新しい日常の終わり
旭と理人が教室に戻ると、机に突っ伏している玲奈と、静かに植物図鑑を眺めている仄の姿があった。
旭はすでに体力が回復し、自分の足でしっかりと歩けるようになっていた。
「あー、あさひっち~どしたん? なんか教官室に呼び出されてたじゃん」
「あ、それがな……」
旭は玲奈に、この短時間で自分たちの身に起きた出来事をかみ砕いて伝えた。
話しながら、旭自身も驚いていた。ここ二時間に満たない時間の中で、自分の情緒がこれでもかというほど激しく乱高下していたからだ。
「ぎゃはははは!! マンジ!? そんなことがあったの!? ウケる、疲れ吹っ飛んだし!」
「笑うなよ……俺はマジで寿命縮んだんだからな……」
「でも……僕、天城さんには本当に感謝してるんです……っ」
「うわ、りーくんのそんなしんみりした感じ初めて見たんだけど……なんか引くわー」
「今度はそんな引かないでください!!」
「笑ったり引いたり、忙しいやつだな……」
呆れ顔でツッコミを入れつつも、旭は内心で(さっきまでの俺も人のこと言えねぇか)と苦笑する。そんなやり取りを眺めていた仄が、すっと旭のそばへ歩み寄ってきた。
「……サルスベリ」
「え?」
「私の……お気に入りの木」
「あ! あの時言ってたやつ、図鑑で見つけたのか。…………ふ、ふははっ」
仄が提示してくれた小さな好きの共有。
それを受け取った瞬間、旭の胸の奥から込み上げるものがあり、思わず笑みがこぼれた。
「ん? どうしたの?」
「あさひっち?」
「天城さん……?」
不思議そうに自分を見つめてくる三人。
彼らの顔を見回しながら、旭は思う。
(……俺だけが、勝手に思い詰めてただけなのかもな)
過去のトラウマに縛られて、勝手に周囲を敵だと決めつけ、一人で勝手に向き合おうとしていた。
けれど――ここには、自分を対等に見て、笑い合ってくれる仲間がいるのだ。
「悪ぃ! なんでもない! ……いつかこのメンバーで、そのサルスベリってのを見に行こうぜ」
「……うん」
「あーしは問題ナッシング! 映え写真撮りまくろ!」
「はい、ぜひ行きましょう!」
そんな風に笑い合っていると、ガラガラと教室の前扉が開いた。
入ってきたのは、どこかすっきりした顔をした蓮司だった。
「ふぅ……さっさと面倒事を終わらせてきたぜ」
「蓮司さん……俺……」
「んあ? 気にすんな、気にすんな。俺だって天城の立場だったら、たぶん同じことしてるぜ」
「え、センセーもカンチョーとか金的すんの?」
玲奈が素直な疑問を投げかける。
「流石に……そこまでは……っ、ふ、ププッ……!」
「あ! 相馬教官、また笑いましたね!? あの時の天城さん、すっごくかっこよかったんですから!!」
「理人……頼むからそれ以上言うな、余計恥ずかしいわ……」
「え? なんでですか?」
理人が心底不思議そうに首を傾げる。
蓮司は一瞬咳払いを挟むと、真面目な顔で旭を見つめた。
「ま、何はともあれだ。仲間が馬鹿にされて、臆せず立ち向かった姿勢には大賛成だな」
「蓮司さん……」
「よし、雑談はここまでだ。今日の授業は、あとふたつの座学で終わりだな」
――座学。
その単語を聞いた瞬間、一瞬だけげんなりとした記憶がフラッシュバックした。
だが、今の旭の心には、先程のような絶望感や拒絶反応はなかった。心が軽く、前を向けているからだろうか。
(……よし。さっきよりは、もう少しだけ頑張ってみるか)
旭は自分の机に向かい、気持ちを新たに講義に臨んだ。
「あ~……疲れた~……」
相変わらず授業内容は難解で、何をやっていて何が言いたいのかさっぱり分からなかったが、なんとか耐え抜くことができた。
「それじゃあ、気をつけて帰れよ~」
最後のチャイムが鳴ると同時に、蓮司はテキパキと荷物をまとめ、早々と教室を後にしていった。
「え!? もう終わり? 入校前にもらって読んでたスケジュール資料と全然違うんだけど……」
「問題児クラスは、他のクラスと違って1日の授業数がかなり少ないんですよ」
「それって……どういうことだ?」
「あーしらは、はなから期待されてないってコト」
玲奈が爪を弄りながら、かるーく言い放つ。
「マジかよ……それ機関として大丈夫なのかよ」
「ええ……そもそもこのクラス自体、上層部から望まれて作られたわけではない、なんて噂もありますからね。色々と謎が多いクラスなんです」
「へぇ~……。まぁでも、なんか特別感があっていいじゃねーか! 少なくとも俺は、ここが自分のクラスで良かったって思ってるしな」
旭が笑ってそう言うと、玲奈と理人が少し目を見開いた。
「あーしも~。あさひっちが入ってきてから、なんかこの教室明るくなった気がするしね」
「ふふ、否定できませんね」
「それじゃ、俺は今日は早めに帰るわ。筋肉痛の体に鞭打ちすぎた」
「お疲れ、あさひっち! ゆっくり休んでね~」
「それでは、旭さん。また明日」
玲奈と理人が笑顔で手を振る。
旭も「また明日な」と小さく手を振り返し、鞄を担いで教室を後にした。
雨宮荘に辿り着いた頃は、まだ空が真っ暗になる手前だった。帰り道、隣に零がいないのはどこか少し寂しく感じられた。
雨宮荘に出入りする時は、いつもキッチンへと繋がる裏口を使っている。
「ただいま~」
自分の家のように声をかけてみるが、正直なところまだこの感覚には慣れない。
そして、キッチンから足を踏み入れたからか、食欲をそそる良い匂いが一気に鼻腔をくすぐってきた。おそらく、今日宿泊しているお客さんのための夕飯の仕込みだろう。
思えば、教習所には食堂があるという話だったが、今日はドタバタしていて昼飯すら食べていなかったのだ。
「おかえり、旭。どうだった? 初めての教習所生活は」
トントンと包丁を動かしていたエプロン姿の詩織が、疲れ果てた様子の旭に優しく微笑みかける。
しかし、問いかけられた旭は、今日自分がやらかした数々の恥ずかしい乱闘劇(カンチョーと金的)だけは口が裂けても言わないようにしようと心に決めた。
「新鮮な感じだったよ。でも……まだ教科書がない状態だったから、授業はさっぱりだったな……」
「ふふ、それはお疲れ様。あ、でもね、さっき大きな段ボール箱が届いてたの。もしかしたら旭宛ての教科書かも」
詩織が顎に指を当て、思い出そうとするような仕草を見せた。
「あ、それとね。蒼汰ならもう学校から帰ってきてるから、教習所内のことたくさん教えてあげてね。あの子、旭の話を聞きたがってたから」
「そうだったのか……分かった。頼もしい先輩として、色々教えてやらないとな」
そんな会話を交わしていた、まさにその時。
――ぐぅ~……
旭のお腹が、静かなキッチンに大きく鳴り響いた。
「あはは! お腹すいてたのね。でもごめんね、これはお客様のごはんだから……ね? もう少し待てそう?」
「そんな子ども扱いしなくても大丈夫だって! 先に荷物置いてくるよ。ついでに段ボールの確認もな」
「そう? じゃあお願いね」
そう言い残し、旭はキッチンを抜けて二階へ続く階段へと向かう。視線の端でチラリと映る出来立ての美味しそうな料理に、ほんの少し恨めしそうな視線を送りながら上っていった。
二階に上がり、自分の部屋――蒼汰の部屋の隣の扉前に立つ。さっさと荷物を置いて用事を済ませ、下へ降りてご飯を思いっきりかき込みたい。
「ふぅ~……疲れた疲れた」
ガチャ、と扉を開ける。
「ん……? 蒼汰? 何やってんだ?」
部屋の中にいたのは、背中を向けた蒼汰だった。しかし、その服装が明らかに可怪しい。
視線を落とすと、部屋の中央には開封された大きな段ボール箱があり、中身である教科書や手帳、資料などが散らばっていた。
「ギクッ……!? あ、旭さん……! か、帰ってきたんですね……」
振り返った蒼汰の姿を改めて見て、旭は目を見開いた。
蒼汰が着ていたのは、今日クラスのみんなが着用していたあの漆黒の隊服――それも、明らかにサイズが大きすぎてブカブカの代物だった。袖から手すら出ていない。
「あぁ……! もしかしてそれ……」
「ご、ごめんなさい……っ!」
「いや、怒ってないから大丈夫だけど……。そんなに着てみたかったのか?」
「……段ボールの中身が旭さんの荷物ってお姉ちゃんから聞いて……もしかしたら、隊服とか入ってるのかなぁって思ったら、我慢できなくなっちゃって……」
「なるほどな……」
どうやら、蒼汰のイグゼクターに対する志望度と憧れは、想像以上に本物のようだ。
気まずそうに袖をもぞもぞと動かす蒼汰を見つめながら、旭は驚きつつもどこか温かい気持ちになっていた。
「こんな姿、詩織さんに見られたら怒られるぞ。ほら、脱いだ脱いだ」
「分かりました……」
蒼汰はしゅんとした様子で、ブカブカの隊服をもぞもぞと脱ぎ始めた。
その姿を見ながら、この雨宮荘に滞在してしばらく経つ旭は、以前詩織からかけられた言葉を思い出していた。
『これからは一緒に暮らす仲間なんだし、私達のこと、そんなに畏まらなくていいよ? 敬語じゃなくて、普通にタメ口で話してね』
「なぁ、蒼汰」
「はい? どうしたんですか?」
「蒼汰と知り合って暮らして結構経つし、いつまでも敬語なんてお前も疲れるだろ? 詩織さんもタメ口でいいって言ってたしさ」
「それって……もしかして」
「あぁ、これからはタメ口で話そうぜ。な?」
「やった〜!! 旭兄ちゃん!」
「に、兄ちゃんって……っ」
不意打ちで呼ばれた聞き慣れない響きに、旭の顔が一気に熱くなり、猛烈な恥ずかしさが込み上げてきた。
「ま、まぁ……いいや。改めて、よろしくな!」
「うん!」
「よし! なら、まずは散らばった段ボールの中身を整理するか」
「うん、僕も手伝うよ!」
そんな微笑ましい会話を交わしながら、二人は段ボールから出てきた教科書や資料を床に並べ、一緒に目を通し始めた。
ついでに、今日学校で習ったばかりのページを開いてみる。旭にとっては、生まれて初めての復習というやつだった。
「旭兄ちゃん、このSの文字、なんか縦に伸びてておかしいよ?」
床に寝転がりながら図鑑や教科書を眺めていた蒼汰が、自慢げに指をさす。
「あぁ、それな……確かインテグラルっていう数学の記号らしいぞ。……使い方はさっぱり知らんけどな!」
「へぇ~……。僕も大きくなったら、こんな難しいやつお勉強するのかなぁ」
「大きくなったらって……お前、俺とそんなに年離れてないだろ? 今何歳なんだ?」
「うーんとね、今小学四年生だから――」
「四年生!? まだ十歳ってことか……!?」
旭は目を見開いて驚愕した。てっきり小学校高学年か、ヘタしたら中学生くらいだと思い込んでいたのだ。旭との年齢差は、実に7歳近く――小学生の在学期間以上の開きがあった。
旭が自分の勘違いに苦笑していると、一階から賑やかな呼び声が響いてきた。
「蒼汰ー! 旭ー! ごはんできたわよぉー!」
おばさんの元気な声だった。ふと窓の外に目をやると、すっかり陽が落ちて辺りは真っ暗になっていた。
「もうそんな時間か……。よし、あらかた教科書にも目は通したし、ご飯食べに行くか!」
「うん!」
二人は足取りも軽く一階へと下り、待望の夕食が待つダイニングへ向かった。
「「「「いただきます!」」」」
食卓を囲み、四人で手を合わせる。
今日あった出来事や教習所の話など、旭は蒼汰たちに色々なことを話して聞かせた。もちろん、カンチョーと金的の件だけは上手くぼかしながらだが。
蒼汰は目を輝かせ、まるで物語でも聞くかのように食い入るように旭の話に耳を傾けていた。
会話は途切れることなく弾み続け、それに応えるように美味しい料理も勢いよくお腹の中へと消えていった。
「「「「ごちそうさまでした!」」」」
ご飯を食べ終わった後は、順番にお風呂に入り、部屋に戻って寝る準備を整えた。
「おやすみ」と蒼汰たちに挨拶を交わし、自室の扉を閉めて一人になる。
床に開けっ放しになっていた教科書に目をやった。旭はそれを拾い上げ、机の上に置くと、少しだけ腕を組んで思案する。
(……自力で、もうちょっとやってみるか)
ズキン!
「痛った!?」
今日授業でやったところを復習しようと教科書を開いた瞬間、脳味噌が拒絶反応を起こしたかのように猛烈な痛みが走った。
どうやら旭の身体は、勉強よりも一刻も早く休息をとることを求めているらしい。大人しく諦め、ベッドへと潜り込む。ふわふわのマットレスが、今日一日で酷使した全身を優しく包み込んでくれた。
天井を見つめながら目をつむる。
この世界に来てからの数日間の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡っていく。寝る直前になると、どうしても考えてしまうのだ。
――これは、まだ夢の続きなんじゃないだろうか、と。
(俺……やっぱり、あの時死んだんだよな……)
元の世界で、あまりにもあっけなく訪れた自分の死を思い出す。
引きこもりだったあの頃の生活では、到底考えられなかった濃密な日々。
(今日一日だけでも……本当に色々なことが起きたな……)
異世界での出会い、特異適性クラスの仲間たち、そして自分を信じてくれた大人たち。この世界で起きた出来事を、最初から順番に辿っていく。
そして――毎晩のように呟くあの言葉が、自然と口からこぼれ落ちた。
「俺って一体……何者なんだ……」
その問いに答える者はいない。
深い、深い眠気の波が意識を呑み込んでいき、旭は眠りについた。
◇
『……君に……託した……すまない……』
(なんだ……? 誰だ……?)
旭が立っていたのは、どこまでも続く薄暗い空間だった。
身に覚えのない場所のはずなのに、どこかで見たことがあるような、妙な既視感がまとわりつく。旭は呆然と立ち尽くしていた。
どこから聞こえてくるのかも分からない掠れた声が、直接脳裏へと響いてくる。
『……君に……託した……すまない……』
「誰なんだっ!?」
声の主を探そうと、旭は歩き出そうとした。
――しかし、身体がまったく思うように動かない。頭の中では必死に足を動かしているつもりなのに、周りの景色が一向に変わらないのだ。
『…………すまない』
「謝るなら、顔を見せて直接謝れよ……っ!」
わけの分からない状況への動揺から、思わず叫び声が荒くなる。
その瞬間――音もなく、空間の景色にパキパキとヒビが入り、遠くの方から順に崩落し始めた。叩き割られた鏡のように空間が崩れ去り、その先には底知れない漆黒の闇が広がっている。
(逃げろ、逃げろ、逃げろ……っ!)
頭の中では全力で疾走している。だが、現実の体は一歩も動いてくれない。
焦燥感が胸を激しく締め付ける。そうしている間にも、崩壊はすぐ足元まで迫ってきていた。
「う、うわあぁぁぁぁぁっ!?」
◇
「うわぁっ!?」
がばっと跳ね起きる。
荒い息を吐きながら周囲を見回す――自分の部屋だ。どうやら夢だったらしい。
壁の時計に目をやると、針は午前四時を指していた。
「……? なんだったんだ……さっきの……」
この世界に来てから、こんな夢を見たのは初めてだった。
だが、嫌なほど細部までリアルに覚えている。まるで、本当にあの場所に自分が存在していたかのような感覚。
自分の身体に手を触れてみるが、特に異変はない。それどころか、昨日まで全身を苛んでいた酷い筋肉痛がキレイさっぱり消え去り、驚くほど身体が軽かった。
(疲れてたから……変な夢見たのか?)
旭はただの疲労が見せたリアルな悪夢だろうと自分に言い聞かせた。
窓の外に目をやると、空はうっすらと白み始めており、すでに明るくなりかけている。この明るさでは、どうやら二度寝は許してくれそうにない。
「ん~……ふぁぁぁ。少し早いけど……今日も頑張るか……」
旭はベッドから抜け出し、大きく背伸びをした。




