第十六話「私的な勉強会」
フォルタン子爵の勉強会は、王都の西区にある邸宅で開かれた。
カインが三日前に下見をしていた。建物は三階建ての石造りで、正面玄関の他に裏口が二箇所、庭への出口が一箇所。周辺の路地の構造も把握済みだった。カインの報告は簡潔で、必要なことだけが書かれていた。この従者の情報整理の仕方は、訓練しなくても最初からそうだった。
当日の夜、ヴィオレットは一人で向かった。
ミアが馬車の扉を開けながら言った。
「カインを連れて行ってください」
「いりません」
「せめて近くで待機を」
「近くで待機することが気づかれた場合、今夜の意味がなくなります」
「でも」
「ミア」
「はい」
「勉強会から戻らなかった場合は、リュカに連絡してください。名刺を一枚書いておきました。机の引き出しにあります」
ミアが止まった。
「そんな場合が来るんですか」
「おそらく来ません。ただ、来なかった場合の備えも必要です」
「お嬢様」
「何ですか」
「絶対に戻ってきてください」
ヴィオレットはミアを見た。
命令ではなく、懇願だった。この娘がこういう声を出すことは珍しい。珍しいからこそ、受け取った。
「戻ります」
馬車が動いた。
西区の邸宅は、外から見ると質素だった。しかし内部に入ると、丁寧に選ばれた調度品が並んでいた。金をかけているが見せびらかさない種類の使い方だった。
玄関でフォルタン子爵が出迎えた。
「ヴィオレット嬢、ようこそ。本当に来てくださると思っていなかった」
「素晴らしいお招きをいただきましたので」
「今日は少数です。植物学に本当に興味のある者だけ集めました」
案内されながら、邸宅の内部を確認した。
廊下の長さ。扉の位置。使用人の動線。子爵の後ろを歩きながら、全て頭に入れた。
案内された部屋は、邸宅の中央にある書斎に近い広さの部屋だった。本棚が三方の壁を埋めている。植物の標本が額に入って飾られていた。
参加者は、ヴィオレットを含めて六名だった。
男性が四名。ヴィオレット以外の女性が一名。
男性四名のうち、二名は学者風の年配者だった。残り一名は四十代の貴族の男性で、もう一名は見覚えがある顔だった。
ルーベン商会に出入りしているとカインが確認した人物の特徴と一致していた。
顔を知っていることを出さなかった。初対面の令嬢として挨拶した。相手も初対面として返してきた。
もう一人の女性は、三十代半ばの夫人だった。装いは上品だが、宝石の選び方に癖があった。感情を抑えることを訓練された人間の装い方だった。
全員の位置を確認してから、指定された席に座った。
フォルタン子爵が開会の挨拶をした。
今日のテーマは薬用植物の実用的な応用だ、と言った。学術的な議論だけでなく、実際の用途についても話したいと言った。
ヴィオレットは微笑んだ。
実際の用途。
その言葉を、記憶した。
議論が始まった。最初は本当に植物学の話だった。学者風の年配者二人が、薬草の新しい分類について話した。フォルタン子爵が熱心に聞き、時折質問した。
ヴィオレットも質問した。
事前に準備した質問だった。専門的で、しかし令嬢として自然な範囲の知識から来る質問を選んでいた。学者の一人が丁寧に答えた。その答えを受けて、さらに深い質問をした。
フォルタン子爵が、ヴィオレットを見た。
感心している目だった。令嬢がここまで知識を持っているとは思っていなかった、という目だった。
計算通りだった。
一時間ほど議論が続いたところで、使用人が茶と菓子を運んできた。
休憩になった。
フォルタン子爵がヴィオレットの傍に来た。
「令嬢、今日は本当に素晴らしい。まさかここまで深くご存知とは」
「勉強が好きなものですから」
「先ほどの精油の抽出についての質問、あれはどこでお知りになりましたか」
「アルカン先生の論考の補足資料に書いてありました。本編には載っていない内容だったので、取り寄せて読んでいたんです」
フォルタン子爵が少し目を輝かせた。
補足資料まで読んでいる令嬢は、この男にとって珍しかったのだろう。
「実は今日、後半に少し別の話をしたいと思っていまして」
「どんな話ですか」
「植物の、より実践的な応用についてです。学術的な枠を少し超えた話になりますが、令嬢はどうお思いになりますか」
ヴィオレットは少し考えるような顔をした。
「学術の枠を超えた、というのは」
「植物の成分を、人の心身に働きかける形で応用する話です。医学的な意味ではなく、もう少し広い意味で」
「それは興味深いですわね」
「では後半も楽しんでいただけそうですか」
「はい、ぜひ」
フォルタン子爵が満足そうに頷いて、学者の一人の方へ向かった。
ヴィオレットは茶杯を手に取った。
飲まずに、香りだけ確認した。
問題なかった。
菓子も確認した。問題なかった。
今夜の場は、晩餐会のような空気への細工はしていなかった。少人数だから必要ないのかもしれない。あるいは別の手を使うつもりなのかもしれない。
もう一人確認すべき人間がいた。
さりげなく、夫人の傍へ移動した。
「素晴らしい勉強会ですわね」
「そうですね。フォルタン様のお人柄が出ている会だと思います」
「以前からお付き合いがおありですか」
「数年前から。主人が植物学を趣味にしておりまして、その縁でご紹介いただきました」
「ご主人様もいらっしゃるのですか」
「今日は所用で欠席です。よく来ているんですよ」
夫人の話し方に、緊張の質があった。
自然体のようで、自然ではない。会話の受け方が速すぎる。次の返しを準備している人間の速度だった。
ヴィオレットは会話を続けながら、夫人の指先を確認した。
右手の薬指に、細い傷があった。古い傷だった。
刃物で切ったか、あるいは訓練で擦り切れたか。
この夫人は、ただの参加者ではない可能性がある。
休憩が終わった。
後半の議論が始まった。
フォルタン子爵が話の流れを変えた。自然に、しかし確実に。
「先ほど令嬢に少し話したのですが、今日の後半は植物成分の実践的な応用について話してみましょう。ここにいる皆様は信頼できる方々ですから、学術的な枠にとらわれず話せると思います」
学者の一人が少し曖昧な顔をした。もう一人はすでに知っていたような顔だった。
ルーベン商会の男は、何も表情を動かさなかった。
夫人も同様だった。
知っていた人間と、知らなかった人間の反応が分かれた。
フォルタン子爵が話し始めた。
ベラドンナの希釈と、人の判断力への作用について。ヴァレリアンの用量と、眠りの深さへの影響について。複数の成分を組み合わせた場合の相乗効果について。
全て、ヴィオレットが知っていることだった。
しかしヴィオレットは、初めて聞くという顔で聞いた。
時折、確認するような質問を入れた。
「それはどのくらいの量で効果が出るのですか」
「希釈する媒体は何が最適なのでしょう」
「複数の成分を組み合わせる場合、順番はありますか」
フォルタン子爵は丁寧に答えた。
答えながら、ヴィオレットを見る目が変わっていった。
取り込める、という目になっていった。
この令嬢は使える。知識があり、興味があり、公爵家という立場がある。
そういう計算が、目の奥に出ていた。
ヴィオレットは微笑み続けた。
完璧な令嬢の微笑みで。
議論が深まるにつれて、フォルタン子爵が少しずつ本題に近づいてきた。
「こういった知識は、適切に使えば様々な場面で役立ちます。社交の場でも、交渉の場でも」
「具体的にはどんな場面で使われるのですか」
「例えば、交渉相手の警戒心を緩めたい時など。相手が気づかない形で、少し心を開きやすい状態にする」
「それは、お相手の方はご存知でやっていることですか」
フォルタン子爵が少し止まった。
「知らない場合もあります」
「まあ」
ヴィオレットが小さく声を上げた。驚いた令嬢の声だった。
「それは、少し怖い話ですわね。知らない間にそういうことをされていたら」
「もちろん、使い方の問題ですよ。悪用するためのものではありません。令嬢は植物学への興味があるお方ですから、こういった知識を持つことは決して悪いことではない」
「でも私には、社交の場で誰かにそういうことをするのは少し難しいですわ。気づかれた時に取り返しがつかない気がして」
「気づかれなければいいんですよ。それが技術というものです」
ヴィオレットは少し考えるような顔をした。
「技術としてお使いになるということは、以前からそういうお仕事をされていたのですか」
フォルタン子爵が少し笑った。
「仕事というほどでもありませんが、色々と役立てたことはあります」
「どんな場面でですか」
「それはまた今度、もう少し親しくなってからお話ししましょう」
今度、という言葉を使った。
次の機会を作るつもりだ、とヴィオレットは確認した。
夜が深くなった頃、勉強会は終わった。
参加者が順に挨拶をして帰り始めた。
ヴィオレットも帰り際にフォルタン子爵に礼を述べた。
「今日は大変勉強になりました。後半のお話は、少し驚きましたけれど、興味深かったです」
「令嬢にとって有益でしたか」
「はい。考えることが増えました」
「それは良かった。またぜひいらしてください」
「機会があれば」
玄関を出た。
夜の西区の道が静かだった。
馬車が来るまで少し待ちながら、今夜確認できたことを整理した。
フォルタン子爵は植物成分を使った判断力操作を、組織的に行っている。その技術をヴィオレットに教えることで取り込もうとしている。今夜の参加者のうち、ルーベン商会の男と夫人は、事前に後半の内容を知っていた。学者の一人も知っていた。学者のもう一人と四十代の貴族は知らなかった可能性がある。
夫人の指先の傷。
それが何を意味するか、今夜の段階では確定できない。
しかし今夜最も重要な収穫は、別のことだった。
ベラドンナとヴァレリアンの複数組み合わせについて、フォルタン子爵が具体的な手順を話した。その手順は、ドレヴァン侯爵家の晩餐会で使われていた手順と完全に一致していた。
フォルタン子爵と、ドレヴァン家の晩餐会の設計が繋がった。
枝と枝が、今夜繋がった。
馬車が来た。
乗り込んだ。扉が閉まった。
御者台からカインが一度振り返った。
ヴィオレットは頷いた。
馬車が動き出した。
帰り道、ヴィオレットは目を閉じた。
今夜の収穫をリュカに伝えれば、外縁の地図が一枚、より詳細になる。
しかしそれと同時に、今夜気になったことがある。
フォルタン子爵が最後に言った言葉。
もう少し親しくなってからお話ししましょう。
この男が次に話そうとしていることが何かは、まだわからない。しかしその言葉の前に、子爵が少しだけ表情を崩した瞬間があった。
ヴィオレットが、気づかれた時に取り返しがつかない、と言った時だった。
一瞬だった。しかし確実に、何かが顔の表面に出た。
取り返しがつかない、という言葉に反応した。
この男の中に、取り返しがつかないと思っていることが何かある。
そこまでは読めた。
何かは、まだわからない。
公爵家の灯りが見えてきた。
母の部屋の明かりがついていた。
馬車が門をくぐった。
玄関でミアが待っていた。いつもより早く外に出てきていた。馬車の音が聞こえた瞬間に出てきたのだろう。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お怪我は」
「ありません」
ミアが小さく息を吐いた。
「よかった」
「心配をかけました」
「します。毎回します」
「それはすみません」
「謝らなくていいです。ただ、毎回ちゃんと帰ってきてください」
ヴィオレットは少し考えてから、言った。
「約束します」
ミアが頷いた。
今夜は泣いていなかった。あの夜以来、ミアは泣かなくなっていた。代わりに、剣の手入れをする夜が増えていた。
自室に戻って、手帳を開いた。
今夜の記録を書いた。
参加者の特徴。後半の議論の内容。フォルタン子爵とドレヴァン家の晩餐会の手順が一致したこと。夫人の指先の傷。子爵の一瞬の表情。
全部書いてから、一行付け加えた。
次の接触は子爵の側から来る。来た時に、今夜子爵が話そうとしなかった内容を聞けるかもしれない。
手帳を閉じた。
窓の外で、夜が深かった。
前世の霧のことを、今夜は考えなかった。
考える余裕がなかったのではなく、今夜の収穫が多くて、別のことを考えていた。
それが変化かどうかはわからない。
ただ、今夜の自分の頭の中にある景色が、一ヶ月前と少し違う気がした。
一ヶ月前は、全てが別々の点だった。
今夜は、いくつかの点の間に線が見え始めている。
線が繋がれば、絵が見える。
絵が見えれば、何をすべきかがわかる。
まだ途中だった。
しかし、途中であることがわかる段階になった。
それだけで十分だと、今夜は思った。
砂糖は四つだった。
変わらなかった。
しかし今夜の四つは、以前の四つと少し意味が違う気がした。
重さからではなく、別の何かからくる四つだった気がした。
その何かが何かを、言葉にする前に眠りに落ちた。
意識の七割を覚醒させたまま。
しかし今夜は、六割だったかもしれない。第十六話「私的な勉強会」
フォルタン子爵の勉強会は、王都の西区にある邸宅で開かれた。
カインが三日前に下見をしていた。建物は三階建ての石造りで、正面玄関の他に裏口が二箇所、庭への出口が一箇所。周辺の路地の構造も把握済みだった。カインの報告は簡潔で、必要なことだけが書かれていた。この従者の情報整理の仕方は、訓練しなくても最初からそうだった。
当日の夜、ヴィオレットは一人で向かった。
ミアが馬車の扉を開けながら言った。
「カインを連れて行ってください」
「いりません」
「せめて近くで待機を」
「近くで待機することが気づかれた場合、今夜の意味がなくなります」
「でも」
「ミア」
「はい」
「勉強会から戻らなかった場合は、リュカに連絡してください。名刺を一枚書いておきました。机の引き出しにあります」
ミアが止まった。
「そんな場合が来るんですか」
「おそらく来ません。ただ、来なかった場合の備えも必要です」
「お嬢様」
「何ですか」
「絶対に戻ってきてください」
ヴィオレットはミアを見た。
命令ではなく、懇願だった。この娘がこういう声を出すことは珍しい。珍しいからこそ、受け取った。
「戻ります」
馬車が動いた。
西区の邸宅は、外から見ると質素だった。しかし内部に入ると、丁寧に選ばれた調度品が並んでいた。金をかけているが見せびらかさない種類の使い方だった。
玄関でフォルタン子爵が出迎えた。
「ヴィオレット嬢、ようこそ。本当に来てくださると思っていなかった」
「素晴らしいお招きをいただきましたので」
「今日は少数です。植物学に本当に興味のある者だけ集めました」
案内されながら、邸宅の内部を確認した。
廊下の長さ。扉の位置。使用人の動線。子爵の後ろを歩きながら、全て頭に入れた。
案内された部屋は、邸宅の中央にある書斎に近い広さの部屋だった。本棚が三方の壁を埋めている。植物の標本が額に入って飾られていた。
参加者は、ヴィオレットを含めて六名だった。
男性が四名。ヴィオレット以外の女性が一名。
男性四名のうち、二名は学者風の年配者だった。残り一名は四十代の貴族の男性で、もう一名は見覚えがある顔だった。
ルーベン商会に出入りしているとカインが確認した人物の特徴と一致していた。
顔を知っていることを出さなかった。初対面の令嬢として挨拶した。相手も初対面として返してきた。
もう一人の女性は、三十代半ばの夫人だった。装いは上品だが、宝石の選び方に癖があった。感情を抑えることを訓練された人間の装い方だった。
全員の位置を確認してから、指定された席に座った。
フォルタン子爵が開会の挨拶をした。
今日のテーマは薬用植物の実用的な応用だ、と言った。学術的な議論だけでなく、実際の用途についても話したいと言った。
ヴィオレットは微笑んだ。
実際の用途。
その言葉を、記憶した。
議論が始まった。最初は本当に植物学の話だった。学者風の年配者二人が、薬草の新しい分類について話した。フォルタン子爵が熱心に聞き、時折質問した。
ヴィオレットも質問した。
事前に準備した質問だった。専門的で、しかし令嬢として自然な範囲の知識から来る質問を選んでいた。学者の一人が丁寧に答えた。その答えを受けて、さらに深い質問をした。
フォルタン子爵が、ヴィオレットを見た。
感心している目だった。令嬢がここまで知識を持っているとは思っていなかった、という目だった。
計算通りだった。
一時間ほど議論が続いたところで、使用人が茶と菓子を運んできた。
休憩になった。
フォルタン子爵がヴィオレットの傍に来た。
「令嬢、今日は本当に素晴らしい。まさかここまで深くご存知とは」
「勉強が好きなものですから」
「先ほどの精油の抽出についての質問、あれはどこでお知りになりましたか」
「アルカン先生の論考の補足資料に書いてありました。本編には載っていない内容だったので、取り寄せて読んでいたんです」
フォルタン子爵が少し目を輝かせた。
補足資料まで読んでいる令嬢は、この男にとって珍しかったのだろう。
「実は今日、後半に少し別の話をしたいと思っていまして」
「どんな話ですか」
「植物の、より実践的な応用についてです。学術的な枠を少し超えた話になりますが、令嬢はどうお思いになりますか」
ヴィオレットは少し考えるような顔をした。
「学術の枠を超えた、というのは」
「植物の成分を、人の心身に働きかける形で応用する話です。医学的な意味ではなく、もう少し広い意味で」
「それは興味深いですわね」
「では後半も楽しんでいただけそうですか」
「はい、ぜひ」
フォルタン子爵が満足そうに頷いて、学者の一人の方へ向かった。
ヴィオレットは茶杯を手に取った。
飲まずに、香りだけ確認した。
問題なかった。
菓子も確認した。問題なかった。
今夜の場は、晩餐会のような空気への細工はしていなかった。少人数だから必要ないのかもしれない。あるいは別の手を使うつもりなのかもしれない。
もう一人確認すべき人間がいた。
さりげなく、夫人の傍へ移動した。
「素晴らしい勉強会ですわね」
「そうですね。フォルタン様のお人柄が出ている会だと思います」
「以前からお付き合いがおありですか」
「数年前から。主人が植物学を趣味にしておりまして、その縁でご紹介いただきました」
「ご主人様もいらっしゃるのですか」
「今日は所用で欠席です。よく来ているんですよ」
夫人の話し方に、緊張の質があった。
自然体のようで、自然ではない。会話の受け方が速すぎる。次の返しを準備している人間の速度だった。
ヴィオレットは会話を続けながら、夫人の指先を確認した。
右手の薬指に、細い傷があった。古い傷だった。
刃物で切ったか、あるいは訓練で擦り切れたか。
この夫人は、ただの参加者ではない可能性がある。
休憩が終わった。
後半の議論が始まった。
フォルタン子爵が話の流れを変えた。自然に、しかし確実に。
「先ほど令嬢に少し話したのですが、今日の後半は植物成分の実践的な応用について話してみましょう。ここにいる皆様は信頼できる方々ですから、学術的な枠にとらわれず話せると思います」
学者の一人が少し曖昧な顔をした。もう一人はすでに知っていたような顔だった。
ルーベン商会の男は、何も表情を動かさなかった。
夫人も同様だった。
知っていた人間と、知らなかった人間の反応が分かれた。
フォルタン子爵が話し始めた。
ベラドンナの希釈と、人の判断力への作用について。ヴァレリアンの用量と、眠りの深さへの影響について。複数の成分を組み合わせた場合の相乗効果について。
全て、ヴィオレットが知っていることだった。
しかしヴィオレットは、初めて聞くという顔で聞いた。
時折、確認するような質問を入れた。
「それはどのくらいの量で効果が出るのですか」
「希釈する媒体は何が最適なのでしょう」
「複数の成分を組み合わせる場合、順番はありますか」
フォルタン子爵は丁寧に答えた。
答えながら、ヴィオレットを見る目が変わっていった。
取り込める、という目になっていった。
この令嬢は使える。知識があり、興味があり、公爵家という立場がある。
そういう計算が、目の奥に出ていた。
ヴィオレットは微笑み続けた。
完璧な令嬢の微笑みで。
議論が深まるにつれて、フォルタン子爵が少しずつ本題に近づいてきた。
「こういった知識は、適切に使えば様々な場面で役立ちます。社交の場でも、交渉の場でも」
「具体的にはどんな場面で使われるのですか」
「例えば、交渉相手の警戒心を緩めたい時など。相手が気づかない形で、少し心を開きやすい状態にする」
「それは、お相手の方はご存知でやっていることですか」
フォルタン子爵が少し止まった。
「知らない場合もあります」
「まあ」
ヴィオレットが小さく声を上げた。驚いた令嬢の声だった。
「それは、少し怖い話ですわね。知らない間にそういうことをされていたら」
「もちろん、使い方の問題ですよ。悪用するためのものではありません。令嬢は植物学への興味があるお方ですから、こういった知識を持つことは決して悪いことではない」
「でも私には、社交の場で誰かにそういうことをするのは少し難しいですわ。気づかれた時に取り返しがつかない気がして」
「気づかれなければいいんですよ。それが技術というものです」
ヴィオレットは少し考えるような顔をした。
「技術としてお使いになるということは、以前からそういうお仕事をされていたのですか」
フォルタン子爵が少し笑った。
「仕事というほどでもありませんが、色々と役立てたことはあります」
「どんな場面でですか」
「それはまた今度、もう少し親しくなってからお話ししましょう」
今度、という言葉を使った。
次の機会を作るつもりだ、とヴィオレットは確認した。
夜が深くなった頃、勉強会は終わった。
参加者が順に挨拶をして帰り始めた。
ヴィオレットも帰り際にフォルタン子爵に礼を述べた。
「今日は大変勉強になりました。後半のお話は、少し驚きましたけれど、興味深かったです」
「令嬢にとって有益でしたか」
「はい。考えることが増えました」
「それは良かった。またぜひいらしてください」
「機会があれば」
玄関を出た。
夜の西区の道が静かだった。
馬車が来るまで少し待ちながら、今夜確認できたことを整理した。
フォルタン子爵は植物成分を使った判断力操作を、組織的に行っている。その技術をヴィオレットに教えることで取り込もうとしている。今夜の参加者のうち、ルーベン商会の男と夫人は、事前に後半の内容を知っていた。学者の一人も知っていた。学者のもう一人と四十代の貴族は知らなかった可能性がある。
夫人の指先の傷。
それが何を意味するか、今夜の段階では確定できない。
しかし今夜最も重要な収穫は、別のことだった。
ベラドンナとヴァレリアンの複数組み合わせについて、フォルタン子爵が具体的な手順を話した。その手順は、ドレヴァン侯爵家の晩餐会で使われていた手順と完全に一致していた。
フォルタン子爵と、ドレヴァン家の晩餐会の設計が繋がった。
枝と枝が、今夜繋がった。
馬車が来た。
乗り込んだ。扉が閉まった。
御者台からカインが一度振り返った。
ヴィオレットは頷いた。
馬車が動き出した。
帰り道、ヴィオレットは目を閉じた。
今夜の収穫をリュカに伝えれば、外縁の地図が一枚、より詳細になる。
しかしそれと同時に、今夜気になったことがある。
フォルタン子爵が最後に言った言葉。
もう少し親しくなってからお話ししましょう。
この男が次に話そうとしていることが何かは、まだわからない。しかしその言葉の前に、子爵が少しだけ表情を崩した瞬間があった。
ヴィオレットが、気づかれた時に取り返しがつかない、と言った時だった。
一瞬だった。しかし確実に、何かが顔の表面に出た。
取り返しがつかない、という言葉に反応した。
この男の中に、取り返しがつかないと思っていることが何かある。
そこまでは読めた。
何かは、まだわからない。
公爵家の灯りが見えてきた。
母の部屋の明かりがついていた。
馬車が門をくぐった。
玄関でミアが待っていた。いつもより早く外に出てきていた。馬車の音が聞こえた瞬間に出てきたのだろう。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「お怪我は」
「ありません」
ミアが小さく息を吐いた。
「よかった」
「心配をかけました」
「します。毎回します」
「それはすみません」
「謝らなくていいです。ただ、毎回ちゃんと帰ってきてください」
ヴィオレットは少し考えてから、言った。
「約束します」
ミアが頷いた。
今夜は泣いていなかった。あの夜以来、ミアは泣かなくなっていた。代わりに、剣の手入れをする夜が増えていた。
自室に戻って、手帳を開いた。
今夜の記録を書いた。
参加者の特徴。後半の議論の内容。フォルタン子爵とドレヴァン家の晩餐会の手順が一致したこと。夫人の指先の傷。子爵の一瞬の表情。
全部書いてから、一行付け加えた。
次の接触は子爵の側から来る。来た時に、今夜子爵が話そうとしなかった内容を聞けるかもしれない。
手帳を閉じた。
窓の外で、夜が深かった。
前世の霧のことを、今夜は考えなかった。
考える余裕がなかったのではなく、今夜の収穫が多くて、別のことを考えていた。
それが変化かどうかはわからない。
ただ、今夜の自分の頭の中にある景色が、一ヶ月前と少し違う気がした。
一ヶ月前は、全てが別々の点だった。
今夜は、いくつかの点の間に線が見え始めている。
線が繋がれば、絵が見える。
絵が見えれば、何をすべきかがわかる。
まだ途中だった。
しかし、途中であることがわかる段階になった。
それだけで十分だと、今夜は思った。
砂糖は四つだった。
変わらなかった。
しかし今夜の四つは、以前の四つと少し意味が違う気がした。
重さからではなく、別の何かからくる四つだった気がした。
その何かが何かを、言葉にする前に眠りに落ちた。
意識の七割を覚醒させたまま。
しかし今夜は、六割だったかもしれない。




