく変わる。自分が何気なく行動した、それに意図しない意味が乗っている。それは誰にも分からない。だからこそ、完全に止めることはできない。


(でも、このまま大きくならないように止めることはできるはず……)


「詩織さん。教えてくれてありがとな」


「え? ううん……変なこと話してごめんね?」


「いや、全然。……大丈夫だよ。蒼汰は強い奴だからさ。それは俺も分かってる」


 旭はポンと自分の胸を叩いて見せた。


「……ふふ、ありがとね。……あ、でも旭、時間大丈夫?」


「ん?」


 壁の時計に目をやる。――とっくにいつもなら家を出ているはずの時間だった。


「あぁぁぁっ!? やっべええええ!!? 詩織さんありがと!」


 お椀に残っていたご飯を一気にかき込み、大慌てで二階へ駆け上がって隊服を引っ張り出し、着替えながら一階へ降りて猛スピードで歯磨きを済ませる。

 せっかく早朝四時に起きたのに、時間配分をミスって遅刻なんて笑えなさすぎる!

 急いで羽織った隊服は、整える暇もなく前がはだけ、さながら蓮司教官のような着崩したスタイルになってしまっていた。


「いってきまぁぁす!」


「はい! いってらっしゃい!」


「気をつけていくんだよぉ!」


 詩織とおばさんに出発の挨拶を叩きつけるように叫び、勝手口から外へと飛び出した。


「やばいやばいやばい……っ!」


 走りながらなんとか隊服のボタンを留めようと試みるが、焦れば焦るほど上手くいかない。焦燥感に背中を押されながら通学ルートを猛ダッシュしていると――前方に、見覚えのある綺麗な黒髪の人影が見えた。


(あ……零さん!?)


「あ! 零さん……おはよ、うございます……っ! ハァ、ハァ……っ」


「あら、旭くん! おはよう。ふふっ、それ隊服? すごく似合ってるわよ」


「あ、あざっす……ありがとう、ございます……っ」


「もしかして、初日から寝坊しちゃった? ダメよ、ちゃんと早起きしなきゃ」


 クスクスと楽しそうに笑う零の言葉に、旭の心にグサリとショックが突き刺さる。


(ほんとは……ほんとは今朝四時に起きてたんです……っ!)


 声に出して弁明したかったが、時間を忘れてバタバタしていたのは紛れもなく自分の責任だ。何より、格好悪い失態を零に見られてしまったことが一番旭の心にダメージを与えていた。


「あ! 隊服の襟、折れちゃってるよ? ほら、ここ」


 そう言うと、零は旭の首元に両手を伸ばし、襟を整えるために自然と顔を近づけてきた。

 ――ふわっ、と甘い心地よい香りが鼻腔をくすぐる。


(え、ちょっと待って……良い匂い……っていうか、顔近っ……!?)


 息が止まるほどの近距離。零の整った顔立ちと柔らかい瞳が目の前にあり、旭の心臓は破裂しそうなほど激しく鳴り響いた。幸福感と緊張で頭がどうにかなりそうだ。


「うんしょっと……よし! これで完璧、直ったわ!」


 零が満足そうに手を離し、パッと距離が戻る。

 幸せすぎる至福の時間は、あっという間に終わりを迎えてしまった。

 ……だが、旭は心の中で心底思った。


(……うん。隊服ぐちゃぐちゃのまま走ってきて本当に良かった……!!)


 全速力で走ってきた疲労はすっかり吹き飛んでいたが、代わりに零の急接近による『別のドキドキ』が旭の正気を狂わせていた。


「あ、ありがとうございます……! 次からは気をつけるようにします……へへへ」


 旭は気まずさを誤魔化すように、ポリポリと頭を掻いた。


「ふふっ、旭くんってやっぱり面白いわね!」


「そ、そうですか? でもほら、イグゼクターたるもの! 規律や時間には厳しくないと……!」


 それっぽいドヤ顔で言葉を並べ、先ほどの失態をなんとか取り返そうと試みる。


「ふふっ、そうね。厳しくないと……ね?」


 零が小首を傾げ、悪戯っぽく旭に微笑みかける。


(うわ……やっぱりめちゃくちゃ可愛いな……。ん……? 零さんの髪に、なんか付いてる?)


 よく見ると、零の綺麗な黒髪に小さな埃のようなゴミがついていた。一度見つけてしまうと、気になって仕方がない。


(俺が取ってあげるか……? いや、いきなり触ったら流石に引かれるか……!? いや、でも埃ついたまま登校させるわけにはいかない! よし、取ろう!)


 旭は意を決して、声をかけた。


「零さん! あの……」


「ん? どうしたの?」


 旭はゆっくりと手を伸ばす。

 指先が零の柔らかな髪に近づけば近づくほど、胸の鼓動は右肩上がりに激しくなっていく。過度の緊張で、無意識のうちに鼻息まで荒くなっていた。


(大丈夫だ……変な気は一切ない……ただの親切心だ、大丈夫……っ!)


 旭の指先が、零の髪に触れようとしたまさにその瞬間――


『きゃ~~~っ!! ヘンターイ!!』


「い、いやっ!? これは決してやましい気持ちで触ろうとしたわけじゃなくてですねっ!?」


 突如響き渡った金切り声に心臓が跳ね上がり、旭は反射的に両手を挙げて全力で弁明した。

 ――が、どうやらその叫び声の主は、旭に向けられたものではなかったらしい。


『誰か助けて~! 下着泥棒よーーーっ!!』

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