塗り始めの青春
初めての実習を終えた翌朝。
旭は重い瞼を擦りながら、ベッドの上で目を覚ました。
部屋の壁掛け時計を見ると、時刻は七時半。
起き上がろうとした瞬間、全身に激痛が走った。
「うぐっ……!?」
昨日の戦闘による緊張と、無茶な動きのつけが回ってきたらしい。酷い筋肉痛で体を上手く動かせなかった。
旭は居候させてもらっている宿屋――『雨宮荘』を出て、引きつる足を引きずりながら教習所へと向かっていた。
宿屋から教習所までは、徒歩で二十分ほど。
初日の移動時は何の問題もなかったのだが、全身バキバキの今日に限っては、倍以上の時間がかかりそうだった。
「くっそ~……普通に遠いな。バイトでもして早めに自転車買うか……」
誰もいない道端で、たわいもない愚痴をこぼす。
一人の時、無意識に独り言を呟いてしまうのは旭の悪い癖だった。
「というか、俺ってバイトできるのか? 履歴書を書こうにも記録が無いし、書類選考で落とされそうだな。そもそも時間足りるか? 体動かす系のバイトは勘弁してほしいぞ……」
旭は昨日、問題児クラスに配属された時にもらった資料を読み込んでいた。
教習所での拘束時間は、以前通っていた高校とほぼ一緒だ。しかし決定的に違うのは、極限まで体を酷使するという点だった。
己の肉体を鍛えるだけでなく、この世界には『能力』という存在がある。
能力の発動には体内のエネルギーを著しく消費するため、基礎体力と能力の両方を鍛えるとなると、肉体への負荷は跳ね上がる。まさに毎日が限界突破の連続だ。
昨日の実習はイレギュラーの連続だった。
ならば今日からが本当の教習所生活の開始だ――旭は心の中でそう気合を入れ直す。
「なーんか今の今まで勢いと流れで来てしまったけど……俺、ちゃんと無事に帰れるのかな」
「帰れるのか……って、貴方こんな朝から迷子なの?」
「いや……そういう意味じゃなくてよ…………って、うわっ!?」
独り言に急に割り込んできた涼やかな声に、旭は跳び上がるほど驚いた。
「急に話に入ってこないでくだ……さい……よ」
注意しようとした旭の口調は、最初は大きく荒っぽかった。しかし、振り返って相手の姿を視界に捉えた瞬間、声量が急降下し、最後は消え入りそうな蚊の泣くような声になった。
「ち、千影……零さん……?」
「え? どうして私の名前を?」
千影零。
旭が試験日、合否発表を待っていた際に見かけた特待生クラスの少女だ。
朝の澄んだ光を浴びて立つ彼女は、相変わらず浮世離れした美しさを誇っていた。
旭はもちろん一目惚れである。しかし、当然そんなことを知らない零は、首を傾げて不思議そうに旭を見つめていた。
「どこかでお会いしましたか?」
「あぁ……! いえ、実は私、新しくイグゼクター教習所に入学いたしました天城旭と申します! 試験日の時に高城教官からお話を伺っておりまして。特待生クラスに素晴らしい方がいると。成績も完璧で能力も申し分なく、すでにプロのイグゼクターと前線で協力されている見習うべき生徒だと、絶賛しておられました!」
コホン、と一咳した旭は、さっきまでのノロノロ歩きが嘘のように背筋を伸ばし、一気に捲し立てた。いつもの雑な話し方とは打って変わった、営業スマイル全開の饒舌ぶりである。かなり話も盛っていた。
「なるほど。途中から入ってきた候補生なのね。これからよろしくね、旭くん」
(あ、旭くん!? いきなり名前呼び!? 距離感バグってないか……!?)
「こちらこそよろしくお願いします、零さん!」
(うわっ! 自分も下の名前で呼んじゃった! 恥ずかしっ……!)
旭の心の中は大荒れだった。だが、表面上だけは少しでもスマートに見せかけようと必死だった。
「それはそうと、さっきの『帰れるか』っていうのは何の話?」
「あー……それは、その……」
脳みそをフル回転させて言い訳を考える。
ここで別の世界から来たとか正直に答えたら、間違いなくヤバいヤツ認定されてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
「あれですよ!」
「あれ?」
「教習所って、訓練がものすごく厳しいじゃないですか」
「ええ」
「俺、実質今日が初日みたいなものなんです」
「そうなの?」
「だから、今日の訓練が終わる頃にはヘトヘトになって動けなくなってきちんと家に帰れるかなぁ、なんて考えちゃいまして」
「ふふっ、そういうことだったのね。それなら安心して。厳しい試験を突破できた旭くんなら、きっと大丈夫よ」
「あはは……零さんにそう言っていただけるなんて光栄ですよ」
緊張のあまり、上手く顔の筋肉が動かない。
旭にはこれまで、誰か異性を特別に意識した経験などほとんどなかった。
だからだろうか。千影零という少女の一挙手一投足、さらさらと揺れる髪や微かに香る清潔な匂いにまで、自分でも恐ろしいほど意識が向いてしまう。
「なら、行き先は一緒ね。行きましょ」
「え? いいんですか!?」
「ふふっ。いいんですかって何?」
零が可憐に首を少しだけ傾げる。
「同じ教習生なんだから、誰もダメなんて言わないよ」
「そ、そうですよね。ははは……」
(落ち着け俺……! なんでこんな挙動不審になってるんだ……!)
心の中で何度言い聞かせても、まったく意味はなかった。
至近距離で見る千影零は、やはり反則級に可愛かった。
(ダメだ……緊張で全然頭が回らん……)
その後も会話は続いた。
もっとも、その内容の八割は旭の頭を右から左へ通り抜けていたのだが。
ガチガチに緊張したぎこちない会話を交わしながら、二人は朝の通学路を並んで歩いていくのだった。
教習所の校舎内に入ると、全身青色の作業着を着て、首にタオルを巻いた清掃員の老人が声をかけてきた。
「あれぇ? 零ちゃん、珍しいねぇ〜。誰かと一緒に登校してくるなんて……もしかして彼氏さんかい?」
「ち、違いますよ! 冗談やめてください、半屍冥 (はんしめい)さん!」
(名字怖っ!?)
老人が首から下げている名札の漢字を見て、旭は背筋が寒くなった。
見た目は七十をとうに過ぎた老爺だ。清掃ワゴンを杖代わりにしないと立っていられないのではと心配になるほど細身だが、声はハキハキと力強く、まだまだ現役と言わんばかりの威勢の良さがある。
「そうですよ。僕なんかが零さんと釣り合うわけないじゃないですか」
「旭くんまで! なに一緒になって冗談言ってるの!」
「へっへっへ、若いのは良いのぉ。それじゃ訓練、頑張るんじゃぞ〜」
「「はい、ありがとうございます!」」
旭と零の息ぴったりな返事に、老清掃員は高らかに笑い声をあげながらワゴンを押していった。
「……じゃあ、私は三階の教室だから。またね、旭くん」
「はい! また会いましょう、零さん!」
ひらひらと手を振り、階段を上っていく零の背中を見送る。今日集まるように言われている問題児クラスの教室は二階だ。
まさか今日の通学が、これほど華やかで甘酸っぱいものになるとは思ってもみなかった。
少なくとも今この瞬間だけは、全身を苛む激しい筋肉痛のことなど、綺麗さっぱり忘れ去っていた旭だった。
◇
旭が二階の教室に入ったのは、講義が始まる十分前だった。
しかし室内にはすでに理人と仄が着席しており、机の上にはノートや筆記用具がいつでも講義を受けられる状態に整えられていた。玲奈の姿はまだないようだ。
「おはよう。二人とも早いな」
「おはようございます、旭さん。十分前行動は基本ですから」
「……おはよう」
「玲奈は?」
「あの人は遅刻魔ですからね」
「あー……なんとなく想像できるな。……ところで、蓮司さんは?」
旭の問いに、理人は静かに首を横に振った。
「あの人に期待したら負けです」
「あぁ……察したよ」
(このクラス、身体だけじゃなくて精神的な疲労も凄そうだな……)
旭は心の中でそっと溜め息をついた。
ふと横を見ると、仄が食い入るように分厚い本を読んでいる。
「仄、体のほうはもう大丈夫そうだな。何読んでるんだ?」
「……植物図鑑。可愛いもの、いっぱい載ってる」
「あぁ、花とかか。確かに綺麗なのも可愛いのもたくさんあるしな」
「違う。……木」
「木!? お、おう……木か。なかなか渋い視点だな……」
植物図鑑をまじまじと見つめる仄の隣の席につき、旭も講義を受ける準備を始める。準備と言っても、旭はまだ教科書を持っておらず、昨夜、蒼太から借りた簡易的な筆記用具しかないのだが。
(自転車を買う前に、まずはノートとか教科書を揃えるのが先だな……)
そんなことを考えていると、廊下の向こうからバタバタと騒がしい足音が近づいてきた。誰かが全速力で走っている。音の感じからして二人だろうか。
教室の中にまで、ドタバタという音と一緒に大声が響いてくる。
「おりりりりりゃあ!! 今日は絶対勝つし!!」
「だったら早く起きて早く来い! 候補生のくせにイグゼクターの意識が低ぇんだよ!」
「センセーが言うなし!! よし、今日は勝っ――うぐっ!? な、なんか急に体が重っ……!」
「ハハッ! 俺の勝ちぃ~!」
バンッ!と勢いよく教室の扉が開いた。
滑り込んできたのは蓮司だった。相変わらず教官用の隊服はだらしなく着崩れている。
「ふぅ~……よし! 全員揃ったな、講義を始めるぞ」
「センセー……ズルすんなし! 服になにか入れたでしょ!!」
息を切らした玲奈が、服の襟首を引っ張りながら怒鳴り込んでくる。
「おや玲奈、今日も遅刻か? 少しはここにいる三人を見習え。新入りの天城だってちゃんと時間通り来てるんだぞ?」
「とぼけんなし!!」
(……この問題児クラス、本当に俺のメンタル保つのか……?)
朝の甘酸っぱい余韻はどこへやら、旭は額を押さえながら深く、深く溜め息をつくのだった。
「はいはい。遅刻した玲奈はあとで反省文とグラウンド五十周の走り込みな。……よし、今日から天城以外は後学期に入る。ここからは卒業試験に向けての本格的な鍛錬になるが、これまで以上に気ぃ引き締めていけよ」
「卒業試験?」
聞き慣れない単語に、旭が手を挙げて尋ねた。
「あぁ。この教習所を卒業して一人前のイグゼクターになるには、年に1回行われる卒業試験に合格しなきゃならん。落ちたら来年までもう一年、教習所にお世話になるってわけだ」
「なるほど」
「全国の教習所から候補生が集まってな。そこで実力を見られる」
「全国?」
「教習所は協会と同じように全国にあるんだ。」
「そうなんですね。その卒業試験って、そんなに難しいんですか?」
「……確か合格率は極めて低く、20人に一人程度のはずですが」
理人が冷静な口調で補足する。
「倍率20倍!? 高すぎだろ……! けど、その卒業試験って俺も受けられるんですか? まだ入ったばかりですけど」
「問題ねぇぞ。途中から入ってきたっつっても、扱いとしては玲奈たちと同じ後学期スタートだ。単位と実技基準さえ満たせば受験資格はもらえる」
卒業試験――。
それに合格してこの教習所を卒業し、プロのイグゼクターにならなければ、自分の知りたい情報にはアクセスできない。
世界の真実、空間の裂け目のこと。
そして――自分が元の世界へ戻るための方法。
避けては通れない大きな壁だ。だが、挑戦権があるなら話は早い。グズグズしている暇はないのだから。
目標が定まった旭の胸に、メラメラと強いモチベーションが湧き上がってきた。
「なら、サクッと合格してさっさとイグゼクターになってやりますよ!」
「お! いい度胸だな。そうやって威勢がいいと、推薦して引っ張ってきた甲斐があるってもんだ!」
ニヤリと不敵に笑う蓮司の顔を見て、旭はこれから始まる過酷な訓練を覚悟しつつも、強く拳を握りしめるのだった。
そして、一時間目の講義が始まった。
気になるその内容は――まさかの『微分・積分』。
高校不登校だった旭にとって、それはあまりにも酷な拷問だった。
しかも教科書すら手元にない始末だ。教官いわく「来週には届く」らしいが、仮に届いたところで読んだところで理解できる気が一切しない。
(……アカン。講義が終わったら絶対に理人に教えてもらおう)
旭は密かにそう心に誓った。
「お、もう終わりの時間か。なら各自しっかり復習しておけよ~。次は自習の時間だ。自分がいちばん伸ばしたい力を分析して鍛錬してけ」
黒板を埋め尽くした謎の数式群を前に、旭の頭はすっかりこんがらがっていた。
講義が終わった時の達成感ゼロ。意味不明さだけで言えば、この異世界に突然放り出された瞬間を超えているかもしれない。
(……蓮司さん、さっき『単位』って言ってたよな? 俺、卒業試験受ける前に留年しないか……?)
さっきまでの
「サクッと合格してやりますよ!」
という威勢の良い意気込みはどこへやら、旭は机に突っ伏しそうになるのを必死で耐えるのだった。
「理人~! 教えてくれ~!」
「りーくん……マヂ無理……あーしもうダメかも……」
「玲奈さんは相変わらずですけど、まさか天城さんまで……。すみませんが、この後の時間は体力をつけるためのトレーニングをしに行こうかと思っていまして」
先ほど蓮司が言っていた自習(自由)の時間。理人は、自分に足りない体力を補うためにトレーニングルームへ向かうつもりらしい。
正直、旭もこの教習所のトレーニングがどんなものなのか興味があったし、何より今は数式から逃げ出したかった。
「よし! こんなもん一旦やめだ! 理人、俺も一緒にトレーニング行く!」
「大丈夫なんですか? 数学のような教科は、日々の積み重ねが物を言いますよ」
「な、なんとかなるさ……!」
(絶対なんとかならないだろ)という内なる己の冷静なツッコミを、旭は心の奥底へと無理やり押し込んだ。
「……はぁ。なら、トレーニング室へ向かいましょうか」
「おう! ――あ、仄と玲奈はこの後どうするんだ?」
「あーしはセンセーのところ行かないと……マジ走り込みとか呪うわ〜」
そう言いながら、玲奈は虚空に向かってシュッシュッと怨念のこもったパンチを繰り出している。彼女の目には、憎たらしい蓮司の幻影が見えているのだろう。
「それは災難だな……。仄は?」
「……私は、図鑑の続き見る」
「そうか」
やっぱり仄は不思議な奴だな、と旭は改めて思った。
「お気に入りの木が見つかったら、後で教えてくれよ!」
「……うん」
「それじゃ、また後でな」
「ばいばーい」
手を振る理人に続いて、旭も教室を後にする。
こうして旭は、問題児クラスでの記念すべき一日目を歩み始めたのだった。




